第2話:時計

文字数 1,876文字

エレベーターの扉が開き、二人で並んで通路に出る。私の右手はまだ(しん)さんの指を(つま)んだまま。
タン、タン、ザフ、ザフ。
摘んだままの指から上に手を這わせて、彼の手に重ねる。すると彼の手がくるりと回転して、私の手を受け止めた。我侭を言ってしまったような気がして少しだけばつが悪い。
タン、ザフ、タン、ザフ。
……彼は何も()かない。私がタバコを吸ってる理由も、髪を切ったことも、指輪をしてないことも。
私は新さんに何も期待しないし、彼も私に何もしないと思う。そういうのが良いから、ここまで来てるんだろうし。
彼は手をひねってレジ袋をくるんくるんと回している。私も真似をしてみる。上手くできない姿を見て、彼の口角が上がった。
タン、タン、ザフ、タン。
真っ直ぐな通路を二人で黙って歩く。靴の音が響き、コンビニの袋が鳴る。でもそれだけ。きっと、他には誰も居ない。
タン、タン、ザフ。
一番奥まで歩いて、新さんの足が止まる。812と書かれたドア。ここが彼の部屋らしい。繋いでいた手が自然と離れる。
ポケットから出したカードキーをドアにかざして鍵を開ける。ポケットにそのまま鍵を入れてるのは相変わらずのようだった。
ガチャ。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関で靴を脱いで、スリッパを履く。自分は履かないのにスリッパを出してくれるのが先輩らしい。
トットッ、タタ、タタ。
廊下を抜けて、リビングのドアを開ける。
彼の部屋は広かった。なんというか、大人のひとり暮らし、という感じの雰囲気。黒い壁、黒いソファ、タバコの匂い。新さんらしいような、らしくないような。
「荷物そのへんに置いていいから」
「はい」
鞄をソファ近くに放りながら、キッチンに移動していった。
「お茶でいい?」
「はい」
コッ、コッ、コッ、コ。
鞄を部屋の隅に下ろし、買ってきたパスタをテーブルに置く。彼が放った鞄の位置を直し、ソファに腰掛けてじっとしていると、壁に掛けられた大きな時計が目に入った。
何と言うか、すごく可愛らしい。十二時の真上に二羽の鳥と、六時の真下の位置に二匹の魚がいて、どうやらこれが動くらしい。
黒い文字盤の所々に色とりどりの石が(きら)めいているのも、星みたいで綺麗だ。時計のことはよく分からないが、これはとても良い物のような気がする。
「はい、お茶」
「綺麗な時計ですね」
「買わせて貰ったんだ。無理言って」
「私も欲しいですもん」
「動くの見る?」
「見たいです」
新さんは時計の針を調整してすぐに動くようにしてくれた。
「あと一分したら動くから」
そう言って隣に座った。少し照れくさい。
コッ、コッ、コッ、コ。
まだ動かない。横目で彼を見ると坊主頭が目に入る。向こうも同じこと言いそうだけど。
完全に勘だけど坊主にしたのは仕事と関係がある気がする。でも、前よりも生き生きした顔と言うか、(しな)びてない。前は疲れをメイクで隠してるみたいな顔だった。
コッ、コッ、コッ、コ。
まだ動かない。一分というのは意外と長い。新さんは──あれ、タバコ吸ってる。ここで吸っていいんだ。
こういうのを見て、私も吸おうかなとか思うくらいにはタバコが日常化してしまった気がする。ほんの少し憧れに触っただけのつもりなのに。
コッ、コッ、コッ、コ。カコン。
動き出した。音楽が聴こえてくる。
テレリテレレリテレリテレレリ。
時計の下側にいる魚たちはくるくると回って優雅に泳いでいる。時折逆にも回るのでそれが二匹で(じゃ)れているようにも見える。
上側の鳥たちは前にせり出して上下に動いてすいすいと飛んでいる。魚たちはガラスの球体のようなもので包まれていて、その色や艶のおかげか本当に水の中にいるような気さえしてくる。
鳥たちは上下に動きながら左右に揺れている。風を受けて飛んでいるみたい。綺麗だ。
テレリテレレリテレリテレレリ。
動き回っていた鳥たちが元の位置に戻っていく。魚たちもおとなしくなった。
コッ、コッ、コッ、コ。
前のめりになっていた身体を戻して、感想を言う。
「綺麗ですね」
「うん」
得意げな顔をしている。
スウ、プウ。
「この時計はさ、一つしか無いんだよ」
「え?」
「一つ一つ手作業で作っててさ、色とか模様とか少しずつ違うんだ」
嬉しそうに笑った。目が星みたいに光っている。
「そうなんですね」
コッ、コッ、コッ、コ。
「……今さ、時計の修理屋してるんだ」
照れ臭そうに頭を掻いている。
「時計の?」
「うん」
この時計はそこの師匠に貰ったんだ、と続けた。
コッ、コッ、コッ、コ。
「修理って何するんですか?」
「色々だよ。電池交換したり全部バラして油を()したり部品を()えたり」
「へえ」
コッ、コッ、コッ、コ。
「飯、食べようか」
「はい」
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登場人物紹介

伊藤新(いとう・しん)。坊主頭の男性。大学のサークルのパーティーで桜子と再会する。

山下桜子(やました・さくらこ)。髪の短い女性。最近タバコを吸い始めたようだ。

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