日本人は苦労話が好きである

文字数 4,996文字

 「モデルになりませんか?」

 そんな風に声を掛けられたら──。

 即座に詐欺だと私は判決を下す。
 自分の事はよく分かっている、この見た目(ファサード)じゃ無理だ。何や、何のモデルや。印象に残りません選手権の代表モデルか。それとも、微妙過ぎてコメントし辛いですよモデルかい。ああ、しまった、怒りで(まなこ)が真紅に染まり、口から金色の触手がはみ出そうだ。
 だが、それでもこの台詞を私へ言い放った強者が居た。場所は東京、品川駅。
 あの日()私は迷子になっており、新幹線の改札を出た後、何度も同じ道を真顔で往来していた。
 そうそう、余談だが、私は方向感覚というものがどうにも鈍いらしい。大抵の場所において、グーグルマップ片手に迷子になっている。過去一番酷い迷子話は、やはり東京でのエピソード。私は田舎者故に、人や建物が多い場所に行くと十中八九プチパニックに陥ってしまう。右も左も分からなくなり、あまりにも同じ場所を彷徨っていると、ついにグーグルが仕事を放棄し、私を指し示す青い丸は亜空間へとワープしてしまった。懐かしのゲーム『Wizardry』的に言うと、「いしのなかにいる」という現象だ(分からない人はググってくれ、すまん)。
 もう無理だ、一体私はどこ?! 状態になり、ついに最終手段である通行人を捕まえるという、手汗の大量放出な暴挙に出た。
「す、すみません。と、東京駅はどこですか?!」
 田舎者丸出しである。呼び止められた相手は、一瞬目を見事なまでに真ん丸にし、それから完全に表情を消し去った後、こう答えた。
「ここです」
 ……そう。私は東京駅構内で東京駅を探していたのだ。んな訳あるかい、お前改札通ったんだから分かるだろ! と言われそうだが、もう東京って改札がいっぱいあるし、人の波にただただ押し流されて、これが噂のバミューダトライアングル?! みたいな錯乱状態になる訳ですよ。いや、これ本当に。
 と、まぁ、そんなお馬鹿話はこれくらいにしておいて。そうそう、品川駅をウロついていた時の話に戻るとしよう。
 スーツ姿の四〇代男性が、不意に私を呼び止めてきた。
「あのー、モデルというお仕事に興味はありませんか?」
 私は、スーパーポジティブな人間ではあるが、流石にこんな典型的な台詞に引っ掛かったりはしない。
(どうせ「先ずはモデルスクールに入って」とか言って高額の費用を請求してくるんでしょ)
 かなり冷やかな目を相手に向け、何一つ臆する事なく私はこう返答した。
「そんなことはどうでも良い。それよりも本屋さんを探しているので教えてくれ」
 唐突にお前は何言うとんねん! と心優しい方はツッコミを入れてくれたに違いない。相手の質問に全く答えて無い所か、質問返しかい、過去の私よ。
 だが、予想に反して相手はその要求に素直に応じてくれたのだった。
「そこを右に曲がったすぐのビルの中に入っていた筈ですよ……多分」
「そうか、助かった」
 こうして私は無事、品川駅で本屋に辿り着く事が出来たのでした。めでたしめでたし。


「……それは……それは良かったですね」
 ぎこちない笑顔を作り、私の愚蒙武勇伝を黙って聞いていた千尋さんが、ようやく言葉を絞り出す。
 ここは名古屋にある瀟洒なビル内の美容室。まだ二〇代前半だった私は、お給料を貰う様になって以来、すっかりファッションや芸術に目覚めてしまっていた。自分を着飾ることに給料を全力で注ぎ込む、若気の至り的な時代である。(今でも貧乏だが、この当時は栄養失調レベルで食に困っていたにも関わらず、だ)
 そんな私が見つけたこの美容室は、イサム・ノグチのアルミニウムテーブルなどデザイナーズ家具が店内を飾る、ちょうど覚えたてのアート知識を刺激してくれる最適な空間だった。
 美容室内にはスタッフさんが一〇名程おり、私はその中でも一際髪型も服装も洗練され、気品が溢れていた千尋さんという三〇歳前後のお姉さんを指名させて貰っていた。
「いやぁ、助かりましたよあの時は(詐欺扱いしたけどね!)」
 ドライヤーで縦横無尽に荒れ狂う髪に視界を遮られつつ、私は照れ隠しにへへっと笑ってみせた。
「でも川勢さん、本当にモデルというお仕事に興味はありません?」
「へ?」
 熱風が止まり、宙を自在に泳いでいた髪が重力によってすとんと下におろされる。
「実はヘアーショーが二ヶ月後に催されるんですよ。そこで、カットモデルを探していて。もし川勢さんが良かったらお願いしたいな、と思っていた所だったんです。勿論お礼はさせて貰いますよ」
「えっ」
 モデル ──何と恍惚とさせる響きだろう。駅で面識の無い人から言われた際は激しく警戒したが、憧れのお姉さんからとなると話は別だ。
「や、やってみたいです」
 私が返事をした瞬間、千尋さんの顔つきが豹変した。いつもの接客モードスマイルから、突如職人らしい隙の無い表情になっていた。
「ありがとうございます。では、まず今日からこのシャンプーを使って下さい、トリートメントはこちらで。あ、これはプレゼントしますので。それからドライヤーの使い方を説明しますね。ドライヤーは毛先には当てず、生え際に当てて下さい。頭皮付近には、余分な水分が溜まっています……」
「え、あ」
 次々と容赦無く出される指示に、何も考えず返事をしてしまった事をここで少々後悔し始めた。
(しまった、これは想像以上に大変そうだぞ。かなり高を括っていた)
 だが、本当の試練はこれからであった。
「──あと、髪では無いですが、絶対に太らない様にお願いします。用意した衣装が入らないと困るので」
 三〇分以上呼吸をする間も無い程、真剣なる面持ちで喋り続けた千尋さんが、ようやくふふっと笑顔に戻る。
「一気に説明しちゃいましたけど、大丈夫そうです?」
 いや、大丈夫では無い。もう怒涛の如く後悔の高波が私に覆い被さろうとしている。しかし、それなのに──。
「はい、大丈夫です」
 人は何故、全く自信の無い時に限って良い返事をしてしまうのだろう(私だけか)。
「ありがとうございます。では、明日の夜九時にお店に来て下さい」
「は?」
「まずは髪のコンディション改善から始めたいんですよ。ヘッドスパとトリートメントをしたいのでお願いします」
「……はぁ」
 それから、コンテストまで週に二度、私は閉店後の店を訪ね、髪質改善の施術を受けていた。ヘッドスパとトリートメントをタダでして貰えるならそんな有難い事は無いだろう、と思うかもしれない。しかし、仕事終わりに美容室へ足を運び、入念なケアと細かなカットに二時間程。日々のケアの指導に一時間。美容室から自分のアパートまで一時間。帰る頃にはすっかり日付が変わっているのである。勿論翌日には仕事があり、睡眠時間は三、四時間程度だったりしていた。もう週末には疲労困憊、憔悴し切った顔である。思えばこの頃から私は、睡眠時間を削り、他に当てるスタイルを現在まで貫いてきた気がする。
 さて、そんなスパルタケア通いも漸く終わりが見えてくる。ヘアーショーの三日前の事だ。ショーまでの三日間は毎日美容室に足を運んで欲しいと言われ、勿論私はその通りにした。この頃には、千尋さんの要求も過激さを増し、食事制限や使用する化粧品にまで指導をしてくる様になっていた。
「油物は出来るだけ抜いて下さい。あとお酒と糖分が高いものは浮腫みやすくなるのでそちらも控えて下さい。帰ったら半身浴を一時間程度お願いします。それから、このパック使って下さい。荒れた肌も見違える程艶々になりますから」
「あ、はぁ」
 微妙な返事をしつつ、だが、何故にここまでしなきゃならないのだろう、という感情は一切湧き上がらなかった。それは、彼女がそんな言葉を搔き消す程の気迫でヘアーショーに挑んでいると分かったからだ。私の髪を食い入る程に見つめ、枕等により擦れる部分には入念にトリートメントを施し、カットのフォルムをコンマ一ミリの域で修正する。そして私が帰った後、一人美容室に残り、マネキンでカットの練習をし、漫画喫茶でシャワーを浴びて、殆ど眠らずそのまま次の開店を迎えていたのだ。そんな話を他のスタッフさんから聞いてしまい、私はとてもじゃないが不平不満など言えなかった。千尋さん自身はそういう苦労話を一言も零さない、という部分もまた胸を打たれた。
「苦労話って何かの役に立ちます?」
 カラカラと明るい笑い声をあげ、彼女はさらりと答える。
「寧ろ、苦労するのは当然じゃないですか。頑張らなかった話なんて誰も聞いてくれない。努力をしてやっと自分の立ち位置が確保される。そして結果を残して、そこから他人に自分がして来たことを少しだけ話しても良いんじゃないかなって、そう思うんですよね」
 ずっしりと重みのある言葉に、私は何も返せ無かった。シャンプー台で千尋さんに髪を洗って貰いながら、静かに瞳を閉じる。
(果たして、私はここまで努力をしたことが一つでもあるだろうか。やり切ったなんて胸を張って言える事が学生時代にも無い気がする。私は、これ程の信念を持つ人と同じ場に立たせて貰える人間じゃない……このまま当日を迎えて良いのかな)
 そんな私の雑念を洗い流すかの様に、温かなシャワーが髪に注がれていく。
「偉そうな事を言いましたが、川勢さんが引き受けてくれたからこその話ですけどね。こうして頑張れるのも、自分一人では出来ない事ですから」
 泡がすっかり消える頃、私の頭の中もすっきりしていた。
「本番、私も頑張ります」
 フラットになっていた椅子を起こしながら、千尋さんが微笑む。
「嬉しいです、その言葉を貰えただけで今までの苦労が報われます」



 そうして、私と千尋さんは当日、大勢のオーディエンスを前にヘアカットを披露し、審査の時を待った。
 当日会場に着くまで、私はてっきり他の美容師さん達も一般の方に頼んでいるのだとばかり思っていた。しかし、いざホールに着いてみると、本職がモデルである方を起用している人が多く、最早どんなに素晴らしいカットを施しても私では見劣りするのは火を見るよりも明らかだった。
 結果、千尋さんのエントリーナンバーが呼ばれる事は無かった。会場を出る頃、いつの間にか初秋の空は赤々と染まっていた。衣装として着ていた半袖半ズボン姿では、ほんの少し風が冷たい。しかし、悔しさと申し訳なさではち切れそうな私にとって、有難いクールダウンとなった。
「千尋さん。ごめんなさい、私の所為で」
 カットの技術は素人の私が見ても、決勝まで進めると断言出来る仕上がりだった。にも関わらず、一次審査すら通らなかったのは、間違いなく私の問題だろう。
「川勢さん、謝らないで下さい」
 千尋さんは夕陽を見つめたまま答える。
「でも……」
「私は川勢さんにお願いしたかったんです。それをどうして謝るんですか」
 赤く染まった千尋さんの横顔は、逆光で表情が分からなかった。だが、きっと凛とした顔付きなのだろう、そう思える程に毅然とした口調だった。
「人の所為にするくらいなら、最初から努力なんてしません。そんな事、微塵も思っていないです。ただ、自分に腹を立てているんです。結果が出せなかった事は仕方ない。でも、それなのに、やっぱり悔しいんですよね」
「──あっ」
 千尋さんの瞳から、眩い輝きを放つ光が零れ落ちた。
「川勢さん、仕事ってね、本音はやりたく無いんですよ。出来たら遊んで暮らしたい。でも生きていく為にやるしか無い」
 うんと黙って私は頷く。
「やるしか無いからやっているのに、何故か頑張っちゃうんです。で、褒められると一日嬉しいんですよ。不思議じゃありません? 本当に嫌々やらされている事なら、褒められたって少しも嬉しく無い筈じゃないですか」
「確かに」
「私思うんですけど、仕事って金銭だけでなく、実は色んなものを与えてくれているんだなって」
 くるりと千尋さんが顔をこちらに向ける。その表情は笑顔だったが、頬には一筋の細い線が見えた。
「明日からも仕事、頑張りますか」
「はい」
 私達は悔しさを飲み込み、顔をくしゃくしゃにして笑った。
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