第三話 孤独の塔
文字数 4,714文字
帰り道というものを失ってしまったのは、いつの頃からだったろう。よくよく考えてみれば、もしかすると、生まれつきそうだったのかもしれない。
行きがかりの都合上設定された、往路と復路の区別程度の違いしかない。
離陸前の昼は航路上に失くして、たどり着いたときには、真っ暗な夜そのもの。
いつだってそうなのだ。美しい夕暮れをみとめる間もなく、気がつけば、沈んだあと。
慰めのようなまばゆさのビル。結局それも光害をもたらして、本当の星が見えない。
この建物を出れば、真冬の冷たさが容赦なくおれを取り囲む。たった一人でそのなかにたたずむには寒すぎる。
嘘めいた暖房に甘えて入り込む、アクセサリーショップ。店員と目があって、微笑みはサービス。おれはそこへ行くことを初めから決めていた人の顔をして、進んでいく。
向かい合った女。値踏みされているのは、アクセサリーではない。ガラスのショーケースに逆さに映り込んだ、おれのほうなのだ。
奥から出してきた、いくつかのもの。値札は裏返っていて、おれにはわからない仕組。
「若々しいデザインのものが欲しくて。できればカジュアルな」
腕時計が袖口からのぞかぬよう、さりげなく隠す。
「こちらは、有名なファッション誌にも取り上げられたもので……」
「では、それをセットで」
満面の笑みで、店員は他の者にラッピングを指示する。おれは提示された額を識別し、カードを取り出す。その色を店員が確かめる一瞬。おれは知らないふりをしてやる。
柱は、見えないはずの、売り上げのグラフの形に置き換わっていく。
視線を落として伝票にサインをする。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。すると、建物自体の明かりが逆光になって、おれの顔を隠してくれる。あとは目を閉じて、眠った様子でいればいい。この気楽さを、会社の車などに乗って失わせるわけにはいかない。おれのすべてを把握しようとしているのだから。
一人にしてくれる、タクシードライバーのうしろ姿に優しさを見つけながら降りる。
羽織ったコートを翻らせる冬の風。振り向くような動きで視界に入り込んだのは、葉をまったく落とした、公孫樹 の枝ぶり。
車寄からエントランス。人の気配はない。カーテンの閉まったコンシェルジュの窓口。その脇を通り抜けて、専用エレベーターからのぼっていく、最上階への垂直な路。
当たり前のように往き来するここにしたって、おれのものではない。本当に波留の持ち物で、住まなければ荒れるから、そこにいるだけだ。管理のため、会社から近い、理由は後からいくらでも作れる。
好き勝手にしているという見方だってできる。
安らぐのが、自宅ばかりとは限らない。おれはここに慣れたのだ。ただそれだけだ。
ビルの頂上。床には羅針図、天井には無数の星座を携えた、夜空の絵が描かれている。どこへも飛び立てないと分かっていながらの、この意匠。
用心深さがもたらす、玄関の鍵。その扉を開けたとき、このフロアの絵が呪術的なはたらきをみせ、この世とは違うところへ送ってくれることを祈る。
手に入れ損ねた、遠い昨日がそのまま続いていて、何かの間違いで、今ここにおれを立たせていただけなのだ。すべて悪い夢で、やっと覚めたのだ、と……。
玄関の時点でまだ嘘は確定していない。漂う夕食の匂い。洗練とはかけ離れた、人間らしい垢抜けのなさが出迎えたとき、期待は頂点に達する。
田舎臭いオレンジのエプロンをつけた背中。冷蔵庫の横の棚にかけられた、揃いの色柄のミトン。
このエリアに足を踏み入れたら、おれを窮屈にさせた背広は、体を締め付ける要素を全て失った作業用の服になるのだ。すると、部屋は、あたたかな居間に、すり替わってしまうのではないか。
神経をすり減らした無駄な駆け引きは、虚構のかなたへ押しやられ、単純な人間だけのやりとりが待っていてくれたら、どんなにかいいだろう。きっとそのとき、おれは、爽やかな表情を手に入れることができるのだ。
だが、その願いは虚しく打ち破られる。
カタログに載せる機会すらない、最高級の設え。どこにもない快適さと、優美さを備えた見た目が、おれの前にある。
振り向いた女、松野 由花子 は、都会らしからぬ要素をたたえて立っている。それだけは真実であった。
喉につかえる一語。ただいま、と絞り出した声。
「お土産だよ。開けてごらん」
ショッパーを手渡し、笑顔を見せ、上着を部屋に置きに行く。
大きめのバッグを放り出せない、自分の几帳面さ。軽く始末をしてリビングへ戻れば、冬にふさわしい食卓があった。
シチューの表面に張った膜に安らぐ。古めかしく、重いスプーンを差し入れても、罠のような熱さはない。
早速、由花子は、さっきのショッパーから中身を取り出した。
「ありがとう。すごい。出張のお土産で、このアクセサリー? つけてみてもいい?」
「どうぞ。出先ならではのものを見つけきれなくてね」
ちょうどいいきらびやかさが、由花子の首もとで弾けるように輝く。
「人気だって取り上げられていたのに、すぐに手に入れられるなんて。一体、良ちゃんて何者なの?」
あの時の店員の満足げな笑みの理由を悟り、おれも同じ表情になる。彼女には、どういった相手に贈るものか、察しがついていたのだ。
「にやにやして、答えてくれないんだから」
「心優しいおにいさんさ。何も気にすることはない」
早々と由花子は茶を淹れた。食事を終える頃には、ちょうどいいぬるさになっているはずだ。
「不思議な人。勤めていたバルに何度も通っていたかと思ったら、突然、家で料理をしないかって言ってきたり。それで、おまけに、まだわたしは、あのバルの雇いのままなんでしょう。出勤もしていないのに。本当のオーナーで、大金持ちってことだけしかわからないよ」
「それで充分さ。実際そうだからな。何を心配することがあるのか」
「正体不明のお金持ちって、怖い世界の人かもしれないと思って」
「それは違う。自分で言うのもなんだが、こんな優男じゃ無理だ。安心おし」
由花子の物言いに笑ったのか、自嘲なのかは、自分でもわからない。ただ、お互いに、奇妙に和んだ。
由花子は、ふ、と息をついて食事を続ける。所定の位置に落ち着いた、オレンジのエプロンとミトン。このほのぼのとした色味と、由花子の野暮な雰囲気は、おれに余計なことを考えさせない。
昔、口に運んだ覚えのあるような、田舎らしい味付けの料理は、都会においては贅沢なものになった。どこの通りにもあった、小さな店は、次々と時代の波が押し流して消えた。
いまや、タワーマンションの最上階で独り占めするしか、それを味わう手立てはないのだ。
「いくら金持ちになろうが、社会的に成功しようが、結局同じことさ。うまいものを口にして、いい女と過ごす。いうなれば、それだけだ。そこにわけのわからない価値を後付けするのは、仕事でついた癖だろう」
テレビは、基本的に、ここではつけない。たまに由花子も観てはいるだろうが、おれの不在時だけだ。
ふたりきりの時間を大切にしたい、と、初めての夜を迎えた日に告げたのを覚えている。
そこまで前の話ではない。枯れ枝を残すばかりになった公孫樹が、まだその葉を青々と繁らせていた頃だ。
「世の中では、おれのことを肩書きで呼ぶ。それは知られたくない。もし知ったとしても、頼むから、今のままでいてくれよ。由花子の前では、ただの、良ちゃんでいい」
空になったシチューの皿。ぬるい茶。ネクタイを外して、開けた襟元。カーテンの外はただの夜。
食器を片付け、後始末をする由花子の肩のまるみに、とどまりきれなかった幸福をみる。
そして、目を閉じれば、いつかのため息に、自分自身がのみこまれていく。
所詮はどこも仮住まい。いつまでたっても、ここだという場所に行き当たらない。作り上げようとすれば、できたと思った途端、おれの立ち位置自体が崩れていく。
本当に欲しいものはそれなのだ、とどれだけ訴えようと、誰一人、聞く耳を持ちはしない。
もっと素晴らしいものを持っているではないか、と。
嘆くことすら許されない。
だからおれはここに隠れる。借りたマンションに。およそ垢抜けのしない若い女と、シーツの間に。
それだけが当座の慰めで、おれが望んでつかむことのできた、ほんのわずかなもの。
けれども、この安らぎだって、いつまで続くかはわからない。
「昨夜は寒かった。一人でベッドに入ると、どうしてあんなに寒いんだろうな」
腕枕の重み。二人はまどろみの淵に揺れる。
「嫌なんだよ。シーツに入り込んだ途端、やってくる、ひんやりした感じが」
薄暗い最中、ナイトランプはやわらかにオレンジの明かりで、由花子の顔を染める。さっきまで上気していた頬も、本来の血色に戻りつつある。
「だからさ、もういいじゃないか。アパートなんか引き払って、ずっとここにいろよ」
「そうもいかないの」
由花子は上体を起こし、ゆっくりとサイドテーブルに手を伸ばす。そしてウォーターカラフェから冷水を注ぐと、勢いよく喉を潤した。
「父の名義で借りてあるから、そうそう勝手なこともできないのよ」
気だるさが体の隅々まで駆け巡る。疲れた箇所が、殊更に自覚される。
じっとりとした重みが真横におさまる。ふと手に触れるやわらかさも、いまでは猛るものを呼び起こさない。
ライトランプの角度が、ちょうど、おれの瞳に鋭い感覚を与えた。
「たいした話ではないだろう。由花子が思う通りのことを、滞りなく進めるぐらい、おれにとってはわけもないんだぜ」
もしおれが一度燃え尽きる前だったなら、もう少し違った言い回しができたろう。
「良ちゃん、ときどき、こわいのね」
笑いを含んだ様子はない。おれは、はたと気づき、由花子の体を抱き寄せる。
「変な言いかたをしたよな。いや、その、なんだ……いくらだって協力することができるんだから、頼ってくれたらいいのにな、と言いたかったんだ」
腕のなかで、硬くこわばったまま、目を閉じることもしない気配がする。
「やはり、地元の、X県の離島ばかりで過ごすわけじゃないんだよな。行きかがり上、あちこち借りていないと不都合があったりするんだろうな」
由花子はうなずく。
「お父さんは、国会議員の、大鳥 哲人 先生の秘書なのだし。すぐに駆けつけなきゃいけない場合も多々あるだろう。そのためだな」
「面倒なこともたくさん。わたしの婚約者も、大鳥先生の息子。さっぱりしたくても、できない、ときたら、どうすればいいかわからないの」
おれは由花子を包み込むように腕を回す。目を閉じる。
何もかも忘れるには、眠ってしまうのが一番だ。不可解な夢の筋書きより、起きているあいだの出来事のほうが、ずっと、荒唐無稽なのだから。
「なんだかわたし、かれとは結婚しないような気がして……」
このまま何もなかったように、黙り込んでしまうのが利口なやりかただ。女というだけなら、いくらでもいる。一晩だけのものなら、どうして、おれの財力があって不自由するだろう。
枕もとのランプの明かりには、心も体も開いた女の姿がある。シーツの内側に二人ぶんの熱がこもっている。
そして明日の朝になれば、台所でおれの目覚めを待ってくれている。
触れ合った肌から伝わる鼓動は、愛に似たリズム。
「いちどしっかりと当人同士で話をしたほうがいい。妙なもので、そうした気持ちというのは、通じ合っているものだよ」
あたたかな稜線を手でなぞる。由花子の瞳が、おれへ瞬く。
空の星より間近な輝きを腕のうちに抱くと、二人して、孤独の塔の頂から、眠りに落ちていくのだった。
行きがかりの都合上設定された、往路と復路の区別程度の違いしかない。
離陸前の昼は航路上に失くして、たどり着いたときには、真っ暗な夜そのもの。
いつだってそうなのだ。美しい夕暮れをみとめる間もなく、気がつけば、沈んだあと。
慰めのようなまばゆさのビル。結局それも光害をもたらして、本当の星が見えない。
この建物を出れば、真冬の冷たさが容赦なくおれを取り囲む。たった一人でそのなかにたたずむには寒すぎる。
嘘めいた暖房に甘えて入り込む、アクセサリーショップ。店員と目があって、微笑みはサービス。おれはそこへ行くことを初めから決めていた人の顔をして、進んでいく。
向かい合った女。値踏みされているのは、アクセサリーではない。ガラスのショーケースに逆さに映り込んだ、おれのほうなのだ。
奥から出してきた、いくつかのもの。値札は裏返っていて、おれにはわからない仕組。
「若々しいデザインのものが欲しくて。できればカジュアルな」
腕時計が袖口からのぞかぬよう、さりげなく隠す。
「こちらは、有名なファッション誌にも取り上げられたもので……」
「では、それをセットで」
満面の笑みで、店員は他の者にラッピングを指示する。おれは提示された額を識別し、カードを取り出す。その色を店員が確かめる一瞬。おれは知らないふりをしてやる。
柱は、見えないはずの、売り上げのグラフの形に置き換わっていく。
視線を落として伝票にサインをする。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。すると、建物自体の明かりが逆光になって、おれの顔を隠してくれる。あとは目を閉じて、眠った様子でいればいい。この気楽さを、会社の車などに乗って失わせるわけにはいかない。おれのすべてを把握しようとしているのだから。
一人にしてくれる、タクシードライバーのうしろ姿に優しさを見つけながら降りる。
羽織ったコートを翻らせる冬の風。振り向くような動きで視界に入り込んだのは、葉をまったく落とした、
車寄からエントランス。人の気配はない。カーテンの閉まったコンシェルジュの窓口。その脇を通り抜けて、専用エレベーターからのぼっていく、最上階への垂直な路。
当たり前のように往き来するここにしたって、おれのものではない。本当に波留の持ち物で、住まなければ荒れるから、そこにいるだけだ。管理のため、会社から近い、理由は後からいくらでも作れる。
好き勝手にしているという見方だってできる。
安らぐのが、自宅ばかりとは限らない。おれはここに慣れたのだ。ただそれだけだ。
ビルの頂上。床には羅針図、天井には無数の星座を携えた、夜空の絵が描かれている。どこへも飛び立てないと分かっていながらの、この意匠。
用心深さがもたらす、玄関の鍵。その扉を開けたとき、このフロアの絵が呪術的なはたらきをみせ、この世とは違うところへ送ってくれることを祈る。
手に入れ損ねた、遠い昨日がそのまま続いていて、何かの間違いで、今ここにおれを立たせていただけなのだ。すべて悪い夢で、やっと覚めたのだ、と……。
玄関の時点でまだ嘘は確定していない。漂う夕食の匂い。洗練とはかけ離れた、人間らしい垢抜けのなさが出迎えたとき、期待は頂点に達する。
田舎臭いオレンジのエプロンをつけた背中。冷蔵庫の横の棚にかけられた、揃いの色柄のミトン。
このエリアに足を踏み入れたら、おれを窮屈にさせた背広は、体を締め付ける要素を全て失った作業用の服になるのだ。すると、部屋は、あたたかな居間に、すり替わってしまうのではないか。
神経をすり減らした無駄な駆け引きは、虚構のかなたへ押しやられ、単純な人間だけのやりとりが待っていてくれたら、どんなにかいいだろう。きっとそのとき、おれは、爽やかな表情を手に入れることができるのだ。
だが、その願いは虚しく打ち破られる。
カタログに載せる機会すらない、最高級の設え。どこにもない快適さと、優美さを備えた見た目が、おれの前にある。
振り向いた女、
喉につかえる一語。ただいま、と絞り出した声。
「お土産だよ。開けてごらん」
ショッパーを手渡し、笑顔を見せ、上着を部屋に置きに行く。
大きめのバッグを放り出せない、自分の几帳面さ。軽く始末をしてリビングへ戻れば、冬にふさわしい食卓があった。
シチューの表面に張った膜に安らぐ。古めかしく、重いスプーンを差し入れても、罠のような熱さはない。
早速、由花子は、さっきのショッパーから中身を取り出した。
「ありがとう。すごい。出張のお土産で、このアクセサリー? つけてみてもいい?」
「どうぞ。出先ならではのものを見つけきれなくてね」
ちょうどいいきらびやかさが、由花子の首もとで弾けるように輝く。
「人気だって取り上げられていたのに、すぐに手に入れられるなんて。一体、良ちゃんて何者なの?」
あの時の店員の満足げな笑みの理由を悟り、おれも同じ表情になる。彼女には、どういった相手に贈るものか、察しがついていたのだ。
「にやにやして、答えてくれないんだから」
「心優しいおにいさんさ。何も気にすることはない」
早々と由花子は茶を淹れた。食事を終える頃には、ちょうどいいぬるさになっているはずだ。
「不思議な人。勤めていたバルに何度も通っていたかと思ったら、突然、家で料理をしないかって言ってきたり。それで、おまけに、まだわたしは、あのバルの雇いのままなんでしょう。出勤もしていないのに。本当のオーナーで、大金持ちってことだけしかわからないよ」
「それで充分さ。実際そうだからな。何を心配することがあるのか」
「正体不明のお金持ちって、怖い世界の人かもしれないと思って」
「それは違う。自分で言うのもなんだが、こんな優男じゃ無理だ。安心おし」
由花子の物言いに笑ったのか、自嘲なのかは、自分でもわからない。ただ、お互いに、奇妙に和んだ。
由花子は、ふ、と息をついて食事を続ける。所定の位置に落ち着いた、オレンジのエプロンとミトン。このほのぼのとした色味と、由花子の野暮な雰囲気は、おれに余計なことを考えさせない。
昔、口に運んだ覚えのあるような、田舎らしい味付けの料理は、都会においては贅沢なものになった。どこの通りにもあった、小さな店は、次々と時代の波が押し流して消えた。
いまや、タワーマンションの最上階で独り占めするしか、それを味わう手立てはないのだ。
「いくら金持ちになろうが、社会的に成功しようが、結局同じことさ。うまいものを口にして、いい女と過ごす。いうなれば、それだけだ。そこにわけのわからない価値を後付けするのは、仕事でついた癖だろう」
テレビは、基本的に、ここではつけない。たまに由花子も観てはいるだろうが、おれの不在時だけだ。
ふたりきりの時間を大切にしたい、と、初めての夜を迎えた日に告げたのを覚えている。
そこまで前の話ではない。枯れ枝を残すばかりになった公孫樹が、まだその葉を青々と繁らせていた頃だ。
「世の中では、おれのことを肩書きで呼ぶ。それは知られたくない。もし知ったとしても、頼むから、今のままでいてくれよ。由花子の前では、ただの、良ちゃんでいい」
空になったシチューの皿。ぬるい茶。ネクタイを外して、開けた襟元。カーテンの外はただの夜。
食器を片付け、後始末をする由花子の肩のまるみに、とどまりきれなかった幸福をみる。
そして、目を閉じれば、いつかのため息に、自分自身がのみこまれていく。
所詮はどこも仮住まい。いつまでたっても、ここだという場所に行き当たらない。作り上げようとすれば、できたと思った途端、おれの立ち位置自体が崩れていく。
本当に欲しいものはそれなのだ、とどれだけ訴えようと、誰一人、聞く耳を持ちはしない。
もっと素晴らしいものを持っているではないか、と。
嘆くことすら許されない。
だからおれはここに隠れる。借りたマンションに。およそ垢抜けのしない若い女と、シーツの間に。
それだけが当座の慰めで、おれが望んでつかむことのできた、ほんのわずかなもの。
けれども、この安らぎだって、いつまで続くかはわからない。
「昨夜は寒かった。一人でベッドに入ると、どうしてあんなに寒いんだろうな」
腕枕の重み。二人はまどろみの淵に揺れる。
「嫌なんだよ。シーツに入り込んだ途端、やってくる、ひんやりした感じが」
薄暗い最中、ナイトランプはやわらかにオレンジの明かりで、由花子の顔を染める。さっきまで上気していた頬も、本来の血色に戻りつつある。
「だからさ、もういいじゃないか。アパートなんか引き払って、ずっとここにいろよ」
「そうもいかないの」
由花子は上体を起こし、ゆっくりとサイドテーブルに手を伸ばす。そしてウォーターカラフェから冷水を注ぐと、勢いよく喉を潤した。
「父の名義で借りてあるから、そうそう勝手なこともできないのよ」
気だるさが体の隅々まで駆け巡る。疲れた箇所が、殊更に自覚される。
じっとりとした重みが真横におさまる。ふと手に触れるやわらかさも、いまでは猛るものを呼び起こさない。
ライトランプの角度が、ちょうど、おれの瞳に鋭い感覚を与えた。
「たいした話ではないだろう。由花子が思う通りのことを、滞りなく進めるぐらい、おれにとってはわけもないんだぜ」
もしおれが一度燃え尽きる前だったなら、もう少し違った言い回しができたろう。
「良ちゃん、ときどき、こわいのね」
笑いを含んだ様子はない。おれは、はたと気づき、由花子の体を抱き寄せる。
「変な言いかたをしたよな。いや、その、なんだ……いくらだって協力することができるんだから、頼ってくれたらいいのにな、と言いたかったんだ」
腕のなかで、硬くこわばったまま、目を閉じることもしない気配がする。
「やはり、地元の、X県の離島ばかりで過ごすわけじゃないんだよな。行きかがり上、あちこち借りていないと不都合があったりするんだろうな」
由花子はうなずく。
「お父さんは、国会議員の、
「面倒なこともたくさん。わたしの婚約者も、大鳥先生の息子。さっぱりしたくても、できない、ときたら、どうすればいいかわからないの」
おれは由花子を包み込むように腕を回す。目を閉じる。
何もかも忘れるには、眠ってしまうのが一番だ。不可解な夢の筋書きより、起きているあいだの出来事のほうが、ずっと、荒唐無稽なのだから。
「なんだかわたし、かれとは結婚しないような気がして……」
このまま何もなかったように、黙り込んでしまうのが利口なやりかただ。女というだけなら、いくらでもいる。一晩だけのものなら、どうして、おれの財力があって不自由するだろう。
枕もとのランプの明かりには、心も体も開いた女の姿がある。シーツの内側に二人ぶんの熱がこもっている。
そして明日の朝になれば、台所でおれの目覚めを待ってくれている。
触れ合った肌から伝わる鼓動は、愛に似たリズム。
「いちどしっかりと当人同士で話をしたほうがいい。妙なもので、そうした気持ちというのは、通じ合っているものだよ」
あたたかな稜線を手でなぞる。由花子の瞳が、おれへ瞬く。
空の星より間近な輝きを腕のうちに抱くと、二人して、孤独の塔の頂から、眠りに落ちていくのだった。