第3話(終) 心赴くままに

文字数 4,199文字

 山の中腹に佇むその館は、長い年月を経てなお威厳を保ち続けていた。
 古い石造りの基礎は苔むし、館の壁には蔦が絡みついているが、その風情が逆に荘厳さを引き立てている。
 館の全体像は陰鬱とした霧に包まれ、まるで過去の記憶に覆い隠されているかのようだ。
 その館の一室。
 薄暗い部屋の中、古びた木製のベッドに一人の老爺(ろうや)が静かに横たわっていた。
 老爺の肌は、長い年月を刻んだ深い皺で覆われ、色は蝋のように黄ばんでいる。白髪は薄くなり、頭皮が透けて見えるほどだ。
 眉毛もまばらで、瞳は薄い灰色をしており、その奥には、かつての鋭い知性と現在の疲れが共存している。
 彼のまぶたは半ば閉じられており、まるで夢と現実の狭間をさまよっているかのようだ。
咳込む。
 それが激しさを増す。
 老爺は自分の手が真っ赤に濡れていることに気づいた。
 そして、それが自らの吐血のものであることも理解していたが、不思議と慌てることはなかった。むしろ心地良さを感じていたくらいだ。もう長くないことを悟ったのかも知れない。
 いや、あるいはすでに死を受け入れているのか──彼はそんなことを考えたりもしたが、すぐにどうでも良くなったのか思考を止めた。
 その表情とは裏腹に、彼には死の足音が迫っていたのだ。
 すると、部屋の扉が開かれた音がした。
 老爺は目だけを向ける。
 闇の中で異形の影が立っていた。
 誰かは聞かない。
 分かっていたからだ。
「お帰り、理人」
 その声は優しく、慈愛に満ちているように思えた。
 すると闇の中から、一人の怪物が姿を現す。
 それは絵里を危機から救った者だ。
 そのおぞましく醜い姿を見ても老爺は驚かない。むしろ安心するかのようである。
 だが理人と呼ばれた怪物は、折れるように膝をつき両手で顔を覆った。嗚咽を漏らしながら体を震わせるその姿は懺悔をする罪人のようでもあった。
 その様子を見た老爺の顔に哀しみが浮かぶと、そっと手を伸ばして背中を撫でた。子供をあやすような優しさに満ちた手つきだ。
 やがて怪物の瞳から涙がこぼれ落ちるのを見て取ると、今度は慈母のような微笑みを浮かべるのだった。
「どうした?」
 老爺の問いかけに、理人は老爺の症状に効きそうな薬草を探していたところ、妙なワゴン車を見つけたことで追跡をしたこと。男達が銀行襲撃の為、女性銀行員を拉致し暴行を加えようとしていたことを話した。
 それを聞いた老爺は、人間の持つ欲望と醜さに嘆息した。同時に理人から漂う血の匂いに、男達がどうなったかを理解する。
「なぜ人間は虐げようとするのだろう。いや、それが人間なのか……」
 老爺は咳き込むと、理人は気遣う。
「……ワシのことはよい。そこで何かあったのじゃな」
 理人は問われ話した。
「男達は武器を持っていました。僕は女性を救う為に戦い殺しましたが、女性は僕の姿を見て、化け物と……」
 理人は、それ以上の言葉を続けられなかった。
 彼は理解していたのだ。
 自分の容姿が、人から忌み嫌われるものであるということを。
 そして、彼自身もまた、自分自身の姿を疎ましく思っていた。
「……お父さん。どうして僕は、こんなに醜いんです。男達は女性の尊厳を奪おうとした卑劣漢です。でも、女性は彼らを化け物と罵らなかった。彼女を救うために、戦った僕を……」
 理人は頭を床に叩きつけるようにして泣き崩れた。床板が割れ破片が飛び散るほどの力であったが、痛みなど感じなかった。それほどまでに心が傷ついていたのだ。
 その様子を見た老爺は、彼の手を取ると言った。
「……すまない。全ては、私が悪いのだ」
 老爺は、自分の過去を話す。
 彼には家族がいた。
 美しく優しい妻と、愛しい息子達だった。
 愛する存在が居ることに老爺は幸せを感じていたし、また、彼らも同じように感じていただろう。彼らは互いを愛し合い、幸せな家庭を築いた。
 しかし、ある日を境にして全てが一変した。
 戦争によって最愛の家族を失ったのである。
 それ以来、この館に移り住んでからは誰とも会わず孤独な日々を送ってきたのだ。
 一人、答えの出ない毎日を過ごす中、老爺の中に家族を失った理由を考えた。
 戦争が起こっても同盟国も隣国も国連も誰も、老爺が住んでいた国と地域を助けてくれなかった。民族こそ違えど、同じ人間で言葉を話し気持ちを共有できるにも関わらず、なぜ自分達だけ見捨てられたのか。
 そう考えるうちに、一つの結論に至った。
 人間の心に正しい心、《正義》が無いことに。
 人間でありながら人間に失望した老爺は、新しい人間を作ることにした。正しい心を持った理性のある人間を作り出すことで世界を正そうとした。
「錬金術師であったワシは、ホムンクルスの技術を応用した」
 老爺は、自身が行った長く苦悩に満ちた研究に日々を思い出した。

【ホムンクルス】
 16世紀の錬金術師がフラスコの中で生み出した小人型人造人間。
 蒸留器に人間の精液を入れて40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれる。
 それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人ができる。
 ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さい。
 一説によるとホムンクルスはフラスコ内でしか生存できないというが、成長するとあるものは巨人にも、またあるものは小人にもなるという。
 医師パラケルススは、何人ものホムンクルスの生成に成功したとされるが、彼の死後、再び成功した者はいないとされる。

 老爺は続ける。
「私は、何人ものホムンクルスを作り失敗した。正しい心を持つ人間を作ろうと、何十年という歳月を費やし諦めかけていた。その果てに誕生したのが、理人。お前だ」
 理人は面を上げた。
 その目は涙で濡れている。
「あらゆる心理テストを行った結果、お前は花を慈しみ、死に嘆き悲しみ、虐げられる存在を守ろうとする心を持っていることが分かった。……私が求めていた、正しい心持った人間だ」
 そう言うと、老爺の瞳からも一筋の涙がこぼれた。
 だが、理人は自分の手と身体を見つめる。
 ガラスを凶器にしたような爪に、鉄球すら握り潰せるほどの筋肉がついた腕、そして爬虫類と鬼を混ぜたような身体。
 ──これが自分なのだと思い知らされる。
「でも、僕は醜い怪物だ」
 彼の言葉に、老爺は苦悩する。
「……許してくれ。全ては、私が人間を憎悪した故の罰だ」
 老爺は己の罪を悔いた。
 正しい心をもつ人間を追い求めてはいたが、人間に絶望した老爺は人間という姿を憎んでしまった。その憎しみこそが彼を人では無い姿に変えてしまった。
 それはまるで呪いのように。
 理人は、そんな老爺を哀れんだ目で見ると、そっと手を取った。
 そして、その手を自分の顔に押し当てる。
「……何を許せと言うのですか。僕は確かに作られた存在です。男女の愛によって生まれた存在ではありません。しかし、僕は確かに愛されています。お父さんに」
 理人の涙が老爺の手を濡らした。
 それは温かく心地の良いものだった。
 そんな理人を、老爺は優しく抱きしめた。
 理人(リヒト【Licht】)という名は、理性のある人という思いと共に、ドイツ語で「ひかり・あけぼの・希望」の意味からきていた。
 老爺にとって彼は、まさしく希望の光であった。
 すると老爺は呼吸を乱す。苦しそうに咳をすると喀血した。老爺の様子に理人は動揺を隠せなかった。
「お父さん、お父さんダメだ死んじゃ嫌だ……」
 その言葉に老爺は再び涙を流すと微笑むのだった。
 理人の姿は、この世にある人間の醜悪を体現しているかのようだった。それはつまり人間が持つ醜さの象徴でもあったのかも知れない。
 だが、そこにある心は誰よりも純粋であった。
「お父さんが死んだら、僕は一人になる。どうしたらいい? 何をして生きていけばいい? 教えてください! 僕に生きる意味を!」
 泣き叫ぶように訴える理人に、老爺は言った。
 その声は弱々しかったが、しっかりとした口調で語りかける。
 彼は、自分が死ぬことで理人の心を傷つけてしまうことを理解していたのだ。だからこそ、彼は言った。
「……心赴くままに生きなさい」
 老爺の声はかすれ、最後の力を振り絞るようにして放たれた。
 その言葉が部屋の静寂に消えると同時に、彼の体は理人の腕の中で重たく沈んだ。理人はその瞬間、まるで世界が崩れ落ちるような感覚に襲われた。
「お父さん……」
 理人の声は震え、涙が頬を伝って落ちた。
 老爺の顔は穏やかで、まるで長い旅路の終わりにようやく安らぎを得たかのようだった。その姿を見つめる理人の胸には、深い喪失感と絶望が押し寄せてきた。
 理人は老爺の冷たくなりつつある手を握りしめた。その手はかつて彼を導き、支え、温かさを与えてくれた手だった。
 だが、今その手はもう動かず、理人の握り返すこともなかった。
 理人は声を上げて泣いた。
 涙は次から次へと溢れ出し、止めどなく流れ続けた。
 彼の心には、これまでに感じたことのない孤独と絶望が広がっていった。唯一の家族を失った現実が、彼の心を容赦なく引き裂いていった。
 老爺との思い出が次々と蘇り、彼の心を揺さぶった。
 一緒に笑い、一緒に泣き、共に過ごした日々。
 老爺の優しい笑顔、厳しい言葉、そして無限の愛情。それらが一瞬にして遠い過去のものとなってしまったことが、理人の心に重くのしかかった。
 理人は老爺の胸に顔を埋め、声を出して泣き続けた。彼の体は震え、その涙は老爺の胸に広がっていった。その涙は理人の深い悲しみと、愛する人を失った苦しみの象徴だった。
 時間がどれほど経ったのか、理人には分からなかった。
 ただ、彼の中で何かが壊れ、何かが変わっていくのを感じた。老爺の最期の言葉が、彼の心の中で静かに響き続けていた。

 心赴くままに生きなさい

 その言葉は、老爺が彼に託した最後の願いであり、理人がこれから生きていくための唯一の道しるべだった。彼は涙を拭い、老爺の顔を見つめた。彼の心の中には、深い悲しみと共に、新たな決意が芽生えていた。
「お父さん、僕は……あなたの言葉を胸に、前を向いて生きていきます」
 理人は静かに呟いた。
 その言葉は、彼自身への誓いであり、老爺への最後の約束だった。
 涙に濡れた瞳の奥には、悲しみを乗り越え、新たな未来を見据える強い意志が宿っていた。
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