1. 左手

文字数 1,426文字

 罫線に沿って三角関数加法定理を書き写す。確か覚え方があったはずだ。その覚え方を覚えようと、近くに書いたはずなのに、教科書はまっさらだった。おかしい。
「ねぇちょっと。この数Ⅱ、渡貫のじゃない?」
 ぺらぺらとめくるにつれ、違和感が確信に変わる。向かい側の渡貫が「あー」と間抜けな声を伸ばした。
「本当だ。こっち裏に『虎沢』って書いてあるわ。ごめんラインひいちゃった」
「えー」
「ごめんって。それより、虎沢が持ってるペンって俺のじゃない?」
「えっ、わりぃ。え、じゃあ俺のは?」
 机の上には2人分の文房具や参考書で埋め尽くされていた。お互いの机を向かい合わせにしているのに、どうして相手のスペースまでのびのびと使ってしまうのか。お互い様だけど。
「おい、ちょっと整理しようぜ。混じっちゃってるよ」
 ノートを閉じ、消しゴムや下敷きなどを一個ずつ確認して振り分ける。黒板に大きく『自習中』と書かれた教室は、もはや休み時間のようだった。半数ぐらいしかいない教室は、風通りがいい。窓から入る風が左手に触れ、反射的に握っては開く。
 消しかすも一カ所に集め、渡貫がかいてない汗を拭う。
「よし、だいたい整理できたかな」
「ねぇ、これ俺のじゃないんだけど」
「まだあんのかよ。どれ?」
「左手」
「は?」
 渡貫はじっと俺の左手を見た。それから、同じように自分の左手を握っては開いた。
「いや、さすがにこれは俺のだよ」
 呆れた顔で「何言ってんの?」と続ける。
「でも、これ俺のじゃない」
「本当にぃ?」
「うん、ほら手首のところから肌色が若干違う」
「ほんとだ。なんでくっつけた時に気づかないんだよ」
「だって、教卓の上の返却BOXにこれしか残ってなかったし」
 誰のかわからない左手をかぽっと外し、机の上に放す。俺から自由になった左手は、細長い指を器用に動かし机の上を縦横無尽に動き回った。きっと持ち主を探しているのだろう。
「あーさっき先生が手を貸せる奴募集してたもんな。その時混じっちゃったんだな」
 教室内を見渡すが、俺の左手も自分の左手に違和感を持っている人はいなかった。ここで俺は、「左手2個持ってる人ー?」と大きな声を出してもよかったのだが、耳をとって勉強に集中していたり、鼻や目玉を取り外し洗浄液でゆすぐのに熱心な人もいたからやめた。今年の花粉は相当ひどいらしい。
「この教室の誰かの左手なんだけどな…」
「…なぁ、これ女子の手じゃない?」
「えっ」
 突然注目された左手は、驚いたように人差し指をぴくりと上げて固まった。それをいいことに2人でじろじろと眺める。
「肌白いし…」
「…うん…」
「爪とか整ってるし…」
「…まぁ…」
「…おい、しかもすべすべだぞ…!」
 渡貫がふいに人差し指で左手をつんつんつつき、ぎょっとした。
「おい、やめとけって、そんな風に触るな」
 渡貫の手を払うと、左手は渡貫のところから急いで距離を開け、中3本の指を立て威嚇した。
「怒ってる」
「じゃあ女子確定じゃん。てことは今なら女子と手握り放題、うわいって!」
 近づいてきた渡貫の手に左手は容赦なくでこぴんをかました。どうやら相当ご立腹のようだ。
「てか、持ち主こいつに聞けばいいじゃん。ほら左手いくぞ」
 痛がっている渡貫を無視し、左手を右手に乗せた。左手は、手の平に少し爪を立てて確かめると、拳となった。それから、教室のドアを人差し指でピンと差す。昼休憩まであと10分。それまでには見つかることを願いながら、人差し指が指す方向に進んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み