逢えないあなた

文字数 4,843文字

 何度か彼と一緒に訪れたことのある金沢に来ていた。以前なら遠いと思っていた金沢も、今では北陸新幹線が開通したおかげで、都内からでも気軽に来られる距離になっている。
 ホームに降り立ち、駅舎を出て金沢の街を一人歩いて行く。
 観光客が賑わいを見せるここは、とても活気づいていた。誰も彼もが笑顔で、つられるように自然と口角が上がる。ふと気がつくと、右手薬指にはいつの間にか綺麗な絹糸で織られた指輪がはまっていた。
 いつの間に……。
 見覚えのない指輪に心臓が跳ねる。自分で買った記憶はない。だとすれば、彼がくれたものなのだろう。彼からは、今までにも何度かサプライズがあった。内緒で貰ったプレゼントは、これでいくつ目だろう。
 私は彼を想うように、指にはまる繊細な柄を左手の人差し指と親指で優しく撫でるように触れた。

 この町のことは好きだ。浅野川の流れは、とても綺麗で淑やかで。全て見えているかのように透明でいて、圧倒的な流れを持つ。主計(かずえ)茶屋街通りでは、カフェを横目に川の流れる音を聞いた。
 彼と一度だけ、この茶屋街にあるカフェに入ったことがあった。その時、たった一杯の飲み物で、ちょっとした言い争いになった。彼はブラックがいいと言ったのだけれど、私はどうしてもカフェオレがいいと我を通したのだ。
 一杯の飲み物をめぐって小さな小競り合いをする私たちを、注文を受けるために待っていた店員が、とても怪訝な表情で見ていたことを覚えている。
 彼との小さないざこざも、本気ではないからとても楽しい想い出だ。
 記憶の波を漂いながら、薬指にはまるリングに触れる。真新しい絹糸の繊細な織り目模様に目を細め、彼との想い出のある兼六園に足を伸ばした。

 ひがし茶屋街でブラックコーヒーを飲みながら、僕は屈託なく話しかけてくれた店員さんに、兼六園にある時雨亭へ行くのだと話した。兼六園には、彼女との思い出があった。
 初めて訪れた時、彼女は歩き疲れたと何度か溜息を吐いていた。子供のように頬を膨らませながら疲れたと吐いた溜息は吐息のように艶めいていて、僕の心をハッとさせた。ここが観光地で人の目など気にしなくてもいい場所なら、僕は迷わず彼女を引き寄せこの胸に抱き寄せたことだろう。
 それが叶わなかったことが、未だに切なく、悲しい。
 園内にある時雨亭に入ったのは、そんな彼女の疲れを癒すためでもあったのだけれど。何より、彼女が庭園を眺めながら、真っ赤な敷物の上で抹茶と和菓子のセットを食べたいと切に願ったからだ。
 彼女がどうしてもここに来たかったのだと口角をあげ微笑む表情に、僕の心臓は高鳴りを抑えるのに苦労した。
 抹茶の苦味の中にある柔らかな口当たりと繊細な甘さがたまらず、僕たちは口にした後同時にほうっと感嘆の息をついて笑みを見せ合った。あんなに美味しい茶菓子に出会えることなど、そうそうあるものじゃない。
 時雨亭でのことを思い出すと、自然と頬が緩む。
 僕の右手にある加賀指ぬきは和裁の道具だが、昔着物を仕立てる針子たちが楽しんで作っていたものらしい。今では、三百種もの艶やかで鮮やかな絹糸で観光客の指を飾っている。一日に二つほどしか作ることのできない、とても貴重で繊細な工芸品だ。
 僕は、これをどうしても彼女にプレゼントしたかった。
 もうすぐ三十三歳なんて嫌だなと、厄年になる彼女が自分の容姿や何かを卑下するものだから、十分綺麗だと言ったのだけれど、どうやらお世辞にとられてしまったらしい。僕としては、本気でそう思っているし、彼女の色白で柔らかな肌を思い出せば、恍惚としてしまうほどなのだけれど、言葉だけでは彼女の不満は解消されないみたいだ。眉根を下げる顔は、僕にしてみれば子供のようでとても愛らしいのだけれど。
 加賀指ぬきは、三十三歳の女性の厄除けにもなるとお店の人から聞いていたから、僕は彼女に一番似合うだろう柄を時間をかけて選びに選んだ。店員のおばさんは、そんなに真剣にならなくてもと笑いながら呆れていたけれど、大好きな人にあげるのだから当然だ。
 喜んでくれるだろう彼女を想像するだけで、僕の心は言葉にできないほどの愛しい感情で満たされた。

 兼六園の前まで来て、足が止まった。想い出の地をめぐるなんて、未練がましい自分が急に浅ましく思えてしまった。
 ここには彼との愛しい想い出がある。園内を疲れるほどに歩いたあとに休んだ茶屋で、私と彼は和菓子と抹茶のセットに顔を見合わせ笑ったのだ。
 想い出に浸りながら、薬指にはまる指輪に視線を向ける。
 とても綺麗。
 彼はこれを、きっととても長い時間をかけて選んでくれたことだろう。私の知っている彼は、そういう人だ。
 左手で触れながら、彼を感じることはできないだろうかと目を瞑る。瞼の裏に浮かぶのは、太陽を受けぼんやりとした明るい闇だけだった。
 どれくらいそこに佇んでいただろう。中に入る勇気も出ず踵を返し、金沢城公園を抜け香林坊へ向かった。近江町市場でも見て歩こうと思ったのだ。
 近江町市場には、新鮮な鮮魚や青果を扱っているお店や日用品も売られている。以前、そこで買った活きのいい魚を買って、少し歩いた先にあるお店で捌いて出してもらったことがあった。金沢には、市場で買った鮮魚を持ち込むと、調理して出してくれるお店もあるのだ。
 彼と食べたお刺身は、本当に美味しかったなぁ。また行けたらいいのに……。
 逢えない彼のことを考え、気持ちが落ち込み疲れてしまった。
 カフェにでも入って少し休もう。
 近江町市場に向かっていた足をひがし茶屋街へと向ける。少し距離があるけれど、今はこの街の空気や自然に触れながら歩きたい気分だ。
 ひがし茶屋街へ向かおうと歩を進めたところで、一軒の店「毬屋」に目がいった。加賀友禅を織る絹糸を使って作られた工芸品店だ。手作りの毬やお針子たちが作った綺麗な指ぬきが売られている。
 店内に入り見て歩くと、目につくものがあった。
 これは……。
「加賀友禅を仕立てるお針子さんたちが作った指ぬきですよ。綺麗でしょう」
 店員のおばさんがそう声をかけて私を見てから、ちょっと驚いた顔をしたけれど、余り気にせず話を続けた。
「これと同じですよね?」
 驚く顔に向かって、右手薬指にはまる指輪を見せた。
「えぇ、……そうです……。そうですけど、あなたそれ……」
 店員のおばさんが訝しむような表情をして首を傾げているところへ、観光客が数名入ってきた。私のことが気になりながらも、おばさんはそちらの対応に向かった。
 再び、並ぶ指ぬきに視線をやる。
 こんなにたくさんの種類があるのね。この中から、彼は今私の指にはまる柄を選んでくれたのね。
 そう考えると、愛しくてたまらない。
 彼に、逢いたい……。
 彼を想うと未練の残る感情が激しく波打ち、目尻に雫がこみ上げる。それを人差し指でそっと拭う。
 どうして逢いに来てくれないのだろう。こんなにもあなたを思っているのに、どうして……。
 指輪なんてくれるくらいなら、ここへ来て欲しい。私に触れて欲しい。
 愛しさに胸を苦しくさせ、並ぶ指ぬきの艶やかさに視線を向けると「厄除け」という文字に目がいった。そこには、私がつけているものと似たようなウロコ模様で色違いのものがたくさん置かれていた。説明書きを読むと、どうやらこの柄は厄除けになるらしい。
「……こんなところにまで気が利いちゃうんだから」
 嬉しさとともに、いつだって私のことを考えてくれる彼への想いが益々募っていった。
 右手の薬指にそっと触れながら、私は工芸品店をあとにした。
 少しばかり時間をかけて、ひがし茶屋街に着いた。風情豊かで格式高いお茶屋が軒を連ねる通りを歩き、目に付いたカフェに入った。奥の方にいた店員の女性に一人です。というように人差し指を立てると、工芸品店のおばさんのように驚いた表情を向けられた。けれどすぐに表情を取り繕い、テーブルへと案内してくれる。
 メニューを開き、カフェオレにしようかと思ったけれど、彼のことを想いブラックにした。
「お店を気に入っていただけたみたいで、嬉しいです」
 店員の彼女は、注文を受けた後笑顔でそう言ってテーブルを離れた。
 気に入ったなどと一言も言っていないのに、意味が解らない。
 店員の言動に首を傾げながらなんとなく店内を見渡すと、斜め前のテーブル席には家族連れがいて、母親に甘えるようにしていた四歳くらいの男の子がこちらを見てにっこりと笑った。
「おねーちゃん。また来たの?」
 男の子は、親しげな態度で私に話しかけて来た。
 また?
 首を傾げ、表情が歪む。
 母親は、余計なこと言わなくていいの。と男の子の気をそらすようにしてあやし出した。
 さっきの店員といい、どういうことだろう。
 不思議に思いながらいると、コーヒーが運ばれて来た。
「時雨亭には、行かれたのですか?」
 先ほどの女性店員が、屈託なく話しかけて来た。
 時雨亭? 兼六園の中にある茶屋の時雨亭は、彼との思い出の場所に違いはないけれど。初めて訪れたこのカフェで、どうして店員がそんな話を振ってくるのだろう。
 まさかっ……。
「あの……、さっき来ましたか?」
「え?」
 私の質問に、店員の彼女は困惑した表情を浮かべている。それを見て確信した。
 彼は、ここへ来たんだ。
 私と入れ違い?
 今は、どこへ?
「あのっ。彼、兼六園の時雨亭へ行くと言っていたんですか?」
 私はコーヒーもそっちのけで、店員の彼女に掴みかからんばかりの勢いで訊ねた。
「えっと……。彼と言うか……お客様が先ほどそうおっしゃっていたので……」
「私……?」
 何を言っているのだろう? 私はこの店に初めて来たと言うのに、意味がわからない。
 理解できない話に、つい不機嫌な表情を彼女に向けると、怯んだように目を伏せテーブルを離れていった。
 一体何なのよ。彼がここへ来たのか訊ねただけなのに、私が言ったなんて。まったく意味が通じてないじゃないっ。
 イライラとしているところへ、不意に彼の気配を感じた。
「ミチカ、そんなに怒ったら美人が台無しだよ」
 突然聞こえてきた声に、驚きながらも一瞬で愛しさがこみ上げてくる。
「ケイゴっ。どうして……」
 あんなに逢いたくて堪らなかったケイゴが、すぐそばにいる。
「加賀指ぬきは、気に入ってもらえたかな?」
 ケイゴの声に満面の笑みで頷き、薬指にはまる指輪に優しく触れた。
「とても素敵。ケイゴが選んでくれたって思うだけで、愛しくてたまらない……」
 語尾は切なさに震え、愛しさに胸がいっぱいになっていく。
「今まで、どうして……」
「寂しい思いをさせて、ごめん。一人にするつもりはなかったんだ。けど、うまくいかなくて」
「うまく……いかない?」
 ケイゴの言葉に疑問を覚えながらも、逢えたことの嬉しさにそんなことはすぐにどうでもよくなった。
「いいの。またこうしてケイゴの声を聞くことができるのだから」
 私は、あまりの嬉しさに声が弾んだ。
「愛してるよ、ミチカ」
「私もよ、ケイゴ」
 私たちは互いの想いを熱く告げ、指輪にそっと触れた。
 近くのテーブル席にいた男の子が、母親と一緒にこちらをチラチラと見ている。母親の表情は、見てはいけないものでも見るように、頬が引き攣っている。
 きっと、私たちの仲睦まじい姿に嫉妬でもしているのだろう。
「ケイゴ」
「ミチカ」
 愛を確かめ合うようにお互いの名前を呼べば、嬉しさに涙が滲む。そこへさっきの男の子がこちらを指さし言った。
「ママ、あの人一人でしゃべって泣いてるよ」
「み……、見ちゃダメっ」
 母親の恐怖に歪んだ口もとから、抑えたような叱責が聞こえてきた――――。
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