文字数 11,960文字

 ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠

八月四日、東京は大型で強い勢力を持つ台風に見舞われていた。
 星彦は上下雨合羽の完全防備で出勤したほど、風が強くて傘もまともにさせなかったのだ。
 とはいえ、天気予報は星彦にとって心地良く響いた。
『台風○号は今後、太平洋岸に沿って進む見込みですが、西から高気圧が張り出してきており、今夜半には太平洋へ抜け、明日は台風一過の晴天となりそうです』

 明日の天気さえ良ければ、今日などどうでもいいのだ。

 指輪もバッチリ用意してある。
 宝飾仕入れ担当と売り場のベテランが吟味してくれたもの。
 今時、『月給の三か月分』はオーバーらしいが、星彦の予算はきっちり三か月分、しかも社員販価格での三か月分だ。
 むやみに大粒ではないが、青みがかって見える最高ランクのダイヤ、控えめでシンプル、気品あるデザイン。
 売り場の、沙織と年齢の近い店員いわく、『こんなの贈られたら、その場で卒倒しそう』だそうだ。
 
 さすがにデパートの客も少なく、星彦は定時に……と言っても、夜九時だが……にデパートを出て東京駅に向かった。
 今夜中に仙台まで行って、明日は朝から沙織と二人で七夕前夜祭を楽しみ、夕刻、広瀬川の花火を見ながら指輪を渡す……完璧なストーリーを組み立てているのだ。
 女性にとって、プロポーズは一生の記念、しかし、男にとってもやはり一生に一度の晴れ舞台なのだ、できるだけロマンティックに想い出深いものに、そして格好良く決めたいではないか、その演出を考えるは男の役目であり、特権でもある。
 いつもはカモノハシに見える東北新幹線の車両も、今夜ばかりは天の川に橋を架けると言うカササギの嘴に見える。

 ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠

21:44
 星彦を乗せたやまびこ233号は、まだ強い風雨の中、東京駅を滑り出した。
 二時間ほどで仙台駅に到着する……はずだった。

23:00
 車内販売の弁当で遅い夕食を済ませ、二本目の缶ビールのプルトップを開けた時、突然、車内の明かりが消え、非常灯に切り替わった、そして列車はスローダウンし、ゆっくりと停車した。
 非常用電源を使用しているのだろう、すぐに車内アナウンスがあった。
「お急ぎのところ大変申し訳ございません、当列車は新白河~郡山の中間地点を走行中でございましたが、台風の影響で福島県の広範囲にわたって停電が発生しております、復旧まで今しばらくお待ちください」
「ちぇっ、ツイてないな……」
 星彦はそう舌打ちしたものの、そう腹は立たなかった。
 そもそも、停電なら電車が動けないのは仕方がないし、まれに見る強風の台風だったそうだから停電も仕方がない、どうせ今夜は駅前のビジネスホテルで独り寝するだけだ、1時間やそこら遅れたところでたいした問題ではない。
 星彦は残りのビールを飲み干す……すると猛烈に眠気が襲って来た。
 ここのところ仕事が忙しかった上に、明日、明後日と有給を取るためにいつも以上に忙しく働いた、その疲れが出てきたのだろう。
 幸い、夜遅い便の上に台風とあって車内はガラガラ、多少寝心地は悪いものの、三列シートを独り占めすれば横になることも出来る。
 上着の内ポケットには大事な指輪、星彦は上着を脱ぐと、指輪を取り出してズボンのポケットにしまった、ここならば眠り込んでも盗られてしまうような心配もないだろう、それにこの列車の終点は仙台、寝過ごすような心配もない……。
 星彦は靴を脱ぐと体を横たえた。
 
 外はまだ猛烈な雨風……そろそろ東京は雨も上がっている頃、星彦は台風に合わせるように北上しているのだ。
 しかし、この様子なら天気予報は当たっているはず、ならば明日はカラリと晴れ上がりそうだ……そんなことを考えているうちに、星彦は眠りの中に落ちて行った。


翌朝 6:05
 窓から差し込む強い日差しで目を覚ました。
(あれ? ここは? 僕はどうしてたんだっけ……)
 しばらくグルグル回っていた意識が、こよりを縒るように一本にまとまった。
「冗談だろ? まだ動いてないのか?」
 眠っている乗客も多いせいか、車内アナウンスは使わずに乗務員が一人ひとりに説明して回っている。
「あ、すみません、今目覚めたんですけど、まだ動けないんですか?」
 星彦は車掌を捕まえてそう尋ねた。
「まことに申し訳ありません、停電はまもなく復旧する見込みと言う情報は入っているのですが……」
「他にも問題がありそうな口ぶりですね」
「重ねて申し訳ありません、夕べの風で架線がかなりやられてしまいまして……」
「いつ頃動けそうなんですか?」
「重ね重ね申し訳ありません、全力で復旧に当たっておりますが、なにぶん、あちらこちらで断線してしまっているものですから、まだなんとも……」
「全然見込みは立たないと?」
「まことに申し訳ありません」
 車掌は穴があったら一瞬で逃げ込んでしまいそうに恐縮している、正直、腹は立っていたが、この車掌を責めたところでどうにもならない。
「困ったな……大切な約束があるんですよ」
「ただ今、郡山駅へバスでピストン輸送をしております、もしよろしければそちらに」
「ああ、東北線は動いているんですね?」
「それが……」
「ええっ? 動いてない?」
「新幹線より架線が古いので……」
「ずたずたなわけね……郡山に行ってもどうにもならないってこと?」
「東北自動車道は被害を受けておりませんので……しかし、列車が動けないので混雑しているようで、仙台までですと二時間ほど……」
「なるほど……」
 通常、郡山ICから仙台宮城ICまでなら一時間ちょっと、しかし二時間なら昼前には楽々到着できる、いつ動き出せるか判らない列車に身を任せるよりも……。
「次は何時ごろバスが来ます?」
「なにぶん、列車が動いておりませんので道路も混んでいるようでして、片道に30分かかっております、次にこちらに到着するのは30分後くらいかと……」
「次のバスに乗れますか?」
「大変申し訳ありません、二回分は既に満席に……」
「ええっ! そんなに? バスを増やせないんですか?」
「手配はしているのですが、なにぶん東北線の方も動いていないものでバスの数が不足しておりまして……」
「ああ……それを言っても始まりませんね……三回目のバスには確実に乗れますか?」
「はい、この整理券をお持ちいただければ間違いなく」
「到着したらアナウンスはあります?」
「はい、必ず」
「わかりました、バスを待ちましょう」
 星彦はスマホを取り出すと、沙織にメールを打った。
 本来なら電話で直接話したいところだが、まだ朝が早い。
(停電で新幹線が止まってる、架線切れもあるようだから、振替バスで郡山に向かって、高速バスに乗るつもり、着く時間がわからないから家で待っていてくれる?)
 すると、既に起きていたらしく、すぐに返信があった。
(ニュースで見たわ、気をつけて、無理しないでね)
 こんな状況にあっても沙織と繋がっていると思うと顔がほころぶ。
(ありがとう、また連絡するね)
 そう返信して、再び横になった。
二時間待ちと言うけど、ひょっとしたら新幹線が動き出すかも知れないじゃないか、だったら無闇に動くより良いかも知れない、そう自分に言い聞かせて。


9:12
 ようやく振替輸送のバスに乗り込んだ。
 それまでに架線が復旧するのではないかと言う淡い期待は、結局期待止まりに終わり、役目を果たせないカモノハシも心なしかシュンとしているように見える。
 車掌の説明どおり、道路はかなり混んでいて、バスはのろのろとしか走れない、仙台行きの高速バスを検索して見ると、次の便は9:40とある、この様子だと間に合うかどうかやきもきする、土地勘があるわけではないので、今どの辺りまで来ているのか判らないだけになおさらだ。

 案の定、郡山に着いた時には十時を少し回っていた、次の高速バスは十一時ちょうど。
 ここで一時間も無駄にしたくはない、何しろ沙織との記念日になるべき日なのだ。
 この数ヶ月というもの、頭の中で綿密にストーリーを組み立て、スケジュールを確認してきた一日なのだ、一時間遅れれば一時間分のストーリーとスケジュールが霧散してしまう。
 バスが駅前ロータリーに到着する寸前、レンタカー屋の看板が目に止まった。
 あれだ! バスよりもスムーズに仙台につけるはず、多少金は余計にかかるが、今日と言う日の一時間は金に代えられない、プライスレスの一時間なのだ。

 星彦は、バスを降りるなりレンタカー屋に走る。
 その星彦とすれ違うように、ちょっと古ぼけた小型車がレンタカー屋の駐車場から滑り出す……嫌な予感がした……。

「申し訳ありません、たった今最後の一台が出てしまったところでして……」

 悪い予感と言うのは得てして当たる……。
 星彦はとぼとぼと駅に向かい、高速バスのチケットを買った。
 とりあえず十一時まではどうすることも出来ない……。
 ガッカリすると同時に空腹を覚えた、そういえばまだ朝食を摂っていない。
 きちんとした食事をするには時間が半端な上に、たいていの食堂は十一時開店。
 星彦はハンバーガーショップに入ると、沙織に電話をかけた。

「もしもし」
「あ、星彦さんね? 今どこなの?」
「郡山の駅前、次の高速バスは十一時なんだ」
「そう、大変だったわね」
「遅れてごめん」
「そんなことないわ、星彦さんのせいじゃないもの、私は家で待ってるから気にしないで」
「うん、でも昼過ぎには着けると思うよ」
「大丈夫、何時までだって待ってる」
「ありがとう、じゃあ、また後で」
「ええ、また後で」

 かなり落ち込んだ気分だったが、沙織と話すと少し元気が出る。
 星彦はハンバーガーを食べ、アイスコーヒーを飲み干すとバスターミナルに向かった。

 そのころ、皮肉なことに、星彦を仙台まで送り届けるはずだったカモノハシは再び活力を得て線路の上を滑るように走り出していた……。


11:00
 星彦を乗せた高速バスは定刻どおりバスターミナルを発車した。
 なんだか『定刻どおり』に無闇にほっとした気分になって、ちょっと可笑しくなった。
 まあ、多少混雑しているにせよ、このバスが自分を仙台駅まで送り届けてくれるのだ。
 仕事柄、交通機関は色々と利用するが、自分が移動しているのではなく、乗り物に送り届けてもらっていると言う感覚になったのは子供の頃以来かも知れない。

12:15
 バスが走り始めて一時間ほど、福島飯坂ICを過ぎたあたりでしばらく新幹線と併走する。
 と、快調に走る新幹線が眼に飛び込んで来る。
「マジかよ……無駄にあがいちゃったな……」
そうつぶやいて、沙織にメールを打とうとスマホを手にした瞬間だった。
 追い越し車線をタンクローリー車が猛スピードで走り抜けて行く。
 一瞬、バスが引き寄せられたほどだ。
(危ねーなぁ……)
 そう思った瞬間、前を走っていた幌付きトラックが吸い寄せられる。
「あっ!」
 そう叫んだのは星彦ばかりではなかった。
 やたらと空気抵抗を受けそうなトラックはバランスを失い、タンクローリーと接触、二台がもつれ合うように横転したのだ。
 キィィィィィ!
 バスは急停車、乗客の誰もが緊急事態を感じる急ブレーキだった。
「タンクローリーからガソリンが漏れ出してる! 逃げて下さい! なるたけ遠くへ逃げて! 爆発する!」
 運転手の叫び声は緊迫感に満ち満ちていた。
 丁度非常ドアの脇に座っていた星彦、さすがに乗り物に慣れている。
 さっと座席を倒すと非常ドアを開ける、と、乗客が殺到した。
「押さないで! ひとりづつだ!」
 星彦の叫び声にもかかわらず、一人のおばあさんが押されて道路に倒れ込む。
「ああ……、もうっ」
 星彦自身も早くバスから離れたいのは山々、しかし、見捨てることも……。

「おばあさんっ! おぶさって!」
 星彦はおばあさんを背負うと、懸命に走る……走る……。

 ドォン!

 ゴジラの足音はこうなのではないかと思うほど、地を揺るがす轟音と共にタンクローリーが爆発した。

 爆風に押されてバランスを崩す、しかし、おばあさんを背負っているので転がるわけにも行かない、星彦は膝をついてワンクッション置くと、身を投げ出すようにうつぶせになり、傍らに伏せたおばあさんに上着をかけてやって、二度目、三度目の爆風をやり過ごす……。

 どうやら爆発は収まったようだ、身を起こして振り返ると、次の瞬間にはさっきまで乗っていたバスが炎に包まれている……その光景を見ると体から力が抜け、しばしの間呆然と炎を見つめていた。

「ありがとうね、上着が台無しになっちゃったね」
 おばあさんが上着をはたはたとはたきながら言う。
「あんた、命の恩人だよ……膝も破けて血がにじんでるし、髪の毛まで土ぼこりだらけになっちゃったね」
「うん、まあ、でも大丈夫、おばあさんはどう? 怪我はない?」
「転んだ時に足首をくじいちゃったみたいだけど、ここまで連れてきてもらってれば大丈夫さね」
 確かに、まだ炎は上がっているものの、最初の勢いは既にない。
「あのバスを見なよ、身の毛がよだつねぇ」
「確かに……」
 バスは既にフレームを残すのみ、そのフレームも熱でぐにゃりと曲がっている。
「あんた、名刺かなんか持ってないかい? お礼をしたいよ」
「いや、そんなつもりで助けたんじゃないから……」
「じゃ、せめて名前を教えておくれ、毎朝拝むからさ」
「ははは……神様じゃないんだから」
「いや、あたしにとっては救いの神さね……ん? 名字は有田だね?」
 上着のネームを読んだようだ。
「名前の方は? 教えておくれよ
「星彦、有田星彦って言うんですよ」
「星彦……彦星の逆さだね」
「ははは、良くそう言われますよ……実は織姫にプロポーズに行く途中なんですよ」
「あら、そうかね! じゃあ、プロポーズが上手く行くように拝んどくよ」
「ええ、それは是非ともお願いします」

 爆発は反対車線の車まで巻き込んでいて、高速道路は完全封鎖状態。
 消防車や救急車も現場に向かえない様子だ。
(この先、どうやって進めば良い?)
 そう考えてポケットに手を入れると……スマホがない。
(しまった! バスの中だった……)
 一泊分の着替えなどが入ったバッグも灰になってしまった。
 せめてもの救いは、大事な指輪と財布は身につけていたこと……。

 しばらくは座り込んでいたが、上下斜線とも後続のクルマがにっちもさっちも行かずに溜まっている状態、ここにいても先に進める要素はないように思える。
 本音を言えば一メートルだって引き返したくはない。
 しかし、前進するために必要ならば……。
 星彦はおばあさんに別れを告げると、路側帯を歩き始めた。


 ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥


 その頃、沙織は生きた心地がしなかった。
 ニュースで東北自動車道の大爆発事故が大きく報じられていたのだ。
 急いで星彦に電話をかけてみるが通じない……まさか……そんなことは……。
 TV画面では亡くなった方、負傷した方の名前が次々に報じられているが、とりあえずその中に星彦の名前はない、しかし、その数は時間を追うごとに増え続けている……。

 沙織の不安をぬぐってくれたのは、あのおばあさんだった。
 TVカメラを向けられたおばあさんは事故の恐ろしさをひとしきり語った後、カメラに向かってこう言ったのだ。
「有田星彦さん、あんたにはいくら感謝してもし切れないよ、織姫様がうんと言ってくれるように拝んでるからね」

 はらはらと涙がこぼれた。
 星彦は無事だ、そして、こんな大事故に巻き込まれたのにもかかわらず、自分の下へと向かってくれている……。
 
 ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠

13:30
 星彦は高速道路を横切る陸橋を発見した。
 しかも、幸いなことに、斜面は板チョコのような形のブロックで覆われていて登れそうだ。
 這い蹲るように斜面を登り、フェンスを乗り越えて陸橋のたもとに立って辺りを見回す。
 天の助けか! 少し先に鉄道の駅があるではないか。
 東北線が復旧しているかどうかはわからない、しかし、駅があればバスなりタクシーなりの交通手段があるはず……。
 

14:00
「すみません!」
「はい、何でしょう?」
 たどり着いたのは東北線桑折駅、駅員室に顔を出して声をかけると、かなり年配の駅員が応対してくれた。
「東北線の復旧はどうでしょうか?」
「いやぁ、今日中には無理みたいだねぇ」
 一番聞きたくない答え……どことなくのんびりしたアクセントがあるおじいさんの口から出た言葉でなければ『何故だ!』と食って掛かるところだった。
「六時までにどうしても仙台に行かなきゃならないんですが……」
「そうさなぁ……福島までバスがありますから、そこで新幹線に乗るのが一番良さそうだなぁ」
 福島まで戻る……受け入れ難いほどに悔しい、今やりたくないことに順位をつけるならばぶっちぎりの一位だ……だがそれが最良の方法ならば……。
「そのバスは……」
「ああ、行っちまったばかりでねぇ、お客さんは運が悪い」
「そりゃもう、夕べから運に見放されっぱなしですよ、次のバスは何分後ですか?」
「15:26発だねぇ」
 リアルに膝から力が抜けて、しゃがみこんでしまいそうだった……。
「マジで?……一時間半待ちですか……それしか方法ないんですか?」
「そうだなぁ、路線バスを乗り継いで行けないこともないけども、六時までに着くのはとても無理だなぁ、下手すりゃ途中で一泊になっちまうかも……」
「……分かりました……次のバスを待ちます……」
 落胆のあまりしゃがみ込んでしまいそうな様子がアリアリと出ていたのだろう、おじいさんは気の毒そうに、こう言ってくれた。
「待合は暑いでしょう、こっちにお入りんさい、クーラー効いとりますで」
「え? いいんですか?」
「どうせ電車は走っとりませんでな、お客なんておりゃしませんわ」
 地獄で仏……普段使ったためしがないそんな言葉が頭をよぎる。
「そうですか? じゃあ、遠慮なく……ああ、涼しい……生き返ります」
「ずいぶんと土ぼこりかぶりなすって……膝も破れとりますな」
「高速道路の事故のことは?」
「もちろん知っとり……あれ! お客さん、あの事故に会われたのかね?」
「そうなんです、タンクローリーのすぐ後ろのバスに乗ってまして……必死で逃げました」
「で、どうしてここへ?」
「あの場にいても前へは進めそうにないんで、高速道路を歩いて、陸橋を見つけて、登ってみたらこの駅が見えたんですよ」
「それは大変じゃったなぁ……でも、そんな目に会われたのに、どうしてそんなに急いで仙台へ行こうとなさる?」
「恋人が待ってるんです」
「ほほぅ、それはそれは」
 おじいさんのもじゃもじゃの眉毛の下の細い目が、いっそう細くなった。
「今日、七夕の前夜祭なんです」
「ああ、そうでしたな」
「その花火を見ながらプロポーズするつもりでして……」
「ははは、それでなんとしても仙台へ? そりゃ手助けしてやりたいけども、どうにも……」
「ありがとうございます、でも、福島行きのバスに乗れれば何とかなりそうです」
 落ち着きを取り戻して来ているのが自分でもわかった。
「まあ、冷たい麦茶でも飲みなされ」
「ああ、助かります」
「そりゃ大げさな」
 おじいさんは笑ったが、炎天下を一時間あまり歩いてきた星彦にとっては大げさでもなんでもなかった。
 そして、冷たいものが入ったせいか、腹がグゥと鳴る……そういえば十時頃ハンバーガーを齧ったきりだ。
 夕食にひびかず、とりあえず空腹を満たしてくれるものと言えば……。
「この辺にお蕎麦屋さんありませんか?」
「あるにはあるけども、歩いて行くにはちょっと遠いな……出前とりなさるか?」
「ここで食べていいんですか?」
「どうせお客なんぞ来やしませんて」
 おじいさんがカラカラと笑うと、星彦も釣られて笑う……何ヶ月ぶりかに笑ったような心地がした。

 出前のざるそばが旨かったこと……。
 食べ終わると熱いお茶を出してくれ、膝に絆創膏まで貼ってもらって、少し話し込んでいるうちにバスがやってきた。
 涼しい場所で体を休め、喉を潤し、腹も満たし、しばしの間平穏な時間を過ごせたおかげで、ずいぶんと元気も出てきている。
「色々とお世話になりました、どうもありがとうございます」
「気ぃつけてなぁ、早く着ける様に祈ってるよぉ」
 おじいさんは駅舎を出て手まで振ってくれた……。


16:38
 おじいさんが祈ってくれたのが効いたのか、バスは何事もなく福島駅に着いた。
 あいにく新幹線は出たばかり、しかし17:17発のやまびこの自由席乗車券は買うことが出来た……七夕前夜祭の上に東北線も動いていないので、乗車率は200%だそうだが……。
 仙台着は17:37の予定、ぎりぎりだが18:00に予約したレストランには間に合うはず。
 きっと沙織はそこで待ってくれている……なぜだかそう確信していた。

17:37
 とうとう仙台駅に到着!
 目指すは広瀬川を渡った先のホテルにあるレストラン、花火が最も良く見えるレストランを探したのだ。
 まっすぐにタクシー乗り場に向かう……。
が……。
 タクシー乗り場は長蛇の列、それもそうだ、今日は七夕祭り前夜祭、花火会場に向かう人も多い。
 しかし、歩いて行ったのでは間に合わないし、走ったのでは途中で倒れてしまいそうだ……。
 ガードレールに手を突いて、頭を左右に振った時……星彦の眼にレンタサイクル店が飛び込んできた……あれだ!

17:45
「あいにくだねぇ、今、あれ一台しか残っていないんだよ」
 店の主人が指差した先にあったのは、二人乗り用の自転車だった。

17:55
「走った方がマシだったかも……」
 星彦はそうつぶやきながらも立ちこぎで重たい自転車を走らせる。

 ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥

 沙織はレストランのあるホテルの近くの橋のたもとにいた。
 星彦は無事で仙台を目指していることは分かっている、六月に会った時、星彦は花火を見ながら食事をすることにこだわっていた、だから、おそらく星彦はここを目指している、そう感じたのだ。

 レストランには少し前に電話を入れた。
 遅れるかもしれない事情を話すと、支配人は『分かりました、席を空けてお持ちしています』と言ってくれた。
 そして、沙織は、橋のたもとに立って対岸に眼を凝らし続けている。

 ……と、陽炎のように揺らめきながら、いや、実際にふらつきながら走る二人乗り自転車、しかもそれを一人でこいでいる……。
(あ……もしかして……)
 まだ遠くて顔ははっきり見えない、しかし、沙織は直感した……。
(星彦さんだわ!)
 思わず大きく手を振る、すると自転車の男性も手を振り返してくれた。
 間違いない、星彦だ!

 停電、架線事故、爆発事故……その後はどうやってたどり着いたのかは分からない。
 でも、幾多の困難を乗り越えて来てくれた……本当に来てくれた……。
 沙織は星彦を目指して走り出した。

 ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠

 ようやく広瀬川にかかる橋のたもとにさしかかった。
(ようし、後ひとこぎだ)
 力をこめてペダルを踏む……と対岸で手を振る女性。
(沙織だ! 待っていてくれた!)
 思い切り大きく手を振った……一秒でも早く会いたい!
ペダルを踏む脚にいっそう力がこもる。

♥    ♠    ♥    ♠    ♥    ♠    ♥    ♠

 沙織が走る。
 星彦も二人乗り自転車を乗り捨てて走る。
 橋の真ん中で、二人は固く抱き合った。

「もう……こんなにぼろぼろになってまで……」
「ごめん、高速道路で事故があって」
「知ってる……どんなに心配したか……」
「スマホもバスと一緒に焼けちゃって……電話番号は覚えてないし、連絡できなくて」
「いいの、無事ならいいの、こんなになっても私に会うために……」
「どうしても今夜沙織に会いたくてさ……」
「星彦さんのばか……わたし……わたし……泣いちゃうじゃない……」
 沙織を抱きしめる星彦の腕にいっそう力がこもった……。

 ♥    ♠    ♥    ♠    ♥    ♠    ♥    ♠

「ちょっと遅れた上に、こんな格好で大丈夫ですか?」
「事情はお聞きしてます、『男の勲章』です、お気になさらずにどうぞ」
 レストランの支配人は窓際の、花火がもっとも良く見える席に二人を案内してくれた。

19:00 
予定通りに最初の花火が上がる。
「きれい……見て……広瀬川に映って、まるで橋が架かったみたい」
「うん、カササギが二人を会わせるために架ける橋だね」
「本当に……」
「実は受け取ってもらいたい物があるんだけど」
「……なあに?」
「これ……ケースがちょっとへこんじゃったけど」
「これって……」
「これを左の薬指に着けていて欲しいんだけど……」
「……」
「だめ?」
「そんなはずないじゃない、嬉しすぎて声にならないのって初めて……」
「それじゃ……」
「ふつつかものですが、末永くよろしくお願いします」
「ありがとう……その答えが聴きたくて……」

 沙織の薬指に指輪が通されると、テーブルにすっとシャンパンが差し出された。
「もしよろしければ当店からもお祝いさせて頂きたいのですが」
「え?……どうして?」
「先ほど沙織様からお電話をいただきまして、もしかしたら遅れるかも知れないと……その時に事情をお聞きして、おそらくはこういうことだろうと用意しておいたのです」
「はは……バレバレでしたね……ありがたく頂戴いたします」
「それと、これももしよろしければですが、他の客様にも祝福のチャンスを」
「え? ちょっと照れくさいな」
「せっかく、幾多の困難を乗り越えていらしたのですから」
「そうですか? じゃぁ」
「ありがとうございます、少し不躾なのですが、今夜は特別と言うことで」
 支配人はわざと大きな音を立ててシャンパンを抜き、店中に婚約をアナウンスした。

 湧き上がる拍手と祝福の声……。
 二人は立ち上がりお辞儀をして応える。

 そして、沙織は、満面に笑みを浮かべる星彦を見上げながら思った。
 この人ならば、この人とならば、たとえどんな荒波も超えて行ける、どんなに高い山にだって登れる、この人とならば……。
 
 星彦も、沙織の華奢な肩を抱きながら思った。
 この女性(ひと)とならば、たとえどんな荒波だって超えてみせる、どんなに高い山にだって登ってみせる、この女性(ひと)が僕に勇気と力をくれるから……。

 織姫と彦星の物語は恋人同士のロマンティックな話ではなく、本当は引き離された夫婦の物語。
 しかし、果てしなく広い天の川でも二人の気持ちを隔てることは出来ない。
 今、二人の気持ちはひとつになったのだから……。

(テーマ曲:『You Raise Me Up』 https://www.youtube.com/watch?v=S0mOXC8pJfM 別ウインドウで開いて再生ボタンを押し、また本文にお戻り下さい)

  ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥    ♥

「ママ、どうして家は八月に七夕様をするの?」
「ママのふるさとの仙台ではね、八月七日に七夕祭りがあるの、だからよ」
「ふうん」
「七月の方が良い?」
「ううん、七月は雨が多いもの、八月の方が良い、それに、こうやってちゃんと笹を飾って短冊を吊るすのって家くらいだもん、とっても素敵、織姫と彦星はいつか結婚できるといいね」
「うふふ……そうね……」
 沙織は娘の勘違いを正そうとは思わない、同じように七夕を恋人達の物語と勘違いしていた人との大切な想い出があるから……。
「ママ、なんだかうれしそう」
「うん、ちょっと昔のこと思い出してたの」
「パパとの想い出?」
「そうよ」
「パパ、早く帰ってこないかなぁ」
「きっと帰ってきてくれるわよ、パパはそういう人だから」
「その想い出、教えてくれる?」
「うふふ……そうね……」
「あっ、パパだ、パパが帰って来た」
「じゃ、二人でお出迎えしましょう」
「うん、パパー!」
 沙織は娘の後を追いながら思った、あの想い出はいつか娘にも好きな人が出来た時に語ってあげることにしよう……と。


                終               

(引き続き『You Raise Me Up』をお楽しみください、訳詩にもご注目を)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み