第2話 怪物

文字数 5,300文字

 ワゴン車がどこをどう走ったのかは分からない。
 絵里は目隠しをされ、タオルで口を塞がれた為に助けを求めることもできず、震えて怯えるしかなかった。
 車が停まり、ドアが開く音がすると腕を掴まれて外へと引き出された。
 どうやら建物内に入ったらしいことは理解できた。
 緑の濃い匂い、湿った土の臭い。
そこから山か森の奥深い所に連れ込まれたことは分かった。
 そして、鉄の錆びた臭いと油の臭いから、ここが工場跡か何かだろうと推測できた。
 誘拐犯達は乱暴に絵里を地面に転がすと、目隠しと猿轡(さるぐつわ)を外したが、絵里は恐怖から悲鳴を上げることもできなかった。
「大人しいじゃねえか」
 絵里が周囲を見ると、5人の男達が取り囲むように立っていた。全員が黒い作業着に目出し帽の為、顔の判別はつかないが同じ意思で集まったグループなのは間違いない。
 年齢は20代後半から40歳くらいの中肉中背の男のよう。
 偉そうにふんぞり返っているリーダー格と思われる男だけは特に体格が良く、鍛えられた肉体をしているようだ。
 リーダー格の男はニヤリと笑うと、しゃがみ込んで絵里の顔を覗き込んだ。
「青山銀行の銀行員だな?」
 問われて驚くが、同時に納得する部分もあった。
「……お金。です、か」
 絵里は強張る顎を動かす。指摘は的を射ており、男達は欲望に満ちた下卑た笑いを浮かべる。
「だが、お前のチンケな財布や預金じゃねえぞ。銀行にしっかり蓄えられている金だ。銀行内の下見はできている。俺が知りたいのは内部構造や通報システム、そして金庫の暗証番号やセキュリティカード等がどこにあるかだ」
 そう言いながら、男は懐から4インチの回転式拳銃(リボルバー)・S&W M66/357マグナム6連発を取り出した。高威力の357マグナム弾が使用でき、更には軽量なKフレームを採用し携帯性に優れている為、アメリカの警察で広く採用された拳銃だ。
 絵里は本物を見るのは初めてだったが、重量を感じさせる所作から、それがエアソフトガンでないことは直感的に理解した。
 見れば、周囲に居る男達も武器を手にしている。
 全長65cmにもなるマチェットを持った男が2人。
 散弾銃(ショットガン)・Derya SS-TRI シングルトライが1人。
 短機関銃(サブマシンガン)・H&K MP7A1が1人。
 となっていた。
 男達が、あえて武器を手にして見せたのは、銀行襲撃が脅しではなく、本気であることを知らしめる為だ。
 絵里は息を呑む。
 こんな武装集団に銀行が襲撃されれば従業員だけではない。一般市民にも多くの犠牲者が出るだろう。
 絵里は思った以上に絶望的な状況にいることを認識し、背筋が冷たくなった。自分が何をするべきなのか分からなかった。銀行の機密を話せば解放されるのだろうか? それとも命を奪われるだけなのだろうか? どちらにしても自分の命の選択肢は自身にはないように思えた。
 絵里は必死に考えた。
 しかし、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。その間にも男たちの間にはイラ立ちが募っていき、緊張が高まりつつあった。
「おい。何とか言ったらどうなんだ」
 リーダー格の男は絵里の髪を掴むと、顔を引き寄せ睨み付けてきた。
 その迫力に圧倒されながらも、彼女は懸命に言葉を探す。
(何か言わなきゃ)
 そう思えば思うほど、頭の中が真っ白になり何も言葉が浮かばない自分に愕然とするばかりだ。
「ボス。女の口の割らせ方は、一つでしょ」
 マチェットを持った部下の一人がそう言うと、他の連中からも賛同の声が上がる。
 絵里は恐怖に震え、涙を流すばかりだった。
 リーダー格の男は、その様子に満足そうな笑みを浮かべつつ言った。
「そうだな。襲撃の月曜まで時間はある」
 すると部下の男は、マチェットをチラつかせながら絵里の前に立った。
 マチェットの刃先で絵里の首を撫でる。
 ゾクリとした感覚が全身に走り、鳥肌が立った。これから起こるであろう最悪の事態を想像してしまい恐怖のあまり声も出ない。
 それでも、震えながら懇願するしかなかった。
 震える声で、絞り出す。
「や、め……」
 それは懇願というよりも哀願であったかも知れない。もはや絵里には、それしかできることはなかったのだ。男はマチェットで絵里の胸を触る。乳房の感触を確かめるように上下に動かすと、絵里は耐え難い屈辱感に襲われた。
 絵里が顔を背けようとすると、頬を叩かれた。
 乾いた音が響き渡ると同時に頬に熱い痛みを感じた。殴られたのだと気づいた時には、口の中に血の味が広がり始めていた。口の端を伝うものがある。出血しており唇の端を切ったようだ。
 痛みよりも恐怖の方が大きかった。
 彼女の瞳からは大粒の涙が流れ落ちた。
 そんな様子を男は愉しげに眺め、絵里の服に手をかけた。
 生地が引きちぎられる音と共にボタンが弾け飛び、ブラウスの前が大きく開かれる。質素なデザインのブラに包まれた胸が露わになり、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「やめろ!」
 誰かが強く叫んだ。
 その場に居た全員の目が、廃工場の入口に集まった。
 黒のトレンチコートに赤いストール、黒いソフト帽を被った青年が居た。目深く被っているため顔は分からない。
「誰だテメエ!」
 リーダー各の男は、突然現れた正体不明の男の出現に動揺しつつも凄みのある声で言った。
理人(りひと)と言います。薬草を探していて不審な車両に気になって来ました」
 理人と名乗った青年の声は思いの外、若い。バカ正直さと場違いな雰囲気に、その場の空気が一瞬緩んだが、彼は絵里の姿に歯を食い縛り、男達を睨みつけた。
「その女性に、何をするつもりなんです」
 怒りを込めた口調だ。
 ()けられていたという事実に男達は焦りつつも、青年が武器を手にしていない事に加え、人数が一人という事を冷静に考える。
 余裕を取り戻したのか彼らはニヤニヤと笑う。
 男達は、それぞれ手にしている凶器を見せつけるように構えて見せる。マチェットという大型の刃物は見る者に本能的な恐怖を与える。
 だが、青年は怯むことなく、真っ直ぐに男達を見ていた。
 いや、正確に言えば睨んでいたと言った方が正しいかもしれない。
 男達は、帽の奥にある眼光に気圧され、一瞬ではあるが身を固くしたが、すぐに気を取り直したように笑い出す。彼らの優位は揺るがないのだから当然だ。男達は再び余裕を取り戻す。
「バカかお前。嬲り回すに決まってるだろ」
 その言葉に呼応するように周囲の男達が一斉に笑った。
 理人は心を落ち着かせるように目を伏せた。
「……交尾は子孫を残し次の世代に命を繋げる行為です、人間は単にそれだけには留まらない。そこに相手を思いやり慈しむ心、愛がある。結婚をし生涯愛し抜くと誓って人は生まれた愛の結晶だ。なぜ人を傷つける行為にしようとするんです」
 淡々とした口調で語られる言葉に、男達は戸惑いの表情を見せた。だがそれも一瞬のことですぐに憤怒の形相へと変わる。
 リーダー格の男は大きく舌打ちをするとS&W M66の銃口を向けた。理人の胸にポイントを決める。357マグナムという反動の大きい銃弾だが、男は海外で射撃訓練をしたことがあるだけに、動かない標的なら10mの距離でも命中できる自信があった。
(死ね!)
 心の中で叫びながら引き金(トリガー)を引いた。
 オレンジの発火炎(マズルフラッシュ)と共に銃声が轟き、357マグナムが理人の胸を射ち抜いた。彼の身体は後ろに吹き飛ぶようにして倒れた。
 銃声と殺人を目撃したことで、絵里は思わず悲鳴を上げたが、その声は喉の奥で詰まったかのように途切れてしまう。胸の動悸が激しくなるのを感じた。心臓の音が耳の奥で大きく響くような錯覚を覚えるほどだ。
 だが、次の瞬間には別の意味で鼓動が跳ね上がった。
 それは男達も同様だ。
 地面に倒れ伏していたはずの理人が、ゆっくりと立ち上がったのだ。
「……バカな!」
「防弾チョッキでも着てるのか!?」
 男達は口々に驚く。
 その間に理人の身体が小刻みに震える。
 彼の体が不自然に膨れ上がり始める。トレンチコートとマフラーを自ら剥ぎソフト帽が落ちる。
 引き締まった肉体が露になるが、人間の肉体ではない。
 全身は暗い飴色の皮膚で覆われており、まるで固い鎧のように筋肉が浮き上がっている。異様に発達した肩と胸部は、人間の枠を超えた力強さを秘めていたが、人型を踏まえながらもグロテスクに歪んでいた。
 腕は太く、鋭い爪を持つ手が特徴的だった。その爪はまるで獣のそれのようで、一度でも触れれば致命傷を与えかねないほどの鋭さを持っている。脚もまた強靭で、まるで猛獣のような足でしっかりと地面を捉えていた。
 最も気味の悪いのが頭部だ。頭に頭髪は無くつるりとした禿げ頭でありながら腫瘍のようなものが蠢いているように見える。
 そして、その双眸は人間と呼べるものではなかった。目に瞳は無く、釣り上がった眼窩が赤く輝いているだけだ。鼻梁は無く口は大さく裂け、唇は無い。口は歯茎を見せ付けるように開かれ、そこから覗く牙は長く鋭く尖っていた。
 その姿は正しく怪物と呼ぶに相応しいものだった。
 その姿を目の当たりにした者達は皆一様に言葉を失った。驚きのあまり呼吸すら忘れてしまっていたのかも知れない。それ程までに異形の姿を見せた青年は圧倒的だったのだ。
 怪物は低い(かぐわ)しい吐息を流す。
 その気息は触れた周りの植生が次々と枯れ落ちていくかのような、凄まじい威圧感があった。
 リーダー格の男は我に返ると慌てた様子でS&W M66を向ける。
「う、射て!」
 それを合図に、Derya SS-TRI シングルトライとH&K MP7A1が吠える。
 爆発音と速射音。
 無数の銃弾が雨あられの如く降り注ぐが、弾丸は全て弾かれる。着弾と同時に火花が飛び散るものの、それがダメージを与えているのかどうかも分からない。
 その光景を見て全員が愕然とする。
 次の瞬間、怪物は舞った。
 巨体であるにも関わらず、重力から開放されたかのような身のこなしで宙を舞い、瞬時に間合いを詰めてきたかと思うと長い腕が動いた。
 振り下ろしす。
 Derya SS-TRI シングルトライを持つ男の頭が、亀が首を引っ込めるように胴体にめり込み、目玉が飛び出す。
 1人目。
 怪物は間髪を入れず、爪で横に薙ぎ払った。
 H&K MP7A1の男の下顎から上が吹っ飛ぶ。むき出しになった下顎が覗き、血塗れの舌がダラリと垂れ下がった。
 2人目。
 残された3人は慌てて後退しようとするものの、怪物に瞬く間に距離を詰められる。
 一人が堪らずマチェットを振り上げると、怪物はそれに応じて男の腹に拳を叩き込む。まるで自動車に衝突されたかのような一撃。
 怪物の拳は男の腹を貫通し、背中まで突き抜けた。
 背骨と共に臓物が散る。
 3人目。
 怪物は、そのまま男を持ち上げるようにして腕を振ると、死体を、もう一人のマチェット男に目掛けて投げつける。
 二人は折り重なるようにして倒れるが、一人はまだ生きている。
 倒れ込んだ男は、死体を動かそうとするが重くて動かない。
 そこに怪物が、そびえ立つ。
「や、やめ……」
 男が発した言葉は、男が絵里に言わせたものと同様のものであったことは皮肉でしかない。怪物は右脚を浮かせると、男の胸を踏みつけた。肋骨が砕ける鈍い音が聞こえ、男の顔中の穴から血が飛び出す。
 4人目。
 リーダー各の男は、S&W M66を怪物に向かって連射する。恐怖で震える精神では357マグナムが当たるハズもなく、5発の銃声の後、撃鉄(ハンマー)の虚しい金属音が連続した。銃弾が尽きたことを意味した。
 そこに暗い影がのしかかる。男の顔色に絶望の色が浮かんだ瞬間、怪物の手が男の首を掴んだまま釣り上げる。
 凄まじい握力で頸動脈を圧迫されたかと思うと、男の首は小気味よい音と共に、花の茎を折るように項垂れた。
 5人目。
 最後の1人が物言わぬ骸となって地面に転がったとき、辺りは静寂に包まれた。男達の血飛沫で真っ赤に染まった廃工場に怪物だけが立ち尽くしていた。
 怪物の目が絵里を見る。
 絵里は震えていた。
 半開きの唇からはヨダレを垂らし、焦点が定まっていない目で怪物を見つめていた。その瞳には何も映っておらず、ただ虚空を見つめるだけだった。
 そんな絵里に怪物はゆっくりと歩み寄る。
 一歩一歩踏み出し、距離が縮まっていく度に絵里の顔は引きつっていった。呼吸が荒くなるにつれて身体が震えだすのが分かる。心臓の鼓動が激しくなりすぎて今にも張り裂けてしまいそうだ。
(助けて……誰か!)
 心の中で叫び続けるも誰も来ないことは分かっていた。それでも叫ばずにはいられなかったのだ。
「来ないで化け物!!」
 その瞬間、怪物の動きが止まった。
 怪物は血に染まった両手を目に映す。
 両手は震え始めるとマグナムでさえ通用しなかったにも関わらず、絵里の叫び声一つで動きを封じられた。
 怪物は咆哮を上げる。
 それは慟哭にも似ていた。
 怪物は絶叫しながら、頭を抱えてうずくまる。
 まるで何かに怯えている姿は、小さな子供のようであった。
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