米を食えない男

文字数 2,204文字

 いまのおれは米を食えない哀れな男である。正確に言えば「食わしてもらえない」。ことの発端はいつもの夫婦喧嘩だった。昨今の電気代高騰によりエアコンの使用を妻に禁止されている。「どうしても使用したいならもう二万円寄越せ」。

 少ないながらも金は毎月入れている。もう二万円も徴収されたら本も好きに買えない。Sルミエだけで暖をとっているがこんなのでは部屋が温まらず指が動かない。タイピングができない。在宅勤務なのに仕事に支障が出る。実際に出ている。ふつふつと怒りが沸いてくる。

「家長はおれだ! おれの好きにして何が悪い!」「好きにしたければもっと稼いで来い! この低能! 甲斐性なし! スカタン! ●●●●!」ありとあらゆる差別語とコンプライアンス違反用語を投げつけてくる妻との間にひと悶着あり、結局彼女の出した結論が「エアコンの使用は認める。その代わり米を食うな」。寒がりのおれは暖を取らないことには何もできないので、とりあえずエアコンを選んだ。 

 人間、水だけでも一週間は生きていける。米のことは後で考えよう。晩どき。妻は自分の分だけ米を炊き、さっさと飯を食って風呂へ入ってしまった。おれはコンロの上の鍋の蓋を開けた。菜っ葉と厚揚げの炊いたんがちょびっと残っている。冷蔵庫から卵を出し、鍋に落として卵とじにして食った。

 翌日、妻がパートに出たあと米びつの入った引き出しを開けた。こっそり炊いて食えばいいのだ。すると、米びつの上に物差しがある。……おれが米を盗んでいないか、米の高さを測るつもりなのだ。なんといういやらしい奴だ。この世にここまで根性の悪い女がいるだろうか。おれは骨の髄まで戦慄した。よしこうなったら本当にいっさい米は食わぬ。そうして、妻への当てつけに餓死してやろう。

「稼ぎが悪いので、米を食わせてもらえません。暖も好きに使わせてもらえません。この不自由から逃れたい。自ら命を絶つことは私の意志に反しますから、自然死、つまり食べない(・・・・)選択をいたします。これを自然死と呼ぶのかは判りません。しかし飢饉で苦しむ衆生を救わんと即身仏になられた真如海上人と同じ去り方を、と表現するのは大変おこがましいですが、選択できることを喜びと思わねばなりません。私が旅立ってもどうか妻を責めないで下さい。甲斐性なしの私がいけないのですから。そして私は幸福なのです。みなさん、さようなら」

 極悪非道と妻が皆からさんざんに罵られるように計算しPCで遺書をしたため保存した。だが死後、妻にみつかり削除される恐れがあるため「時が来たら」知人に郵送するつもりだ。

 餓死すると決心したので買いに行かないし、出前も取らないぞ。妻が作るごく少量の食べ物だけで最期の日まで命を繋くことにする。以前は食パンのストックが台所の棚の中にあったが、おれが食うのを見越してどこかに隠したらしい。なんたる糞忌々しい女だ。まあいいさ、おれは餓死するのだから、食パンなんか要らないよ。

 ああ、腹が減った……売れなくて貧乏だったころ「セロリ」や「パンを焼く」が出来た。腹がすいていたので食べ物の歌ばかりだったなあ、と、むかし山崎まさよしが語っていた。おれには彼の心情がよくわかる。おれも最近食べ物の話ばかり書いている。時代劇で米俵を金塊と同レベルに有難がっているのをぼけ~っと見ていたが、今、あの百姓の気持ちが痛いほどわかる。

 頭がよくまわらないのは極端に炭水化物をとっていないからだろう。餓死するのは本当にそのつもりだがとりあえずいま何か、炭水化物的なものを口に入れたい。妻はパートへ行った。あと3時間は帰ってこないはず。台所をあさっていたところ「三輪素麺」の箱を発見した。素麺か……おれは素麺は嫌いだ。うどんやパスタは大好物だが、素麺は細すぎて食べた気がしないのだ。しかし食い物はこれしかない。仕方なく茹でようとして、はたと気づいた。茹でるんじゃなく、揚げたらどうか?

 ちょっとおしゃれなバーで、パスタを揚げたやつがグラスなんかに入れられて出てくる。あれを素麺でもやってみよう。フライパンにゴマ油をひいて熱し、素麺を三等分に折って入れた。じゅうじゅう……菜箸でかき混ぜながら揚げる。香ばしい匂いが立ち昇る。
 ちょっとおしゃれなバーで、かつては色んな女の子と遊んだものだった。あの頃は結構モテたよなあ、おれ。あの中に、妻がいたのだ。ああ、おれは間違いなく最悪な選択をしてしまった。しかし時は戻らぬ。今さら離婚するエネルギーもない。エネルギー……そうとにかくおれは今、エネルギーをとらねば……こんがりきつね色に揚がった素麺を皿に盛る。

 つまんで食ってみる。うん。素麺の塩分がほどよくて、なかなか旨い。ベビースターラーメンみたい。おれが夢中で食っていると「ふうん、素麺って揚げてもいいのね」。背後の妻の声に驚いた拍子に揚げ素麺が喉にタテに刺さってしまった。「うぐっげほっ」「バーカ、私の留守中に盗み食いしようとするからバチが当たったのよ」

 それからおれは「揚げ素麺」ばかり食わされている。揚げ素麺の上に八宝菜を乗せたのとか(これは長崎皿うどんに似ている)、麻婆豆腐を乗せたのとか。果てはバニラアイスとあんこを乗せたやつとか。揚げ素麺に凝りだした妻の実験台にされている訳だが、相変わらず米は食わせてもらえない。ああ、揚げ素麺は飽きました。米を、食べさせてください。









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