【改稿版】まろうど 参

文字数 9,755文字

 なんてことでしょう!
 なんてことでしょう!

 わたくしとしたことが!
 わたくしとしたことが!


 魔法使いの叫びで飛び起きたうららが慌てて寝室へ飛び込むと、プリムは目を血走らせ、激しくミルラの枝をふるっていた。
 部屋中のものが全て、彼女の頭上で舞い踊る。
 吠えまくる魔導書が一般書籍の尻に噛みつき、何着もの黒いローブは絡み合い、薬研に精密秤、大鍋に小鍋、箒とはたきが追いかけっこ。
 それを操るプリムの姿は針を逆立て、情熱的な交響曲を奏でる楽団の指揮者のようだ。
 はう、はうう!
 はう、はうう!
 急がなくては!
 急がなくては!
 このままでは!
 このままでは!
 勝手に飛ばされてしまう!
 勝手に飛ばされてしまう!
 激しい二拍子のリズムを奏でるプリムに、うららが一体どうしたのかと声をかけると
「あら――――うらら」
 タクトが停止し、宙を舞っていたものが、足元でパクパク口を開いているトランクに吸い込まれて行く。
 最後に自らも吸い込まれそうになったプリムは、慌てて体勢を立て直した。
 おっと、
 おっと、
 おっと、
 いけない。
 いけない。
 いけない。
 再び杖で宙をかき回す。
 今度は三拍子だ。
 トランクから漏れたものが、優雅に舞い上がった。
 服は袖を内側にふんわりと畳まれ、本は大きなものから順に積まれてベルトでまとめられ、瓶にはいった化粧水や櫛、小物たちはそれぞれ巾着袋やファスナー付きのポーチへと整理されていく。
 うららは首を傾げた。
「一体どうしたんですか?」
 プリムは小さく鼻を鳴らすと、さらに高く杖を振りかざす。
「悪いけどうらら、あなたの質問に答えている時間はもうないの。今すぐ立たなくては、わたしの徳が溢れて、望まぬどこかへ飛ばされてしまう。わたしには、もう先より行きたい場所があるのよ。このお店はあなたにあげます」
「さっぱり意味がわかりません」
 そううららが返すと、プリムは杖をふるったまま、口の端をちょっと持ち上げて見せた。
「そんなの今までずっとでしょ」
「確かにそうです、そうですけど。今日は一段とわかりません。行きたい場所ってどこです? わたしにお店をあげるっていきなり言われても困ります!」
 うららは叫んだ。
「――――よごさんす」
 部屋を舞っていた最後の荷物がトランクに吸い込まれると、プリムはようやく杖を懐にしまい、代わりに文庫本くらいの黒い手帳をうららに差し出す。
「あなたの言葉はもっともよ。これを差し上げます――――よく読んで、そして徳をお積みなさい。そうすればあなたの欲しがってたバスのチケット分くらい、わけもなく溜まるでしょう。そこからはあなたの好きにするといいわ。バスに乗ってこの町を出るなり、もう少しここを楽しむなり……」
 手帳を差し出す手が、ほんのり透けてきたことにうららは気づき、はっと息を飲む。
「――――店長」
「お師匠様と呼びなさいと言ったでしょ――――何か困ったことがあったら、ニコラとニーナの姉妹に相談するといいわ。あの子達は本当に真っ当で、親切で……優し……イイコ」
 ぱさりと手帳が床に落ちた。
 プリムの姿と、パンパンになったトランクが同時に消えた。
 うららは目を擦りあげる。
 つい今しがたまでプリムの立っていた床を、ゆうべまで質素なベッドのあった窓ぎわを、一緒にごはんを食べたダイニングを、小さな体がふんぞり返っていたお店のカウンターを――――
「店長……どこです? またふざけてるんですか!」
 そうして、店の棚の隙間や、天井裏、表の日よけ幕の下、風呂場や物干し場までを、一回、二回、合計三回ずつ覗き込んでプリムの姿を探し求めたが、もう彼女の気配は部屋のどこにも残っていなかった。
 うららはがっくりと肩を落とす。
「……お師匠……」
 ほんの一週間ほどの、短い師弟関係だったけど。
 床に落ちている黒い革表紙の手帳を拾い上げる。
 魔法の心得(世界を理解するための)
 表紙をめくると右肩上がりの美しいペン文字で、そう書かれていた。
「あとは……読めないよ」
 文字を拾い上げることはできても、書いてあることが理解できなければ、読み進めることはできない。
 几帳面に並んだ字は、時折跳ねたり変なところで傾いたりして、なんだかそれがプリムらしい気がする。
 うららは頬を擦った。
 魔法の心得。
「……世界を理解するため……」
 もっと徳を積んだら、すこしはわかるようになるだろうか。
 自分は魔法使いじゃないけれど、プリムは弟子だと呼んでくれたし。
「これをちゃんと読めるようになるまで、頑張るしかないかな」
 うららは涙のにじむ目を瞬かせ、手帳をワンピースのポケットにしまい込む。
 奥の寝室にあったプリムのものはすべてなくなってしまったが、お店にあった大半の商品はまだ残っている。
 夕刻には、いつもの客たちも顔を出すだろう。
 うららは顔を洗い、身支度を調えて開店準備をすることにした。






 それから、半月ばかりが過ぎた。
 店の中にあった商品のあらかたを売り切ったうららは、わずかに残った薬や羽ペン、羊皮紙などを木箱に詰め、カウンター奥の薬棚の下へ片付ける。
 店の前には『本日棚卸しのためお休みします』の貼り紙を出し、せっせと店内の掃除をした。
 お昼過ぎには台所に残っていたアップルパイと紅茶で腹ごしらえ、そのあとは窓と看板の跡を丁寧に磨く。
 流星堂魔術用品店の立派な看板は、プリムが旅立った時に一緒に出かけたらしく、今は日に灼けた大きな四角い跡だけがレンガの壁に残る。
 ニコラとニーナが言うには、うららが自分の店を出すと決め、店がそれを了承してくれれば、きっとそこに新しい看板がかかるんじゃないかと。
 でも、自分の店なんてそんな大それたこと。
「明日から……どうしたものかな」
 うららは独りごつ。
 バスチケットを買うには、まだ徳もお金も足りない。
 だらだらとこの町をふらつくことも想像するが、それよりは何かをしなければいけない気もする。
 考えるだけ考えてみよう
 埃をはらい、すっきりとした玄関を見上げた。
「少なくとも、わたしに本格的な魔法や魔術用品店なんて無理ね」
 でも
「そうね――――駄菓子屋とか」
 おもちゃ屋とかなら、やってみたい気もする。
「駄菓子屋かあ」
 うららは台所にあった蒲鉾板に『駄菓子屋ハルネ』とマジックで書いてみた。
 ちょっと良い感じに書けたので、しばらくそれを翳して眺めてみる。
 いいかも知れない。
 ふと、そう思った。
 魔法の水薬や丸薬は扱えないけど、よく冷えたラムネやサクサク美味い塩バター煎餅なら、いくらでも売れる気がする。
 カラフルな飴玉やらニッキ棒やたこ煎餅、スナック菓子を並べて。
 もんじゃ焼きもやってみたいなあ。
 昔ながらのスターベビーラーメン入りオンリーで。


 それいい!


 うららは店の前に飛び出した。
 ドンと新しい看板のかかった店構えに、顔を輝かせる。
「……駄菓子屋ハルネだ!」
 店は、うららのアイディアを受け入れてくれたらしい。
 赤地に白のレトロな看板が日焼けしたレンガに映える。もちろん光る目玉のステッカーつきで。
 日よけ幕の下にはガチャポンのマシンが三台。食品サンプルとスーパーボールとマジックアイテムのミニチュアに、隠しアイテム入りのポップが踊る。
 店内へ戻ると、陳列平台がすでに設置されていた。
 そこへ酸っぱいイカゲソやビッグカツやカレー煎餅の大瓶に、紙箱いっぱいのおみくじ飴、粉ジュース、サイコロキャンディ、笛ラムネが並ぶ。
 冷蔵庫にはマジックドリンクの代わりにニッキ水とラムネが。
 天井からはおみくじ飴のカラフルなリボンが。
 風にそよぎ、きらきらと輝き、訪れるひとの目と心を楽しませること請け合いだ。
「……わあ、すごい!」
 最初の客はニーナだった。
 表の看板を見てきたと、声を弾ませて扉を開く。
「うららん、やっと自分の店を持つ気になったんだね!」
 そう目を輝かせる彼女に、うららは大きく頷いて見せ、表の『棚卸し』の貼り紙を破り取って、カレンダーの裏側にマジックでデカデカと『本日開店』と書きとばし、貼り直した。
「達筆だねえ」
 ニーナが感心していると、商店街の買い物客たちも、つぎつぎ様子を覗きにやってくる。
「いらっしゃいませ!」
 うららが呼びかけニーナも声を合わせた。


「本日開店、駄菓子屋ハルネです!」






 うららは、ひとりで店を切り盛りし、すっかりその仕事にも慣れた。
 薄利多売の駄菓子屋のレジスターにも小さな金平糖ほどの徳がコツコツ溜まっていき、仕入れや必要経費を差引いた純利益も、僅かずつだが右肩上がりに増えて行く。
「塵も積もればなんとやらね」
 駄菓子屋ハルネは、ひらさか門前町ガイドにも載る人気店となった。
 朝から店じまいまで客足が続く。
 懐かしさも手伝って、町の住民ばかりか、立ち寄った旅人たちの口コミも広がったようだ。
 うららの店長としての給金も増えて、完全な黒字の軌道に乗せた頃には、バスの周遊券を余裕で買えるほどの蓄えもできた。
「そろそろ、お店番のアルバイトさんでも雇おうかしら……もんじゃ焼きもやってみたいし」


 そんな昼下がり、しとしとと春の雨が降る軒先に、雨宿りしてきた男がいた――――。


 店番をするうららと窓越しに目を合わせた彼は、黒いハットをちょっと下げて見せる。
 うららも目礼を返したが、先刻降りだした雨が止む気配はなさそうだと、ビニール傘を片手に表へ出た。
「こんにちは――――よく降りますね」
 男は小さなうららに驚いた様子で、短くひと言「ええ」と返す。
 うららは傘を差しだした。
 どうぞと言われた男は、さらに怪訝そうに切り返す。
「このあたりに、流星堂という魔術用品店があったはずなんだが」
 お嬢ちゃん、知らんかね。
 渋いカーキー色のトレンチコートを着た男は、そう問いかけながら何度も咳払いをした。その顔はうららと同じニンゲンのもので、獣の耳や牙もついていない。
「わたしが、この店を受け継ぐ前は確かに。ここが流星堂でしたよ」
 そう返すと、男ははっとしたように縦縞の日よけ幕や、黒い窓枠、それに真鍮のドアノブのついた重厚な扉などを振り返り、さらに大きな溜め息をついた。
「――――そうだったか……」
 落胆したその肩が小刻みに震えている様に思えて、うららは男の大きな手や、それがおさえている脇腹や、その足元にうすく広がっている紫色の水溜まりに目を止める。
 そして息を飲んだ。
 お師匠がひどい怪我をしたときにも、こんな風に手足がひどく震え、いやな色付きの脂汗が滴っていたのを思い出した。
 ――――呪いか、強い毒?
 魔法の手袋が指示を出し、薬をいくつも並べて見せたことも。
「……大丈夫ですか」
 傘を放り出し、うららは男の手を取った。冷たく強ばっている。
「どこが痛みますか」
 男の脇にくっきりとした獣の歯形を見つけた。紫色に腫れ上がり膿が滴っている。
「――――大変!」
 どこかに流星堂の薬の残りを片付けたはず。役に立つものが、まだあるかも知れない。
 魔法の手袋はもう手元にないけれど、思い出せる範囲のことなら。
 うららは窓から店内を覗き込む。
 そうだ!
「……ちょっと待ってください。残った薬を今、持ってきます」
 それから急いで店に戻って、カウンターの裏の棚の下を探った。中身の殆どは羊皮紙だったが、木箱の底までよく確かめると一本だけ、高価な万能治療薬の大瓶が残っている。
 それを片手に戻り、男に声を掛けた。
「ありましたよ」
 翡翠色の大瓶を見た瞬間、男の顔が和らいだ。
「……それをわたしに」
「もちろんです」
 ぐらりと傾く男の大きな体を支えて、うららは店の中へ案内する。入り口には休憩中と札をだし、ベンチに男を座らせて、奥から綺麗な水をたくさん汲んできた。
 それから救急箱の中のガーゼ、サラシ、ラップと絆創膏。
 毒にやられた傷口はひどく痛々しいものだったが、幸い、治癒力までは奪われていないようだ。汚れを洗ってラップをし、薬を経口で与えると、冷たくなっていた指先にまで少しずつ血が通ってくる。
 この町へ来る途中で、毒を持った大型の野犬に襲われたのだと男は言った。
「……ところで」
 体内の毒出しのために、瓶に残った薬を売ってくれと男に乞われ、うららは治療薬に貼られたラベルを読む。
「とても、お高い薬ですよ」
 一回分はお試し可能と書いてあるので、その通りに出したのだが、残りを丸ごととなると話が違う。
 喩え自分がいいと言っても、店がお代を戴くだろう。それがこの町のシステムだとうららが言うと、男は静かに頷いた。
「わかった。おいくらだね」
 星三つになる。
 うららの言葉に、男は呆気にとられたように瓶を見つめた。
「いや――――いくらなんでも」
 確かにとんでもない値段だ。だが
「この薬は原因不明の流行病もステージ4の癌もすべて治せるそうなので、こんなに法外な価格なのです」
 ああ――――男は項垂れた。
「放蕩がすぎた……今のわたしには、もう星三つ分の徳など残ってない……自業自得か」
 うつむいた首筋にまた脂汗が浮かび、ぽたぽたと指先から垂れた汗が紫色のシミを作る。
「さっき洗い流したはずなのに、また……」
 体に残った毒が回っているのかもしれないとうららは思った。
 わかりました。
「わたしが立て替えましょう」
 そう言って、ワンピースのポケットからコロコロと虹色の星を取り出す。
 驚く男の目の前で、うららがもう一度大きく頷くと、三つの星はすうっと宙に浮き、そのまま店のレジスターの中にチン!と音を立てて入っていった。
「――――あんた……いいのかね!」
 男は驚き、思わず立ち上がる。
「もう精算されちゃいましたし」
 うららは、彼に治療薬の瓶を差し出した。
「いや……しかし、星を三つも……三つも立て替えるとは」
 慌てふためく男は、さらに大きく目を見開く。
 そうして、うららを指差した。
「大変だ……あんた消えかかってるよ!」
 うららは慌てて、自分の両手、そしてワンピースの裾を持ち上げる。
「まあ――――」
 指は先端から、ワンピースは綿レースのフリルの裾から、足も半透明になりかけている。
「……あああ……」
 うららはプリムが同じようにして、旅立ったことを思い出す。
 どうやら男を助けたことで、うららもまた、徳が溜まりきってしまったらしい。
 どうしよう。
 プリムは、行きたいところがあると言っていた。
 勝手にどこかへ飛ばされたくないとも叫んでた。
 うららも同じだ。
 だが、あのときのことを思い出すと、もたもたしている暇はなさそうだった。
 急いでカウンターに駆け寄り、抽斗(ひきだし)の中からプリムに貰った黒い手帳と、自分のために取り分けていたバスの周遊券(パス)を掴む。
 チンとレジスターが三十六万円分の代金を受け取ると同時に、すうっとうららの両腕が消えた。
 痛みはない。さっぱりとして気持ちがいいくらい。
 腕の次は足が、続いて髪が。
 でも、どこに行くんだろう。
 ――――どうせなら。
 ニーナにお別れを言いたかった。
 プリムのいるところを訪ねたい。
 男が何かを叫んでいる。
 ありがとうをくり返し、この恩は忘れない。立て替えて貰った徳は、必ず後で返すと言っている。
 ――――どうやって?
 うららは、微笑んだ。
「どんなことをしても返す!」
 男は力んで叫ぶ。
 ――――まあ、いい。
 あのときのプリムも、こんな気分だったのか。
 勝手に星を使ってしまって、撫子にはごめんなさいだと思う。
 そうして全身が消えてしまう寸前。
 ――――あ、そうだ。
 うららは、男に言い残した大事なことを思い出した。



 この店はあなたにあげます!






 空高く打ち上げられたうららは、途中で方向転換し、どこか、遠くへと飛んで行く。
 ハリウッドのスーパーヒーローか。
 それとも空気の抜けていく風船か。
 伸びたおかっぱ頭とワンピースが風に翻り、はためいた。
 途中でくつが片方脱げた。
 もう片方も脱ぎ落とし、靴下も脱いだ。
 それでもプリムの手帳とチケットが飛ばされないよう、ワンピースのポケットをしっかり押さえる。
 空は広く、どこまでも続く。
 そうして、きらきらと輝く星空や眩しい太陽、群をなす鳥たちを横目に、風を切り、時を数え、いくつもの地平や水平を越えて行った。
 見知った山や川、そして町の風景がくり返し、左から右、そして前から後ろへと流れていく。
 うららはそこに、懐かしい思い出を見た。
 年老いた自分がいる。撫子と呼ばれていた頃の自分が、家を訪ねてきた幼い自分に驚いている。
 これが今の撫子、のちにうららと名付けられ孫としてハルネ家で育てられるようになった、もう一人の自分だ。
 ――――どうして、こんなことになったんだっけ?
 うららは記憶を手繰る。
『……迷子になったの』
 そう、小さな自分はそう言って、泥だらけの裸足のまま玄関で泣きじゃくったのだった。
 ――――迷子に……ああ……迷子に……。
 泣きじゃくる自分に慰める自分。
 夕焼け雲に絡まりながら、うららはさらに思い出す。
 足元には、登下校の帰り道、友達に干からびたカエルを押し付けられ泣いているうららの姿がある。
 撫子は困った顔をして、泣きじゃくるうららの頭を撫でている。
 なんだか不思議な感じがした。
 どちらの感触も覚えている。どちらの視点も記憶にあるのは、なぜだろう。
 ――――それから夏休み。
 夏休みが終わらなければいいと、うららは言い、撫子が入れ替わってみようかとおかしな提案をする。
 夢見の力。
 ふさぎこむ孫を励ますために、祖母がついた都合のいい嘘だった。
 ――――だけど、その嘘は真実にすり替わる。
 きゅっとするような、心の痛み。
 ――――あの記憶。
 夕凪がゆるやかな風にかわり、茜色の雲の切れ目から墨のような夜がしみ出してくる。
 うららはゆっくりとスピードを落としながら、黄昏の空を飛び続けた。
 眼下に祭り囃子が聞こえ始める。
 神社の参道を、血の気のない顔を歪め、スリッパのままかけていく撫子の姿。
 本殿の裏側。ブルーシートのかかった赤土の崖が崩れたその中に、赤い金魚模様の浴衣の袂が見えた。
 ――――あれはわたし。
 わたしだ。
 わたしだったはず。
 じゃあ、どうして撫子は「うらら、うらら」と自分の名を呼び続け泣き叫んでいるのか。
 ――――わたしたちは、本当に入れ替わった?
 いったいいつ?
 くだらないごっこ遊びで?


 うらら……うらら……!
 うらら……うらら……!


 違う。自分はただ死んだのだ。


 ――――あいて、ててて……。
 着地するときバランスを崩し、どこかでぶつけたらしい左の肘がズキズキする。 
 雨露に濡れた、ふかふかの土と青草の混じり合った匂いが鼻腔をくすぐる。
 くしゃみをして、うららは目を開けた。
 夕日の名残が、濡れた草原をうすぼんやりと照らしている。
 ワンピースの背中もしっとりと濡れて、うららは小さく身震いしながら起き上がった。
 飛んでいる間に脱げた靴と靴下が、きちんと草の上に並んでいる。
 それを身につけていると、
「おそようございます」
 ずいぶんと懐かしい言葉を聞いた気がした。
 辺りを見渡すと、すぐそばを流れる小川のなかほどにある平べったい岩の上から、一匹の河童がうららの様子を見つめているのだった。
「あ、ああ……おそようございます?」
 け、け。と、河童は笑った。
「わたし、どれくらい眠っていましたか?」
「さて。小一時間、あるいは半日、ほんの一瞬かも」
 禅問答かな、とうららは思った。
「……はあ。ここはどこでしょうか」
 今度は、はぐらかさずに河童は水かきの付いた手で、すぐ傍らのバス停留所を指す。
 のはらかわなか。
 錆の浮いた丸い金属プレートの文字が、夕闇に読み取れる。見覚えのあるキツネの横顔に12番の数字も入っていた。
「ということは、ここもあわいの道巡回バスの停留所なんですね」
 そうだよお嬢さん、と河童は頷いた。
「だけど、もう日暮れだ。今日のバスはもう来ないだろうね」 
 あたりをきょろきょろ見回していると、また河童が話しかけてくる。
「あんた、どこへ行く気だね、お嬢さん」
 そう問われて、うららは顔をあげた。
「どこって、言われても……そうね」
 そこで、自分はひらさか門前町から飛ばされてきた。どこへ行くかはまだ決めていないのだと説明すると、河童は、ああと納得したような顔をして自分の腹回りを探る。
「あんた、煙草を持ってないかね」
 ――――十歳児に聞かないでよ。
 いいえ、とうららが返すと、今度は肩と背中を探るようになで回す。
「じゃあ、何か口にいれるものは」
 乞われ、もう片方のポケットを探ると、休憩中に食べようと思っていたミニ煎餅の残骸があった。
「これくらいしかないけど……落ちた衝撃で粉々。でも袋入りだし味は変わらないと思う。食べる?」
 河童が水かきの手をぐんとこちらまで伸ばしたので、うららはそこに割れた煎餅のはいった袋を手渡した。
「あんたイイコだなあ――――よし、代わりにイイコトを教えてやるよ」
 河童は袋をあけ、長い指で器用に煎餅の欠片をかきだしてうまそうに食べ始めた。そして、
「もうすぐ月がでる」
 と河童は言った。
「そうしたら、そこの土手に立って向こう側を見てみな。面白いものが見れるぜ」
 運が良ければ、な。
 河童は、煎餅の最後の欠片の一粒まで食べきると、袋の皺を丁寧に伸ばし頭の皿に乗せて、またけっけと笑った。
 うららは背伸びして、草葉の向こうに広がる堤の土手に目を凝らす。
「ここからじゃ無理ね」
 よく見ると、変な地形だ。
 川の片側いっぽうにだけ、妙に高い堤防がある。
「向こう側の土地だけ低いのかしら……それとも」
 そして、また岩場に目をやったが、もう河童の姿はなかった。
 あれ?
 停留所のポールに濡れた手形がひとつ着いていた。
 うららは草原から岩場へ跳んで向こう岸にわたる。
 堤防の土手は高かったが、足場になるくぼみがところどころに空いていて、ラクに登れた。
 ぴょんぴょん跳ねて辿り着くと、うららは辺りを見渡し、大きく息をつく。



 おお……!



 それは、地平線まで続くなだらかな草原だった。
「これは凄いな」
 さっきの原っぱよりずっと広く、残日がどこまでも揺れる草波を映している。
「まるごと関東平野みたいだね」
 うららは適当なことを言って、笑う。
 その広大な草原の一角に、電車から見る広告のような看板が所狭しと立っていた。
 少し違うのは、広告看板が電車の線路にそって整然と同じ向きで並ぶのに対し、その看板は大きさも向きもばらばらで、折れ曲がったり斜めになったり、地中に深く埋もれていることだ。
 まるで隕石のように、空から落ちてきたふうにも思える。
 あるいは
「打ち上げられて、着地したとか」
 うららは墨色の空を見上げた。
 そのとき雲の切れ目から、月明かりが射してくる。
 ほんの一瞬、地面が揺れた。
 慌てて体を踏ん張り顔を上げると、草原の真ん中に深々と突き刺さっていた看板たちもうららと同様に、大地を踏みしめスックと背を伸ばした。
 さらに立ち上がった看板を支えるように、周辺からもにょきにょき、にょきにょきと何かが生え出してくる。
 うららは思わず身を乗り出す。
「……うわあ……」
 あれは――――何?
 看板は、もはや看板ではなかった。
 見る間に、それらは石造りや木造の建物、店舗へと形を変え、街灯や道となり、車が生まれ、光が集まり、たちまち華やかな街へと姿を変えていく。
 すごい。すごい。
 すごい!
「生きてる町だ」
 うららは土手を滑り降りた。もつれる足をさばきながら、走り出す。
 最初のネオンサインがうららを手招いた。
 大きなアドバルーンに、飛行船もぶちあがる。
 走るうららの足元に、道が出来ていく。青草ばかりが生い茂る広い野原の真ん中に、道が敷かれ、町までうららを導いていく。
 うららは走った。途中からスキップした。

 らんら、らんら、らん。
 らんら、らんら、らん。
 らんら、らんら、らん。

 町の手前にバス停留所も出来ている。
 ペンキの塗りあとも真新しい字で『のはらまちなか』とその名を読んで、うららは大笑いした。





(うらら・のら閑話 まろうど 肆へつづく)
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