【改稿版】まろうど 壱
文字数 9,557文字
これは、もうひとりの撫子がうららとして生きたあとのお話――――。
町だ。
うららは、額に流れる汗を拭って、一息ついた。
山なりの坂を登り切って少し下った頃、それまで立ちこめていた霧がようやく晴れてくる。
立ち止まった背中が日差しに温められ、死んだ体にも汗が滲む。
「やれやれ」
声に出して呟いてから、さらにぼやいた。
「やっぱり……拾ったチケットなんて使うもんじゃないな」
それはあわいの道を巡回する、あやかしバスの周遊券だった。
撫子たちの暮らすみどり町二丁目公園の地蔵堂の裏が、その停留所になっていることを以前から知っていたのだが、つい最近、夏祭りでもないのに実家に帰ってみようと出来心を起こした際、公園のはたで拾ったのだ。
出来心、そう出来心。
それにしても、チケットにあやかし用とニンゲン用があるなんて知らなかったと、うららは思った。
『次は身の丈 に合ったチケットで乗んな、嬢ちゃん』
赤ら顔のキツネ帽をかぶった車掌に不正乗車を咎められ、一駅向こうの停留所で、強制的に下ろされたのだ。
だが
――――身の丈って言われても。
自分の身の丈とは、はたして。
ニンゲンなのかあやかしなのか。
うららはさらに独りごちる。
孫の体で死んでからこっち、なんだか愚痴っぽくなった。
「身の丈なんて、そんな哲学、自分自身わからないって言ってやればよかったわ」
然り、ひとはなぜ生きるのか。
「……死んだあとに考えても仕方ないわよ」
坂の上に、ぷうとなま温かい風が吹いてくる。
赤ら顔のキツネ帽の下で、やたらと舌なめずりする車掌いわく、
『チケットは沿線の町に売ってるよ。光る目玉の看板のついた店を探しな』
だとか。
そのままあやかしの餌になるのも嫌なので、慌ててバスを降り、それからずっと、セイタカアワダチソウの咲く野っ原の一本道を歩いてる。
ようやく見えてきた町まで、あと数粁 といったところか。
「まだまだ、遠いな――――」
坂の下に広がる町並みを見下ろしながら、うららはまた歩き出した。
取り敢えず、行きますか。
門番のいない外壁を通り抜け、浅瀬の川にかかった石造りの太鼓橋を渡ると、そこは絵本の挿絵のような西洋風の町だった。
ひらさか門前町と外壁に標識があったので、てっきり和風の町を想像していたのだが、坂の上から覗いたイメージとはずいぶん違う。
行き交うのは、ひととはどこか異なる者ばかり。
むくむくしたもの、つるつるしたもの、獣の耳をつけたもの、細長いもの、幅広いもの、横歩きのもの。
ひとしきり感心しつつ商店を探す。
車掌が教えてくれた『光る目玉の看板』を掲げた店はなかなか見つからない。
試食販売のワゴンを店先に出していた肉屋で、その旨を尋ねてみる。
「大通りをこのまままっすぐ行くと、交差点があるから、それを渡ればすぐに何軒か見えてくるよ」
赤い角をつけたエプロン姿のおねえさんが教えてくれた。ついでに牛すじコロッケを勧めてくれる。
うららは大喜びで頷いた。おねえさんも微笑む。
「はい、もうひとつおまけね――――熱いから気をつけて」
こどもの姿をしていると、怖い目にも遭うが、こういうお得にもありつける。
うららは丁寧に礼を言い、歩き出した。はふはふと揚げたてのコロッケにかぶりつく。
うんま、うまま。
二つのコロッケはあっという間に胃袋に収まった。
おねえさんの言う通りまっすぐ進み、交差点の手前で立ち止まる。
――――あれは何かしら?
信号は赤。
その待ち時間に、目に飛び込んできたおかしな光景だった。
ボヨヨン。
ボヨヨン。
ボヨヨン。
ボヨヨン。
なにかが、店の前におりた縦縞の日よけの下で跳ねている。
その跳躍があまりに素晴らしいのか、緑と白の縦縞の日よけ幕が、まるでゴム風船のように膨らんだり萎んだり、また膨らんだり萎んだりをくり返し、その勢いで、日よけのついた出窓の枠までが、伸びたり縮んだり奇妙なことになっているようだ。
――――あーここだきっと。
心の声を棒読みしつつ店の看板を見たら、彫金の立派な『流星堂魔術用具店』の脇に、色あせた目玉のシールが貼られていた。
とりあえず聞いてみよう。
「すみませーん」
うららは扉の前でおとないを告げた。
鍵はかかっていないようだが、店内の灯りが消えているし、営業中の札もない。
「すみ……すみませーん!」
今度はもっと声を張った。
誰も居ないのか。さらに、
「……すみ……!」
「聞こえてますよ」
傍らではずんでいた日よけの下から、真っ黒なローブを着たハリネズミが這いだして着た。
「何かご用?」
尊大な様子で、鼻眼鏡をかけ直し肩で息をしている。
「ええと、あわいの道の巡回バスに乗りたいので、わたしの身の丈に合わせて」
「手短に。取り込み中ですのよ」
ぴしゃりと小さなハリネズミはうららの言葉を遮った。
十歳児のうららの、さらにお臍のあたりまでしかない小さな体から、あふれんばかりの威厳を放ち、ついでに大きく「ふんっ」と鼻を鳴らして見せる。
うわあ、とうららは思った。
これは別の店を探した方が良いかもしれない、だが。
色あせた目玉シールを指差して言えば伝わるかと思い直す。
「……その、看板を見て来たんです」
ハリネズミのつぶらな瞳がまん丸く見開いた。
「看板ですって!――――そうだったわ」
背中の針を一斉に逆立ててローブから覗かせ、慌てて日よけの下に潜り込もうとする。
わわ!
その迫力にいったん後ずさったうららだったが、何故かハリネズミまで硬直する。そして通りのむこうを指差しながら、とてつもない大声で叫び出した。
「ああああああっ!」
うわあああ……!
釣られてうららも口元を押さえる。
ハリネズミは鬼の形相で、そんなうららを振り返った。
「あなた……あなた、ちょっとなんてことをしてくれたの! すみませんなんて、よくもわたしを呼びつけたこと。その隙に看板が変わっちゃったじゃないの! 九〇分の努力が水の泡よ!」
なんのことかと目を丸くするうららに、ハリネズミは通り向こうを指差した。
「今日が借地契約期限の九〇日! そして悩みに悩んだ店の看板が九〇分ごとの入れ替わりを忘れたら、あの建物は取り壊されてしまうのよ!」
「なんですって!」いきなり掴みかからんばかりの勢いでまくし立てられ、うららは、つい相手の勢いに合わせた。
もちろんなんとなく、だ。
「借地契約期限の九〇年に悩んだ店の看板が九〇秒ごとに入れ替わって、建物が取り壊されてしまうんですね!」
ちがうわよ。
ハリネズミはしれっとした目で、うららを睨み上げた。
「契約では、今日までに新しく開業した店を起動に乗せるか、まだ開業計画を諦めない証拠に看板をとっかえひっかえして、やる気をアピールするしかないの。それから借地契約は九〇年じゃなくて九〇日、看板は九〇分に一枚よ」
あ、そうなんですか。
真顔に戻ったうららに、ハリネズミはそうよと頷いた。
「今どき大変なんですね、個人事業主も」
看板を九〇分ごとに新しくするって、塗り替え用のペンキがいったい何缶いるんだろう。
うららが通りの向こうを見やった時、ふたりの頭上にひゅーんと音を立てて何かが飛んできた。
うわっ!
咄嗟にうららが跳んで逃げると、そのすぐ目の前で向かいの商店の看板が『和風おしるこ十八番』にかけ変わり、べしゃりと何か液体めいたものがふりかかるような音がした。
あっつーい!
背後のハリネズミが飛び上がる。
甘い匂いに振り返ると、ハリネズミの立派な黒いローブが、よく煮込まれた大納言あずきと白玉だんごにまみれて、ほかほか湯気を立てていた。
「いや、いや、いやあああ!」
――――なんと。
うららは、驚きただ立ちすくむ。
そこへ、またひゅーんと宙を切るような音がしたので、慌てて日よけの下に飛び込み、まだ熱い熱いと飛び回っているハリネズミの小さな手を引いた。
と、間もなく透ける縦縞の日よけ幕の上にビシャリと白い液体がぶちまけられる。
「……今度は何!」
ハリネズミが目と歯を剥いた。
日よけの下から目を覗かせ、うららは向かいの看板を読んだ。
「ゴキゲンイカガ牛乳集配所」
「おしるこの次が牛乳! 掃除洗濯する者の身になって!」
ハリネズミが叫ぶ。
確かに、その通りだなとうららは思った。掃除なんて掃除機に、洗濯なんて洗濯機にまかせればいいじゃんなんて思うなら、バチがあたるというものだ。
ところが、すぐにまたひゅーんと音がしたので、日よけを深く被り直す。
こちらの声が聞こえたのか、次にザバッと降ってきたのは『松ノ湯』のいい湯だった。
これで、あとの掃除が少しラクに……いやそうじゃない。
――――九〇分間隔じゃなく、どう考えても九〇秒。
「なんかムキになってない?」
うららは通り向こうの看板を睨む。
またぞろ何かが空高く打ち上がったが、看板はまだ掛け替えられていない。
「今のうちに、この窓から店の中に入りましょう。もし液体じゃないものが飛んできたら危険です」
そうねとハリネズミも同意し、ふたりは鍵のかかっていなかった出窓から、店の中へと飛び込んだ。
最初にうららが入り、つぎにハリネズミの手を引っ張り上げて誘導する。
黒いブーツの足が天地を返し、ばたつきながら着地すると同時に、日よけ幕にバウンドした大きな中華鍋が一つ、派手な音を立て地面にひっくり返る。
「……あ……ぶ、なかった」
「ついに殺しにかかってきたわね」
思わず溜め息を漏らしながら、うららは胸を撫で下ろす。
それにしたって。
「とんでもない契約ですね」と、うららは言った。
「あなたがさっき日よけの中で向こうの気を引いていたのも、看板作りに嫌気が差して職人さんがヒステリーを起こさないように、鼓舞してたんですか」
は?
まだベトベトする黒いローブの上の大納言小豆を、ひとつひとつ小さな指で剥がしながら、ハリネズミが顔を歪める。
ちがうわよ。
え?
「鼓舞なんかするもんですか。あんなオンボロ建物さっさと取り壊されたらいいんだわ。今さら何やったって無駄よ。だから、ざまあご覧遊ばせ、ばーかばーかって、からかってやっただけですけど、なにか?」
あーだめだ。
なんかこっちへ色々飛んできた理由がわかったような気がすると、うららは思った。
「それで――――」
とりあえず、カウンターの上に置いたウェットティッシュを数枚引いて、ごしごしとローブにぶちまかれたおしるこを拭きながら、ハリネズミは言った。
「あなたのご用はなんでしたっけ? 身の丈がどうとか」
ああ、そうそう。うららは改めて店主らしきハリネズミに向き合う。
「あわいの道の巡回バスチケットを買いたいんです」
ああ、そういう。ハリネズミはぬいぐるみのようにつぶらな黒い瞳を意地悪く細め、つっけんどんに返す。
「よござんす。それで、どんなチケットがお入り用なのかしら。うちにあるのは本人専用の周遊券 です。誰かとの使い回しはできませんよ。種類はざっと――――ニンゲン用、あやかし用、精霊用、精霊の眷属用、魔物用、獣人用、付喪神用、元付喪神用、憑きもの用、腫れもの用、やおよろずの……」
「ちょっと待って、待って」
今度はうららが言葉を遮る。
ハリネズミは、また大きく鼻を鳴らした。
「……ええと、だからわたしの身の丈に合ったものをご存知でしたら」
「あなたの身の丈なんて、わたくしがご存知なわけないでしょう」
「そうなんです、そうなんですけど」
やっぱり、ほかの店に行くべきかと思ったが、ハリネズミが顔を突き出して、くんくんとうららの匂いを嗅いでくる。ハリネズミからはおしるこの甘い匂いに混じって、微かに漢方薬を煎じたような香りがする。
「……なるほど」
と、さんざんうららの匂いを確かめてハリネズミは言った。
「事情はわかりました。何様用のチケットを購入すべきか、あなたの場合まずそこからなのでしょう。でもね、いくら第一級魔法を習得した魔法使いのわたくしでも、わからない領域があるの。それは、個人の身の上です」
「身の丈ではなく身の上?」
うららは小首を傾げた。
「然り――――」
ハリネズミは懐から没薬 の匂いのする若い小枝を取り出し、うららの鼻先へ突き付ける。
「あなたが何者であるかは、どこに生まれ、如何に育ち、如何に生きそして死んだか、ではなくて?」
「ええまあ……」
何かの術でもかけられるのかと、うららは後ずさった。
「でも、あなたの場合とても複雑そうだわ。いえ結構――――ここでそんな話をされても迷惑よ。そういうことは、専門に、なりわいとする者に聞いて貰うのが筋でしょ」
「……ええでも」
「そこでチケットを売っているか? いいえ売っていません。この町で今、バスのチケットパスを売っているのはうちだけよ。ですから」
ハリネズミはカウンターの上の銀の小皿に積まれた美しいすみれ色のカードを一枚とり、さらさらと、うららには読めない不思議な文字を書き記した。
そして、それを差し出す。
「もうすぐ日が暮れるわ。そうしたら外に出ても大丈夫――――それで、この裏通りのなかほどに怪しい黒猫八卦見が水晶占いの席を出すでしょうから、そこでこの名刺を見せて、あなたの知りたいことをお聞きなさい。詳細がわかれば、うちで見合ったチケットを売ってさしあげてよ」
なるほど。
うららは無礼だが親切な魔法使いに礼を述べて『流星堂魔術用品店』を出た。
魔法使いの言う通り、町は日が暮れ始めている。
せわしなく看板を掛け替えるべくペンキまみれになって居た向かいの建物は、いつの間にか取り壊され、すっかり更地になっていた。
たそがれ小路。
アールデコ風の曲線を描く街灯が、つぎつぎとほの白い明かりをともし始める。
つるべ落しのごとく、角をひとつ曲がるうちに空はとっぷりと暮れていた。
行き交うのは仕事帰りの人々だろうか。
スーツの袖や裾から爪や尻尾が覗いたり、宙にふわふわ漂っていたりするのは、もう見慣れた。
うららも八卦見の姿を探しながら、道を急ぐ。
八卦見が席をもうけるのは、カフェの向かいか、ダンスホールの裏口付近と無礼で親切な魔法使いが教えてくれたので、まずはその二点がよく見えるあたりで待機する。
だが、時間が早すぎたのか、八卦見を見つける前に、ダンスホールの裏口には豚骨ラーメンの屋台が、カフェの向かいには似顔絵のイーゼルが立ってしまう。
そのどちらでもない場合は――――うららは小路のはずれのえんぴつのように細長い建物を目指す。
かなりや古書店。
半円形に張出した入り口をくぐると、棚に寄りかかるように本を舐めている黒猫の姿を見つけた。
スリットの入った細身の黒いドレスに、黒いショール、赤いチョーカー。
魔法使いから聞いた八卦見に間違いない。うららは歩み寄る。
「八卦見さんですか」
黒猫は視線も上げずにボソリと言い返す。
「占い師よ」
「あの……今日ははっけ、占いのブースを出さないんですか」
いきなりの言葉に、黒猫は耳をぴくりとさせたが、ブースと言う言葉が気になったのか、二、三度繰り返して、うららを見下ろす。
「そうね――――でも、お嬢さんのご用なら出してもいいわ」
見た目のイメージより随分と張りのあるバリトンで黒猫は言った。
うららはワンピースのポケットから、すみれ色の名刺を取り出す。
「巡回バスのチケットを買うために身の丈を知りたくて、身の上を見て頂きたいんですが」
はい、そこまで。
黒猫は片手に持った料理本をぱたんと閉じて、うららを見つめ名刺を受け取った。
「ここからは有料よ、お嬢さん」
ああ、そうですねと頷いてから、ふとうららは思った。
この町の通貨ってなんだっけ。
そういえば、通りすがりのコロッケは試食販売だったし、町についてすぐに橋のたもとで自販機の水を買おうと思ったら、全部ランプが点滅してて押し放題になっていた。
もちろん、たくさんあっても手が塞がるから押しまくりはせず、ほしいミネラルウォーターのペットを一本だけ頂戴したわけだが。
うららが悩んでるうちに、黒猫は名刺に書かれた魔法使いからのメッセージらしきものに目を通した。
「……ふうん」
そして、小さく肩をすくめると足元のキャリーケースを引き、古書店をあとにする。
「いいわ、ついてらっしゃい」
黒猫が店開きに向かったのは、古書店からも少し離れた横丁の入り口だった。
怪しげなネオンサインや雑多な看板のひしめく感じは、人の世の飲み屋街に似ている。だが、看板に書かれた文字の半分以上はうららには読み取れず、文字化けのように意味をなさない綴りであったり、うねうねと始終動き回っているのだ。
「……看板に興味があるの?」
黒猫に囁かれ、うららは、はっと我に返った。いつのまにかすっかり準備の整った円卓やその上の水晶玉や、『うらなひくろねこ』の文字のきらめく花灯籠の置き看板に気を取られる。
「まあ、おすわりなさいな」
黒猫は手元にタロットのようなカードを重ね、うららに促す。
「それにしてもあんた、よくあのイカレ魔法使いにメッセージなんて書かせたわね。驚いたわ」
「なんて書いてあったんです?」
と、うららは問う。
「こいつを喰ったら、一生呪う」
うららは目をパチクリさせ、黒猫は薄ら笑いを浮かべる。
「冗談よ……でも知らない方がいいと思うわ。あの魔法使いはオカシイから。夏の終わりに長く連れ添っていた向かいの店主が自分を置いて出立したもので、頭のネジが二、三本ぶっ飛んじゃったんだわ」
「しょっちゅう看板が換わってた、あの向かいの店のことですか」
うららが返すと、あらと黒猫は目の虹彩を丸くした。
「もうそんなことになってるのね――――時が経つのは早いわ。まあ仕方ない。あなた、それでさっきも看板を見てたのね。なかなかいい勘をしてるじゃない。店にとって看板は顔よ」
なるほど。
「読める看板と読めない看板があるのもわけがありそうですね」
「そうだけど、あなた看板の話をしにわざわざここへ来たの?」
ちがいます。
うららが返すと、黒猫は今度は虹彩を糸のように細くした。べっこう飴のような金色の大きな目だ。
「じゃ、聞きたいことをお話しなさいな。お代は一〇分で星ひとつ戴くわ」
星?
どういう意味かとうららが返すと、ここまでの雑談ですでに星一つ分を消費しているが構わないのかと、黒猫占い師に切り返され、慌てて本題にはいることにした。
ふうむ。
ふうむ。
ふうむ。
つるつると大きな水晶玉を撫でながら黒猫が唸る。
唸るたびに毛先のちぢれた白い髭がそよぎ、そこから小さな銀色の星が散っていく。
「あんたは……そうね……餡子のぬけた金鍔 焼き……さもなくば鳴らない目覚まし時計のようなものかしら」
役立たずってこと?
少しムッとしながら、うららは眉間に皺を寄せる。
とはいえ、孫と体を取り替えて死んでからこっち、記憶はまだらだし、自分の体の中にいるはずの孫との関係性も薄ぼんやりとしている。
そんなわけで、自分は本当に死んだのだろうかとすら思いながら、毎年律儀に盆帰りしていたのだが、それも人間界に突如ふってわいたパンデミック騒ぎで三途の川渡しが渋滞し、のぼりどころかくだりも通行規制の真っ最中。
関係なく行き来できる自分も、なんとなく戻りづらくなっている。
「まあ時が来れば解決するとは思うけれど、未来の自分にあまり負荷はかけないことだわね」
うーむとうららは腕組みした。
黒猫はにっこり微笑み、こんなものねと占いを終える。
「ええと……お代は」
「いただきました。きっかり三〇分よ」
黒い肉球の上に、きらきら輝く虹色の星が三つ鎮座しているのを見て、うららは黒猫に尋ねた。
「それでバスチケットは買えるの? 餡子のぬけた金鍔焼きか、鳴らない目覚まし時計で」
さあ――――と、黒猫は返す。
「でも、なんど聞いたところで答えは同じよ。わたしの占いはおみくじじゃないもの。引き直しはナシ」
まいどありと送り出され、うららはしぶしぶ席を立つ。
餡子のぬけた金鍔焼き。
鳴らない目覚まし時計。
小首を傾げながら、小路から表通りへ戻ると角の『流星堂魔術用品店』には明かりがついていた。
うららが扉に手を掛けると、ちょうど買い物客が出て来て、入れ違いに中へと入る。
「おかえりなさい。思ったより早かったわね」
と、ハリネズミの魔法使いは言った。おしるこで汚れたローブはもう着替えている。
「それで、身の丈はわかって?」
そう尋ねられ、うららが『餡子のぬけた金鍔焼き』か『鳴らない目覚まし時計』と答えると、魔法使いはしばらく目を閉じ、すぐにカウンターのうしろの抽斗 をあけて引っかき回した。
「……ああ、あったあった」
「あるんだ。びっくりだわ」
ええ。魔法使いは頷く。
「さすがに餡子のぬけた金鍔焼きなんてものはないけれど、鳴らない目覚まし時計用のバス周遊券ならございましてよ」
その違いは何?
うららの問いに今度は答えず、魔法使いは数枚綴りになったカードの束を差し出して微笑んだ。
「三十六万円です」
「円! 三十六万!」
そうですよと魔法使いは返す。
「これは使うものの慣れ親しんだ価値基準で販売されるものですもの……あら、ちょっと」
あなた。
いきなりカウンターから大きく身を乗り出され、うららは顔を引く。そこをぐいっと掴むと、ハリネズミの魔法使いは、最初にやったのと同じようにくんくんとしつこくうららの匂いを嗅いだ。
今度は魔法使いからおしるこの匂いはしない。その代わり、薬草ともお香ともつかない、なにやら難しそうな匂いだけがした。
「ずいぶんぼったくられてきたじゃない。渡したカードは見せたんでしょうね。半時間ほどの相談でいったい八卦見に、いくら払ったの」
ええとお。
なんだかまずいような気がして、うららは口ごもる。
「星……みっつ、です」
ま!
魔法使いは目をまん丸くした。
「その星が、自身の徳を形にしたものだということはご存じ?」
い、いいえ。うららは首を横に振った。
魔法使いは、深く嘆息した。
そして、この町の価値基準である『徳』が魂の研鑽で得られるものであること、うららが払った星は最も大きな徳の単位で、うららのわかる貨幣価値になおせば、ひとつが一般的なサラリーマンの平均年収に相当することを説明され、へたりこんだ。
「わ……わたし、何も知らずに。黒猫さんに返して貰ってきます」
お待ちなさい。魔法使いは言った。
「あなたは黒猫から身の丈の情報を聞き出したのだから、クーリングオフするなら星三つを取り返す代わり、記憶を差し出さなければならないわ」
記憶――――を?
「三〇分の記憶だけを八卦見ごときがうまく取り出せるとお思い?」
わかりません。
またしても首を振るうららに、魔法使いはギリギリと歯を鳴らした。
「……虚仮 にされたのは、紹介人のわたくしも同じよ」
そう言うと、なにやらああでもないこうでもないと早口に呟いていたが、やがてぽんと小さく手を打った。
よござんす。
「わたくしがなんとか致しましょう。支払いすぎた分を取り戻してくるから、あなたはここでしばらくお待ちなさい。どうせチケットを買うお金もないのでしょう? 店番でも手伝ってくれるなら、住み込みでアルバイトとして雇わなくもないわ」
――――女神さま!
思わず拝んだうららの前で、ハリネズミの魔法使いは反っくり返る。
「もっと崇めてくださってもよくってよ」
オホホホホホホ。
おほほほほほほ。
うららも真似をして反っくり返って見た。
どうにも、このひとの調子にはついつい引っ張られてしまうようだ。
(うらら・のら閑話 まろうど 弐へつづく)
町だ。
うららは、額に流れる汗を拭って、一息ついた。
山なりの坂を登り切って少し下った頃、それまで立ちこめていた霧がようやく晴れてくる。
立ち止まった背中が日差しに温められ、死んだ体にも汗が滲む。
「やれやれ」
声に出して呟いてから、さらにぼやいた。
「やっぱり……拾ったチケットなんて使うもんじゃないな」
それはあわいの道を巡回する、あやかしバスの周遊券だった。
撫子たちの暮らすみどり町二丁目公園の地蔵堂の裏が、その停留所になっていることを以前から知っていたのだが、つい最近、夏祭りでもないのに実家に帰ってみようと出来心を起こした際、公園のはたで拾ったのだ。
出来心、そう出来心。
それにしても、チケットにあやかし用とニンゲン用があるなんて知らなかったと、うららは思った。
『次は身の
赤ら顔のキツネ帽をかぶった車掌に不正乗車を咎められ、一駅向こうの停留所で、強制的に下ろされたのだ。
だが
――――身の丈って言われても。
自分の身の丈とは、はたして。
ニンゲンなのかあやかしなのか。
うららはさらに独りごちる。
孫の体で死んでからこっち、なんだか愚痴っぽくなった。
「身の丈なんて、そんな哲学、自分自身わからないって言ってやればよかったわ」
然り、ひとはなぜ生きるのか。
「……死んだあとに考えても仕方ないわよ」
坂の上に、ぷうとなま温かい風が吹いてくる。
赤ら顔のキツネ帽の下で、やたらと舌なめずりする車掌いわく、
『チケットは沿線の町に売ってるよ。光る目玉の看板のついた店を探しな』
だとか。
そのままあやかしの餌になるのも嫌なので、慌ててバスを降り、それからずっと、セイタカアワダチソウの咲く野っ原の一本道を歩いてる。
ようやく見えてきた町まで、あと数
「まだまだ、遠いな――――」
坂の下に広がる町並みを見下ろしながら、うららはまた歩き出した。
取り敢えず、行きますか。
門番のいない外壁を通り抜け、浅瀬の川にかかった石造りの太鼓橋を渡ると、そこは絵本の挿絵のような西洋風の町だった。
ひらさか門前町と外壁に標識があったので、てっきり和風の町を想像していたのだが、坂の上から覗いたイメージとはずいぶん違う。
行き交うのは、ひととはどこか異なる者ばかり。
むくむくしたもの、つるつるしたもの、獣の耳をつけたもの、細長いもの、幅広いもの、横歩きのもの。
ひとしきり感心しつつ商店を探す。
車掌が教えてくれた『光る目玉の看板』を掲げた店はなかなか見つからない。
試食販売のワゴンを店先に出していた肉屋で、その旨を尋ねてみる。
「大通りをこのまままっすぐ行くと、交差点があるから、それを渡ればすぐに何軒か見えてくるよ」
赤い角をつけたエプロン姿のおねえさんが教えてくれた。ついでに牛すじコロッケを勧めてくれる。
うららは大喜びで頷いた。おねえさんも微笑む。
「はい、もうひとつおまけね――――熱いから気をつけて」
こどもの姿をしていると、怖い目にも遭うが、こういうお得にもありつける。
うららは丁寧に礼を言い、歩き出した。はふはふと揚げたてのコロッケにかぶりつく。
うんま、うまま。
二つのコロッケはあっという間に胃袋に収まった。
おねえさんの言う通りまっすぐ進み、交差点の手前で立ち止まる。
――――あれは何かしら?
信号は赤。
その待ち時間に、目に飛び込んできたおかしな光景だった。
ボヨヨン。
ボヨヨン。
ボヨヨン。
ボヨヨン。
なにかが、店の前におりた縦縞の日よけの下で跳ねている。
その跳躍があまりに素晴らしいのか、緑と白の縦縞の日よけ幕が、まるでゴム風船のように膨らんだり萎んだり、また膨らんだり萎んだりをくり返し、その勢いで、日よけのついた出窓の枠までが、伸びたり縮んだり奇妙なことになっているようだ。
――――あーここだきっと。
心の声を棒読みしつつ店の看板を見たら、彫金の立派な『流星堂魔術用具店』の脇に、色あせた目玉のシールが貼られていた。
とりあえず聞いてみよう。
「すみませーん」
うららは扉の前でおとないを告げた。
鍵はかかっていないようだが、店内の灯りが消えているし、営業中の札もない。
「すみ……すみませーん!」
今度はもっと声を張った。
誰も居ないのか。さらに、
「……すみ……!」
「聞こえてますよ」
傍らではずんでいた日よけの下から、真っ黒なローブを着たハリネズミが這いだして着た。
「何かご用?」
尊大な様子で、鼻眼鏡をかけ直し肩で息をしている。
「ええと、あわいの道の巡回バスに乗りたいので、わたしの身の丈に合わせて」
「手短に。取り込み中ですのよ」
ぴしゃりと小さなハリネズミはうららの言葉を遮った。
十歳児のうららの、さらにお臍のあたりまでしかない小さな体から、あふれんばかりの威厳を放ち、ついでに大きく「ふんっ」と鼻を鳴らして見せる。
うわあ、とうららは思った。
これは別の店を探した方が良いかもしれない、だが。
色あせた目玉シールを指差して言えば伝わるかと思い直す。
「……その、看板を見て来たんです」
ハリネズミのつぶらな瞳がまん丸く見開いた。
「看板ですって!――――そうだったわ」
背中の針を一斉に逆立ててローブから覗かせ、慌てて日よけの下に潜り込もうとする。
わわ!
その迫力にいったん後ずさったうららだったが、何故かハリネズミまで硬直する。そして通りのむこうを指差しながら、とてつもない大声で叫び出した。
「ああああああっ!」
うわあああ……!
釣られてうららも口元を押さえる。
ハリネズミは鬼の形相で、そんなうららを振り返った。
「あなた……あなた、ちょっとなんてことをしてくれたの! すみませんなんて、よくもわたしを呼びつけたこと。その隙に看板が変わっちゃったじゃないの! 九〇分の努力が水の泡よ!」
なんのことかと目を丸くするうららに、ハリネズミは通り向こうを指差した。
「今日が借地契約期限の九〇日! そして悩みに悩んだ店の看板が九〇分ごとの入れ替わりを忘れたら、あの建物は取り壊されてしまうのよ!」
「なんですって!」いきなり掴みかからんばかりの勢いでまくし立てられ、うららは、つい相手の勢いに合わせた。
もちろんなんとなく、だ。
「借地契約期限の九〇年に悩んだ店の看板が九〇秒ごとに入れ替わって、建物が取り壊されてしまうんですね!」
ちがうわよ。
ハリネズミはしれっとした目で、うららを睨み上げた。
「契約では、今日までに新しく開業した店を起動に乗せるか、まだ開業計画を諦めない証拠に看板をとっかえひっかえして、やる気をアピールするしかないの。それから借地契約は九〇年じゃなくて九〇日、看板は九〇分に一枚よ」
あ、そうなんですか。
真顔に戻ったうららに、ハリネズミはそうよと頷いた。
「今どき大変なんですね、個人事業主も」
看板を九〇分ごとに新しくするって、塗り替え用のペンキがいったい何缶いるんだろう。
うららが通りの向こうを見やった時、ふたりの頭上にひゅーんと音を立てて何かが飛んできた。
うわっ!
咄嗟にうららが跳んで逃げると、そのすぐ目の前で向かいの商店の看板が『和風おしるこ十八番』にかけ変わり、べしゃりと何か液体めいたものがふりかかるような音がした。
あっつーい!
背後のハリネズミが飛び上がる。
甘い匂いに振り返ると、ハリネズミの立派な黒いローブが、よく煮込まれた大納言あずきと白玉だんごにまみれて、ほかほか湯気を立てていた。
「いや、いや、いやあああ!」
――――なんと。
うららは、驚きただ立ちすくむ。
そこへ、またひゅーんと宙を切るような音がしたので、慌てて日よけの下に飛び込み、まだ熱い熱いと飛び回っているハリネズミの小さな手を引いた。
と、間もなく透ける縦縞の日よけ幕の上にビシャリと白い液体がぶちまけられる。
「……今度は何!」
ハリネズミが目と歯を剥いた。
日よけの下から目を覗かせ、うららは向かいの看板を読んだ。
「ゴキゲンイカガ牛乳集配所」
「おしるこの次が牛乳! 掃除洗濯する者の身になって!」
ハリネズミが叫ぶ。
確かに、その通りだなとうららは思った。掃除なんて掃除機に、洗濯なんて洗濯機にまかせればいいじゃんなんて思うなら、バチがあたるというものだ。
ところが、すぐにまたひゅーんと音がしたので、日よけを深く被り直す。
こちらの声が聞こえたのか、次にザバッと降ってきたのは『松ノ湯』のいい湯だった。
これで、あとの掃除が少しラクに……いやそうじゃない。
――――九〇分間隔じゃなく、どう考えても九〇秒。
「なんかムキになってない?」
うららは通り向こうの看板を睨む。
またぞろ何かが空高く打ち上がったが、看板はまだ掛け替えられていない。
「今のうちに、この窓から店の中に入りましょう。もし液体じゃないものが飛んできたら危険です」
そうねとハリネズミも同意し、ふたりは鍵のかかっていなかった出窓から、店の中へと飛び込んだ。
最初にうららが入り、つぎにハリネズミの手を引っ張り上げて誘導する。
黒いブーツの足が天地を返し、ばたつきながら着地すると同時に、日よけ幕にバウンドした大きな中華鍋が一つ、派手な音を立て地面にひっくり返る。
「……あ……ぶ、なかった」
「ついに殺しにかかってきたわね」
思わず溜め息を漏らしながら、うららは胸を撫で下ろす。
それにしたって。
「とんでもない契約ですね」と、うららは言った。
「あなたがさっき日よけの中で向こうの気を引いていたのも、看板作りに嫌気が差して職人さんがヒステリーを起こさないように、鼓舞してたんですか」
は?
まだベトベトする黒いローブの上の大納言小豆を、ひとつひとつ小さな指で剥がしながら、ハリネズミが顔を歪める。
ちがうわよ。
え?
「鼓舞なんかするもんですか。あんなオンボロ建物さっさと取り壊されたらいいんだわ。今さら何やったって無駄よ。だから、ざまあご覧遊ばせ、ばーかばーかって、からかってやっただけですけど、なにか?」
あーだめだ。
なんかこっちへ色々飛んできた理由がわかったような気がすると、うららは思った。
「それで――――」
とりあえず、カウンターの上に置いたウェットティッシュを数枚引いて、ごしごしとローブにぶちまかれたおしるこを拭きながら、ハリネズミは言った。
「あなたのご用はなんでしたっけ? 身の丈がどうとか」
ああ、そうそう。うららは改めて店主らしきハリネズミに向き合う。
「あわいの道の巡回バスチケットを買いたいんです」
ああ、そういう。ハリネズミはぬいぐるみのようにつぶらな黒い瞳を意地悪く細め、つっけんどんに返す。
「よござんす。それで、どんなチケットがお入り用なのかしら。うちにあるのは本人専用の
「ちょっと待って、待って」
今度はうららが言葉を遮る。
ハリネズミは、また大きく鼻を鳴らした。
「……ええと、だからわたしの身の丈に合ったものをご存知でしたら」
「あなたの身の丈なんて、わたくしがご存知なわけないでしょう」
「そうなんです、そうなんですけど」
やっぱり、ほかの店に行くべきかと思ったが、ハリネズミが顔を突き出して、くんくんとうららの匂いを嗅いでくる。ハリネズミからはおしるこの甘い匂いに混じって、微かに漢方薬を煎じたような香りがする。
「……なるほど」
と、さんざんうららの匂いを確かめてハリネズミは言った。
「事情はわかりました。何様用のチケットを購入すべきか、あなたの場合まずそこからなのでしょう。でもね、いくら第一級魔法を習得した魔法使いのわたくしでも、わからない領域があるの。それは、個人の身の上です」
「身の丈ではなく身の上?」
うららは小首を傾げた。
「然り――――」
ハリネズミは懐から
「あなたが何者であるかは、どこに生まれ、如何に育ち、如何に生きそして死んだか、ではなくて?」
「ええまあ……」
何かの術でもかけられるのかと、うららは後ずさった。
「でも、あなたの場合とても複雑そうだわ。いえ結構――――ここでそんな話をされても迷惑よ。そういうことは、専門に、なりわいとする者に聞いて貰うのが筋でしょ」
「……ええでも」
「そこでチケットを売っているか? いいえ売っていません。この町で今、バスのチケットパスを売っているのはうちだけよ。ですから」
ハリネズミはカウンターの上の銀の小皿に積まれた美しいすみれ色のカードを一枚とり、さらさらと、うららには読めない不思議な文字を書き記した。
そして、それを差し出す。
「もうすぐ日が暮れるわ。そうしたら外に出ても大丈夫――――それで、この裏通りのなかほどに怪しい黒猫八卦見が水晶占いの席を出すでしょうから、そこでこの名刺を見せて、あなたの知りたいことをお聞きなさい。詳細がわかれば、うちで見合ったチケットを売ってさしあげてよ」
なるほど。
うららは無礼だが親切な魔法使いに礼を述べて『流星堂魔術用品店』を出た。
魔法使いの言う通り、町は日が暮れ始めている。
せわしなく看板を掛け替えるべくペンキまみれになって居た向かいの建物は、いつの間にか取り壊され、すっかり更地になっていた。
たそがれ小路。
アールデコ風の曲線を描く街灯が、つぎつぎとほの白い明かりをともし始める。
つるべ落しのごとく、角をひとつ曲がるうちに空はとっぷりと暮れていた。
行き交うのは仕事帰りの人々だろうか。
スーツの袖や裾から爪や尻尾が覗いたり、宙にふわふわ漂っていたりするのは、もう見慣れた。
うららも八卦見の姿を探しながら、道を急ぐ。
八卦見が席をもうけるのは、カフェの向かいか、ダンスホールの裏口付近と無礼で親切な魔法使いが教えてくれたので、まずはその二点がよく見えるあたりで待機する。
だが、時間が早すぎたのか、八卦見を見つける前に、ダンスホールの裏口には豚骨ラーメンの屋台が、カフェの向かいには似顔絵のイーゼルが立ってしまう。
そのどちらでもない場合は――――うららは小路のはずれのえんぴつのように細長い建物を目指す。
かなりや古書店。
半円形に張出した入り口をくぐると、棚に寄りかかるように本を舐めている黒猫の姿を見つけた。
スリットの入った細身の黒いドレスに、黒いショール、赤いチョーカー。
魔法使いから聞いた八卦見に間違いない。うららは歩み寄る。
「八卦見さんですか」
黒猫は視線も上げずにボソリと言い返す。
「占い師よ」
「あの……今日ははっけ、占いのブースを出さないんですか」
いきなりの言葉に、黒猫は耳をぴくりとさせたが、ブースと言う言葉が気になったのか、二、三度繰り返して、うららを見下ろす。
「そうね――――でも、お嬢さんのご用なら出してもいいわ」
見た目のイメージより随分と張りのあるバリトンで黒猫は言った。
うららはワンピースのポケットから、すみれ色の名刺を取り出す。
「巡回バスのチケットを買うために身の丈を知りたくて、身の上を見て頂きたいんですが」
はい、そこまで。
黒猫は片手に持った料理本をぱたんと閉じて、うららを見つめ名刺を受け取った。
「ここからは有料よ、お嬢さん」
ああ、そうですねと頷いてから、ふとうららは思った。
この町の通貨ってなんだっけ。
そういえば、通りすがりのコロッケは試食販売だったし、町についてすぐに橋のたもとで自販機の水を買おうと思ったら、全部ランプが点滅してて押し放題になっていた。
もちろん、たくさんあっても手が塞がるから押しまくりはせず、ほしいミネラルウォーターのペットを一本だけ頂戴したわけだが。
うららが悩んでるうちに、黒猫は名刺に書かれた魔法使いからのメッセージらしきものに目を通した。
「……ふうん」
そして、小さく肩をすくめると足元のキャリーケースを引き、古書店をあとにする。
「いいわ、ついてらっしゃい」
黒猫が店開きに向かったのは、古書店からも少し離れた横丁の入り口だった。
怪しげなネオンサインや雑多な看板のひしめく感じは、人の世の飲み屋街に似ている。だが、看板に書かれた文字の半分以上はうららには読み取れず、文字化けのように意味をなさない綴りであったり、うねうねと始終動き回っているのだ。
「……看板に興味があるの?」
黒猫に囁かれ、うららは、はっと我に返った。いつのまにかすっかり準備の整った円卓やその上の水晶玉や、『うらなひくろねこ』の文字のきらめく花灯籠の置き看板に気を取られる。
「まあ、おすわりなさいな」
黒猫は手元にタロットのようなカードを重ね、うららに促す。
「それにしてもあんた、よくあのイカレ魔法使いにメッセージなんて書かせたわね。驚いたわ」
「なんて書いてあったんです?」
と、うららは問う。
「こいつを喰ったら、一生呪う」
うららは目をパチクリさせ、黒猫は薄ら笑いを浮かべる。
「冗談よ……でも知らない方がいいと思うわ。あの魔法使いはオカシイから。夏の終わりに長く連れ添っていた向かいの店主が自分を置いて出立したもので、頭のネジが二、三本ぶっ飛んじゃったんだわ」
「しょっちゅう看板が換わってた、あの向かいの店のことですか」
うららが返すと、あらと黒猫は目の虹彩を丸くした。
「もうそんなことになってるのね――――時が経つのは早いわ。まあ仕方ない。あなた、それでさっきも看板を見てたのね。なかなかいい勘をしてるじゃない。店にとって看板は顔よ」
なるほど。
「読める看板と読めない看板があるのもわけがありそうですね」
「そうだけど、あなた看板の話をしにわざわざここへ来たの?」
ちがいます。
うららが返すと、黒猫は今度は虹彩を糸のように細くした。べっこう飴のような金色の大きな目だ。
「じゃ、聞きたいことをお話しなさいな。お代は一〇分で星ひとつ戴くわ」
星?
どういう意味かとうららが返すと、ここまでの雑談ですでに星一つ分を消費しているが構わないのかと、黒猫占い師に切り返され、慌てて本題にはいることにした。
ふうむ。
ふうむ。
ふうむ。
つるつると大きな水晶玉を撫でながら黒猫が唸る。
唸るたびに毛先のちぢれた白い髭がそよぎ、そこから小さな銀色の星が散っていく。
「あんたは……そうね……餡子のぬけた
役立たずってこと?
少しムッとしながら、うららは眉間に皺を寄せる。
とはいえ、孫と体を取り替えて死んでからこっち、記憶はまだらだし、自分の体の中にいるはずの孫との関係性も薄ぼんやりとしている。
そんなわけで、自分は本当に死んだのだろうかとすら思いながら、毎年律儀に盆帰りしていたのだが、それも人間界に突如ふってわいたパンデミック騒ぎで三途の川渡しが渋滞し、のぼりどころかくだりも通行規制の真っ最中。
関係なく行き来できる自分も、なんとなく戻りづらくなっている。
「まあ時が来れば解決するとは思うけれど、未来の自分にあまり負荷はかけないことだわね」
うーむとうららは腕組みした。
黒猫はにっこり微笑み、こんなものねと占いを終える。
「ええと……お代は」
「いただきました。きっかり三〇分よ」
黒い肉球の上に、きらきら輝く虹色の星が三つ鎮座しているのを見て、うららは黒猫に尋ねた。
「それでバスチケットは買えるの? 餡子のぬけた金鍔焼きか、鳴らない目覚まし時計で」
さあ――――と、黒猫は返す。
「でも、なんど聞いたところで答えは同じよ。わたしの占いはおみくじじゃないもの。引き直しはナシ」
まいどありと送り出され、うららはしぶしぶ席を立つ。
餡子のぬけた金鍔焼き。
鳴らない目覚まし時計。
小首を傾げながら、小路から表通りへ戻ると角の『流星堂魔術用品店』には明かりがついていた。
うららが扉に手を掛けると、ちょうど買い物客が出て来て、入れ違いに中へと入る。
「おかえりなさい。思ったより早かったわね」
と、ハリネズミの魔法使いは言った。おしるこで汚れたローブはもう着替えている。
「それで、身の丈はわかって?」
そう尋ねられ、うららが『餡子のぬけた金鍔焼き』か『鳴らない目覚まし時計』と答えると、魔法使いはしばらく目を閉じ、すぐにカウンターのうしろの
「……ああ、あったあった」
「あるんだ。びっくりだわ」
ええ。魔法使いは頷く。
「さすがに餡子のぬけた金鍔焼きなんてものはないけれど、鳴らない目覚まし時計用のバス周遊券ならございましてよ」
その違いは何?
うららの問いに今度は答えず、魔法使いは数枚綴りになったカードの束を差し出して微笑んだ。
「三十六万円です」
「円! 三十六万!」
そうですよと魔法使いは返す。
「これは使うものの慣れ親しんだ価値基準で販売されるものですもの……あら、ちょっと」
あなた。
いきなりカウンターから大きく身を乗り出され、うららは顔を引く。そこをぐいっと掴むと、ハリネズミの魔法使いは、最初にやったのと同じようにくんくんとしつこくうららの匂いを嗅いだ。
今度は魔法使いからおしるこの匂いはしない。その代わり、薬草ともお香ともつかない、なにやら難しそうな匂いだけがした。
「ずいぶんぼったくられてきたじゃない。渡したカードは見せたんでしょうね。半時間ほどの相談でいったい八卦見に、いくら払ったの」
ええとお。
なんだかまずいような気がして、うららは口ごもる。
「星……みっつ、です」
ま!
魔法使いは目をまん丸くした。
「その星が、自身の徳を形にしたものだということはご存じ?」
い、いいえ。うららは首を横に振った。
魔法使いは、深く嘆息した。
そして、この町の価値基準である『徳』が魂の研鑽で得られるものであること、うららが払った星は最も大きな徳の単位で、うららのわかる貨幣価値になおせば、ひとつが一般的なサラリーマンの平均年収に相当することを説明され、へたりこんだ。
「わ……わたし、何も知らずに。黒猫さんに返して貰ってきます」
お待ちなさい。魔法使いは言った。
「あなたは黒猫から身の丈の情報を聞き出したのだから、クーリングオフするなら星三つを取り返す代わり、記憶を差し出さなければならないわ」
記憶――――を?
「三〇分の記憶だけを八卦見ごときがうまく取り出せるとお思い?」
わかりません。
またしても首を振るうららに、魔法使いはギリギリと歯を鳴らした。
「……
そう言うと、なにやらああでもないこうでもないと早口に呟いていたが、やがてぽんと小さく手を打った。
よござんす。
「わたくしがなんとか致しましょう。支払いすぎた分を取り戻してくるから、あなたはここでしばらくお待ちなさい。どうせチケットを買うお金もないのでしょう? 店番でも手伝ってくれるなら、住み込みでアルバイトとして雇わなくもないわ」
――――女神さま!
思わず拝んだうららの前で、ハリネズミの魔法使いは反っくり返る。
「もっと崇めてくださってもよくってよ」
オホホホホホホ。
おほほほほほほ。
うららも真似をして反っくり返って見た。
どうにも、このひとの調子にはついつい引っ張られてしまうようだ。
(うらら・のら閑話 まろうど 弐へつづく)