第3章 第3節 「極位極官、無位無官」

文字数 23,152文字

 平成19(2007)年9月──。
 膵頭十二指腸切除術(PD)──狩野執刀、押切第一助手、葦原第二助手──の術中、ようやく病巣を一塊として取り出した頃に、手術室のドアの窓越しに伊野が廊下を通り過ぎていくのが見えた。呼んでもらうと、伊野は面倒くさそうに顔を出した。
「救急外来に来た患者、虫垂炎(アッペ)でした。大和部長が外来から手が離せないようなので、研修医とやりますけど、俺が執刀します」
 こちらはまだまだ数時間はかかるという頃合いだった。押切副部長が伊野に任せると言った。実際、アッペなら副主任医長が研修医が前立ちでも最初から最後までやれる。
「油断するなよ、伊野。なんかあったらすぐに呼べ」
 へいへいと返事にならないような声を出して、伊野が手術室を出ていった。
 それから1時間もせず、逆方向に伊野が過ぎていくのが見えた。どうやら無事に終わったようだ。伊野は手術に問題はない。PD前立ち一番乗りだった伊野を、今日こうして狩野が執刀医として追い越せてしまったのは、狩野の伸びというより、伊野が伸び悩んだせいだ。例の遅刻があったくらいから、どうにも精彩に欠ける──というより、ふてくされきっている。
 夕方、残存臓器の再建も終わった。あとは閉腹だけだ。
「狩野、最初にしては上出来だが、次もこれだと途中で代わるぞ。葦原、あとは頼む」
「はい。おつかれさまでした」
 押切先生はそう言って手をおろした。若手の初執刀の前立ちを務めるのは自分が執刀するよりも数倍疲れるものだ。葦原が前立ちに移った。初執刀の手術は閉腹までやらせる。
「あれでも褒めてるんだぞ。さあ、閉腹までがPDだ。気を引き締めていこう」
 狩野執刀の初PDは無事に終わり、あとを任せて医局フロアに戻ると、藤堂先生に会った──葦原は瞬間的に背筋を伸ばして、入局者確保状況を報告した。
「今年もなんとか、というところです」
 1年目研修医で外科に興味を持っているものも多いし、2年目研修医も郡司に続きもう1名、来月から2年目選択ローテートで外科に来る降谷が入局を考えているという。宮田も出戻りながら入局だ。ノルマ2名は達成できそうだった。
「ふむ。下の面倒もよく見てやるように」
「あ、はい」
 藤堂先生はそれだけ言って、去った。拍子抜けしたが、考えてみればこれがいつもの藤堂先生だった。藤堂先生は手術室外では怒らない人だった。
 総合医局で休んでいると、久斯が来た。
「葦原先生、お土産です」
 スパレジ副賞としてジョージア州立医大病院に短期留学していた久斯が帰ってきていた。お土産として手渡されたのはお菓子のようだった。
「オー、サンキュー、ドクター・クッシー。今月はどこ回ってんだ?」
「産科です」
「……大変だろ」
「そんなことないっすよ、ヒマです。おかげで体重、増えました」
「ヒマなわけないだろ。こんだけ、産科崩壊だなんだって騒がれているのに」
 現在なお公判中だが、産科医逮捕の件は医療業界に激烈なアレルギー反応(アナフィラキシーショック)を引き起こした。全国で産科医療の拠点病院集約化が急速に進み、少人数の産科医で維持されていた各地の病院でのお産受け入れは中止されてしまった。妊婦がその生活圏で出産できない事例が取り沙汰され、お産難民とまで騒がれるようになった。また、産科医のなり手は減り、現役の産科医も離れていった。まさに産科崩壊だ。他人事ではない。外科の近未来を見せつけられているようなものだ──それがヒマとはなにごとだ。
「ここ、産婦人科志望じゃない男の研修医にはなんにもさせないんです。産婦人科じゃない男には診られたくないって投書があったとかどうとかで」
 葦原は呆れた。卒後臨床研修制度は臓器別診療といった専門性を言い訳にした診療拒否をしない医者を育てるのが目的だったのに、産科崩壊の現状にあっても、卒後研修制度の主旨はまるで受療者に伝わっていないではないか。それで、産科以外の病状で救急車を呼んだ妊婦を産科以外の医者が診られないと断りでもしたら、たらい回しと批判されるのだから、八方塞がりとはこのことだ。
「ま、いろいろとデリケートな診療科だからなあ」
 若者と愚痴り合ってもストレスが溜まるだけなので、葦原は口に出してはそう言うに留めた──のに、久斯はもっとびっくりさせることを言いだした。
「デリケートですかね。外科よりガサツな気がしますけどね」
「そんなことないだろ。お前、そういうこと、他で言うなよ。外科がそう言っていると勘違いされるんだから」
「葦原先生は、なんか産科を特別視しすぎですよ」
「医者の世界は、餅は餅屋、だ。他科はリスペクトするもんだ」
「ふうん。まあ、実際はウソでもいいから、将来産科も考えてますって言えばいいらしいんです。しかしながら、(おとこ)久斯、ウソはつけない」
「ふーん。それで、オトコ久斯は将来はどうするんだっけ?」
「外科も考えてます」
「オー、ドクター・クッシー、ナイス・ジョーク」
 2年目研修医も夏を過ぎれば、来年度からの進路の内定・内諾を得ているようである。研究医志望の久斯も研修期間は残り半年だ。しかし、基礎医学の研究医は何歳でなにをやっていれば出世コースなのか、出世コースがあるのか、出世が必要なのか、葦原にはなにもわからない。医学部同期で卒後まっすぐ基礎に進んだ人間はいなかったように思う。ただ、東大卒の漢久斯に限って言えば、そこに戻るのが本邦一正しいはずなので、助言は不要だろう。
「そういえば、伊野先生はお元気ですか? なんか最近、パッとしないですよね?」
「研修医が心配することじゃない」
「じゃ、やっぱりパッとしていないんだ」
「そんなことないよ。今日もアッペの手術してたし」
「えー、ズルい」
「なんだよ、ズルいって」
「ギブ・アンド・テイク。伊野先生のデータで論文を書いてあげるから、アッペがいたらやらせてくれって頼んでたのに」
「お前は伊野にもタカってたのか」
「取引に応じてくれなかったんですよ。伊野先生は出世できなさそうだなあ」
 そう言われて、PD手術のデータを明け渡した格好の葦原は、恥ずかしくなった。
「週末、よろしくおねがいします──お土産、食べてくださいね」
 久斯は去っていった。お土産はガムのようなものだった。週末の学術集会発表の最終確認をしながら食べてみたが、すこぶるまずかった。パッケージには悪魔のようなピエロのような姿のキャラクターが笑っていて、それがなんだか久斯に重なって見えた。


 SSSS(フォーエス)初日──。
 外科系学会七州地方合同学術集会(SHICHISHU SURGICAL SCIENCE SYMPOSIUM)──が仙台国際コンベンションセンターを会場に週末3日間の会期で始まった。複数の外科系学会がそれぞれでやっていた七州地方会をこれに一本化したから、規模が大きくなるのも当然で、外科系学会の地方会では経験したことのないほどの人出で混み合っていた。スーツ姿には暑いくらいだった。
 今回、市民病院外科からも研修医数名に演題発表をさせている。葦原も座長役を終えて、久斯の発表を見に行った。文句なしにうまくやれていたが、自分で執刀していない外科の症例発表を堂々とできるのは一種の才能だろう。人の(ふんどし)で相撲を取らせたら横綱級だと、苦笑せずにはいられなかった。発表後、久斯を捕まえてねぎらってやったが、ねぎらわれるほど達成感はないですよ、と生意気な口を利いたあと、
「大盛況ですね。これも、七刄会の仕切りですか」
 と続けた。外科医学会、消化器外科医学会、肝胆膵外科医学会、内視鏡外科医学会、食道外科医学会、胃腸外科医学会、乳腺外科医学会、内分泌外科医学会、小児外科医学会、胸部外科医学会、心臓外科医学会、血管外科医学会、呼吸器外科医学会、移植外科医学会──外科と名の付くメジャー系学会学術集会の七州地方会のすべてが集ったこの第1回SSSSの会頭(チェアマン)はもちろん、七州地方の外科医学の盟主、七州大学病院長、同大学院医学系研究科外科病態学講座外科学分野教授・七刄会総裁の外神先生だ。
「不思議ではないさ。七州各県、各外科学系教室のルーツはすべて七刄会だからな」
「さすが七刄会」
「東大卒に言われると嫌味にしか聞こえないぞ」
 発表で腹が減ったと、久斯は目当ての講演会付きお弁当食事会(ランチョンセミナー)に去った。今年もお弁当スタンプラリーでもするのかもしれない。
 午後の外科系学会ジョイントシンポジウムのテーマは「卒後臨床研修制度と外科離れ」だった。座長は真田先生で、診療領域ごとに各大学各外科系教室の教授・准教授クラスがずらりとシンポジストとして登壇した。若手の外科離れ対策をテーマに、診療秘書(クラーク)配置による外科医の負担軽減や手術件数に応じたインセンティブ支給の必要性が議論されていたが、聞いていて、それでは若手が外科に入るモチベーションにはならないのではと思った。既存外科医を優遇するような話ではなく、外科に興味のある若手をいかに取りこぼさないかを議論したほうが良いのではないか。そもそも、外科医は外科をやりたくて外科になったことを忘れてはならない。日本では外科だろうが皮膚科だろうが勤務医である限り給料に差はないが、どの診療科もその科ごとのリスクと戦いながら使命を果たしている。医療は、困ったときはお互い様の連続だ。医療そのものが世間の認識とのギャップに懊悩する時代に、外科だけ偏重しろというようなやり方では他科にそっぽを向かれるだけだ。
 葦原はむしろ、外科にはびこっている「外科なら当たり前」な慣習を是正していくほうが先ではないかと思っている。七刄会はマシな方だと思ってはいるが、今もなお外科といえば、若手はパワハラ・モラハラ・セクハラの暴風雨の中での修練を強いられる。それに耐え忍べば、台風一過、カラッと晴れた外科人生が開けるものだが、初期研修医には暴風雨の時点で外科が敬遠されてしまっているのが実情だ。外科医が外科的風習に自覚的になり、前時代的なものがあればそれを是正するのが先だ──と思っていたところ、座長の真田先生がその方向に話を向けて、だいたいは葦原が思ったような議論に向かったので、溜飲を下げた。葦原が提案した七刄会後期研修でもこの辺には努めて自覚的である必要性を再認識した。でなければ、せっかく外科で育てた若手は他科に行く。
 真田先生はまた、複数の外科系学会のジョイントシンポジウムならではの意見として、どの専門に進むにせよ、外科と名乗る以上、一定の手技はベーシックスキルとして共通化・共有化することの大切さについて発言した。この発言も、葦原が考案した七刄会後期研修案を下地にしてくれたのだろうと思って、嬉しくなった。
 シンポジウム後も興味を惹かれるプログラムが目白押しだ。特に楽しみなのは、他科の診療ノウハウを学べるセミナーだ。この3日間は平田先生が外科の留守番を買って出てくれていたので、緊急手術などで呼ばれるまでは、とことん勉強させてもらうことにした。

 SSSS中日、昼──。
 葦原は早めに演者控室に入ったつもりだったが、すでに牛尾がいた。
「よう、なんだか変な感じだな、同期同士でってのもな」
「ああ、そうだな」
 同じ大学のしかも同期生同士でシンポジウム対談というのも珍しい話だが、この外科領域で最先端が我々七刄会だとすれば、不思議な話ではない。
「俺はすごいと思うぜ、LPD」
「俺は葦原たちの成績に今更ながら脱帽だよ」
 お互いに褒めあったのは、このあとの本番ではお互いにその逆の話をすることになるとわかっているからだ。座長の岩手国立大学医学部消化器外科学講座教授・君島先生も来て、打ち合わせをした。標準的治療としてのPDについて葦原が、新規的治療としてのLPDについて牛尾が発言し、相互討議・全体質疑の後、座長が総括する、という流れを確認したところで、本番の時間となった。
 シンポジウム【肝胆膵外科難関手術の現状と未来 膵頭十二指腸切除術を巡って】が開始された。従来型代表として葦原が登壇した。久斯の助言通り、あたかも悪玉(ヒール)のようにこの際、存分に成績の良さをアピールした。押切先生とのPDは七刄会のみならず本邦随一の成績である──実際、葦原がスライドで示したPDの手術成績、特に平均手術時間「5時間前後(アラウンド・ファイブ)」は参加者の声を奪った。
「……PDが簡単な手術であるとは言えませんが、突き詰めていけばこれくらいの成績に到達し、必要十分に低侵襲であると考えております。ご清聴ありがとうございました」
 拍手がまばらだった。ちと圧倒しすぎたかなと反省した葦原と入れ替わりで、登壇した牛尾が話しはじめた。
「私が研修医の頃は、PDといえば8時間というイメージで、朝から晩までかかったものでしたから、PDの前日から自分の食事などに気を使っていたものです。今ではだいぶ時間の短縮も図られています。手術時間自体が侵襲の一つですから、できるのであれば、8時間よりは4時間のPDがいいに決まっていますし、まさに、我々の教室では先ほどのような突出した成績のPDが行われているのですが、これが普遍化できるのかというと、それは難しいだろうと私は考えます。葦原先生たちのあれは同じ医局のものから見ても、正直な話、バケモノですよ」
 会場に笑いが起こった──その中で笑っていなかった久斯とだけ目が合った。
「私は例のLPDの成功後から、ゴッドハンドだなんてもてはやされておりますが、全くの逆です。我々はゴッドハンドではないからこそ、LPDによる低侵襲を追求していく必要があります」
 牛尾はLPDの実際の手術動画を供覧しながら、その手術の勘所について話していた。葦原が驚いたのは、第1例の元市長の手術で10時間以上もかかっていたのが、最新のそれでは9時間を切るところまで来ていることだった。牛尾は、腹腔鏡下胆嚢摘出術や、泌尿器科領域のロボット手術を引き合いに出しながら、低侵襲手術の必然性について話した。また、写真で示されたLPD術後患者の腹部創は目に見えて小さい。切開創は葦原らも極力小さくしているが、それでもこのLPDの(きず)の倍以上はある。確かにこの低侵襲で8時間で終われるなら、術後の負担は圧倒的に減るだろう。
「LPDで8時間程度なら、それより速い開腹のPDを目指す必要はなくなるのではと考えております。LPDは決して曲芸ではありません。どうせ難しくてそれなりに時間のかかるPDなら、患者の負担が少ない方法を追求していきましょう」
 やられた──牛尾は手術の巧さや術式の新規性をアピールしているのではなかった。患者のアウトカムの追求のために、それから逆算して許容される手術時間の中で、手段を変えて低侵襲を極めていこうとしているのだ。葦原ら中部班スタッフは代々、PD手術時間の最短化に優先価値を置いてきた。しかし、それで得られる恩恵が早晩、頭打ち(プラトー)だとしたらどうするか。牛尾の言う通り、新たな恩恵のよりどころとして低侵襲なLPDに真正面から取り組むべき頃合いなのか──おそらく、会場の誰よりも、PD対LPDの行く末について葦原は悩んでしまった。
 牛尾の発表後の相互討議ではあまり盛り上げることができなかった。葦原自身、牛尾の発言に一理ありと思ってしまったからだ。全体質疑でもせっかくのプロコン形式だと言うのに、質問は牛尾にだけ寄せられ、葦原は針のむしろのような気持ちで過ごした。座長の君島先生が最後に、双方の術式の利点欠点を挙げた後に、手術前後の検査・治療法におけるブレイクスルーが大事と総括してくれたが、それで医学的に勝ち負けはつかなかったと考えるのは甘えだろう。葦原は悪玉以上に敗者だった。
 シンポジウム終了後も牛尾のところにはなお数名の外科医が押し寄せていたが、葦原は押切先生にねぎらわれただけだった。他の仕事に向かった押切先生と入れ替わりに久斯が近寄ってきた。
「一本取られましたね」
「なあ」
「それはさておき──葦原先生、さっきの発表の元データで論文できてます」
「えっ、お前、もう論文化していたのか?」
「往復エコノミークラスの飛行機じゃやることないですからね、血栓作らず論文作れってことです。メールしておいたので、目を通してください」
 スパレジ短期留学中からそれに取り掛かっていたのか。アメリカから夜中に電話をよこしてきていたのを思い出した。ふと、「論文モンスター」という言葉が浮かんだ。
「月曜朝までに返信がなければ問題がないものとして、投稿(サブミット)の段取りに入ります」
「まだいいよ──っていうか、早すぎだ」
 さっきのプロコンから、葦原はまだ頭の整理がついていなかった。
「ダメですよ。牛尾先生がさっきみたいに、今後は多少時間がかかってもLPDのほうがいいよねって論文を出す前に、PDがこれくらい速ければこれくらい低侵襲だよってのを発表しておかないと、意味のない論文になってしまう」
「それはまあそうだが……勝手に投稿するんじゃないぞ。共著者の範囲決めだけでもルールがあるんだ。総裁をラストオーサーに、コレスポンディングは……」
「言われたことはその通りに全部やりますから、そのルールをあとで教えてくださいよ。一日でも早く、七刄会は世界一ってことをユナイテッド・ステイツ・オブ・夜郎自大なやつらに見せつけてやりましょうよ」
「全く、調子のいいやつだな」
 久斯と解散後、葦原は心臓外科や呼吸器外科のシンポジウムを見に行った。市島や他の医学部同期、大学病院勤務時代の知己なども登壇していて、相応の肩書で学術的成果を発信していたのを見て、落ち着かない気持ちになった。アカデミックな肩書のない外科医が手術もあまり巧くなくてよいと言われてしまったら、なにも手元に残らないではないか──。

 SSSS最終日──。
 大会場では溢れんばかりの外科医がいて、見渡す限りに空席はない。別会場の発表を見てから来るらしい久斯に言われて席を1つ確保していたが、会場後方で席を探している同期の日辻を見つけて、隣に呼んだ。遠慮していたようだが、結局は来た。
「すごい混んでるな。いいのか、ここ」
「研修医に席取りさせられてたんだよ。いいよ、座れ座れ。いつから来てたんだ?」
「さっきだよ。単位を取りに来ただけだ」
 医者の診療技能保証(サーティフィケーション)としての学会認定専門医制度では、こういった学術集会の出席単位が認定申請・維持のために要求されるので、医者は専門医を取る前も取った後も、全国で開催される学術集会行脚を繰り返すことになる。学術集会は平日を含む週末に行われるが、入院患者を置いていくことやお金の面で、毎度の参加も簡単なものではない。こういった地方会でも数単位は取得できるので、地元開催の好機は決して逃してはならないのだ。
「専門医といえば──日辻、来年くらいから始まるっていう、熟練医認定制度の件は聞いたか?」
「いや、なんのことだ?」
 葦原らが専門とする外科の領域では、まず外科(医学会認定)専門医が基本となる診療技能保証である。それを取得後にさらに数年間の消化器外科領域の専門修練をすることで、消化器外科(医学会認定)専門医が取得できる。これらは七刄会外科医なら必ず取得しているものだ。今般、更にその上の技術認定のために「熟練医」制度を各学会が用意するということが先ほど、来年度の各学会総会に先駆けて発表されたのだ。
「肝胆膵外科熟練医、食道外科熟練医、内視鏡外科熟練医ってのができて、それらが消化器外科専門医取得後の高度専門領域として設置されるんだと」
 消化器外科自体が確立された専門領域(スペシャリティ)だが、その中で、肝胆膵や食道、内視鏡外科など更に細かく専門性を分けたものをサブスペシャリティと言う。そこにちゃんと学会認定が出されることで、外科医の継続的なキャリア形成の指標・目標になるということだった。七刄会旧腹部総合外科学講座(現、移植班・血管班・腺系班)の面々は消化器外科専門医の他に、それぞれの所属学会の専門医を取得しているのを少し羨ましくも思っていた。その発表を聞きながら、葦原はどうやら自分は大学と市民病院での経験年数と症例で、中部班サブスペシャリティ診療技能保証(サーティフィケーション)としての肝胆膵外科熟練医の受験資格があると知って、ホッとしていた。
「俺には縁のない話だな、どれも」
 日辻はぼそっと呟いた。それで葦原も気づいた。日辻のように、大学院卒業後に学外病院を回っていく総合班(Dキャリア)だと、これら高度専門領域の手術を学ぶ機会はほとんどないだろう。
「いや、こういう制度ができるんだったら、それを勉強するための修練期間を大学医局が用意してくれるんじゃないのか? そうでないと不公平だろ」
「大学に数年戻って勉強して、資格をとって、田舎の病院に戻らされて虫垂炎(アッペ)を切るのか。無駄だろ」
 日辻が興味なさげに言ったのもうなずけた。葦原も肝胆膵外科熟練医認定は取得したいところだが、今後は香盤表人事で段々と規模の小さい病院に移っていくことになる。患者は高度専門性を要求されるようなものであるほど大病院に流れていくので、今後の任地でその資格を維持していくだけの手術症例が得られるかどうかは疑問であった──そう悩んでいると、会場が暗くなり、前方のステージが明るく照らされた。
 七州外科手術症例データベース(SHICHISHU SURGICAL DATABASE)(SSD)の連結完了記念式典が始まった。
 外科手術症例データベース事業は、どの病院でどんな手術がどれくらい行われ、それぞれどれくらいの時間がかかり、合併症が起こり、周術期の転機はどうだったのかなどを全例登録(インプット)するものである。データベースからの発信(アウトプット)としては、生データではなく、患者名・施設名の匿名化など段取りを踏んだ上で学術的に公表されている。学術的知見の妥当性というのは、単一施設のデータより複数施設からのそれのほうがバイアスが減ってその信頼性が高まるため、七刄会が主導する臨床研究では昔からこのデータベースが積極的に利活用されている。今般、各県ごとに行われていたそのデータベース事業を七州6県および新潟県まで一元化して管理していくことになったのだ。楡井の司会で、各県の地域データベースの機構長を務める大学医学部外科学教室の教授や名誉教授が登壇し、協定書に調印をしていった。
「葦原、あれ全部、七刄会OBだぜ」
 日辻が傍らでそう言った。
「そういえば、そうだな」
 七州6県の医学部外科学教室の教授も元々は、七大卒・七刄会出身者だった。日辻の出身大学の外科学教室教授も先代までは七刄会出身者だった。最近ではそれぞれの大学生え抜きの教室員に教授代替わりして、さすがにすべて七刄会出身者とはいえないものの、このデータベース事業が各県で円滑に進行し、かつ今般の統合に至ったのは、各地の七刄会出身者が七刄会総裁の呼びかけに同門意識で呼応したからだろう。
「外科医が手術をやっても偉くはなれないんだよな。手術をやらせて、そのデータを集める側に回らないとな。一将功なりて万骨枯る、だ」
 日辻がそう呟いたのが聞こえたが、葦原は逆だと思った。このデータベース事業は、手術医療の成績表を取りまとめるという、外科医の尊厳にすら関わる、非常にナイーブな取り組みである。「病院ランキング」と銘打った雑誌で、手術件数の多さだけで「名医」「名院」だと安易に騒がれるのだ。こういう繊細かつ大胆な取り組みは、たとえば厚生省(おかみ)が主導したところで外科医は誰一人協力しなかっただろう。患者診療を向上させるために、外科医一人ひとりのプロフェッショナルオートノミーとして取り組んできたがゆえの成果だ。事実、データベース事業を始め、受け継いできた歴代の七刄会総裁は、一人の外科医として自身の手術成績を登録して、発信してきた。これを喩えて謂うなら、一将功あり万骨咲く、だろう。
「うちの総裁がすごすぎるんだよ」
 葦原は日辻に聞こえるように言ったつもりだったが、返事や相づちは聞こえなかった。
 SSD締結式終了から続けて、SSSS閉会式になった。
 第1回SSSS会頭の外神総裁が再度登壇し、学術集会の総括をした。この3日間の内容に触れながら、外科不人気払拭と外科医不足打開のために、診療科エゴイズムを捨て、外科系診療科同士の横のつながりを強化し、外科医という共有の財産を確保・育成・維持できる環境を作っていくことの必要性が強調された。この内容が、第1回SSSSの学会宣言「Statement of SSSS(ファイブエス)」として採択された。本邦北東部の大学医学部外科系教授が一斉に登壇して行われた閉会式は圧巻の一言で、なおその中にあっても七刄会総裁はひときわ輝き、七州外科の盟主たるに相応しい、まさに偉容であった。医者が偉くなるというのはこういうことなのだ。PDが速いだの腹腔鏡でやれるだのもちっぽけな話に思えて、葦原は少し慰められるようだった。
「さすが七刄会──か」
 久斯の言葉を思い出して、久斯の存在を思い出した──はっとして会場を見渡すと、久斯がこちらを見ていて、自分の席はどうしたんだと言いたげなジェスチャーをしていたが、葦原は気づかないふりをして前に向き直り、大成功裡に幕を閉じた学会に拍手を打ち鳴らした。


 10月──。
 今月から2年目選択ローテートで回ってきた降谷が正式に外科入局を表明してくれて、目安となる入局者2名確保に成功したことに喜んでいたが、葦原がその日、大和部長に呼び出しを受けていたのはそのことをねぎらわれるためではなかった。部長室に先に伊野がいたことで察しがついた。
 先週末のことだ。神戸で開催された消化器病関連学会合同学術集会(DAYS FOR DIGESTIVE DISEASES)(DDD)に藤堂先生や大和部長らが出張で留守にしていた間、外来業務中の葦原に報告があったのだが、伊野が先日手術した虫垂炎の患者が結核だったと判明した。切除した虫垂組織を病理部に提出した結果、それが結核菌による炎症で腫大した病状、すなわち

だったと診断されたのだ。空気感染リスクがあって感染者の隔離など社会的制限が必要になることもあるこの結核という疾病が発生してしまうと、病院では対応に大わらわだ。実際、その患者に来てもらって追加の検査をしたり、保健所職員が接触者調査にやってきたりと大変だった。不幸中の幸いというか、追加検査の結果、今回の症例は咳などで他者への感染性が強く懸念される肺結核とはみなされず、隔離入院は不要だった。今後の診療は内科が外来で担当してくれることになり、患者対応としては一段落したのだった──が、大和部長が言った。
「手術部のスタッフがカンカンだ」
 保健所担当者は手術中の感染リスクを懸念していた。手術室は術野が最大限清潔になるように天井から患者台、そこから周囲へと空気が流れているので、虫垂切除術で開いた腹にいたであろう結核菌が飛散して、手術室スタッフに曝露させた可能性がある──ということで抗議を受けているのだという。
「えー、そういうこと、起こりえますか?」
「わからん。だが、そう言われてしまうと反論のしようがない。俺の長年の経験から言うと、結核というのは言ったもん勝ちというか、言われたもん負けだ」
 感染リスクについてはそうやっていくらでも見積もれるが、そうかといって、現時点での曝露者の結核の感染・非感染の証明はできないらしく、手術日から起算して3ヶ月後を目安に行われる検査の結果が出るまでは結論はお預けとのことだった。
「伊野はその結果が出るまで手術部出入り禁止だ」
 大和部長の発言に、葦原は驚いて、さすがに反論した。
「それは酷ではありませんか? 手術部がそう言ってるんですか? 腸結核に不用意にメスを入れたならまだしも、結核性虫垂炎なんて聞いたこともないですよ。私がちょっと説明してきますよ」
 腸結核は虫垂付け根の回盲部に好発する結核感染症の一病型で、稀ではあるものの、学術集会の症例発表で目にするくらいには経験されるので知っておく必要はある。しかしながら、虫垂単独に結核菌が感染する結核性虫垂炎となれば、学術集会ですら目にしたこともない。極めて稀だ。そうではない普通の虫垂炎との鑑別が事前にできるとは思えない。
「まあ、聞け。藤堂先生のおかげで、手術部にはいちおう納得してもらっている。ただ、今後のことを考えて、再発防止策を考えさせろとの藤堂先生からのお達しだ」
「藤堂先生から、ですか」
 外からの無茶な注文であれば突っぱねようもあるが、外科内部での話なら従う必要はある。
「実際、保健所の話が本当なら、執刀していた伊野がいちばん感染のリスクがあるだろ。咳払い1つで敬遠されるぞ。こういうときに針刺しでもしたら目も当てられない。ほとぼりが冷めるまではおとなしくしておいたほうが得策だ」
 実際、感染結果判明までの間は、伊野も針のむしろかもしれない。医者をやっているとつくづく、この結核という感染症に足元をすくわれる。
「私の監督不行き届きでした。もうしわけありません」
 その症例が病院に来たときは、葦原は狩野のPD初執刀に入っていてノータッチだった。アッペなら術後回診で時間を割くこともないし、外来で抜糸するぐらい早く退院する。病理結果も術後外来で執刀医がチェックするくらいだから、今回こうして伊野から報告が上がってくるまで、まったく目配りできていなかった。
「葦原先生は関係ないですよ」
 黙っていた伊野が反論した。
「その患者は右下腹部痛で救急外来に来たんです。CTで虫垂炎とわかった。患者は手術を希望した。手術をやって無事に退院した。それだけですよ。再発防止策ってどうやるんですか? これからはアッペの患者がいたら、全例、結核を否定してから執刀するんですか? それってどうやるんですか? そもそもできるんですか? その間にふつうの虫垂炎(アッペ)だった患者が腹膜炎で死んだらどうするんですか?」
 葦原がそれを諌めた。
「そういうことを藤堂先生や大和先生がわかっていないと思っているのか。お前のために言っているんだぞ。世の中の人間がみんな外科医じゃないんだ。そういうことをわかってもらえるくらいに俺たちが外堀を埋めてやる間、少しおとなしくしておけって話だろ」
 大和部長はうなずいたが、伊野は首肯しなかった。その反応で葦原もわかった。今の伊野にはきっと、頭を冷やす時間が必要なのだ。
「けっこうです。責任取って、辞めますよ」
 大和部長が机をドンと叩いた。
「辞めて、どう責任が取れるんだ。逃げているだけだろ。責任を取るのは当然だが、責任のとり方を当事者が決められると思うな。責任を取るっていうんなら、考えもつかない再発防止策を当事者として考えろ」
 大和先生の言うとおりだ。医者は全知全能ではない。最善を模索はするものの、不可抗力な事態に出くわすことはままある。しかし、医者は、一度苦い経験を味わったら、それを繰り返さないようにする責務がある。今ここで辞めるという安易な発言が出てくること自体が無反省の証左だった。伊野もまだ子供(ガキ)だなと思った──そして、その指導責任は自分にある。
「ほら、頭下げに行くぞ」
 葦原は嫌がる伊野を引きずって、手術部看護師長のところに謝罪に訪れた。藤堂先生が事前にとりなしてくれていたおかげで、やむを得ない事例であるということは理解してもらっているようだった。
 伊野は手術した9月から数えて、3ヶ月間は手術謹慎ということになった。


 11月──。
 予定手術を2件終えたあと、藤堂先生の副院長室にお邪魔して、今年の市民病院からの七大外科入局(予定)者報告をした。2年目研修医2名と出戻りの宮田、合計3名が七大大学院への入学願書を提出したのだ。ただ、そのことよりも、現在手術謹慎中の伊野への目配りをするようにと強調された。幸い、伊野も手術部の曝露者も今のところは目立った体調変化はないようだったが、謹慎が晴れるまではまだ期間がある。
 夕方、総合医局で会議の始まりを待っていると、久斯が話しかけてきた。
「おつかれさまです」
「おう、いまどこ回ってんだ」
「精神科です」
「ふうん」
「興味ないなら訊かないでくださいよ」
「ふふっ」
 その日の定例全体医局会では、いつもの式次第はそこそこに、せんだい市民病院新設救急科(仮)専任部長選考会が催された。候補者の所信表明(プレゼン)の後、各診療科主任医長以上の役職者による投票──同数の場合は選考会議に一任──で救急科部長が選出される。内科系統一候補の濱野俊医師は米国在住のため、インターネット回線越しに参加となった。選考会議長の眼科部長が司会進行している中、久斯がとなりから話しかけてきた。
「僕は複雑ですよ。濱野先生にはアメリカでお世話になったので」
「そっか、スパレジ短期留学で世話(アテンド)してもらったんだっけ」
「いい先生ですよ。人物、能力、経歴、全く問題なし。ここにはもったいなさすぎる」
「平田先生だって、いい先生だ。ここの救急部にはちょうどいい」
 候補者1、濱野俊。42歳。四国の国立大学医学部卒。一旦は救急医療で有名という東京第一医科大学救急部に入局したが、ほどなくして渡米。ペンシルベニアの病院救急科レジデント、フェローからスタッフドクターに選出され、転じてジョージア州立医科大学病院の救急科副部長となった。論文も複数あり、院内外の多数のアワード受賞歴ありと、そのキャリアはまさに申し分なしといったところだ──その濱野候補のプレゼンが始まった。
「私は、このせんだい市民病院を日本の救急医療革新の出発点にしたいと考えております。すなわち、ここを高機能初期救急対応ゲートウェイとし、市内全域の救急搬送を一手に引き受けます」
 アメリカ救急医のお手並み拝見と思っていた葦原は、あっけにとられた。濱野医師の提案は、市内全ての救急搬送はまず市民病院で診るという前代未聞の試みだった。
「どの病院だって救急医療に貢献したいと考えているはずですが、病院ごとにそれに注げるリソースには限度があるし、得手不得手があるからと消極的になっている。ミスマッチなこの救急医療ニーズ、シーズを効率的につなげるためには、地域のERの入り口は診断と初療に特化した施設に集約する必要があると考えます。それをこの市民病院でニュートラルかつオールラウンドに担当します。ここでは患者状態の見極めに注力し、骨折や虫垂炎、肺炎や脳梗塞など診断がつき次第、協力病院に継続診療を割り振っていきます。もちろん、協力病院の医師やスタッフにも積極的に人員を出させてここでER診療をやってもらいます。曖昧な体制の救急外来をあちこちで開かせるのではなく、限定して、全部ここでやるのです」
 各病院が不十分な夜間診療体制でどういう患者が来るのかと疑心暗鬼で迎え、あるいは断るのではなく、しっかり体制の整った高次医療機関に患者を一旦集約し、必要な初期対応と判断をした上で、各病院に患者ごと継続診療を割り振るというのだ。それなら、協力できる病院も多いはずだと葦原は感心させられた。それはいつぞや、北米型ERの一歩先のアイディアとして思い描いた、医局を中心とした外科救急ネットワークの更に上を行く発想であった──気づけば、身を乗り出してそのプレゼンに聞き入っていた。
「……こういった環境でこそ、若手医師は、特定の診療科の救急的なやり方ではなく、救急医療というのはなにが求められ、どう振る舞うべきなのかということが学べるのです。というわけで、私はこの救急医療改革を実現・実践するにあたり、都市・人口規模や病院配置などの点で、このせんだい市とこの市民病院こそが最適であると考え、当職に立候補した次第です。どうぞよろしくおねがいします」
 その大胆な発想だけではなく、アメリカの医者にここ仙台でこそと言われてしまって、葦原も弱ってしまった。
 候補者2、平田新一。57歳。75年七大医学部卒後、旧仙台市民病院で実地修練。77年同外科医員。81年同外科医長。99年同救急部医長、現在に至る──濱野候補のそれと比べてあまりにスッキリしている。資格は特になく、例の大学院博士課程退学の件すら盛り込まれていない。改めて、特異なキャリアだ。いや、「キャリア」という言葉と縁のない職歴だ。キャリアと職歴が似て非なるものであることを物語る好例だとすら言えた。途中、所属診療科の変遷はあれども、30年以上ここで働いているだけだ。サラリーマンの入社一筋のように、医者が医学部卒後に入った病院でずっと勤務しつづけるというのは、その是非はさておき、非常に珍しい。ふと思い浮かんだ例外的存在があった──医学部教授だ。入職したところでずっと働き、定年退職を迎えられるのは教授くらいだ。これすら一握りで、育ったところとは異なる大学で教授になる医者のほうが多いのではないか。
 平田先生の所信表明はその履歴以上にシンプルだった。「現状維持」だった。平田先生の認識として、市民病院の救急部は現状、それなりにうまく回っているのだから、各診療科の協力を得て引き続き、今までの救急医療をやろうということだった。平田先生は担がれて立候補したのだから、色気に欠ける所信表明も仕方のないところだった。ただ、平田先生の提案には真新しいものはないが、今回の救急科新設・同科部長選考が救急診療研修体制の改善を求めこそすれ、なにも救急医療の革新を求めて始まった話ではないのだと考えれば、濱野候補の提案は突拍子なさすぎるとも言える。平田先生のほうが波風立てることなく回っていくだろう。濱野候補の案はその期待度とは裏腹に、想像以上の抵抗を受けるだろう。
「じゃあ、そろそろ投票に参りましょう──」
 各科主任医長以上が投票を開始した。救急医療の未来はどちらか──葦原も投票した。
 集計結果を担当者が何度か確認したあと、選考会議長が結果を発表した。
「濱野候補28票、平田候補26票。よって、濱野候補が新設救急科部長に決定いたしました」
 勝利者不在の総合医局で拍手が起こることはなかった。平田先生の所信表明の途中から濱野医師とのインターネット中継は途切れていた。白神先生が電話で濱野医師に勝利を告げた。葦原はその間、自分の学外転落が告げられた瞬間を思い出していた。電話を切って、白神先生は勝利者宣言を代弁した。
「ご選任いただき感謝します、どうぞご期待ください──とのことです」
 それで、解散となった。
 平田先生が退室した。それを葦原は追いかけた。エレベータホールで追いつき、謝った。
「すみません。外科が平田先生を担ぎ出したのに、俺は、平田先生には投票しませんでした」
 葦原は濱野候補に投票した。市民病院、いや、日本の救急医療の未来は、長年お世話になってきたベテラン医師よりも、見ず知らずのアメリカ医者の方にあると思ってしまったのだ。その斬新な病院連関救急システムは、各病院で夜間休日の医療を細々と担っている当直医にとっての福音となり、病院間の相互理解の促進にもつながると思えたのだ。そしてそれは全て、夜間休日に苦痛にあえぎ不安におののく患者のためになるはずなのだ。
 平田先生はエレベータに乗り込んで、振り返った。
「葦原先生のおかげで助かったよ」
 葦原がなにも言えないうちに、ドアは閉まった。


 11月末日──。
 膵頭十二指腸切除術(PD)──長野執刀、押切第一助手、葦原第二助手──がなんとか終わった。狩野よりも苦戦していたところを見ると、もう少し前立ちで経験を積ませる必要がありそうだった。順当に行けば伊野の順番だったのだが、あれ以来、伊野は病棟と外来、救急外来業務しかやらせていない。手術解禁が出るにせよ、最短で来月までかかる。その伊野は、もっと不平を言うのかと思いきや、意外に静かにしていて、かえって気になるくらいだった。
 外科医局に戻ると、机の上の携帯電話が鳴っていた──慌てて手に取ると、真田先生からだった。
「外神先生が次期七州大学大学院医学系研究科長・医学部長に選出されたぞ」
「わっ、すごい! おめでとうございます!」
「いずれ公表されるが、市民病院の先生方にもお伝えしてくれ」
 長野PDの疲れも吹き飛ぶド級の吉報だったが、真田先生はそれだけで葦原に連絡してくれたわけではなかった。
「それと──伊野が医局を辞めると言っているんだが」
「あのバカ──」
 葦原は今回の経緯について説明をした。
「そっちに任せていいか?」
「はい、こちらでなんとかします。もうしわけありません」
 総裁の栄誉に泥を塗るような部下の──いや、自分の失態に葦原は情けなくなった。
 葦原は携帯電話を切って、時計を見た。17時。伊野のPHSを鳴らすが、応答がない。院内にもう居ないなら、ここでPHSが鳴動するはずだ。外科医局を出て、ほうぼう探して歩いた。救急外来にまで出向くと、平田先生がいた。
「平田先生、すみません。うちの伊野、見てませんか?」
 救急部長選考会議以後、初めて顔を合わせた平田先生は、いつもと変わりなかった。
「伊野先生なら最近は4階じゃないかな」
「4階?」
 中央診療棟の4階は卒後臨床研修制度開始後、研修医教育用のスキル・シミュレーションルームとなっていた。心肺蘇生などの救命処置の訓練に使う専用模型や、縫合練習キット、手術シミュレータなどがある。伊野はそこにいた。腹腔鏡手術のシミュレータを操作していた。
「伊野、お前、なにを考えているんだ。真田先生にまで言うなんて本気か? いや、正気か?」
「正気ですし、本気です。どうぞ、破門にしてください」
 伊野は葦原の方を見るでもなく、シミュレータのモニタを見ながらそう言った。
「なんだと? 冗談でもそういうことを言うなよ」
「外科医がメスを取り上げられたんだから、俺はもう、外科の上司の指示には従いませんよ」
「お前なあ……反省はないのか。大和先生に言われた再発防止策は考えたのか?」
「そんなもの、無理に決まってるでしょ」
 葦原も、結核性虫垂炎というのはどうしようもないとは思っている。それを術前に見抜く方法も、見抜いてなお安全に手術する方法も、見当がつかない。そもそも、結核などで必要な空気感染対策が可能な手術室などほとんどない。七大病院は設備的に可能だったはずだが、悪性腫瘍や免疫不全の患者を多数診療している大学に「結核疑いの虫垂炎」を紹介するわけにはいかない。伊野の置かれた立場には、同業者として同情はしている。しかし、上司という立場上、安易に同調はできない。
「だから、投げ出すのか」
「はあ? 誰がやっても同じことでしょう。俺は貧乏くじを引かされただけだ。医局人事で来た病院で、患者一人救ったのに、あんなレアケースの結果論でこんな仕打ちを受けるんじゃ、医局にいる意味なんかない」
「医局にいる意味がないだと? 医局はお前を甘やかすためにあるんじゃないぞ。外科全体の水準を向上させるために医局という組織があるんだ。今回の事例を通じて自主的に改善すべきことがあるとしたら、それを当事者のお前に要求するのは当然だ。答えがないならないなりに、それを科学的に結論づけた上で、現実的な対応策を示すのが医者だろうが。これは外科の内部の問題だぞ」
「もういいです。医局、辞めるんで。医局の論理なんか知ったことではありません」
 そのふてくされた言い方に怒鳴ってやろうとした時、ガチャとドアが開いた。平田先生が、お邪魔するよ、と入ってきて、伊野の隣に立った。
「伊野先生、前に話していた論文、見つかったよ。結核性虫垂炎のやつ」
 そう言われて、ようやく伊野はモニタから目を離して、平田先生の方を向いた──伊野のやつ、平田先生にはこの件を相談していたのか。
「ちょっと古い文献だけどね、これ。葦原先生もどうぞ」
 平田先生は、万年博士論文の定位置であった白衣のポケットから冊子を取り出して寄越した。一見して古い文献であることがわかった。それを見た伊野が胡散くさげに言った。
「これ、30年も前のじゃないですか。それくらい遡らないと結核性虫垂炎の症例っていないんですか?」
 30年に1度の症例ならレア中のレアである。葦原も医学論文検索サイト(パブメド)で調べてみたが、アジアからの報告が数例見つかったくらいだった。それの再発防止策など無理だと葦原も思う。藤堂先生だって、無理難題を課したわけではない。そうと分かってどうするかを考えられるくらいに、頭を冷やさせたかったのだ。今の伊野のように、できっこないと言っているようでは話にならないのだ。
「そんなんだったら、俺が悪くないって証明されたも同然……わっ」
 伊野の声が出た。なにを驚くことが──そう思った葦原からも同じような声が出た。
「わっ」

『短報 結核性虫垂炎の一例 仙台市民病院外科 外神悠也………………』

 この論文の著者は本学外科学講座教授・七刄会総裁外神先生その人であった。葦原は慌てて要旨(アブストラクト)に目を通した──約30年前、若き日の外神先生がここで、結核性虫垂炎の可能性を術前に見抜き、事前の感染対策を講じたあと、外科的切除を行い、その診断・治療を完遂した──!

って……そんなのありかよ!」
 伊野も葦原と全く同じことを思って、口にした。
「どう、伊野先生ならできたかい?」
「そんなの無理に決まってるでしょ! 肺結核の患者の腹痛で、腸結核を合併したって話ならまだしも、30年前のも今回の症例も、肺結核ではなかった。結核を疑うすべはありませんよ」
 同感だ。これは外科医として求められる能力ではない──否、外科医ほど切る。
「でも、

はそうできたんだよなあ」
 平田先生は不思議そうに言ったが、葦原のほうが不思議な気持ちだった。
「平田先生、この論文はどうして……」
「外神とはここで実地修練した仲だよ。ちょうど市民病院の建て替え直後だったかな。この中央診療棟がまだない頃だよ」
 多分、驚きより嫌悪感が表情に出た。総裁を呼び捨てにする人間に初めて会った。
「……外神先生とお知り合いなんですか?」
「ああ、あいつと僕とは七大の同期なんだよ」
 今度はちゃんと驚いた。総裁のことを「あいつ」呼ばわりできるものは七刄会の中にはいない。先輩であってもだ。だが、医学部の同期ならばそういう機微からは自由だ。葦原の同期の祢津が今後、どこの医学部の教授になっても「あいつ」なのと同じだ。
「平田先生は、外神先生と、同期でいらしたんですか」
「ああ。大学の頃はあまり接点はなかったけどね。あいつは優等生、僕は遊んでばかりだったから。でも、ここで実地修練し始めてから、同じ外科志望ってことで意気投合して、いろいろと一緒にやったもんだよ。納涼祭のあの踊りなんかもね」
「と、外神先生が裸踊りをしたんですか?」
「だって、七州大学大学院医学系研究科外科病態学講座外科学分野教授、七州大学病院長そして次期医学部長であらせられる第七代七刄会総裁外神悠也があの裸踊りの考案者だもん。今じゃ、市民病院研修医の伝統芸能なんだから、偉くなるやつはおふざけも一流ってわけだ」
 葦原は仰天した。男研修医の裸踊りは市民病院納涼祭の名物として長く伝わり、葦原もやったし、ここにいる伊野も市民病院で実地修練したからやっているはずだが、まさかそれが総裁発だったとは──。
「ま、同期と言っても、その後はご存知の通り、彼は今や七州地方の医者の頂点に駆け上がり、こっちは出発地点でずっと足踏みだ。もちろん、あいつは僕には想像もつかないような努力も苦労もしてきたんだろうから、嫉妬は微塵もないけれどね」
 葦原は正直、伊野のことはどうでもよくなってしまった。長年の疑問をぶつけてみた。
「平田先生はどうして入局されなかったんですか?」
「外神がいたからね。さっきの30年前の結核性虫垂炎、実は最初に担当していたのは僕なんだ。上司の言うままにアッペだからと手術準備を進めていたのを、あいつが、この症例はちょっと変だから様子を見ようって止めて、結核の疑いがあるからって切りたがりの上司を説き伏せて、そうと見越して万全の準備を整えた上で手術して、最終診断をつけて、その論文にまとめたんだ。流れるような診療だった。それまでは、同じ七大卒の同期だからと張り合うこともあったが、あいつは入局してきっと流れるように偉くなるだろうと悟って、僕はそうしなかった。同じ土俵じゃ勝てないからね」
 平田先生が言い終わると、伊野は投げやりな口調で言った。
「俺はじゃあ、30年前の研修医にも負けていたっていうのか。なら、なおさら、俺が医局にいるなんて無意味じゃないか」
 平田先生は手を横に振った。
「おっと、僕は負けっぱなしじゃないよ。あいつと僕は今、再戦中だからね」
「……再戦?」
「あいつは実地修練の頃からいつも、医者は患者のためには偉くならないとダメだって言っていた。僕はそうは思わなかった。だから、それでよく議論になっていた。それじゃあって、あいつはとことん偉くなって、僕はとことん偉くならずにいて、それぞれの定年(ゴール)を迎えたときに、どっちが患者のための医者でいられたのかってのを比べてみようってことにしたんだ。それから30年以上、あいつは海外留学、助手・講師・助教授、教授、病院長、そして学部長って偉くなって、そしてそうなるたびに律儀に連絡をくれて、ちょうどついさっきもそんな連絡をもらったが、僕は僕で無位無官(むいむかん)の低空飛行を続けられているから、今のところは僕らのルールでは、引き分けなんだ」
 ふいに、心臓外科の同期・市島が代々の七刄会総裁を指して言った、極位極官(きょくいきょっかん)という言葉が思い出された。総裁と平田先生、医学部同期の医者としてはあまりに対照的なキャリアだった。
「もしかして、本当にそれだけで入局しなかったって言うんですか」
 平田先生が入局しなかった理由が、わかったようで、わからなかった。いや、その理由に納得できなかったのだ。
「それだけだよ。若気の至りとは言わないでくれ、今もそうしている最中なんだから──これはこれで、意外にいい勝負なんだよ。僕は60歳定年までここにいられれば36年間勤務したことになる。あいつは実地修練2年後に入った七大で、3年海外留学で抜けているから、教授定年の65歳まで大学に勤めても、同じ36年間だ。ただ、今後、本学総長になれれば七大に66歳までいられて合計37年間、そこで初めてあいつの勝ちというわけだ」
 本学総長には教授定年は適用されず、総長任期6年を満了するまで続けることになる。総裁が本学総長になられるとすれば61歳からだから、確かにその計算となる。だが、腑に落ちない。医者の業界では単一の医療施設に居つづけることそのものには別に価値はない。こどもの遊びのようにしか思えない。偉くなれなかった言い訳ではないのか。本当に偉くなろうとしなかったと言えるのか。
「ですが……社会人大学院生になったのは、学位を取って、役職につくためだったのでは?」
「藤堂先生はきっと僕のためにそうお考えになってくれたんだろうね。僕もヒラ社員である以上、目上に逆らいはしないけど、親の心子知らず、僕は救急部医師として働いてきただけだね」
「あの博士論文は? 書きかけだったわけですから、少しはキャリアを向上させようという気持ちがあったのでは?」
「僕は30年前の件からずっと、アッペは原因にかかわらず、すぐに切るべきか否かを考えてきた。それをまとめておこうと常々思っていただけだよ。あれを博士論文にしようとか、偉くなろうとか思って書いていたんじゃないよ」
 医学論文を偉くなるための手段として捉えていないという発言に驚く自分がいた。
「とは言うものの、見よう見まねじゃ難しくて、結局、まとまらずじまいだったから、手伝ってくれた、いや、手を引っ張ってくれた久斯先生には感謝している。それをけじめにして、藤堂先生にもご報告して、大学院自主退学のお許しはもらったよ」
「だから、学位審査はお受けにならなかったし、救急科部長も落ちて助かった、と」
 平田先生は、そうそう、とうなずいた。エレベータでのあの一言は皮肉ではなかったのか──葦原はそれで安心してよいのかわからなかった。
「納得できません。そんなの、負け犬の遠吠えでしょう」
 伊野が横から、怒りながら言った。
「偉くなろうとして働かないやつは、謙虚なのではなく、不真面目なだけです。その業界に出世の花道があるなら、そこに向かうのが誠実な働き方だ。偉くなるってのはズルでも悪徳でもない。サラリーマンなら社長を目指す。官僚なら事務次官を目指す。政治家なら総理大臣を目指す。それと同じで、医者なら医学部教授を目指す。出世意欲を放棄するほうが自分勝手です。七大医学部入学試験で競争して誰かを負かして入ったんだから、その責任があるはずです。逃げただけじゃないですか」
 平田先生は笑って答えた。
「じゃあ、伊野先生も一度や二度、誰かに負けたくらいで引き下がれないよね。おっと、僕のマネはしてくれるなよ」
 伊野は黙った。平田先生は空になった白衣のポケットに手を突っ込んで、言った。
「我ながら偏屈だなって思うけど、偉くならないって意外に大変なんだよ。医者って、年功序列でうっかり偉くなっちゃうものなんだから。学位を取りかけたり、部長になりかけたりね。ああ、言い訳させてもらうけど、僕は怠けてもいないつもりだ。偉くなろうとして費やされるであろう医者の労力の分、関わった患者さんに還元してきたつもりだ。論文執筆や学会発表の準備で夜なべして翌朝寝坊したりもしなかったし、学術集会出席のために平日欠勤したりしたこともない」
 寝坊は伊野のことだろうし、平日欠勤は葦原もこれまで当たり前のようにやってきたことだった。平田先生の言葉に批判がましい響きはなかったとはいえ、確かに医者は医者の論理で勝手なことをしているものだと気付かされた。本当に、患者の利益につながるスキルアップのために、そうしてきたと言えるだろうか。
「そして残業もしない。偉くなれない勤務医を長く続ける秘訣だ」
 その言葉で、解散になった。医局まで一緒に戻った伊野も、無言のまま、帰った。
 葦原はなんとなく帰る気にはなれなくて、医局に独り残っていた。
「あっ、まだいたんですね、葦原先生」
 声の方を向くと、久斯だった。もう20時を回っていた。
「お前こそ、まだいたのか」
「今日は当直なんです」
「おつかれさん。どうした?」
「先生の論文が全米外科医学会誌(JASA)受理(アクセプト)されましたので、そのご報告に。これでUSAのやつらにも、七刄会なめんなよの精神が伝わるんじゃないですかね」
「……本当か。おめでとさん」
 うまく反応できずにいると、久斯のPHSが鳴った。
「それだけです──じゃあ、僕は救急外来に戻ります。おやすみなさい」
 久斯はそう言って、去った。
 なんだか他人事のようだった。大学院生の頃にそれに受理されたときは、吉良先生にだいぶ手直ししてもらったとはいえ、達成感にしびれたものだった。だが今回の論文はほとんど久斯が書き、葦原はチェックしただけだった。今にして思えば、SSSS(フォーエス)で実質的に敗北した牛尾に対して抜け駆けするような気持ちがあったのかもしれない。だからか、いま実感できるのは論文受理の喜びよりも後ろめたさの方だった。研修医に書いてもらった論文で点数を稼いでしまったわけだ。外科医の部下に必要な説教は平田先生にしてもらって……。
 手術室の外ではまるで役に立たないで一所懸命か──葦原は自嘲するしかなかった。
─────
©INOMATA FICTION 2019-2020
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登場人物紹介

葦原建命(あしはら・たてる)

 七刄会医伯正

 七州大学病院外科診療助手(中部班)

久斯創(くし・つくる)

 せんだい市民病院「アラサー」初期研修医

 論文モンスター

 

真田善次(さなだ・ぜんじ)

 七刄会医伯総監

 七州大学病院外科特命教授

 七州大学医学部外科学講座医局長

藤堂壮平(とうどう・そうへい)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院副院長

 「雷神藤堂」「七刄会ラパ胆のパイオニア」

大和達郎(やまと・たつろう)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科部長

 「肝臓手術の名手」

押切慶二(おしきり・けいじ)

 七刄会医伯監

 元七州大学病院外科診療助教授・中部班最高執刀責任者

 せんだい市民病院外科副部長

 「七刄会PD最速」

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