3. 風船

文字数 2,658文字

 濡れた課題シートを指でつまんで、窓から出す。湿った紙は、纏わり付く重さに従って揺れていた。
「渡貫。そろそろ交換」
「あーちょっと待って、今ツム消してるから」
「いいけど、俺もこの課題シートからお前の名前消しとくわ」
「ごめんなさい!」
 6限目の古文は、グループで課題シートの作成だった。「虫愛づる姫君」を現代語訳して、内容を要約し、筆者の伝えたかったこと(推測)を書き上げる。提出したグループから解散だったから、みんな真剣に取り組んでたと思う。ようやく全部を埋めたとき、興奮した渡貫の膝が机に当たりペットボトルのお茶が倒れ、課題が水没した。
 他の班員が職員室に行ってくれたけど、先生が留守で新しい課題シートをもらうことはできず、もう乾くのを待つしかなかった。乾かすだけなら、もう他の班員に帰っていいと言えば、「悪いねぇ」と悪びれもせず帰って行った。まぁいてもかさばるだけだからいいけど。
「ねぇ虎沢ー。俺トイレ行きたくなっちゃった」
「手だけ残して行ってこい馬鹿」
「手ぇなくてどうやって用をたすんだよ馬鹿」
 背に力を入れ、椅子の前足を浮かせる。不安定になった椅子をぶらぶらと前後に動かしてたら、「なんかイライラしてる?」と聞かれた。
「別に。やっぱりお前かとか思ってないよ」
「なにそれ。全ての災難が俺のせいってこと?」
「ほぼそうだろ」
「言いがかりすぎる。てか、狐坂に相手にされないからって俺にあたんなよ」
「…あたってねぇし」
 大きく椅子を傾ける。胃を交換しようとした提案したが、結局叶わなかったことを思いだす。

◆◆◆

「いや、無理だって」
 俺はもう、シャツもめくって腹を出して寝転んでいるというのに、渡貫がドン引きしている。
「腹部を交換する?そんなの聞いたことねぇし、やったことねぇよ。普通に怖ぇよ」
「いけるって。そういう漢方のCM見たことあるだろ?」
「CMだからな」
「胃腸炎にかかった時とか、医者やってるじゃん」
「医者だからなぁ!」
 自分で腹部を引き離すことができればいいのだが、寝転んだ状態だとどうにも力が入らなかった。渡貫は後ずさりしてばかりで、距離ばかり開く。
「早くしろよ。昼休み終わるだろ」
「だから、やりたくないんだって。こ、狐坂くん?、も、やだよなぁ!他人の腹と交換するなんて」
「え、えっと…」
「てか、腹交換しなくても、普通に食えばよくない?」
「馬鹿。カロリー的にダメなんだよ馬鹿」
「2回も言うな。え、じゃあ一口あげるとか?一口ぐらいならよくない?」
「天才か?」
 さっさと起き上がってシャツをしまう。今日は暖かいとはいえ、屋上で腹をさらしていると流石に冷える。
 渡貫に買ってきてもらったカムチャッカバーガーの包みをめくり、狐坂に差し出す。
「ほら」
「…え」
 それはまだほのかに温かく、照り焼きの甘い匂いが鼻腔をくすぐり口内に唾液をためた。一口目、豪快にかぶりつく時が一番美味しいと確信している。
 渡貫と共に狐坂の一口目を固唾をのんで見守っていたが、とうとう狐坂はバーガーを手にすることはなかった。
「…ごめん。やっぱりいいや。僕の言ったこと忘れて。じゃあ」
 屋上に、俺と渡貫とバーガーだけが取り残された。カムチャッカバーガーを拒否されたことが悲しかったのか、数分経っても動くことはできなかった。滅多に気を遣わない渡貫が「冷めるぞ」と声をかけてくれたのは覚えている。

◆◆◆

 椅子を戻し、真剣に言う。
「やっぱり渡貫のせいじゃないかな」
「は?何が?」
「腹部を交換してくれていたら…」
「まだそんなこと言ってんの?もう1週間も前のことだろそれ」
 続々と各グループが課題シートを提出し、解散している。残っているのは、俺らと何故かお菓子パーティを開いているグループだった。運の悪いことに、狐坂がお菓子パーティの奴らと同じグループだった。誰も、古典の教科書なんて開いていない。
「ねぇもう10分経ったっしょ。交換~」
 渡貫から少し乾いてしわの入った課題シートを受け取る。茶色のしみは大目に見てもらうしかない。「トイレ行ってくる」なんて言って財布を手にしてたから、たぶん渡貫は自販機で飲み物を買ってくるのだろう。
 自動販売機は、渡り廊下から中庭に入るところに数台並んでいる。一度、そこで狐坂と会った。
「よう」
 と声をかけたら、会釈をされた。会釈って。
「何買ったの?」
 なんか悔しくて言葉を続ければ、ぽそりと
「水を」
 とだけ返され、背中を向けられた。
 この時も渡貫が、哀れに思ったのか肩を叩いて励ましてくれた気がする。
 それ以外も、チャンスがあるごとに狐坂に声をかけたが、差し障りなく返され距離をとられた。あのお気楽な渡貫に「もうつっかかるのやめなよ」と言われるくらい、相手にされなかった。
「なんでそんなに構うかね」
「…一度手に持った風船が飛んでったら、なんか気持ち悪いだろう」
「は?」
「なんでもない」
 子供の頃、小さいとき手に持っていた風船が何かの拍子に飛んでいってしまったことがある。今だったら、風船が飛んでいってしまう理屈はわかるけど、当時はどうしても理解できなくて三日三晩泣き続けた。なんで飛んでっちゃったの。どこにいったの。風船は今、なにしてるの。泣きわめき続け、親に何度も「仕方ない」「大丈夫」と諭された。でも。

 でも、風船だって本当は飛んでいきたくなかったんじゃないか。

 ちゃんと持っていてくれればよかったのに。なんて、風に責められているようで、たぶん俺はずっと泣いてたんだと思う。
 今度はちゃんと手放さないようにしようと心に決めたまま、高校生になった。もう風船を持つことはあまりないかもしれないけど、それでも飛んでいってしまいそうなモノには気を配りたい。
 狐坂とか。
 この勝手な心がけで、狐坂につっかかるのも変なのも分かっている。
 それでも、このまま卒業して大学生になって社会人になって同窓会を開いたとしても、きっと狐坂にはもう二度と会えない気がした。それは、やっぱり後味が悪い気がする。
 かといって、これは単なる俺の気持ちであって、狐坂には全く関係のないことだ。風船だって、本当は俺の手から解放されて嬉しかったのかもしれない。そう、狐坂にとってはいい迷惑なのかもしれないことを自覚しないといけない。
『今日も話しかけられた…うざ…』
 狐坂が影でそんなことを言っていることを想像して、ちょっとへこむ。
 春だから、なんだかそういうセンチメンタルな気分になりやすい。
 風船が飛んでいってしまったら、悲しいのは俺だけなのかもしれない。
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