第1話

文字数 1,311文字

ふらふらふら、と。
その男は、気が付けば40余年。
独身を貫いてきた、という言葉はあまりにも外面の良い言い方である。

優柔不断なだけ、他人の人生を預かる勇気がないだけ、とも言えてしまう。

貞操の固い女好き、ということなのだろう。
対象は未成年から還暦まで。
結び付いた例は少なくも、狙う女性は数知れず。

「気になるあの子ちゃん」と男は呼ぶが、友だち以上恋人未満と言うのかそんな存在がちらほらほら。

男は惚れた女にゃ簡単に手を出さない。
それを美徳とする男の心意気はどの程度伝わっているのか
恋は結び付くギリギリの地点が最も美しい。
何かを確定させた人間はやがて、隣にいる人の特別に麻痺をする。

そんな男の持論はどの程度伝わっているのか。

伝わったのか伝わらなかったのか、それでもそんな男にも近しい女性が出来た。
毎週のように電車を乗り継ぎ、食材を料理を抱えてやって来る10程歳下の彼女の名はハル、という。
2人でその料理を食べ、次の日にはその食材で男が腕を振るい、2人で食べる。
男のギリギリの生活を支えたのはハルだった。
ハルがいなければ男の生活は破綻していただろう。ハルには本当に助けられた。
アライグマを思わせる愛嬌のある見た目もあり、男はふざけてハルのことを「通い妻タスカル」と呼んでいる。

ここでひとつ問題がある。
男の「気になるあの子ちゃんリスト」のひとりにいる、アキという女性だ。
一年ほど前に訪れたカフェで出会ったアキに声を掛け、連絡を取り合うようになり、何度か会うようになったのだ。
最後に会ったのは唐揚げの美味しい居酒屋だったか。

かと言って、貞操観念の固いこの男は、やましいことはしない。
だからこそ、男はハルにもアキのことを、アキにもハルのことを話す。



ある週末。男は考えていた。
あ、今週はハルは来ないんだったなあ。

随分と失礼な話だが、自然とアキのことを思い出していた。
いつかの唐揚げ居酒屋で、キールなんとかというワインのカクテルが飲みたいと2軒目の話をしてきたアキを帰し、ハルのいる家に帰ってしまったことも。

そう言えば馴染みのバーが改装を終えた頃だ。
ハルとも行ったあの店で、酒を何杯も飲みたくなった。

「もしもしアキちゃん。今からひとりで飲みに行くんだけど、良かったら来てくれない?この街のいいバーを教えてあげるよ」

「あら珍しい。タスカルはいいの?」
笑いながら答えるアキに男は言った。

「タスカルと話したいけど、タスカルの話をしたい夜、ってのもあるもんだよ。キール…なんだっけ?ワインのカクテルを飲みたい夜もね」

「よくわからないけどまあいいわ。ちゃんと電車で帰りますからね」
アキのそれは多分本当だろう。

何杯飲もうとも、最後にマティーニをキメて酔っ払おうとも、それで性的な気分になろうとも、男はアキを誘うことはしないだろうという確信があった。
断られることが怖いのか、アキに失望されることが怖いのか。

後者であればいいな、と思いながら男はひとり、夜の街へと歩みを進める。

「春も秋もどっちもいい季節だからなあ」
そう呟いた男が新しく買った派手なスニーカーは街灯に照らされて玉虫のように見えた。

彼の恋も人生も。そんなに複雑な色で構成されている訳でもないだろうに。
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