ノケモノ会議

文字数 95,879文字

 「ノケモノ会議」 

 「しっかり大人になりなさい」
 
 母親の置き手紙は、仕送りの段ボールの上に、これ見よがしに貼り付けてあった。
 
 「余計なお世話よ」
 
 私は配達員の差し出した紙切れに自分の名前をサインする。
 南天カナコ。
 私の名前だ。
 そして、実印を押して、私は私を証明する。

 私たちは自律している。
 周囲に合わせて取るべき行動をとる。
 それは社会で生きていく上で基本的なことで社会に生きる人全てが保っていなければいけないコンセンサスだ。

 この世界にはルールがある。ルールの中で私たちは自由に暮らせる。他人の尊厳を傷つけない範囲で暮らせるように、あらかじめルールによって規定されている。

 ルールと言っても些細なことだ。
 生まれてから死ぬまで付き纏うけど、一昔前のSFみたいにがんじがらめなわけじゃない。
 朝起きて、食事をして、歯を磨く。高校の制服を着て、外に出かける。普通のことだ。
 わたしはこの生活に不満はない。

 学校に行く準備をする。小学校から大学まで統合された一貫の学校はこの日本国にたった一つしかない。この街では昔道路を走っていたらしい自動車も高速モビリティーもなくなった。騒音排気ガスゼロの空気は心地いい。通学鞄を持って道路に出るともうそれで通学は完了したようなものだ。学校まではまだ1キロメートルほどの距離があり、始業時間まであと30分ある。
 携帯端末を起動すると、道路との情報接続がなされ、目的地までのルートが表示される。
 到着は始業10分早めに設定した。
 道路は青いコンベアーで足を動かさずとも勝手に動き出す。20分で1キロだから時速3キロだ。頬を撫でる風が涼しい。
 この街の道路は自動で動くのが当たり前になっている。学校を中心にして伸びたコンベアーの往復路が家々の隙間を縫うように走り、この街の全生活と共にある。
 動くコンベアーの上をわざわざ走るのはエネルギーの無駄であり、通学中は携帯端末をちらちら眺めていられる。

 私がなぜこの街に来たのか。
 それはよく言えば、選ばれたからで、悪く言えば、貧乏くじを引かされたのだ。

 携帯端末には今わたしがいるコンベアー上に誰がいるのか男女トイレのようなピクトグラムで表示されている。わたし以外に男が一人女が三人。普通は年齢などの情報はロックされているために閲覧できないが、フレンド登録すれば友達が近づいてくればその情報、名前や性別や年齢が端末上に映される。もちろんこれらも全て個人の公開設定に委ねられており、実際フレンド登録をしても性別と名前しか公開しない人もごまんといる。

 国民のうちで毎年、ランダムに数人から数十人が選出され、この実験都市に、秘密裏にそれぞれ家を充てがわれる。ニートも、大学教授も、億万長者も、学生も、年齢性別関係なく家に書類がやってきたら、深夜バスでこの街に連れてこられる。

 理由は一つ。『良識ある大人ではないから』だ。

 この街が日本国のどこなのか、私だけでなくこの街の全ての住人が知らない。

 『ルート合流地点です。速度変調はありません』

 携帯端末から音声がする。
 視線を端末から逸らし前を見るとわたしの青いコンベアーが途切れ黄色いコンベアーと合流しているのが見えた。そしてそのコンベアーに乗っているある人はわたしとフレンド登録をした仲だ。
 名前は泡草ハナエと言う。黒髪ショートヘアの私と違って、髪が長い。切れ長の目が印象的だ。
 私は青から黄色のコンベアーに乗り移る。
 ハナエは目の前で合流した私に驚きもせず、挨拶をする。

 「よう」
 「こんにちは」

 私もそれに応答する。
 本当は私は彼女と待ち合わせの約束をしていた。なのにその切れ長の目を見るとちょっと気さくな挨拶でもできなくなってしまう。ハナエの性格はとても温厚だ。私の勉強も見てくれるので面倒見もいい。悪口も大声も滅多に言わない。いいやつなんだ。でも私はその切れ長の目を何故か苦手に感じてしまう。どうしてもその目の奥を覗くことが怖い。何故かはわからない。

「昨日のことなんだ」

 ハナエはそんな私をいつものことと流して話し出す。私は相槌を返す。

「私が家でカエルを飼ってることはもう話したっけ。」
「うん。」
「そのカエルが無事卵を産んだことは話したっけ。」
「うん。」
「その卵が無事孵ったことは」
「聞いているよ。」

 ハナエは私の記憶がどれだけ彼女の認識と合っているかをまず確認してから話をする。そうした方が聞いている人が分かりやすいからだそうだ。私はそんな気遣いをする人間をハナエくらいしか知らない。

 ハナエはそれなら話せるなと言い、一呼吸した。

「おたまじゃくしって案外可愛いぞ。小さい生命がオレの作った箱庭でのびのびゆったり暮らしてる。気持ちがいいね。」

 ハナエはいい奴だが少し変わっている。弱いもの、小さいものを見るとそれを何不自由ない環境に置いてみて観察しようとするのだ。
 拾ったカエルをただ育てるだけではなく、繁殖させる。生き物ならばそれも観察対象らしいのだ。いつか彼女がコントロールできる範疇を超えないだろうか。私は彼女が捨て犬や捨て猫を拾わないか時々心配になる。

「私は自分でなんとかできる以上のことはやらないよ。そんなの拾った子にも悪いじゃないか。」

 ハナエは私の視線から感情を読み抜いたらしい。笑ってそう答えた。

「だからさ、カナコ。ちょっとあんたには悪いけど」

 カナエはいきなりそんなことを言う。
 じっと見据えた鋭い目に映える虹彩はほの蒼くレンズ模様かはたまた小宇宙か。
 私はその蒼の奥にある黒い世界に吸い込まれるような気がする。

「お前の宿題はカエル飼育が完遂するまで見てやれない。これは私に課せられたミッションなんだ。」

 ハナエはそう言って私の目の奥を見やる。
 その時、ハナエの目の奥が私にも見える。

 ああ、これは折れそうにないな。
 強い意志を目の前にすると私はいつも後ずさってしまう。私の中にそこまで強い意志を感じられないから、もし意思と意思がぶつかった時に砕けるのは私の方なのだ。その事実にちょっとだけ戦慄してしまう。

「カナコ。もしかしてちょっと妥協した?」
 ハナエの視線は私をチクチク刺す。
 私はいたたまれなくなって視線を逸らした。

 『ルート合流地点です。速度変調はありません』

 その時私とハナエの携帯端末から音声が流れる。

 「私のルートはこの先学校まで一本道のはず」

 ハナエはすこし驚いている。
 無理もない。
 学校に向かうルーティンを何十何百と繰り返してきた私たちはいつ誰が合流するのかの大体の位置を経験で掴んでいた。これから先は誰とも合流せずに学校に到着する流れなのだ。
 昨日だって一昨日だって普段通りだった。
 つまり飛躍なしに考えれば、答えは一つだ。
 私たちの知らないルート合流者がやってくる。
 携帯端末を見ると何やら赤いルートが黄色いルートに合流している。
 赤。
 合流ルートの色は個々人で好きにカスタマイズして良いが、二つだけ「使ってはならない色」が存在する。
 黒色と赤色だ。
 黒色はこの街の警備団体が使う色であり、有事の際にしか出てこない。また黒色になったルートには安全性の観点から近づいてはいけない。
 次に赤色。
 この色は二つの意味合いを持ちどちらも危険なものと考えられている。
 一つはこの街特有の災害。巨大な「バケモノ」が襲来する時だ。「バケモノ」を中心にして街の一定区域が赤く染まるとルートも同じ色に染まり、立ち入り禁止になる。「バケモノ」とは何なのか。残念だけど情報統制が敷かれているために私にはわからない。でも街の中の「バケモノ」は赤いオオカミのアイコンで表示されるのでどこに居るのかはリアルタイムで監視できる。それと「バケモノ」はいつも街の縁あたりで出現するので、学校に通っていれば禁止区域に自分が巻き込まれることはない。
 ではもう一つ。この一本道に合流する赤いルートは何なのか。それはこの街の登録名簿リストに載っていない存在だ。この街に入るだけでも必ず関所で住民登録や旅行者登録が要る。それを掻い潜ってまで街にやってくることは不可能だ。

 「今日のニュースには『ノケモノリサーチ』は無かったはず」

 調べてみても最近一ヶ月の「ノケモノ」は0件だ
 ノケモノ。
 この街にある一つの浄化装置の結果であり暗部。「バケモノ」の元凶となる存在や危険物、犯罪者を「ノケモノ会議」に出席させて「ノケモノ」にする。「ノケモノ」となった存在はこの街の外へと排除される。排除された存在は「ケモノ」と呼ばれ、この街への再度侵入は不可能になる。
 数ヶ月前に一例がある。ある男子生徒が「ノケモノ」になったとインターネット上のウェブサイト「ノケモノリサーチ」に載っていた。どうやら暴力沙汰で「ノケモノ」認定されたらしい。「ノケモノ」は厳重に警備団体「獣人委員会」により監視されたのち、街の外部へと追放される。追放されないとどうなるか。「バケモノ」と呼ばれる怪物になる、とインターネットの噂では言われている。正体不明の怪物の、その正体を村八分した人間に押しつけて解釈するのは、理性的ではないと思う。 

 「バケモノ」の討伐とその解明、有事の際の保護活動などのため「獣人委員会」は作られた。予算に従って戦闘用無人ヘリコプターを飛ばし、出現した「バケモノ」の調査と殲滅を一手に引き受けている。「バケモノ」はミサイルで死ぬ。拳銃で撃たれれば死ぬのだ。しかし、「バケモノ」は死ぬと半径二キロメートル周囲に漆黒の内容物を撒き散らす。内容物は大気こそ汚染しない。しかし、その区域に何の対策もせずに一般人が足を踏み入れると、それだけで突然死してしまう。理由は分からない。猛毒なのかもしれないが、現代科学では解決のしようがない。獣人委員会の調査によると、黒い内容物は三ヶ月で消滅するらしい。科学的ではないが、どうやら経験則として明らからしいのだ。二年前は私のいるこの区域も「バケモノ」の襲撃に遭い汚染されたらしい。その明くる年に私はこの街にやってきたが、人々は普段通りの生活をすっかり取り戻していた。
 しかし、「バケモノ」が出現した区域の避難が完遂され人命が完璧に保護されても、生活や経済活動は三ヶ月の停止を余儀なくされる。少なくない打撃だ。「バケモノ」の出現原因が分からない以上、人々はその影に怯えるしかない。この街には黒色の建物はない。紛らわしいからと忌避されているのだ。
 しかしながら私たちは今その「ノケモノ」と対峙しようとしている。

「どうやって抜け出したんだ」

 ハナエの表情は硬い。
 携帯端末を取り出し道路操作画面を片手の親指で弄る。

『速度を時速10キロに上げます。急な変化にご注意ください。』

 ぐらりと揺れたと思ったら道路は今までの二倍以上の速さで流れ始める。
 よろめいた私の肩をハナエが掴む。

 わたしは道路の上で尻餅をつく。
 ふと興味が湧いて、流れる道路の後ろを振り返る。「ノケモノ」の姿なんて見たこともないのだ。興味がわかない方がおかしい。

「あ」
「ん」

 ハナエも振り返っていたらしく、私たちはばらばらに驚き同じ言葉を放っていた。
「ノケモノ」の情報を得て加速させた道路で逃げ出す私たちを見ていたのは、見るからに不審者ではなかったのだ。

「男の子だ」

 青と白の横縞服を着てズボンは茶色い。
 短い茶色の髪に茶色い瞳。
 胸には不釣り合いな金色のバッジをつけている。年は小学5、6年生くらいか。

 その子は私たちが怖がって逃げだしたことなど知らないのか、赤い道の縁に立ったままにっこりと笑いかけた。

「変な子。」
 私はふと呟いていた。ハナエはそんな私の声に驚き、こちらの顔を覗き込む。

「何、いきなり。」
「何でもない。新鮮な反応だなと」

 ハナエのその時の目はカエルを睨む蛇のようだった。
 怖い。
 いや、いい奴なんだ。
 だけどその視線が異様に鋭い。

『急速に接近する人物あり』

 携帯端末から声がする。
 でも急速に接近する人なんて一体どこにいるのだろう。
 私たちは危険を回避した。
 他の地点からまた別の合流者が来たのだろうか。
 しかしハナエはすぐにまたも振り返って道路の向こうをまっすぐ指し示した。

 さっきの茶髪の子どもが速度が変わった道路の上を難なく走っている。
 そしてここに向かってくるであろうことに私の理解はようやく追いついた。

 「正体が分からない以上、例え子どもでも容赦はできない。」

 ハナエは顔をしかめる。
 嫌な予感が私の首筋を伝う。
 ハナエは子供相手に「あれ」をやるというのか。
 ハナエの携帯端末を見ると既に画面は道路画面を映していない。赤い背景にオオカミを正面から見たレリーフが端末いっぱいに表示されている。
 ハナエの指先とあの子どもとの距離はもう数十メートルから数メートルにまで縮んでいる。

「南天!ジャッジ!!」

 ハナエが私にある符号を叫ぶ。
 ハナエの指先はあと数歩で子どもの額に届くだろう。
 ハナエだけであれをやるのか。
 私もそれに加担するのか。
 というかあれを私は一度だってやったことはないのだ。
 だが、それを深く考えるほどの猶予はなかった。
 指先を子どもに向け、符号を叫ぶ。
 ハナエの指が子どもの髪に触れた。

 「『ノケモノ会議』執り行います!!」

 ハナエの携帯端末の液晶。その赤い画面が、端末の枠を越えて、物理的境界を超えて視界の中を広がってゆく。あの少年はその赤い幕に隠されて見えなくなり、赤い膜は私の視界にある空を、街を、地上のありとあらゆる事物を侵食して削り取ってゆく。ただ目の前に狼の白い頭蓋骨のようなレリーフが広がる。
 人間個人が持つ現実は精々人間一人の視界に限定される。そのちっぽけな現実は私の不用意な宣言で赤く塗り潰されたのだ。ハナエの姿ももうどこにもない。白い頭蓋骨が私の目の前に拡大しつつ迫ってくる。

 「心配しなくていい、カナコ。それは仮面に過ぎない。この世界も拡張現実のまやかしだ。私たちの常識、その範囲内だよ」

 ハナエの声がどこからか聞こえてくる。

 「私たちは今から個を捨て、街のために動く群体の『ヒト』になる。『ノケモノ』を見つけ出し裁くために」

 狼のレリーフ、その眼に該当する空隙に私の視界は狭まってゆく。ついに視界の広さを取り戻した時には、私はその仮面と同一になっていた。体は動かない。舌先さえ自由にできない。私の全身が凍りついたような錯覚を覚える。目の前に広がる景色に驚いたわけではなく、見えない拘束が私を縛っているのだ。

 「ノケモノ会議」は仮想現実の中で行われる。見渡す限り赤い異空間に、九つの議席が宙に浮かぶ。議席は金色に装飾されている。
 視界が開けると、どうやら私はその一つに座っているらしかった。私の視線はただ足元に広がる世界を見下ろしている。高そうな赤い絨毯が敷かれている。絨毯の上で揺らめく被毛はまるで炎の揺らめきのようで、その上に呆然と立つ少年の足元から赤く燃え上がっている。少年の周囲は金色の真円が広がっているその周囲を業火のように取り囲んでいるのだ。浮遊している私たちには及ぶことのない炎。少年はその状況にほんの少しも狼狽えず、空中に浮遊する議席を見据えている。

 ヒト「ここはこの街のどこかにある。でもどこにもない空間だ。」

 ヒト「ヒトとケモノの間を判別する世界」

 ヒト「ここに参加した者はヒトであろうとケモノであろうと逃れることはできない」

 ヒト「それがこの街のルール、決まりなのよ」

 子ども「えっと、つまりメタな世界ってことですか」

 ヒト「やけに物分かりがいい」

 ヒト「物分かりがいいという次元の問題じゃないでしょ。なんでこのヘンテコ世界で平常心を保ってるのよ。」

 ヒト「子どもは適応力が高いと言うからのう。」

 ヒト「適応力の問題でもないと思います。」

 七人官一周しました。
 会議が始まります。

 議題 この子はヒト?ケモノ?ノケモノ?

 子ども「この部屋はどこもかしこも真っ赤ですね。そして皆さん白いお面をつけてらっしゃる」

 ヒト「その年で敬語が言えるのか!」

 ヒト「驚くことじゃないわ。一般常識よ。」

 ヒト「ヒトが懐柔されるわけにはいきませんよ。」

 ヒト「おお、すまんすまん。それで君、名前は何と?」

 子ども「柊です。」

 ヒト「柊。それは名字かね。柊くん。」

 柊「はい。それはぼくの名字です。」

 ヒト「名前は何でいうの」

 柊「柊、レオです。」

 ヒト「レオ。獣。獅子。ライオン。男の子らしい。」

 ヒト「そこを分析するんですか。」

 ヒト「まぁ違うだろうね。」

 柊レオ「皆さんのお名前は何というのですか」

 ヒト「私の名前は」

 ヒト「いや、この場ではヒトはヒトの名前を言ってはいけない。そういう決まりなんだ。」

 ヒト「すみません。」

 ヒト「危ないわね。次はないわよ。」

 ヒト「わしの名前はな」

 ヒト「もう!言ったそばから!」

 柊レオ「ここはどんな場所なのですか。」

 ヒト「ここは『ノケモノ会議』の会場で、裁判所であり、処刑台だよ。」

 ヒト「裁判所?それに処刑台?」

 ヒト「きみは知らないままヒトになったのか」

 ヒト「ほい切り替えて。さっさと決めて終わらせるぞい」

 柊レオ「決めるって何をですか。」

 ヒト「お前の処遇じゃ。」

 ヒト「ヒトか、ケモノか、ノケモノか。ヒトである我々が決めるのだ。」

 柊レオ「ヒト、ケモノ、ノケモノ。」

 ヒト「柊くんや、お前は住民登録したかのう。」

 柊レオ「何ですか?それ。」

 ヒト「いーやいや。ルートが赤くなってたんでしょ。だったらもう決まってるじゃないの。ノケモノよノケモノ。」

 ヒト「子どもをノケモノにするのかい」

 ヒト「じゃあ聞くけど、この子がバケモノにならない理由があるのかしら」

 ヒト「ノケモノもバケモノもよくわからないもんじゃな」

 ヒト「ノケモノがバケモノに」

 ヒト「きみはすこし黙ってるといい」

 ヒト「しかし反対意見は無さそうだ。」

 柊レオ「ノケモノになるとどうなるんですか」

 ヒト「森に追放される」

 ヒト「檻に入れられる」

 ヒト「獣に喰われる」

 ヒト「街に入れなくなる」

 ヒト「爪弾き者にされる」

 ヒト「愛されなくなる」

 ヒト「ヒトでなくなる」

 柊レオ「ぼくはヒトではないのですか。」

 ヒト「ヒトは我々よ。あなたは柊レオ。今はまだヒトでもなくケモノでもなくノケモノでもない。」

 柊レオ「ぼくはケモノではないのですか。」

 ヒト「ケモノは森に住み、もはやヒトとの関わりを絶ったノケモノのことだ。お前は柊レオ。それ以上でもそれ以下でもない。」

 柊レオ「ぼくはノケモノなのでしょうか。」

 ヒト「消去法で言うとそうなる。でも、きみは柊レオ。ひいらぎれおだ。六文字だ。」

 柊レオ「では、ぼくは誰なのでしょうか。」

 ヒト「誰でもないあなたはあなたよ。柊レオくん。」

 柊レオ「柊レオとは誰なのでしょうか。」

 ヒト「柊レオはきみではないのかい。きみではないのならば、柊レオとは誰なのか。」

 ヒト「きみはきみを知っている。私たちはそれを知っている。でも教えない。」

 ヒト「ヒトはケチなのさ。」

 ヒト「ケモノは欲張りじゃ。」

 ヒト「ノケモノは救いようがないわね。」

 ヒト「さて、きみは毛深いのかい。」

 柊レオ「毛深いとはどういうことですか。教えてください。今度はこっちから聞きます。あなた方ヒトとは何なのですか。」

 ヒト「毛深い。」
 ヒト「毛深い。」
 ヒト「毛深い。」
 ヒト「毛深い。」
 ヒト「毛深いのう。」
 ヒト「毛深い。」
 ヒト「えっ…えっと…」

 柊レオ「ねぇ。毛深いってなんですか。」

 ヒト「早くしろ!」
 ヒト「けっ、毛深い!」
 ヒト「柊レオ。処遇を言い渡す。きみは「ノケモノ」だ。森に帰るがいい。」

 柊レオ「やはりそうですか。邪悪の根源はヒトなのですね。」

 ヒト「お集まりの皆々様、決議を以って厳正な判断とします!この街の平和のままに!」


 柊レオ 毛深い認定により
「ノケモノ」とする

「ノケモノ」にする。
 その宣告と同時に彼の周囲を覆っていた金色の円は赤い炎に侵食されてゆく。彼は何故か私の方向をじっと見つめている。問い質すようにも、懇願するようにも見えるその眼は、これから排除される存在にしてはあまりに純朴に映る。金色の真円が完全に消え失せると、絨毯の上で燃え盛る炎は柊レオの体を包み込む。仮想現実なのだと分かってはいるが、私はその光景に中世の火刑を思い起こさずにはいられなかった。赤い炎のヴェールの中で、少年はまだ私を見ている。その茶色の眼光は何かを訴えている。私は耐えられなくなって目を逸らす。彼は全くの他人なのだ。住民登録もしていないただの子どもなのだ。正式な手続きさえ踏んでいればこのようなことにはならなかった。これは彼の過失なのだ。私が一体何の後ろめたさを持つべきだというのか。

「貴方もまた『毛深い』のですね」

 柊レオは誰に向けてか、そのように呟く。私が視線を戻した頃には、その姿はもう残っておらず、見下ろした先には絨毯の中で仮想の炎が燃えているだけだった。

「起きて。カナコ。会議は終わった。閉会したんだ。」
 閉会。
 その言葉を聞いてゆっくりと意識は戻ってくる。
 目の前にいたはずの子どもの姿はどこへともなく消えている。
 黄色いコンベアーはゆっくりとした速度で動いている。
「ハナエさん。私はあの会議で何をしたんですか。」
「よくあることだ。もうすぐ始業だ。遅れてはいけない。」
 私は倒れていたのか。
 ハナエに助け起こされる。
 コンベアーの上に立つ。

 ヒト、ケモノ、ノケモノ。
 そしてバケモノ。
 この街はハイテクによって作られた世界のはずだ。
 あの空間は何だったのか。
 朦朧とした頭の中では何一つ整理がつかない。

「ハナエさん。毛深いって何ですか。」
「毛深いってのはノケモノだよ。」


 ノケモノ会議。
 この街の不特定多数を集めて行われるそれは、この街になくてはならないものだ。警察もなく「バケモノ」という魑魅魍魎に怯えるこの街の住民には、十六歳を境にある特殊な能力が与えられる。私は二年前にこれを与えられた。
 ノケモノ会議への議決参加権だ。議決発動権というのも存在するがそれは特定の条件を達しなければ与えられない。
 バーチャルな異空間にて行われるこの会議はヒトと呼ばれる議員と召喚された人物によって成立する。議員の数は最低でも七人、最高で九人と定まっている。これは少人数による恣意的な議会成立を避けるためだ。多人数によって公平に公正に行われなければ、おそらくこの街は一月もしないうちに無人となり滅んでしまうだろう。
 ノケモノ会議では何を論じるのか。別にこの街の税金をどうするとか、この街の町長を辞めさせるとかについて語るわけではない。その実は残酷で陰湿なのだ。召喚された人物をその行動に即してこの街に留まらせるか追放するかを不特定多数で論じて決定する。
 召喚された人物には何一つ拒否権はなく、また発言してもその言葉が意味を持っているとは思われない。なぜなら、召喚された人物は多数のヒトによりヒトであるかそうでないかをまさに判別されるのだから、被召喚者の発する言葉のうちに、ヒトが理解できる言葉が発されていても、その言葉は信用できない。もしかしたらそれはただの動物の鳴き声かもしれないのだ。
 議員であるヒトたちはそれまでの状況証拠、たとえばその人の持つルートが何色をしているのか、その人の素行や学業成績、今の職業などを比較して見る。犯罪歴ももちろん公開されている。そうしてこの街にとって危険と判別すれば、そのヒト議員は議決を提出する。「毛深い」というコードが全議員で完全に一致する事態となれば、被召喚者は哀れにもこの街の「ノケモノ」となる。
 要領を得ないし馬鹿馬鹿しいから、私はそんなことをハナエから聞いても話半分にしか聞いていなかった。

「ノケモノ」とされた者がどのように追放されるのかもまるで夢物語のようにしか考えていなかった。

 私はあのノケモノ会議で何をしていただろう。他の6人のヒトたちは年齢も性別もバラバラなのに慣れきった様子で会議を進行していた。きっと大人とはあんなヒトたちのことを言うのだろう。あの中にはハナエももちろんいた筈だ。あの会議を発動したのは実は私ではない。私はハナエに急かされてその符号を叫んだだけで、実際にノケモノ会議の頂点にいたのはハナエその人だったのだから。
 ハナエはノケモノ会議の発動権を持つこの街で数少ない頭脳だ。成績優秀文武両道決断に長ける一方思慮深いと絶賛される彼女の性質には隙がない。私はなぜそんな彼女と友達になれたのだろう。

「お前が小動物みたいに見えたからだ」
 ハナエはいつか私の不安を込めた質問にそう答えた。そしていくら待ってもハナエはそれ以外の言葉を発さなかった。

 あの議会で私は狼狽えていただけだった。
 目の前に突如現れた子どもをノケモノ議会にかけて、きっとその正体不明だからという理由で…。
 いや、事実を歪めてはいけない。
 私はあの場の空気に押されていただけだった。ただ流されるままに、あの議決を承認し、そうしてあの子ども、柊レオを理由なく「ノケモノ」にした。
 罪悪感を感じないはずがない。
「毛深い」とは何なのだろう。
 柊レオが言い、ハナエと私も含めたヒト全員が言った言葉だ。
 あれに私はほんの少しどきりとした。
 私の核心を突かれたような恥ずかしい気持ちを惹起された。
 あれは、何故だろう。

『ルート合流地点です。速度変更はありません。』

 いや、もういい。
 みんな忘れよう。
 適度に忘れなければ日常すら生きてゆけない。
 会議もあの少年ももう過ぎたことで私の生活はこれまでもこれからも変化しない。彼らは私の生活に何一つ影響を与えない。
 だから、最初からいないものにしていい。
 なかったことにしてしまえばいい。

「ハナエ」
「おう。帰宅途中に寄り道しないのか。感心しないな。」

 合流してきたハナエはそう言うと私の後ろで立ち止まる。
 一体どこから合流していたのだろう。
 携帯端末を見ると数メートル前に既に合流地点が表示されている。
 私の青いルートとハナエの黄色いルート。
 合流しても緑にはならないルート。

「寄り道?」
「ほら、学校で言ってたじゃないか。この通りに新しくできた店の、ドーナツ。食べないのか。」

 ハナエは後ろから何やら紙袋を差し出してくる。受け取る。袋を開けた途端甘ったるい匂いが無遠慮に鼻をくすぐる。ほのかに香る花の匂い。

「ハニー味ばっかり。」
「私の趣味だ。お前が寄らないから買ってやったのさ。」

 袋の中にドーナツは五個ある。
 包み紙が五個分、袋の底に敷いてある。
 これで手を汚さずに食べられる。
 ドーナツは真円の中心に穴が開いている。周辺が盛り上がった形はどこか奇妙に感じる。
 中心から見たらきっと、壁に囲まれているように感じるはずだ。

「どうした。ドーナツ、嫌いだったのか。」
「いや、何でもないよ。」

 何故そう感じたのだろう。
 わからないけど、わからないままにしておこう。ドーナツは食べ物だ。
 食べれば、なくなる。

「甘い。」
「ドーナツは甘いさ。甘くなるように作られている。だから甘いんだ。」

 私の感想をハナエは笑った。
 いや甘い。とんでもなく甘い。
 花の香りがほんのりするが、それをかき消すくらいに、いや忘れてしまうくらいに甘い。
 頭にガツンとくる甘さだ。
 とても一息で食べ切れるものではない。
 というかこの甘さを5個も食べるのは人間業ではない。
 私は口をつけたドーナツ一つを包み紙で包んで持つと、残りのドーナツを袋に入ったまま後ろの人物に返却した。

「食べきれない。」
「そう言うと思った。残りは私の分だ。きみが全部持ち帰るとは思わなかった。きみは甘いよりも抹茶味とかコーヒー味がタイプだと思ったから。」
「ものすごい甘党なのね。」
「甘いものは頭にいい。甘ければ甘いほどいい。」
「カロリーはどうするの。」 
「どうにかできる以上のことを私がすると思うのかい?」

 ハナエは袋の包みを開けるとその甘ったるいドーナツを食べ始める。ハニー味が本当に好きなのか。息をする音と咀嚼する音が後ろから絶えず聞こえる。しばらくすると鼻歌を歌い始めた。雨に唄えば。今は晴れているのに何故その曲なのか。

「カナコ。人生お気楽に生きて損はないよ。」

 学校でも自宅でも一切の妥協をしないハナエは勉強するかペットの飼育をするかゲームをするか、また食事をしたり寝ることなど一日にある自分のイベント全てに全力を傾けている。彼女の私生活は訳がわからない。常に最大効率で最大効果を上げ続ける。
 その底無しのエネルギーは一体どこから供給されるのだろう。地面に根っこを生やして養分を吸い出しているかのようだ。
 それでいてこのお気楽宣言をしている。
 ハナエは今自分の持てる全力でお気楽に過ごしているのだ。
 意味不明すぎてだんだんと気が遠くなるので考えても無駄なのだ。

『ルート合流地点です。速度調整:加速毎時2キロメートル』


 コンベアーの速度がほんの少し早くなる。合流する方のルートの速度とこちらの速度の間に差異がある時、ルート上に乗っている人数が少ない方のルートが加速、減速することでスムーズに、また事故なく別ルートに移行できる。
 緑色のルート。
 乗って来るのは三人。
 誰彼もフレンド登録済みだ。
 女は一人。柿原ユウコだ。16歳
 男は二人。茅葺ショウヘイと漆野ケンゴ。
 どちらも私と同じ18歳。

 私の目の前にある建物。
 洋服店だったか。
 その向こう側のルートはこのルートと合流する。
 緑と青。
 混ざれば空色になる。
 ふと見上げてみれば今の空は、夕日が橙に染めあげている。
 空色と言ってもシアンだけではない。

「ああ、カナコか。」
「こんにちはシュウヘイ。それにケンゴも。」
「おっす。」

 茅葺シュウヘイ。黒く短い髪に黒い瞳。
 背は高く、スッキリした顔立ち。
 確かサッカー部員だったはず。
 漆野ケンゴ。シュウヘイよりは淡い黒髪。グレーの瞳。鼻には怪我でもしたのか絆創膏が貼ってある。シュウヘイと同じくサッカー部員。これは確実に覚えている。

「カナコさん。それとハナエさんも。」
「柿原か。部活帰りと見える。」
「今日の練習がいつもより早く終わったんです。」

 柿原ユウコ。
 赤い丸眼鏡を掛けて、いつもアナログな紙のメモ帳を持っている。普段気になることを書き留めているそうだ。黒のボブヘアーに、薄緑がかった黒い瞳。サッカー部のマネージャーを務めていたのか。

「カナコ。もう夕暮れなのに、なんで『こんにちは』って言うんだ。」
「そうね。『ご機嫌よう』という言葉もあるわ。」
「私が『ご機嫌よう』だなんて、言える訳ないじゃない。」

 口火を切ったのはシュウヘイ。それに乗っかったのはユウコ。私はそれに返答する。私はお嬢様でもないのだから、そんな言葉遣いはできない。

「でもよ。『ご機嫌よう』と言うだけならできるんじゃないか。」
「そんな性格じゃないって言ってるの!」

 ケンゴは何故かその言葉に拘った。
 私は少し興奮した語気で答える。

「そうだ。カナコは小動物だからな。」
 ハナエは後ろからそう声を掛ける。
「小動物ってどういう意味?」
 ユウコが質問する。
「大きくないって意味さ。謙虚で誠実。そんなミーニングで使った。」
 ミーニング。意味という単語。
 でもミーンには確かずる賢いという意味もあるはずだ。
 ずる賢い。その単語から私は何故かキツネやハイエナを思い浮かべる。動物と言うよりも二足歩行で農村から野菜を奪っていくようなそんなイメージ。英語に引っ張られたせいか、連想がちょっと童話チックだ。

 それからはたわいない話をした。
 授業のことや宿題の難度とか、昨日ケンゴが買った新しい靴のこととか。
 ハナエはあの甘すぎるハニードーナツを一つずつ彼らに渡した。

 私たちは何故夕暮れ時にサッカー部が早く部活を終えたのか。その理由を知っている。だけど誰一人その理由を話そうとはしなかった。
 恐れがあった。
 部活が早めに終わるとき、それは「バケモノ」がこの街に現れる前兆だ。
 そんな噂が真実めいて語られるようになったのはいつからか。
 でもその噂を聞いた誰もがその噂を黙認した。
 黙認せざるを得なかった。
 いや、性格に言えば噂を聞いたその時は、黙認しなければならないような空気が漂っていた。
 まるでいきなり天上から託宣が述べられたようなそんな気分。ガブリエルからの受胎告知を受けるマリアのような気分。
「バケモノ」はいつ出現するかわからない。しかし、噂であってもその縁となるのであれば、信じておいて損はないと思えた。火が燃えれば煙が立つのならば、煙を辿れば火に辿り着けるかもしれない。

 ヨウコ、シュウヘイ、ケンゴはまた別のルートに移って行った。町外れに一軒あるカラオケ店に行くのだそうだ。
 ハナエはそのカラオケに参加する気でいた。
「カナコも一緒に来るかい」
 ハナエにそう質問される。
 私はそれに異論を唱える気はなかったが、ルートは私の家のすぐ目の前まで来ていた。
「制服を着替えてから行くよ」
 私は、私の家の前に着いた途端、何故かある言葉を思い出していた。その言葉から私は今朝の会議のことも、あの少年のこともみんな思い出してしまった。それがおもいのほか衝撃的で、彼らと、ハナエと共にカラオケに行くような気分を削がれてしまった。
 誰かに「毛深い」と囁かれたような気がしたのだ。虫の知らせのようにか細い声で囁かれた。同行していた四人に聞いても、誰もそんな言葉は呟いてはいないと首を振る。
 シュウヘイもケンゴもヨウコもハナエも私をなんだか変な動物でも見るような視線で見る。四人はただ疑問に思っただけなのだろう。しかし、その視線は私の奥底を見透かそうとしているようで、夕焼けを映した赤色が不気味だった。
 私はその不気味さから逃げたのかもしれなかった。

 家に帰る。一人になることで。一人になって考えたい。整理したい。今朝のことについて、「毛深い」という言葉に付き纏われる理由について。
 私の家には家族はいない。父と母とも離れて一人暮らしをしているのだ。暗い部屋の明かりを一人で点ける。誰もいない部屋に入ることにはもう慣れている。

 玄関を開けてすぐに居間がある。一人で住むにはちょうどいい広さだ。居間にはテーブルもベッドも置いてある。ベッドはソファーの役割も兼ねていて、向かいのテレビを見ながら、またテーブルの上で食事しながら、ベッドに座ったり寝転んだり。私なりに機能美を考えて作った間取りだ。
 玄関から見て向かい側に大きな擦りガラスの窓があり、そこを開けると小さい庭が広がっている。人工芝なので管理もいらない。ただ緑が欲しかっただけで設えたものだ。家庭菜園もしなければペットのためでもない。
 その人工芝の上に何かが。
 何かの動物が倒れている。
 一面の緑はその体躯で隠されている。
 だから玄関から見て一目で分かったのだ。
 動物であっても人の敷地に入って来ることは不法侵入。つまり犯罪だ。
 私は今朝の不甲斐ないノケモノ会議初参加を思い返しながら、私の居間をずんずんと進み、窓をガラリと開ける。
 擦りガラス越しにも見覚えがある横縞は、どうしても私に今朝のことを思い出させたのだ。

「何で。」

 人工芝の上。
 そこで今朝の茶髪の少年、柊レオは眠っている。胎児のように体を丸めているというよりは、まるで四つ足の獣が伏せったまま眠りに落ちたかのような姿勢で寝ている。
 ノケモノ会議は絶対だ。
 ノケモノになった存在はこの街から排除されると二度とこの街には入れない。それは子どもであっても例外ではない。
 だのに、柊レオは今朝ノケモノにされたばかりであるにもかかわらず、私の家の庭で眠っている。
 死んでいるのならばまだ説明がつきそうなものだ。しかし、少年の息は人工芝を確かに揺らしている。腹は一定のリズムで上下する。
 どうやら生きている。事実として柊レオは生きてここにいる。
 そしてもう一つ、不可解な点があった。
 柊レオの尻。つまり臀部に変なパーツが付いている。長く太い縄のようなそれは、先端に掃除にでも使うような毛を一房付けている。
 それはまさしく百獣の王が持つ尻尾を思わせた。それは周期的にぱたぱた人工芝を叩く。
 おもちゃだろう。なぜなら今朝はそんなものつけていなかったからだ。なんだか知らないが柊レオはケモノごっこでもして遊んでいたのだろう。なぜノケモノになってもこの町で自由にいられるのか。なぜ会議の決定に対して自由なのか。疑問は山ほどあるが、まず私が取るべき行動は一つだった。

 私は試しにライオンの尻尾を掴む。
 おもちゃだろうと分かってはいる。しかしそれに反して私に沸き起こったのは一つの空想だった。
 これがもし本物のライオンの尻尾だったら。
 それがどんな意味を持つのかなんて考えられない。でもなんとなく。
 そうだったら面白いなと思ったのだ。

「ひうっ」

 結果はどうか。
 尻尾を掴まれると少年はびくりと反応した。
 まるで感覚が通っているかのように!

 私は自分の中で沸き起こる興奮した感情に、初めてであっても覚えがあった。
 泡草ハナエが動物を飼い育てる時に、またそれを私に語る時に見せるあの熱狂。
 私の常識で測れない存在が今ここにいるという事実に、私の心は大きく驚きそして確かに喜んでいる。
 ノケモノ会議でノケモノにされても戻ってこれること。人の家に入ってきても眠れてしまうその性質。そしてその奇妙な尻尾。
 何より聞きたい「毛深い」という言葉の意味、

「面白いねぇ、君!」

 私は躊躇なくその尻尾をむんずと掴むと引っ張った。18の女と言えども大人と大差ない腕力。引っ張られた尻尾が千切れてしまう危険性もあったが、私がそれに気づいたときはその尾を引っ張ったそのときだった。

「痛っだい!!!」

 哀れな被害者柊レオはまさにライオンのように吠えながら目を覚ました。尻尾の触り心地は良い。きちんと人肌の熱が通い、血の脈動もあるようだった。確かにそれは生きており引っ張るととんでもなく痛いだろうと分かっていた。
 でも引っ張った瞬間、私はそれに気づいていたとようやく思い出す。
 気づいていて、それでも目を背けていたのだ。

「ごめんなさい。」

 盗人に追い銭ということわざがある。愚かなことという意味だ。私は今何をしているのか。愚かなことである。

「たしかにぼくは、あなたの巣に入って、庭で寝てしまいました。でも尻尾を掴んで引っ張るのはルール違反です。スポーツマンシップ違反です。レッドカード退場!」

「私の家から私が退場するわけないでしょ。」

 尻尾を引っ張られた少年柊レオはあの後私に対して尻尾から伝わる痛みを訴え続けた。合計小一時間。涙が出るほど痛かったのだろう。最初の五分は人工芝の上で蹲ったまま痛い痛いと呻いていた。幼気な小学校高学年くらいの男の子を、自宅の庭に不法侵入したことと、変な尻尾を生やしていて、今朝変な言葉を発したことでとても興味に思っていても18歳のほぼ大人の私が変な尻尾を掴んで引っ張ってはいけないのだ。流石に罪悪感を覚える。
 次の十五分柊レオくんは警戒態勢に入った。小さい庭の端っこに目にも留まらぬ速さで動き、痛みを和らげるためか自分の尻尾を人間の舌で舐め始めた。私は彼にコンタクトしようとしたが、返ってくるのは敵意のある睨みだけだった。これでは私の家から出てゆけとも言えない。それよりも私は私のしてしまったことに責任を負っていた。是非ともあの尻尾の痛みを治すか和らげるくらいのことはしなくてはならないのだ。睨む眼光で拒絶されていることを薄々感じつつ、私の心の中にはそんな義務感が燃えていた。
 次の二十分間私は野生動物にするように柊レオくんに対して和解をすべく色々な策を講じた。家からおやつを持ってきたり消毒スプレーやガーゼや包帯を持ってきたり、『和解』と書いた画用紙を広げてアピールした。捕獲するのは彼が人間の男の子であるから良心上良くない。また彼が逃げてしまってもそれはしょうがないと思っていた。
 彼は逃げなかった。
 私は半ば諦め気味に『和解』アピールを始めていたが、画用紙を出したところで彼はとうとう堪えかねて笑い出した。
 私が柊レオくんとの接触を正式に果たした時にはもう日はとっくに沈んでいた。
 彼も家に帰らなければいけない時間ではないか。そして私がこうして私の庭で彼に暴力を振るいこうして拘束しているのは事案ではないか。心を開かれた安堵から一転して全身から血の気が引いた。
「柊レオくんだったっけ。」
「はい。」
「君はお家に帰らなくていいの?」
 お家に帰る。
 その言葉を聞いた彼はギクリと震えたが、すぐに首を横に振った。まるで水浴びをした後に水を振り落とそうとするように見える。
 しっかりとその茶色い瞳は私を見据える。
「いいえ。ぼくは仕事があってここにきたんです。」
 子どもが「仕事」をする。
 それは違法就労ではないか。
 そもそもなんの仕事をしているのだろう。
 全く見当がつかない。
「親御さんは君を探していないの?」
 質問を変えることにした。
 ヘンテコにヘンテコが加わると私はもうついていけなくなってしまう。
 ついて行けそうな分野で勝負だ。
「親は居ません。ぼくの雇用主の家なら知ってます。」
「雇用主?」
 また恐ろしい言葉を言う。
「ええ。住み込みで働いてます。」
 小学校高学年の子が、
 雇用主の家で住み込みで働いている?
「もしかしてメイドとかやってるの?」
「それは副業ですね」
「やってるんだ」
 ライオン尻尾のついた男の子が給仕をしたり身の回りの世話をするのだ。ヘンテコ具合で脳が茹で上がりそうだ。
 いや、待て。感心してる場合じゃない。
 大事なのは私の今の状況だ。

 事案なのか、事案じゃないのか。
 それが問題だ。
 事案だったら今度は私がノケモノ会議にかけられてノケモノにされてしまう。
 この街からの追放である。
 それは嫌だ。

「あの柊くん。流石に夜も遅いし帰った方が」
「今日はあなたの巣に泊まることにしていたのです。」
 大人の対応で家に返そうと、いや住み込みで働く雇用主の家に帰そうとする私に対して、柊レオくんはそう言い放つ。
 そして呆然とする私をよそに開いた窓から明かりをつけた家に侵入していく。

「ちょっと待って!」

 私は慌てて窓を閉めようとする。
 彼は体もう私の部屋の中に完全に入っていた。しかしまたもライオンの尻尾だけが入ろうとする途中だった。

「痛っだい!!!」

 気を張っていないと、どんなことでも繰り返してしまうのだ。

包帯を巻かれたライオンの尻尾をブンブン振りながら、柊レオくんは夕飯を作った。家にあったもの。というか親がダンボールで送ってきた食料、いや材料を見ると少年は目をキラキラさせた。

「張り切っちゃいますよ!」

 どうしてそんなに元気なのかと聞けば、見たことないほど新鮮なのだと返してきた。そりゃ昨日の夜送られて今日届いたばかりのものだから、新鮮で当然なのだ。
 彼は、雇用主に雇われその家で住み込みメイドをしているらしい。なるほど料理はできるようだ。包丁さばき一つ取っても、子どもの手つきとは思えない。
 包丁が野菜を刻む音は規則的で気持ちが良い。ガスコンロの点火や火加減の調節も申し分ない。

「ジロジロ見られてると、やりにくいです。」

 感心しながら見ていると、彼は恥ずかしそうにそう言った。
 私にも心覚えがある。
 誰かに見られている視線が気になってしまう。正確にはその視線の先で自分の行動に評価が下されていることが気になって、集中できなくなってしまうのだ。
 少年は雇用主のことを先生と言った。何かを教えてもらうような関係性なのだろうか。
「先生とぼくとで二人暮らしです。先生は満足に動けないので、ぼくが身の回りの世話をしています。」
 少年は味噌汁を作る途中でそんなことを言う。満足に動けない先生とやらを子どもが介助して暮らしているのか。

「先生に家族はいないの」
「分かりません。先生は教えてくれませんから。」
 大変だね、と口から言葉がこぼれ出そうになる。キッチンに立つ子どもはそれを気にせず調理を続ける。
「普通のことですよ。料理ができることくらいすぐに慣れました。僕じゃなくても、誰かがやらなきゃいけないんです。」

 その声はどこか子どもらしからぬ決意に満ちていた。私は自分だって料理ができるのに、米炊きだって手伝うことをしなかった。その決意に気後れしたのだ。少年の背負う何かを、共に料理をすることで知ってしまうような気がした。彼の横に立つだけで背負ってしまうような気がした。私は見ず知らずの彼をノケモノ会議でノケモノにして、忘れ去ろうとした。そんな私が彼の何を知る権利があるのだろう。罪悪感というより敗北感を覚える。彼は、私と違ってよく出来た子どもなのだ。

「柊くん。」
「レオくんでいいです。会議の時も、レオくんって呼んでくれたでしょう。僕はそっちの方がいい。」
 覚えていた。
 レオくんはあの会議の中で私の声を覚えていたのだ。
「あなたの声は、僕の言葉に答えようとしてくれました。だからここに来たんです。」
 あの会議の中で、彼の名前を明かしてくれという言葉にに答えようとしたのはもう一人いる。確かあの声は老人だったか。柊レオくんはズボンからライオンの尻尾を覗かせて、揺らしている。
「尻尾が出てると、会議にかかったら問答無用でノケモノにされそうだから、必死に隠してたんです」
「隠せるのなら、どうして今私に見せているのよ」
 レオくんは味噌汁の完成を見届けたのかガスコンロの火を止める。
 そうして私のほうに振り返る。
「あなたを信じているからです。あなたはぼくをノケモノにすることをほんの少し戸惑いました。その戸惑いにぼくは賭けたのです。」

 絶対承認。
 この街のルールになぞって生きることは簡単だ。でもあの時、わたしは周りに流されながらも本当はあの六人のヒト議員に流されながらも、こんな判決を下すことは間違っていると思っていたんじゃないのか。それでも私は判決を下したのだ。自分の言葉で彼に宣告したのだ。「毛深い」という言葉の意味はよく分からない。分からないけれど使ってしまえた。絶対承認の符号を使わなければ、周りに流されることも減るだろうか。試してみる価値はある。

「あなたはバケモノについてどれだけ知っていますか。」
 レオくんは透明なテーブルに料理を運びながら、そう尋ねてきた。レオくんが作った料理は平凡だったけれど、私にとっては独特に見える。ライオン尻尾のついた男の子が料理をするなんて考えたこともなかった。

 一汁三菜。
 焼き鮭。ほうれん草のお浸し。
 キャベツ、大根、ニンジンの具が入った味噌汁。
 それと白いご飯。

「バケモノ。この街の災害で、家屋を破壊して、ルートをめちゃめちゃに破壊する。周囲の人命も多分危険になる」
「それはどこで知りましたか。」

 レオくんは私と、彼の分の料理をテーブルの上で整理する。透明なガラステーブルに和食が並ぶ光景はミスマッチだ。私はいつも肉と野菜の炒め物を主菜にしているために、魚料理を食べることはまれなのだ。嫌いではないが、魚の鱗を見るのが怖い。かつて生きていた特徴が解体されても残っているからだ。
 私はその料理を前にして手を合わせる。
 レオくんは驚いて目を見開いた。初めて見るのだろうか。

「あの、それはどこで」
「レオくん。私とあなたはこれから何をするのかしら。」

 瞳を閉じて暗闇を作り出す。
 レオくんはどうやら気付いたらしい。
 しかし、何事かぶつぶつと呟いている。
 レオくんの呟きが終わり、静寂の一瞬が流れる。
 そして、二人で符号を唱えた。

「…いただきます」
「いただきます」

 目を開けるとレオくんは手を合わせてはいなかった。指を組んでいたのだ。

「それは神様へのお祈り?」
「不思議ですか。あなたのその作法も、きっとお祈りですよね。」

 お祈り。
 叶わないものを叶えようとして願うこと。
 神様だったり仏様だったり、動物だったり、ただの人間に対してだったり、その対象は国や地方によって様々だ。その対象をめぐって世界で沢山の争いがあって血が流れた。私の手合わせの行為はルールだからに過ぎない。
 もしルールじゃなかったら、わたしはこれを好んでやろうとは思わない。レオくんはそういう特有の宗教観を持つ子なのだろうか。流石に差別はしないけど、ちょっときな臭い。

 食事そのものは可もなく不可なもなく、取り立てて美味しいわけでもなく、平凡だ。
 私が作った方がもしかしたらもう少しだけ、おいしいかもしれない。でも誰かに夕飯を作ってもらうことなんて久しぶりだった。
 その経験が夕飯をこれまでで指折りのおいしいものにしているのだろうか。
 自分の行為が挟まれていないから、先入観を持たなくていいという側面もあるかもしれない。キャベツの切り方をミスしたり、味噌の溶け具合がいまいち悪かったり、お浸しがそんなに味が染みてなかったり、焼き鮭の塩が足らなかったり。そんな要素をちまちまと覚えていたら、せっかく作った料理は失敗作にしか映らなくなってしまう。失敗作のように一度でも見えてしまうと、どんな料理も出来の悪いものに思えてしまう。だから失敗は許されない。成功でなくとも、合格を積み上げなければ完成とはならないのだ。

「生きることに失敗した人は『バケモノ』ですか」
「どうしたの急に。」
 レオくんはなんの前触れもなく語り始める。

「生きることに成功はありません。でも失敗はあります。ヒトは星を掴む力を確かに持っています。でも失敗を積んでしまうと星を掴もうともする努力すら、諦めてしまうのです。」
「レオくん。」
 彼が何を言っているのか分からない。分からないが、なぜかその言葉には力があるような気がする。政治家の演説みたいな言葉の圧力。
 目の前の少年の胸元にはライオンのバッジが付いている。今にも吠え声が聞こえそうなほどリアルな作り込みをした金色のバッジ。
 それが錯覚のようにチカチカと光る。

「仕事です。」
 レオくんは食事を終えると、窓際に向けて駆け出してゆく。

「仕事って何」

 その時、さっきまで点いていた照明がブツンと切れる。淡い月光が部屋を包む。
 携帯端末から警報が鳴る。

『バケモノ出現』

 分かっていた。
 予感はあった。
 今日がその日だと。
 でも、まさか今だとは思っていなかった。
 きっと私と彼が寝静まった夜に静かに起こり、そうして朝になれば元通りになっているはずだって。
 そして私の住む近くで起こるはずなんて絶対にないんだって。

『退避命令です。地上半径3キロ内の住民は停電と同時に避難してください』

「ねえ、君のお仕事って何なのよ」
「『バケモノ』を救います。それが仕事です」

 そうして磨りガラスの窓を開け放つ。
 夜の冷たい風が強く頬を撫でる。
 月光に照らされ、胸元の黄金のライオンバッジは今や満月のように胸元からレオくんを照らし出す。

 レオくんは金色の光を眩しいとも思わない。

『退避命令です。地上半径3キロ内の住民は停電と同時に避難してください』

「ぼくはバケモノを救いに、この街に来ました。バケモノは倒されるものではないのです。」
 何を言っているのと声を出しそうになる。
 でもその声を発するよりも速く、レオくんは人工芝の上に降り立つ。
 私には予感があった。
 ああ、この子はどうしたってあの怪物と戦う。どうにかできる力がなくったってその意思だけで立ち向かってしまう。その夢見るような勇気に押されているのだ。
 だったらそれを私は許すわけにはいかない。
「バケモノを倒すなんて、そんなの獣人委員会に任せておけばいいの。レオくん、あなたが何者か知らないけど、この街にはもうヒーローはいらないのよ。」
 獣人委員会はバケモノ退治のエキスパートだ。政府からの許可のもと銃火器等の使用許可と戦闘機の使用許可をそれぞれ得ている。
 これまで何度もバケモノを退治して私たちの生活を守ってきた。彼らの存在があれば、一人で勝手にやってきて世界を救うヒーローなんて必要がないのだ。

『退避命令です。地上半径3キロ内の住民は停電と同時に避難してください』

「違います。獣人委員会がバケモノを救えないから、ぼくはここにいるんです。」

 レオくんはその意思を曲げない。
 獣人委員会を知っている。なのに彼のこれからの行為は余計なことでしかないことを理解していない。

 確かにこの街には昔、ヒーローがいた。
 金色のライオンがモチーフのヒーローが。
 でもそのヒーローは選ばれた人間にしかなれなかった。みんなはその選ばれたヒーローにバケモノ退治を依頼した。ヒーローはそれを笑顔で請け負った。
 でもそのヒーローの最期は悲惨だ。他ならぬ街の人々によって、そしてその後釜となる獣人委員会によってノケモノにされ、バケモノになり、殺された。
 そのヒーローの名を知らない者はこの街にはいない。
 ライオン紋の王子様。
 最初は尊敬から、でも最期は侮蔑を込めて人々はその名を口にした。そうして、いつしか誰も語らなくなった。

「ぼくの心臓は『毛深い』んです。だからぼくには『資格』があるんです。誰かの『毛深さ』を背負えるライオン紋の王子様になれる『資格』が。」

 私はその伝説を幼少期の絵本で知った。そして絵物語だと思ったまま、こうして大人になっていく。
 でも目の前のこの、ライオンの尻尾を持つ男の子は私とは違う。

『退避命令です。地上半径3キロ内の住民は停電と同時に避難してください』

 混乱する頭の中。
 何もかも投げ出して逃げ出したくなる。
 今こうしている間にも滅びは無遠慮にやってくる。
 目の前の男の子のことなんてまた忘れてしまえばいい。
 そうやってやり過ごせば普段通りの生活に帰れるのだ。

「逃げるの!レオくん!私とあなたで!!」

 そうして窓の外にいるレオくんに手を伸ばそうとする。

『退避命令です。退避命令です。退避命令です。退避命令です。退避。退避。退避。退避。退避。退避。』

 携帯端末から壊れたレコードのように『退避』の声が続く。
 都市伝説に聞いたことがある。
 バケモノが近づくほど、その信号は小刻みになる。
 そして、それが途切れた時何が起こるか。

『退避。退避。退避。退避。たい、
 もういいか。これよりバケモノ掃討作戦を始める。範囲内に残った者は『ノケモノ』だ』

 それまでは女性の音声だった。しかししわがれた老人の男の声が突如聞こえると、それきり携帯端末からの音声は途切れる。

 暗い室内。スイッチをつけても電気はつかない。携帯端末はどれだけ操作しても誰とも繋がらない。通信は圏外に設定されている。私は世界に見放されたのだ。

「誰か。誰も、助けてはくれないのね。当たり前よね。自己責任なんだもの。」

 みんな自分の世界を生きるために精一杯で、他人の世界を守ろうだとかそんなことをやろうとする人間はいない。そんなことをしたらその人の持つ世界がきっと壊れてしまう。だからヒトは一人だけで生きてゆく。生きてから死ぬまでたった一人で生きてゆく。そういう生物。孤独な命。

 携帯端末が手から零れ落ちる。
 床に当たる乾いた音。
 通信のできない端末に意味などない。
 自分からつながらない端末に存在意義なんて最初からない。

 レオくんは不意に部屋に戻ってくる。
「レオくん。」
「はい。」
「ごめんね。手遅れになっちゃった。」
「まだ手はあります。希望はまだ生きています。」
 希望。
 そんな薄っぺらい言葉では救われない。
 私の苦しみは救われない。
「希望なんてそんなもの、この世のどこにもないじゃない。」

「あります。生きている限り、人が意思の炎を燃やす限り、希望はその中で燃えています。」

「レオくん。あなたは私のヒーローになろうと言うの。」

「強者を挫き、弱気を助けるのがヒーロー。でもそれが全てではないのです。」

 ライオンバッジは暗い部屋の中でも不思議な力で光り続けている。
 携帯端末を拾うため、落ちようとする手をレオくんはそっと両手で繋ぎ止める。
 祈るように私の手を包んでいる。
 そして何故か、こほんと咳払いをする。

「レオくん。」
「実はぼく、今日が初仕事なんです。」
「レオくん!?」

 あんなにカッコつけてたのに。
 見かけはベテランみたいだったのに。
 唖然とする私にレオくんは笑いかける。
 安心させる笑みではない。
 初心者でごめんなさいという、妥協を念押しする笑みだった。
 その時、真後ろから突如轟音が響く。
 大きな構造物が、ショベルカーに潰されバキバキと解体されていくような音。
「チェンジ!もっと信頼出来そうな男にチェンジして!!」
 私の動揺した声に構わずレオくんは叫ぶ。

『獅子心臓に懸けて!』

 その声に呼応してレオくんの胸のライオンバッジが、輝きながら弾けて砕け散る。
 すると突風が足元から吹き上がり、そのあまりの強さに瞳を閉じそうになる。視力検査の風圧の比ではない。飛行機のエンジンが駆動する際に巻き起こるような立っていられないほどの暴風だ。
 私の体は止まっていることができずに中空に浮き上がる。私は恐れもせずただ呆然としている。

 レオくんの全身を繭のような陽光が包む。握られたままの手から火傷しそうなほどの熱さが伝わる。でも不思議と痛みは感じない。
 レオくんの両肩から腕、手にかけてを卵色をした毛皮が包んでゆく。手首からはグローブのように包まれ、五つの指先を丹念に覆う。
 背中からは赤いビロードの外套が伸び、その臀部で止まる。外套の先端は白い毛で縁取られている。包帯を巻いたライオンの尻尾は赤い毛皮で覆われて、その先端の毛束をまでも包む。レオくんの頭の髪の毛が光の波に流されて揺れる。そうして茶色の髪は急速に伸びてゆく。揺れるその毛髪がぶわっと広がると中からもふもふした耳が一揃い生えてくる。ライオンの耳だ。人間の耳は引っ込んだのか無くなってしまった。レオくんは光の繭の中で祈るように目を瞑っていたが、最後にゆっくりと瞳孔を開き始める。茶色い瞳に、金色の虹彩が浮かんでいる。太陽にも皆既日食のその時に白いタテガミが映るのだ。私はその煌めきを夢のように思い出す。

 私の過ごしていた世界はハイテクであっても万能ではなかった。その世界にノケモノとなった私の目の前で、御伽噺のような光景が今まさに広がっている。

 私はライオン紋の王子様に、一度でもなろうとしただろうか。レオくんがどうやってこの変身を叶えているのかはわからない。もしかしたら、ライオンの尻尾を持つレオくんにしか出来ない特別な変身なのかもしれない。それでも、この世界にこんな可能性があるなんて疑いもしなかった。きっと私は私の住む世界の可能性を、私の常識で狭めていたのだ。
 私の目の前で、尻尾が生えただけの変な男の子は、絵物語のヒーローに変身したのだから。
 赤い外套に上半身を包んだ、小さなライオンは私をその黄金の虹彩で見つめる。

「がおう」

 強い突風が足元からまたも吹き上がり、私はその風圧に目を閉じた。

 目を開く。青い屋根が見えた。私の家の青い屋根だ。その上に私は突風に巻き上げられつつ浮かんでいる。
 事実を確認しよう。
 これは夢ではないのだ。

「浮いてる。」

 状況証拠から集めるとそうとしか解釈できない。青い屋根の右側には青いルートが伸びており、いつもの通学路だと確認する。

「あっ。」

 すっかり忘れていた。
 カラオケの約束があったのだ。空に浮いていることを利用して町外れを覗くと、そこにある歓楽街はどれも明かりを絶やさず輝いている。ショウヘイもケンゴもユウコもハナエもきっとあの明かりの中で日常を謳歌しているのだ。きっと私もあの中で一緒に日常を過ごしていたに違いない。街明かりは遠く、旋風に吹き上げられている今ではあそこに行くことは叶わないだろう。
 私は日常のルートから今や完全に外れてしまったのだ。
 でも。
 レオくんが変身するほど素っ頓狂なことが、本当はこの世界ではできるのだ。
 私にだって願うだけでできることがあるかもしれない。
 気分は少女時代に思い描いた魔法使いだ。

「お願い!私をあの明かりのある世界に」

 私の願いの詠唱は、次の瞬間耳をつんざく慟哭で掻き消される。

「何よ。うるさいわね。乙女の願いを聞くときはおしゃべり厳禁でしょ。」

 それにあんまりいい叫び声じゃない。
 低い男の声で、獣の吠え声のような成分も聞こえる。野生動物の吠え声ともちょっと違う。人の心を恐れとイライラでかき回す声。

 私は何も考えずにその声をする先を見る。小言でも言ってしまおうと本気で思っていたのだ。万能感が私を動かしていた。いや躁状態か。

「ねぇ!」

 それはまさしく「バケモノ」だった。
 その体躯は立派な一軒家よりも大きく、全身は白い鎧で覆われている。鎧というか骨のようだ。動物の骨格標本がでかくなって飛び出してきたような、そんな印象を受ける。
 狼の頭蓋骨を頭から被っているが、体躯のそれは狼のようにスレンダーではない。むしろ熊のようながっしりした形をしている。

 私は慌てて口をつぐんだが、大きな声を出したのだ。気づかないはずがない。中空に浮かぶ私を見るなりまた大きく咆哮を上げる。
 見つかったのだ!

 しかし逃げようにも中空に浮いているためにどのように進めばいいかさえ分からない。

 狼の骨を被った「バケモノ」は四つ足の体制からのっそりと立ち上がる。

 骨の間には黒い何物かが蠢いている。生理的に気持ち悪いものを感じる。それでもなんだか中身は不定形のものを外骨格でなんとか形作っているという構造なのは一目で分かった。

 そういえば「バケモノ」が倒されるとその地帯一帯がしばらく侵入禁止になる。

 あの謎の内容物が原因だろうか。

 今まさに「バケモノ」に見つかり、攻撃を受けようとしているのに、まるで現実感がない。

 それもそうだ。
 私は今まで話にしか聞いてこなかった存在と対峙している。

 その脅威もどれだけか。
 その迫ってくる腕がどれだけ危険なのかさえも私にはわからない。
 気付いたら出現して、気付いたらニュースで倒されていることを知る。今までそれだけの存在だったのだ。

 だからこの旋風が私を守ってくれることさえわからないのに、私は夢を見るようにその迫る白い外骨格の腕を見つめているのだ。

「大きい…!」

 そんな感想を発しながら。

「こっちだ、こっちー!」
 目の前でその巨大な腕は停止した。

 私よりも一際大声を出した存在に意識を惹かれたためだ。

 彼は私から遠く斜向かいの家の白い屋根に立っていた。腕を組み、巨大な相手に対して全く物怖じしていない。

 オレンジ色の光が淡く光るその様は天の星が落ちてきたかのようだ。

 ライオンの尻尾が風に靡く。

 遠くから見てもその赤い外套は、赤を排したこの世界では映えて見える。

 危険色だった赤は、ノケモノの色でもバケモノの色でもない。

 赤はヒーローの為の色だったのだ。

 ライオン紋の王子様は「バケモノ」に向かって大きく跳躍する。

 それは人間のする跳躍も、動物のなす跳躍も遥かに超えたものだった。まるで、天から落ちた星が元の星座の一部に戻りたいがためにするような、壮絶なある生きものの軌跡だった。

 ライオン紋の王子様は跳躍の頂点に至る。ちょうど「バケモノ」の脳天すれすれだ。

 両手を天に高く挙げると、閃光が両手を包む。

「此れより見せるは威厳ある王、その三振りがひとつ!」

 両手が光の中で何かを掴み、光の中から引き出す。

 子どもの手には余りある、純白で出来た長槍。

 ライオン紋の王子様。
 あの童話の中には三つの武器があった。
 一つは、懲らしめのための鎌(アギト)。
 一つは、贖いの為の剣(キバ)。
 最後の一つが、裁くための槍(ツメ)。

 ライオン紋の王子様はその童話の通りに長槍を「バケモノ」に突き立てる。
「バケモノ」の狼の頭蓋骨から白い閃光がほとばしる。

「断罪の『ツメ』!」

 ライオン紋の王子様がその名を呼ぶと、呼応するように辺りに獅子の咆哮が木霊する。

「バケモノ」の体には無数のヒビが入り、その中を断罪のツメはライオン紋の王子様を連れて貫通していく。

 そして断罪のツメが地面に突き刺さる音と共に、一際強い閃光が世界を包んだ。

 視界が白に染まり、私の目に映る有象物は一瞬全て掻き消える。

 私を浮かせ、私を包んでいた旋風も閃光とともに掻き消える。

 落下する感覚を味わいながら、私の意識は眠るように落ちてゆく。


ライオン紋の王子様という童話を知ったのはまだ私がこの街に来る前のこと。
 今では記憶もあやふやな子供の頃だった。
 
 私の目の前に広げられた絵本の中には赤い外套を着たライオンの騎士が武器を取り、大いなる闇と戦っていた。
 敵の固い甲羅を槍によって穿ち、闇に落ちた同胞を鎌によって裁き、大いなる闇に対して剣を持って立ち向かった。
 私はそれを御伽噺だと子供心にも信じていた。
 小さな私に絵本を通じて話してくれたその人が誰だったのか。
 その声は何を語っていたのか。
 私はもう覚えていない、

『土曜日。午前八時三十分 起床予定時間から三十分超過です』

 昨日のことは全て夢だったのだろうか。
 目覚めた私は自宅のベッドの上にいつものように寝ていた。見覚えのあるテレビ、見覚えのあるテーブル。
 あの波乱があっても変わらないものはあるのだ。
 携帯端末は普段通りに起動する。
 私のルートは青いままだ。

 テーブルの上には何も残されていなかった。
 ライオン尻尾の男の子が作った料理は私の食器ごとテーブルの上から消えてしまっている。あの夜の不思議な一幕は魔法使いの見せる幻だったのだろう。

 体温が普段より少し冷たい。
 起床したばかりだからか。

 エネルギーが足りず回らない頭と体を何とか動かして、私は上半身をベッドから起こす。

「あれ。」

 私はそこでようやく自分がワイシャツとズボンという奇抜な格好で寝ていることに気がついた。

 窓が開いており、そこから朝の光が室内に差し込んでいる。

 窓の向こうには人工芝の緑が広がっている。
 その上にはいったいどこから持ってきたのか。

 二つの大きな衝立に青いプラスチックの物干し竿が掛けられている。

 物干し竿にはもちろん洗濯物が掛かっている。

 私の制服のブレザーがびしょ濡れになって陽に当たっている。

 私は家で洗濯はしない。近所にコインランドリーとクリーニング店があるのだからそこに任せている。

 物干し竿には他にも白いタオルやら赤茶色の革靴やらが無遠慮に干してある。

 衝立より離れた位置に灰色に濁った水の張った桶と、洗濯板が見える。

 実物を見たのは初めてだ。

 制服や革靴を水洗いするなんて聞いたことがない。

 私はそんなことをした覚えはない。

 私はこれは夢だろうなと思った。
 たちの悪い幻想だろうなと。
 ベッドの上から周囲を眺めまわして、キッチンの上に昨日使った覚えがある食器と調理器具が棚に並べられて干されている。

 玄関のすぐ横にはトイレとバスルームが隣接している。トイレの電源はついていない。バスルームはどうやら使用中でシャワーの水流が床を打ちつける音が響いている。ピンクのカーテンはその奥の姿を見せてはくれない。

 カーテンから無造作に脱ぎ捨てられた服の一部がはみだしている。

 ベットからゆっくりと起き上がり物音を立てないようにまるで盗人のようにバスルームに向かう。

 ピンクのカーテンをあえてしゃがんで潜ると
 脱ぎ捨てられた服たちの全貌が明らかになる。

 白い子供服のシャツ。横縞の服。茶色の靴下。パンツは青のトランクス。臀部にボタンが縫い付けられた茶色いズボン。金色のライオンバッジ。

 バスルームの向こうの影はまだシャワーを浴びているらしい。人影に不釣り合いな長いライオンの尻尾。
 このまま風呂から出てくるまで待っていてやろうかとふと思う。しかし制服をまたクリーニングに出したりすることやそれに掛かる費用を考えるといてもたってもいられなくなる。私は突発的にバスルームの引き戸を押し開ける。

「ぎゃあああ!!」

 やはりバスルームにいたのはあの男の子だった。
 シャワーをつけたまま、腰が砕けたような格好でバスタブの縁に体を預けている。
 水に濡れたライオンの尻尾は怯えたように反り返り、運良く私はその秘所を見ずに済んだ。

「こら、レオくん!私の制服、水洗いしたでしょ!」

 私は家族に弟を持つ。そういうものには既に耐性があった。
 しかし男の子の方はそんなことが起こるとは全く考えてはいなかったらしい。
 人間の耳を真っ赤に染めている。
 誰だっていきなり闖入されればそうなる。
 風呂場とはそういうプライベート・ゾーンなのだ。
 たが、前提としてここは彼の家ではない。
 私の家なのだ。

「は、は。」

 この世では協調と妥協が大前提とされている。しかし私はそのラインを乗り越えてまで彼に接する必要を感じていた。

 それは子供らしい好奇心なのかもしれない。
 だって、私は尻尾の生えた彼に、この世界にある無限の可能性を見出しているのだから。

「破廉恥です!!!!!」

 私は愚かにも彼が反撃してこないだろうと思っていた。だから飛んできたケロヨンを額にモロに喰らう。

『起床確認。おはようございます』

 携帯端末からの応答がベッドから冷ややかに響いた。


 「バケモノ」が一夜で、それも一瞬にして消滅したというニュースはこの小さな街ではすぐ広まったらしい。

 「獣人委員会は、このような異常事態を看過せず、調査に乗り出すと声明を発表しました」

 土曜日。
 制服をびしょ濡れにした張本人をありったけ叱ったあとで、私は浅葱色のシャツと着て、黒のズボンに履き替えた。なんとなく点けたテレビからリポーターは昨日の夜の顛末を話している。

 「板から人間の声が出てます。あっ街が映ってますよ」

 レオくんはテレビという存在を知らなかった。リモコン一つで電源がつき、中から映像と人の声が流れる。もちろんリアルタイムで。私はテレビには普段天気予報と占いくらいにしか興味を持たない。しかしレオくんはこの街の屋根一つ一つ、ビル一つ一つが映る度に、おお、とか、わあ、とかリアクションをする。テレビにかぶりつきそうな至近距離で。

 私は知っている、テレビは部屋を明るくして離れて見るものだ。

 レオくんの視力に影響が出そうなことを他人だからといって知らん顔して良いわけではない。私には大人としての責任があるのだ。レオくんの無防備な両脇に手を差し入れる。風呂場でシャワーを浴びていた体だ。それにも増して、子どもの体は大人のそれと比べて温かい。

 「なっ、何をするんですか!」

 床をぱたぱた叩いていたライオンの尻尾は驚いてピンと針金のように緊張する。

 「レオくん。テレビは離れて観るものよ」

 私はレオくんを私の座っていたベッドの脇までずるずると引きずる。抱き上げてやろうかとも思った。でも小学五、六年生くらいの体は思ったよりも大きく重い。無理に抱っこしたら私の腰に影響が出そうだ。

 レオくんは「テレビ」という概念について私に説明を求めた。私は親切にも携帯端末から辞書ソフトを起動して、その基礎を教えてあげる。

 「通信、伝達、プロパイダ」

 レオくんは頭を抱えてうんうんと唸りながら、携帯端末の文字をなんとか理解しようと奮闘する。

 考えてみればテレビだってこの世界の先端技術の結晶だ。そんなものの概念を一から納得する為には辞書に載っている文言ではあまりに不十分だ。

 しかし、携帯端末で類語を洗いざらい調べて、レオくんの前に見せてあげるのは骨が折れる。それに私は彼の家庭教師でもない。

 私は携帯端末をレオくんの手から取り上げる。
 またかぶりつきそうな距離にまで近づいていたのだ。

「まぁ何だか光って人や物の姿とか、声が流れたりする板だと思ってくれればいいわ。」

 私だってテレビをつけて見ている時は今は何時でどんな番組がやっているのかくらいしか考えない。プロバイダとか仕組みを考えるのは故障した時に限る。それも私が考えるのではなく、テレビを修理する専門の人が考えた方がもっと効率的だ。
 進化した科学は魔法と変わらないとはよく言ったもので、私にとっては便利な携帯端末もテレビも魔法と大差ない。その仕組みを完璧に理解できていない。理解しなくても、まぁそういう物だと納得して生きていける。

 光って音が出る板。
 レオくんはわかったような、やっぱりわからないような煮え切らない表情で、腕を組んで考え事をしている。

 ライオンの尻尾がゆらゆらと揺れている。

 こうしてレオくんを見ていると、いきなり転がり込んできた親戚の弟の面倒を見ているような気分になる。温かくて、知識に対して貪欲で、夢と希望を信じている。不思議な子どもだ。臀部に生やしたライオンの尻尾以上に、小学校高学年にもなって自分を世界を救うヒーローになれるだなんて夢想している。

 なんだかその後ろ姿が、懐かしいようで愛おしくて、胸を強く締め付ける。

 私がいつか誰かから貰って、そうして育てられずに失った夢の結晶。きっと彼はそれを今持っている。胸元に光るライオンバッジがその証明なのだ。

 なれるだろうか。
 それとも、私はもうなれないのだろうか。
 きみがヒーローを夢見るような世界を信じられる私に。

 「よし、決めた。レオくん、図書館に行こうよ。」
 「図書館!」

 レオくんは図書館の存在を知っていた。そればかりかどうやらその空間が好きらしい。

 「行くんですか!?行きましょう!!すぐに!!是非に!!」

 フローリングでツルツルした床をぴょんぴょん飛び跳ねる姿は無邪気で、子どもらしい。
 ライオンの尻尾が跳ねる。
 このままこの光景を眺めていたい。
 ずっとこのままで。

 ふと私はそんなことを思った。
 なぜそんなことを思うのだろう。
 玄関を出るまで考えてみたが、結論らしいものは出てこなかった。

ライオンの尻尾は外出中は隠せる、というのはどうも本当らしい。ライオンの尻尾は外に出た途端なくなってしまい、レオくんはズボンにある臀部のボタンを留める。こうして見ればただの男の子だ。レオくんが道路上のコンベアーに乗るとルートの色が青から赤に変わった。そうだ。この子は「ノケモノ」にされていたのだ。レオくんはこの街のルールを知らない。そのままズンズンとルートの上を動いてゆこうとする。「ノケモノ」がコンベアーの上を歩いてきたら一般人はどう思うのか。昨日の私が証明している。

 「ちょっと待った。」

 私は咄嗟に彼の両脇を掴んで持ち上げようとする。とんでもなく重い。齢十八の女が易々と拾い上げられる重量ではない。しかし、私は彼に命を救ってもらった恩がある。彼がトラブルに巻き込まれないように、そして彼の希望を叶えてやりたいと思った。

 「重いよ、レオくん!」

 「一体何をやっているんですか。」

 レオくんの体がコンベアーから離れるとルートの色は赤から私のルートの色、青に戻る。
 これはまだ住民登録ができない乳幼児が親御さんに抱えられていても「ノケモノ」認定されないように開発されたシステムで、地に足をつけている人にしかルートは反応しないのである。肘にぶら下げた鞄の取手が食い込んで痛い。

 「離してください!子どもじゃあるまいし!」

 「アンタは十分子どもでしょ!」

 レオくんは道中で抱き上げられたことが大層不満らしい。足をバタバタさせて抵抗する。コンベアーはもう動き出している。
 図書館までは距離にして五百メートルもない。しかし私が彼を抱えたままその距離を移動することはコンベアーが動く以上不可能ではないがとても疲れる。私はこういう時のために助っ人を呼んでいた。

 『ルート合流地点です。速度調整はありません』

 「よお、お困りと聞いた」
 「ハナエ、ちょっと遅刻だよ」
 「悪い。準備が必要だった」

 泡草ハナエ。
 この街で私が最も頼れるスーパーウーマン。
 彼女は何やらリュックサックを背負っている。中身は秘密だと言う。

 「きっと役立つものだよ。」

 そう言って切れ長の目を私の顔から私が抱えている子どもに向ける。

 「柊レオくんだね。」

 レオくんは今までと別人のように黙って、ハナエの視線から顔を背けている。それもそうだ。彼を「ノケモノ」にした張本人が彼女なのだ。この街に二度も部外者が現れれば、温厚な彼女も、疑問に思うだろう。なぜ彼が「ノケモノ」にされたのにも関わらずこの街に残っていられるのか。ハナエはそれを知っているのだろうか。
 もしかしたらまたノケモノ会議をここで発動する可能性さえあった。そうなれば私はまた目の前でレオくんを会議にかけ、「ノケモノ」にせざるを得なくなる。そんな事は御免だった。

「南天さん。」

『ジャッジ』と言う言葉が一つの符号。
『ノケモノ会議を執り行います』という言葉はもう一つの符号だ。
 符号は合わさるためにあり、『ジャッジ』と言われたら私に抵抗権はない。
 
 「ハナエさん、あのね。レオくんは。」

 弁明をしようと声を出す。私はこの子に命を救われた。確かにあの夜この街で「バケモノ」から私を救ったのは柊レオくんただ一人なのだ。あの日、結局獣人委員会は戦闘用ヘリ一つ飛ばさなかった。最近は「バケモノ」の発生もまちまちで、「獣人委員会」でも経費の削減が行われている。だからまず先に住人の避難が要請されたのだ。私たちの街の正義の味方は予算で動く。モンスターを倒すビーム光線一つにも莫大なお金が掛かる。金より人命がまず優先だろうに。

「獅子。」

 身構えていた私に、ハナエはそんなことを口にする。

「獣、獅子、ライオン。最初の『しし』は『獣肉』の『しし』だ。『ししにく』、獣もライオンもおんなじ読みなんだ。ねえ。君、不思議だろう」

 その視線は私を見ていない。
 俯いたままのレオくんに注がれている。

「ライオンは、獣じゃないです。もっと気高い。雄々しい。ライオンは、ライオンです」

 二人の中で何かが通じ合っている。噛み合っていないようだけど、私の中ではわからない秘密の暗号が、彼らの中で共有されている。何だかそんな直感があった。ハナエは無駄な言葉を使わない。私に勉強を教えるときも最小限の言葉で、重要な要素だけを伝える。私はいつもその要素を繋ぐ役割を負わされるのだ。
 ハナエはレオくんの返答にうんうんとうなづくと私の方を向いて言った。

「カナコ。私は確信した。この子は『ノケモノ』にしちゃいけない子だった。この街に必要だ」

 力が抜ける。
 レオくんの足がコンベアーに着く。青から赤に変わる。赤。ノケモノの色、バケモノの色、ヒーローの色。あの夜の、星のように輝いていた赤い外套。

「よっと」
「どっこい」
「ぼくはこれから連行されるんですか」

 一人でできなくとも二人ならばレオくんを浮かせたまま運べる。映画で正体不明の黒服が宇宙人を連行するように、レオくんの左脇を私が、右脇をハナエが腕を通して動かないようにする。そして立ち上がると赤いルートは青に戻った。

 赤と青と黄色。
 色の三原色。
 混ざれば真っ黒。

 映画の黒服の男たちみたいな黒色になる。現実にやってみるのは初めてだったが、案外快適なものだ。
 重さの負担も随分軽くなった。

 「あの、もうちょっと距離を詰めてください。体勢がつらいです。」

 しかしそれはレオくんにとってはそうではないらしい。間隔が空いていることで分散された重みは彼自身にのしかかっているようなのだ。今にもライオンの尻尾を出してしまいそうなのか、ズボンのボタンの栓が今にも取れそうだ。

 「ああすまない」
 「ごめんね」

 そうして私とハナエは距離を詰める。
 私の肩とハナエの肩でレオくんの背中を支える。肩に掛かる重圧は増える。だがしかし、ハナエやレオくんとも同じだけ重さを共有しているのだという実感があった。

「どこまで行くんだ」
「電話したでしょう。図書館までよ」
「そうか、それはちょうどいい」

 コンベアーはそんな顛末の中でも滞りなく流れてゆく。
 図書館のすぐ隣、この街の役所のところまでやってきた。ハナエはそこでコンベアーから不意に降りて役所の敷地の上に、コンベアーのない硬い地面に立つ。
 私は動くコンベアーの上でよろけそうになり、レオくんも維持していたバランスを崩しかける。慌てながら、役所の敷地についた私たちを、ハナエは笑った。

「道中で悪いが、こっちの用事に付き合ってくれ。何、君たちにも重要なことだ」

 ハナエがリュックサックの中に隠していた秘密。
 それは書類と印鑑だった。
 この街の住民登録を行うための極秘書類。

「このことはくれぐれも他言無用で、よろしく」

 ハナエの父親はこの街の高官である。いつもは別居しておりオフィス街のワークスペースを活用しているらしいが、昨日はなぜか自宅にいたのだという。

「『バケモノ』が襲来したところが丁度ワークスペースの近辺だった。だから私の家に避難してきたらしい」

 この街は狭い。私の家のすぐ近くにそんな場所があり、この街の高官はそこでこの街を動かしているのか。役所の最上階で高級な椅子に座っているものだと思っていた。ハナエは話したくて仕方がないような様子だったが、声は極力小さく調節していた。

「昨日のあの閃光。私も見たんだよ。いや、私だけじゃない、この小さな街であのとき起きていた全ての住人があの光を目にした。『バケモノ』を討伐して除染作業もいらないくらいに毒素を分解してくれるなんて。きみはすごいね。まさにヒーローだ。」

 ハナエはその閃光を見た時、私と同じようにあの童話を思い出していた。ライオン紋の王子様。地面に立ったレオくんは俯いている。ハナエのキラキラした目を見ようともしない。まだ恐ろしいのだ。

 「ぼくは、人に褒められたくてやってるんじゃないんですよ。」
 「でも求められたら応えるんだろう?」
 「仕事だからです。」
 「仕事には、見合った報酬がなくちゃいけない。」

 ハナエは父親にその御伽噺を話したのだという。そしてかつてこの街に実際にいたヒーローのことも。あの絵本は現実を題材にしていた。夢見るためではなく、今を生きるものが忘れぬよう戒めるために。

 「彼が帰ってきた。ヒーローは子どもの姿になって帰ってきたんだよ。」

 ハナエはレオくんが応答しないのが少し不満そうだ。しかし私の方を見るときには、もう晴れ晴れとした顔をしている。百面相みたいだ。

 「実印、持ってきてるよね。シャチハタは使わない主義だろう?」

 私は頷く。
 シャチハタは使わない。私の名前を保証するものはたった一つでいい。誰かと取り替えのきく「南天」の二文字は、名付けられた時点で私だけのものだ。
 役所には独特の雰囲気が漂っている。
 機械的で冷たくて、少しのミスも許されないような、厳粛な雰囲気。休日なのに人の数は多い。老人から、子ども連れの主婦、サラリーマンまで多様だ。昨日の「バケモノ」が襲来した影響だろう。
 役所のテーブルで、ハナエが持ってきた書類に記入する。レオくんがもうノケモノにならないように、私がこの子をノケモノにしなくていいように。この子をちゃんと社会の一員にするのだ。
 ハナエはレオくんの柊という名前を隠そうと提案した。

 「レオなんて名前。今時じゃありふれてるだろう。柊という名前を隠せば、好きに漢字だって当てはめられる。礼を尽くす王と書いて『礼王』。これもレオだ。」

 レオくんは椅子の上に立ち上がって、その名前の欄をまじまじと見つめている。

 「ライオンって漢字にできますか。」

 ハナエはまた笑って、彼女の携帯端末にその結果を表示させる。

 獅子。

 「しし。ライオンの別名だ。」

 レオくんの瞳はこの時初めてハナエの瞳を直視する。
 レオくんは瞳を輝かせてハナエの持ってきた書類の名前欄に『獅子』と見様見真似で書きつける。そしてカタカナのルビ欄に『レオ』とルビを振った。
 獅子と書いてレオと読む。
 なかなか奇抜な発想だった。

 「キラキラネームだ」

 私は目の前の光景に呆然と呟く。
 そんな私にレオくんは笑う。お日様のような温かい笑顔。

 「だってぼく、ライオン紋の王子様だもん!」

 ぽふんとゆるい爆発の音がする。
 まさかと思ってレオくんの臀部を見ると、案の定ズボンのボタンは外れて、隠していたライオンの尻尾が露わになる。

 「ああ、もう!」
 「へえ。すごい。」

 私は慌ててレオくんを後ろから尻尾を巻き込んで抱きしめ隠そうとするが、ハナエはその変身を目の前で見たのだ。隠し通せるはずがなかった。どう言い訳したら良いものか。

 「これは流石に、他言無用だね。」

 ハナエはうろたえる私を尻目にレオくんを見ながら、口元に人差し指を添えてそう言った。口元はにししと笑っている。いろいろ言いたげだがそれを何とか抑えているのだ。

 「変に思わないの?」
 「昨日の今日だ。何を驚く必要がある」

 レオくんは何故か耳を赤くしている。
 ピンと伸びたライオン尻尾の先のふわふわが私の顎の制約を掻い潜り、肩口から出ようとする。役所には人が少なくない。今ここでライオンの尻尾を持つ不思議生命体を白日の元に晒すのは危険だ。私はその尻尾の先端を口に含んだ。こうすることで隠すことができる、

 「ひううっ」

 レオくんは変な声を上げる。男の子なんだから少しは我慢して欲しい。ライオンの尻尾は普通にただの毛束だ。歯ブラシを噛んだ時みたいなあんな感触。今朝シャワーで洗っていたせいか匂いも味もしない。石鹸で洗っていなくてよかった。あの味は嫌いだ。事故で口の中に入ったときにあの味がするから印象も最悪なのだ。

 「いろいろ言いたいけど後にしよう。さぁ、南天。ここにきみの苗字を書いてくれ。」

 ハナエに唆されて、私はレオくんの頭越しにその書類を見る。
 髪の毛が鼻の穴に入りそうだ。昨日会った時よりちょっと伸びた茶色の髪。子どもの成長はこんなに早いのだろうか。鞄から筆記用具と印鑑を取り出す。
 片方の名字欄しか見えないのに、私は何となく書類に「南天」と漢字を書き入れて、カタカナで「ナンテン」とルビを振る。そして言われるがまま実印ハンコを押した。

 「あはははは。こりゃすごい。傑作だ。」

 ハナエは私が書き終えるや否や書類を取り上げて、大声で笑いながら見せつけてきた。

 その氏名の欄を。
 左には私の書いた南天。
 右にはレオくんの書いた獅子の文字。
 合わせれば「南天獅子」と読める。
 ナンテンレオ。
 地球の反対側の南天に、獅子座なんてあっただろうか。
 私は呆然と天球儀を思い浮かべる。

 「養子じゃあ無理がある。親戚の弟ということにしておくよ。」

 ハナエが笑いながら立ち去って、役所の窓口へ行き、そうしてしばらくしてまだ笑いながら帰ってきた。

 「さて手続きは済んだよ。おめでとう。南天。きみにへんちくりんな弟ができた。」

 ハナエは書類のコピーを差し出してくる。
 弟なら私は知っている。
 実家暮らしの弟がいる。
 でも親戚の、弟?
 そんな奴いただろうか。
 しかし、氏名の欄には確かに南天。
 南天獅子の四文字がある。

 南天。
 それは私の名字だ。
 私の名字を、レオくんが持っている。

 「ぼくが、弟で。
 えっと、南天さん。」

 ハナエはニコニコしている。
 私は嫌な現実を今まさに突きつけられようとしている。
 口の中に含んだライオンの尻尾はもう無抵抗に萎れている。

「あなたが、ぼくの」

 そうしてレオくんは私を見る。
 茶色い瞳には何故か涙が浮かび、顔は耳の端まで真っ赤だ。

「その」

 その言葉はだんだんとか細くなっていき、最後は蚊の鳴くようなか細い声になっていた。

 「お姉ちゃん、ということですか」

 ハナエは堪えかねたようにまた笑い出す。
 私は悪夢のような現実を知っても、まだ呆然としていた。

 私とレオくんは市役所からふらふら出ると、コンベアーに乗った。レオくんがコンベアーに乗ってもレーンの色は青いままだった。住民登録のお陰だろう。

 「茹で蛸みたいになってる君たち。図書館には行かないのかい」

 ハナエの言葉は頭の中をぐるぐると回るばかりでその真意を理解できない。ただ家に帰れば事態の整理が着くだろうと何となく思えた。茹で蛸。茹で蛸は熱い。熱いのならば冷ませばいい。脳内で勝手に組み上がるロジック。

 「冷ましてくるのよ」

 自分でも何を言っているのかよく分からない。ハナエはその言葉の内にも何かを感じ取ったのか。

 「ああ、どうぞ。ごゆっくり」

 そう言って、動き出したコンベアーに流される私とレオくんを眺めていた。

 家路に向かいつつあることは、風景を見て分かっていた。私はレーンを乗り換える。
 1人になったレオくんのレーンはオレンジ色に変わった。

 「帰らないんですか」

 レオくんは慌てて私の青いレーンに移る。
 そのまま家に帰るのは何となく嫌だった。だからどこかで気晴らしでもしようと考えた。例えば、買い物とか。

「その、君はさ」

 今になって、私はことの事実に気づき始める。私に義理の弟ができてしまった。弟は既に実家に居るから彼自身の扱い方は知らないわけではない。しかし弟になるということは、私の扶養に入るということだ。他人の親族関係に素性も知らない闖入者を加え入れたのか。咄嗟に、君、だなんて呼んでしまうのは、すんなりと受け入れることができないからだ。コンベアーの後ろを振り返ることができない。

 「家族は居ないの」
 「居ません」
 「雇用主は?先生はあなたが私の弟になっても何とも思わないの。これから世話をしてもらえないのに」
 「思いません。僕の代わりは探せば幾らでも居ますから」

 レオくんは即答する。彼は雇用主の家に住んでいるのだからそこに帰れば良いのに、どうして私の弟なんかになってしまったのか。

 「親が居ないなんて嘘じゃないの。あなたがどんなにへんちくりんでも、この世で生きている以上は親がいるはずなのよ」

 私はへんてこなこの子をこれから扶養して生活しなければならないのか。ハナエに今すぐ電話して問い詰めようか。そうして手提げ鞄に伸ばした右手首は強い力で掴まれる。レオくんの両手が必死に掴んでいるのだ。振り払おうとしても強く引っ張って抵抗してくる。

 「居ないんです。もう二人とも居なくなっちゃいました。僕は、先生が言うには捨てられたらしいのです。」

 捨てられたからなんだと言うのか。この街には探せば孤児たちの養育施設だってあるだろう。私はこの街で立派な大人になるために、たった一人でやってきた。見知らぬ子どものお守りをするためではない。

 「うるさい!しつこい!」

 腕を力の限り振り回しても、私の手首からレオくんの掴んだ手は解けない。ぽふんという空気が破裂する音を聞いて、私ははっと後ろを振り返った。

 案の定、レオくんのライオンの尻尾が彼の背中越しにチラチラと、春の陽光に照らされている。掴んでいる最中に意識が向かなくなったのか、それとも尻尾を出している方が力が入るのか。私には分からないが、さっきよりも手首を掴む力は強くなっている。痛いくらいだ。私は彼の顔を見ないことにした。その哀願するような目つきも、頬から流れる涙さえ何だか作り物のように思えてしまう。人間は演技をしたり嘘をつくのが上手い生き物だ。正直であろうと振る舞うことは時にその詐術の餌食になる。

 ライオンの尻尾が生えていたって、人並みの知性は持っているのだ。私をいいように使って、しまいには捨ててしまうのか。そう思えばあの変身だって、あの夜の戦いだってよく出来た作り物かもしれない。私はまやかしを見せられて騙されていたのかもしれない。結局全てが終わったら私の目の前に残るのは、代わり映えもなく、必死にもがいて勝ち取るしかない、そんな残酷な日常だけかもしれない。

 見ず知らずの他人を、子どもだからこそ信じることができない。子どもが純粋無垢だなんて嘘っぱちだ。後にものを学んで、絶望しきっていないだけの無知を抱えているだけなのだ。私の世界は私にさえ変えられない。世界はもっと頭の良く富豪で恵まれた人々が頭を巡らせて試行錯誤するような過程を経て、私にもたらされるのだ。

 私という人間だって私が両親が産んでいなければ存在さえしない。過去からの無数の要素で私はがんじがらめになって、初めて「私」という存在が出来上がっている。私が出来ることは、この世界の一部としてちっぽけな自由を謳歌するくらいで、後は社会の一員として死なない程度に体と精神をすり減らして生きるしかない。

 腕をいくら振っても、どんなに言葉を投げかけても、レオくんはその手を離そうとはしない。

 これは世界が変わるチャンスなどではなく、ただのでたらめなのだ。私はハナエから訳の分からない契約をさせられて、騙されて、このよく分からない子どもを引き取るように仕向けられている。返して欲しい。私のあの平穏だった世界を。あの順調にこの社会に溶け込み始めていた世界を返してほしい。

 人混みが私とレオくんの周囲にでき始める。
 流れるレーンの上でも、その光景は行く街の人々の目にくっきりと写っているのだ。

 『あの子ども、昨日の「ノケモノ」になった子だ』

 誰かがそう言葉を発した。それを待っていたかのようにそれまでざわついてばかりだった人々は、ある一つの指向性を持つようになる。群れに紛れた邪魔者を排除しようとする生物の本能が起動する。

 『「ノケモノ」がどうしてこの街に居るんだ。異常だ。異常はこの街にはいらない。排除すべきだ』

 そうして流れていくコンベアーの上を見ながら、人々は相談を始める。誰があの子どもを「ノケモノ」にするのか。誰が「ノケモノ会議」を発令するのか。

 『俺は嫌だ』
 『私はダメね』
 『世間体がある』
 『子どもが可哀想じゃない』
 『でも問題になったら困る』
 『迷惑そうにしているあの人がやれば良いのに』

 誰ががそう呟いた。その言葉に賛同するように同じような言葉が続く。

 『誰かが。誰かが私の、俺の、代わりにやってくれないだろうか。恐ろしくて、とてもできないことだから。あの子をこの街から追い出してくれないだろうか。』

 赤い夕日が人々の顔を照らし出す。私はいつしか腕を振ることを忘れていた。私も彼らと同じように、レオくんを排斥することが出来る。そうすれば私は彼らの一員になって、この異常事態から抜け出すことが出来る。ハナエにも何とか言えば、分かってもらえるだろう。私は逃げることができる。知ってしまったことから、逃げることが出来る。この運命から逃れられる。いつか忘れて、いつものように暮らすことができる。就職したり家庭を持ったりして、普通に生きていくことができる。目の前で、通り過ぎていく人々のように。

 レオくんは私の腕から手を離し、そうして周囲の人々を見回している。人々が彼を見る視線は冷淡で、興味本位で、遠巻きなものばかり。手を伸ばしても誰も取ろうとしないばかりか、汚らしいと払われそうになる。レオくんは青いレーンに座り込んで、そうしてシクシク泣き始めた。それを見る人々は少しどよめいたが、すぐにまた遠巻きな視線を向けて、彼を邪険にする。

 特別になりたい訳じゃない。正義を振りかざしてみたいわけでもない。大人になりたくないわけでもない。騙されているかもしれない。それでも、私はこの可能性に賭けてみたい。人々は変わらない。社会も変わらない。世界だって変わらない。それでも、私だけは変わることができる。その可能性に賭けてみたい。

 だって、今泣いている彼を、たった一人のヒーローを救えるのは、同じレーンに乗り合わせた私、たった一人なのだ。

 レオくんは流れる涙を止めようと、目蓋を擦ってばかりだ。その片方の手がいきなり使えなくなったら、驚いてその手の方を向くだろう。それは当然だ。私が左手で勝手に掴んでいるのだから。

 「南天さん」
 「お姉ちゃんと呼びなさい。弟でしょ。アンタは南天獅子。ナンテンレオよ」
 
 二回繰り返しても、しっくりこない名前。
 本当に、不思議な名前だ。

 『速度調整、加速』

 時速何キロかなんて関係ない。
 夕飯を買いに行こうと、私は誘った。
 今日という日にいきなりできた弟は、泣き腫らした目を擦って、行儀良く、はいと答える。

 人々の声は無遠慮に変わる。逃げ去る私たちを、虐待じゃないか、とか、虐めじゃないかと好き勝手に言う。私は更に速度を上げる。あの人々の声は、もう数キロメートル先にある街外れのスーパーには決して届かない。

 「掴まっていてよね。鬱陶しい奴らが見えなくなるまで。」
 「はい!」

 弟がへんちくりんならば、私だってへんちくりんにならざるを得ない。ハナエには後でこの顛末を恨みたっぷりに話してやろう。彼女のことだから、悩みを共有するよりも、笑い飛ばして、それでおしまいかもしれない。でも相談くらい乗ってくれるはずだ。私は今から泣きべそかいたライオンのお姉ちゃんになる。へんてこな奴になる。高速レーンを流れていく。頬を打つ風は、やけに気持ちがいい。もっと吹け。もっと打て。私はその程度じゃへこたれないぞ。

 夕飯はカレーにしよう。
 沈む夕陽を追いかけながら、私は今晩の予定を立てた。カレールーだけじゃなく、玉ねぎも、じゃがいもも、豚バラ肉も足りない。足りないから買わなくちゃ。レオくんは両手でしがみつきながら、ライオンの尻尾をなびかせて、近所迷惑なくらいの笑い声を上げる。私も負けじと笑う。この高速度の中では、側から見ればライオンの尻尾も太い縄と見間違うだろう。

 この世界に私たちは、私たちのままで生きてやるんだ。その決意を込めてライオンたちは咆哮した。

明くる日、気を取り直して。
 私とレオくんは図書館に向かった。
 私が印鑑を持ってきたのは何もハナエの持ってこいという指示に従ったからではない。こっちでもしっかりと理由があったのだ。

 自動ドアが開く。図書館はハイテク万能時代にもしっかりと残っている。盗難防止の赤外線ゲートを潜れば、もうそこは歴史の地層。
 文化によって編まれた深い森が待ち構えているのだ。

 入り口近くにある貸し出しカウンターには白い髭を生やした老人が銀縁の眼鏡を拭いている。利用人数は少ない。昼どきだからか。
 レオくんは初めての場所に対しては臆病だ。床に黄色いルートで書庫への動線が示されていても、立ち止まったままだ。

 レオくんが心配そうに辺りを見回すと、カウンターの老人と目が合う。

 「こんにちは」

 老人の声はしわがれていてもハキハキした声だ。

 「こ、こんにちは」

 レオくんはいきなり話しかけられて少し驚いた。老人はゆっくりと息をする。眼鏡をかけると、シワに畳まれて小さな目がさらに小さく見える。

 「お尋ねごとかな、それとも、お探し物かな」

 ゆっくりとした、それでも歌っているような口調。レオくんが答えを出そうとするのをじっと待っているのだ。


 しばらくして、レオくんは答える。

 「お尋ねごと、です」

 銀縁眼鏡の中の、老人の小さな瞳がキラリと輝く。また一つ浅く呼吸をする。

「『なに』か。それとも、『どこ』か。」
 
 老人はゆっくりと尋ねる。
 レオくんは答える。

 「『どこ』です。」

 「『ここにあるどこか』かね。それとも『ここにはないどこか』かね。」

 老人は何かを探っている。
 レオくんはその質問の意味を考えてそうして答える。

 「『ここにあるどこか』です。」

 「きみは『読みたい』のかね。それとも『聞きたい』のかね。『見る』こともできるが。」

 老人のかけている銀縁眼鏡はよく手入れされている。あれが本物の銀なのかそうでないのかはさしたる問題ではない。でも、彼にはきっと本物の方が似合っている。

 「ぼくは、『読みたい』です。本を読みにきました。そのために、ここに来ました。」

 レオくんは元気を取り戻した。瞳には力が宿っている。不安を跳ね除ける好奇心の光だ。
 その瞳を見て、老人は頬を綻ばせる。老人と子ども。二人の中には、通じ合うものがあったようだ。老人はレオくんの目を見て、ライオンバッジに視線は流れる。

 「言葉は薬にもなり、毒にもなる。生かそうと思えば千年生きるが、殺されるのは一瞬だ。勇敢なライオンの子よ。きみはどうか、種蒔く人になってくれ。」

 レオくんはその言葉に強く惹かれて、老人の側にふらりと寄る。
 老人の右手にはボールペンが握られて、指定席の用紙の空欄を、いつでも書き込めるように、それでも石膏で固まったように動かない。レオくんはその硬そうな手を突然、両手で包んだ。それはまるで、昨日の夜私の前でライオン紋の王子様に変身したあの時の再現をしたかのようだ。

 「ぼくの心臓は『毛深い』んです。だからきっと星を掴めるはずです。」

 固まった両手はその言葉を聞くとわなわなと震える。レオくんの両手に包まれたその中で、老人は何か奥深い真実に触れたようだ。
青い瞳が見開かれる。
 
 「ライオン紋の王子様。この街に伝わる伝説を、君は知っているかな。『毛深い』者が『星を掴む』ことは、大いなる苦難の道のりとなるだろう。絵本があるから、それも借りてゆくといい」
 
 この老人は利用者が本を借りようとするときに、稀に自分からも本を紹介してくることがある。不思議なのはその選ばれた本が、利用者が自分で選び取った本よりも、重要な本となることだ。だから怪訝に思われるようなそのお勧めは、この図書館の隠れたイベントになっている。「魔法使いの一冊選び」とこの街では、そう呼ばれている。他の図書館従業員には真似ができないために、「東方にやってきた賢者」と彼自身にも二つ名が与えられている。
 老人はよろよろと席から立ち上がり、カウンターの裏手にゆくと、しばらくして一冊の絵本を大事そうに抱えて持ってきた。
 
 「ライオン紋の王子様」という絵本だ。表紙の絵は赤い外套を纏ったライオンの戦士が勇猛に荒れた丘の上に立つ絵であり、金色で額縁のように縁取られているせいか、中世ヨーロッパの宗教画みたいだ。レオくんはそれを瞳を輝かせて見入っている。この老人はレオくんが「ライオン紋の王子様」であることを、見抜いてしまったのだろうか。それとも子どもに告げる警告のために、この絵本を選んだのだろうか。
 
 レオくんは老人の青い目を見やると、じっと見つめてこう言った。
 
 「ありがとう、お爺さん。ぼくの進む道の縁はこれで決まりました。これで迷いなく進んで行けます。ここに来て、本当によかったです」
 
 その言葉に老人は驚き、レオくんの眼をじっと見つめて、低い声で、ゆっくりと諭すように言った。
 
 「きみは、掴んではいけない。この世の誰も、あの星を掴んではいけない。そんな寂しいことを、決して誓ってはいけないよ。」
 
 その言葉を言い終わらないうちに、老人は小さな目から大粒の涙を流し始める。
 私はこの人が仕事中にも関わらずよく泣くことを知っている。この街に私が越してきた時から、私はこの人が業務中に涙を流すところを何度も見てきた。その涙には二つの理由があるために、みんなが邪険に扱っても、私はその理由のためにどうしても「ノケモノ」にはできなかった。この人はあまりにも言葉に対して敏感だった。拙い言葉、荒々しく人を攻撃する言葉を聞くと、この老人は酷く傷ついてしまう。また一方で人を癒すような真心の言葉を聞くと、この老人は歓喜にむせぶのだ。

 この老人はいくら邪険にされても、その理由を決して語ろうとしない。だから予約先の受付という末端の業務を任されている。私は何度もこの図書館を何度も訪れながら、その法則にやっと気づいたのだ。 

 もしかしたらこの法則は私の勝手な思い込みなのかもしれない。認知症とか、そんな言葉で片付いてしまうのかもしれない。でも。私はこの夢を諦めることは絶対にできない。

 奇妙な法則が支配するこの街に適応できるかわからない。そんな不安に押しつぶされそうで、「ノケモノ」にされそうだった、そんな私を勇気付けたのは、他ならぬこの老人の言葉だったから。

 『天にある星もたった一つで輝いているわけではない。孤独と孤独が引き合い、点は線になる。いつしか星座となり一つの物語を紡ぐ。だから輝いているのだ。きみの孤独に引き合う孤独は、この街にきっといる。私がその一人だ。』

 私はそっと近寄って、老人にハンカチをそっと差し出す。老人は空いた左手でハンカチを受け取り、頬に流れた涙を拭き取る。

 「ありがとう。ミスター・シリウス」

 白色矮星の名を冠した老人は笑みを作って私に見せた。

 「こんにちは。南天さん。今度は私が泣かされるとはな。」

 まだ潤んだ瞳は小さく蒼く、宝石のように輝いている。

シリウスさんは私の実印ハンコのついた街民図書カード申請用紙を見てやはり驚いた。

 「南天獅子。」

 獅子と書いてレオと読む。その奇抜さは海を渡ってきた紳士に少なくない衝撃を与えたのだろうか。レオというのは西洋由来の言葉であり、獅子という言葉は東洋由来の言葉だ。それらの意味遣いを吟味すると齟齬が発生するのは目に見えている。

 「南天から獅子座を見るためには地球を壊さねばならないな。」

 しかしシリウスさんはもっと別の可能性に驚いていた。天球儀で南天に獅子座は存在しない。獅子座は北半球で回り続ける星座だからだ。南天に住むものがどうしても獅子座を見たいと願うなら、北半球にやってくるか、地球に穴を開けるしかないだろう。しかし壊すという物騒な言葉を、まさかシリウスさんが使うとは思わなかった。

 「地球を壊す」
 「そうだ。爆弾を使って一度こっぱみじんにする。そうしないと見えない。」

 レオくんはシリウスさんの言葉に目を丸くしている。

 「壊すのはだめです。覗き穴でいいでしょう」
 「覗き穴一つ開けることも、壊すことに変わりはない。地球の裏側にも人間が住み、人間が住まずとも動植物の命がある。地球に穴を開けるとは、地球の向こう側の存在を、つまりは自分と全く正反対の位置にある生き物を『いないもの』として扱うことだ。レオくん。」

 レオくんは地球爆発という方法には反対するらしい。代わりに覗き穴程度の穴を開けて、そこから北半球の夜空を見ようと計画している。

 レオくんは図書カードを作った記念にと、何冊か本を借りた。借りた本を三冊とも大切そうに胸に抱いている。
『星の王子様』、『よだかの星』、『幸福な王子様』の三冊だ。
 何故かわいそうなお話ばかり借りるのだろう。
 星の王子様は一人ぼっちで彷徨い歩くし、よだかの星は命を散らし、幸福な王子様は報われない。「ライオン紋の王子様」はもっとかっこいい物語を学んでもいいのではないか。

 「じゃあ、これはどうですか」

 レオくんは興奮している。ライオンの尻尾をズボンから出してしまっても気にもしていない。私はそれを人目からうまく隠すのに精一杯なのだ。貸し出しカウンターの上にレオくんは身を乗り出す。ライオンの尻尾が高く伸びる。私はそれを隠すためにむんずと掴んで無理やり位置を下げる。
 レオくんは痛みを感じているはずなのに、興奮のためか、いや義務感のためか私に向かって振り返ることすらしない。
 シリウスさんの伸びた白髪に隠された耳にレオくんは何事かを耳打ちしている。
 シリウスさんはそれにうんとかおおとか調子をつけて返答していたが、レオくんが全て話してしまうと溜まりかねたように笑い出した。

 「星座を北から南に落とすのか!」
 「違います!持ってくるんです!!」

 手で押さえつけていたライオンの尻尾がついに私の制御を離れてピンと張る。私は慌ててレオくんの胴体を掴んで抱き寄せ、カウンターから引き離す。重い。しかし正体がバレるよりはマシだ。

 レオくんはまた何か言いたげだったが、また耳を赤くしてばかりだ。もしかしてこうやって抱っこされることが嫌いではないのだろうか。私は子どものとんでもない重さに耐えられないから、もし頼まれてもやる気はしない。多分レオくんに本気で飛びかかられたら私の腰は折れるだろう。

 私の筋力の限界は三秒も掛からずに訪れた。
 
 「無理だ!」

 手を離しそうになる。
 その時、助け舟は思わぬところから訪れる。
 レオくんの尻を下から支える両手があったのだ。
 図書室の床から生えてきたわけではもちろんない。誰かから差し伸べられた両手なのだ。
 誰だろう。
 私はその人のいる方向を見ようとした。
 お礼くらいは言わなければならない。
 しかし幸運なことにその人はさらに協力的だった。それは結果論だが。

 「むん!」

 フォークリフトという重機を知っているだろうか。地上にある荷物を人の手の届かない高いところに輸送する際に使われる特殊な車だ。パンパンに膨れ上がった買い物袋を気合いで運んでゆくような、といった方が心情的には正しいのか。

 「ユウコさん!?」
 「いーから!!今は移動です!!!」

 助け舟に現れたのは、高校の制服を着た赤縁眼鏡の女の子。知り合いだった。柿原ユウコ。16歳。後輩。サッカー部のマネージャー。多分、マネージャーだ。そう彼女から聞いている。

 図書館を出てすぐ左隣に、自動販売機とトイレが並ぶ暗がりがある。その暗がりでレオくんは、涙目になりながらライオンの尻尾をズボンに隠した。

 いきなり赤い眼鏡の女性が自分の尻を掴み、そして至近距離に顔を近づけてきたのだ。トラウマになってもおかしくない。

 しかし、ライオンの男の子を戦慄させた要素はそれだけではない。今現在も進行中なのだ。

 「ほんっとーに、すみませんでした!」

 ユウコさんは腰を90度に曲げて謝罪の意を表明した。私は自動販売機の商品のボタンを背中で押してしまうことも厭わずに、仁王立ちで腕を組んで、もたれている。

 別に私は怒ってはいない。彼女の謝罪も嬉しくはない。しかし確実に必要としていた。尊大な態度を取る女子高校生に後輩らしい人物がすごい剣幕で謝罪している。そういう光景を前にして自分から近寄っていこうとする人間は肝が座っているか、ただの下心野郎だけだ。人を近づけたくはなかった。さっきの騒動でレオくんのライオン尻尾を見た人間をなるべく少数にするか、見ても見なかったことにしてもらう必要があった。

 結果、この一芝居が爆誕した。謝り続ける後輩。微動だにしない先輩。緊張した空気。少なかった野次馬は数分もしないうちに完全に居なくなった。

 誰も居なくなったところで、私はようやく配役を降りる。後輩の演技は目を見張るもので私が配役に徹していなければ、罪悪感に胸を引き裂かれそうになるところだった。

 「ごめんね。近くのバーガーショップで何でも奢るよ。」

 なんだか自分が謝罪を受けて喜ぶような最低な人物に思えてくる。どうにかして私の社会性に補填をする必要があった。

 「大丈夫です、これも良い練習になりましたから。」

 しかし演技を終えた後輩柿原ユウコは、まるで憑物が落ちたようにすっきりした表情をしている。さっきまで鬼気迫る謝罪をしていた張本人とは思えない。そして気になる言葉を聞いた。『良い練習』とはどういうことだろう。

 「私、実は演劇部の部員なんです。」

 柿原ユウコの瞳は薄緑色の光彩をキラリと光らせる。
 末恐ろしい後輩の本性が、今紐解かれようとしている。


レオくんと後輩の柿原ユウコを引き連れて、私はハンバーガーショップへやって来た。
 一昔前のアニメソングが掛かっている。懐かしい。でもどんなアニメのどんな曲だったかは思い出せない。

「私、この曲知ってます。」

 柿原ユウコは得意げに言うと、その曲名とアニメ作品をすらすらと答える。まるで今まで準備していたように流暢で、私は目を見張った。アニメ作品の題名を聞くとああ、ロボットが出て来たっけと思い出す。今考えれば不思議なもので、あの頃のアニメではロボットが平気で宇宙に飛び出していた。やけに近未来をプッシュしていたっけ。

「宇宙の敵と戦うんだから、当然よね」

 現実に立ち戻って振り返ると、あの頃未来だと言われていた年代をもう十年も越してしまっている。それまでには残念ながら、宇宙からの敵も、巨大決戦兵器も出てこなかった。代わりに私たちの街では、忘れた頃に突然、街中に「バケモノ」が現れる。テレビの中で描かれていたような、正義が今現在営まれているかと言うと、そんなわけでもない。「獣人委員会」という正義の味方は予算で動いて、他人を怖がる「ノケモノ会議」は今もなお続いている。もしあの頃のアニメの登場人物が今の私たちを見たら、どう思うのだろうか。

 「ハンバーガーのビッグのセット二つ。ポテトはL。ドリンクもLでお願いします」

 柿原ユウコは私の奢りという言葉を信じてか、ハンバーガーショップで一番高いやつをセットで二つ注文した。レオくんは初めてのハンバーガーショップにまたも緊張してか、私のズボンの裾を掴んでいる。柿原ユウコがまだ怖いのかもしれない。彼女は私の知らない一面を持っている。小柄な体であえて大きなハンバーガーを食べようとすることも、私は知らなかった。でも先輩として見ると、なんとなく誇らしい。大きなハンバーガーを食べたらきっと、その分のエネルギーは彼女に蓄積される。そこからどんなことが生まれるのか。私は知らないからこそ嬉しいのだ。予測不可能なビック・バンだって起こしてくれるかもしれない。
 柿原ユウコは店員の『ご注文はお決まりですか』という言葉にちょっと口籠って、ちらっと後ろを振り返る。いや、視線はもっと下だから、レオくんを見ているのか。レオくんはその視線に怯えてびくりと震えた。百四十センチも背丈があるのに、これでは本当に子どもみたいだ。

 「お子様用セットひとつ追加で。」

 そうして柿原ユウコは笑顔で注文し、子ども扱いされたレオくんは頬袋を膨らませる。

 「ぼくは『お子様』じゃないやい!」

 私は予感がした。何度も繰り返していると耐性がつくのだろうか。

 「こら!」

 私はまるでお母さんがわがままな子どもにするように、そのズボンの臀部、外れそうなボタンを叩く。ぽふんという音はしない。ライオンの尻尾も出てこない。そうか、こうすればいいのか。私は不可解への対処法を唐突に思いつき、実現したのだ。

 「痛い!」

 レオくんはいきなり尻を叩かれてご立腹だ。しかし少年よ。社会で生きるということは尻を叩かれることなのだ。シリウスさんならそう言って笑うに違いない。ついさっき会ったはずなのに、何故か彼の顔を思い出す。あの人はいい人だ、周りがどう思っていようとも、私だけはあの人の味方でいよう。あの人が重い本を何冊も運んでいたら、半分こして一緒に運んであげたい。

 柿原ユウコはぶっと吹き出したが、それでも笑い出すのを堪えた。そうしてこみ上げる笑いをなんとか飲み下す。笑うより、言いたいことがあるようなのだ。

 「先輩にこんなかわいい弟がいたなんて、驚きです。」

 弟。その言葉を突きつけられて、私ははっとする。
 しかし事実なのだ。事実になってしまった。 ハナエが提出した住民登録の書類は間違いなく正式のものだ。私は今レオくんを、柊レオという全くの他人、いや超生命体を、南天獅子という名前で、弟に持っている。つまり、逆を言えば私はこの子の姉にあたる。お姉ちゃんなのだ。すっかり忘れていた。いや本能から、忘れようとしていたのかもしれない。

 「うわ、先輩顔赤いですよ。もしかしてそっち系の趣味、ありました?」
 「違うわい!」

 さっきレオくんが大声をあげたせいだろうか。その言葉が鼓膜に残っていて、その言葉遣いに惹かれてしまって、私は咄嗟に彼と同じような返答をする。吠えるようなその声はバーガーショップに響く。
 この子。レオくんはライオンの王子様。
 なら私は野生のメスライオンだろうか。
 ふと、無意識にピンと張り詰めた私の右手に、暖かい感触が添えられる。
 私ははっと気づいて、レオくんの方を見る。
 レオくんは何故か俯いて、それでも左手を私の方に差し出している。
 恥ずかしいけど言えないその意味を、私はちゃんと分かっていた。

 「ありがとうございます。」

 私が彼の手を握ると、レオくんは呟くようにそう言った。
 ライオンのお姉ちゃんか。
 悪くはない、かもしれない。

 「悪いんだけど。今のこれ、写真に撮っていい?」

 柿原ユウコは携帯端末を取り出して、縦画面で写真を撮ろうとしていた。カウンターの後ろから、注文したビックサイズのバーガーのセットがまず一つ、運ばれてくる。
 「先輩に向かってタメ口はよくない」
 「私はレオくんに言ってるんですー。お姉ちゃんは黙っててくださいー。」

 レオくんは私の手を握り返すと、柿原ユウコを見る。

 「うわ、警戒心剥き出し。でもこれはこれで、かわいい」

 シャッターを切る音、フラッシュの光。時代が変わっても変わらないその構造は、今はプライバシー保護のために使われている。
 伝わる体温が温かい。
 温かいのに、同じくらい恐ろしい。
 あまりに怖くて叫んでしまいそう。

 この手を永遠に離したくない。
 何故か私は写真を撮られる一瞬に、そう願っていた。

私たちが席に着いた時、太陽は沈みかけていた。
 レオくんはお子様セットに不満なのか、小さなハンバーガーを早口で食べ終え、ブドウジュースを飲み干す。小さなハンバーガーは私たちのものより遥かに小さく、丸いパンの塊に見える。ジュースの紙パックの中にある氷をガリガリと噛んでいたが、思い出したように飛び出すと男性トイレのある所に走って行った。

 「何か悪いことしちゃいましたかね」
 「多分。でも深入りしないほうがいいと思うよ」

 少年の心情は私にはよくわからないのだ。
 ビックサイズのハンバーガーは私の顎の開く限界よりも少し大きい。上のパンズを食べようとすると下のパンズが残り、かと言って真ん中のビーフパティを頬張ればバランスが崩れてしまう。綺麗に食べようと最初は意気込んでいたのに、食べていくうちにハンバーガーの形はどんどん歪になってゆく。頬にはケチャップの感触がある。

 「うまく食べられる方法があればいいのに。」

 ステーキとか、フランス料理とかはナイフとフォークを巧みに使って何一つ汚すことがない。大人になるためには、そういう綺麗で冴えたやり方を学ばなければならない。私はそう思案した。向かいの席に座る後輩ユウコはまるで獣のような食欲に身を任せていた。上着を脱ぎ、Tシャツ姿になった彼女は周りの視線なんてお構いなしに、でかいハンバーガーに負けないくらいでかい口を開けて、小柄でも果敢に挑んでゆく。そうして肉の味を堪能しつつ、その胃袋に納めてゆく。

 「先輩は頭が硬いんですよ。ルールなんて後から勝手にできていくんですから。私たちは言わば未開拓の土地を切り開くパイオニアですよ。未来なんです。」

 未来。
 そんな言葉を目の前で、人の口から聞いたのは久しぶりだ。希望と同じくらい何度も何度も歌われているのに、私はそれを「ミライ」という信号の羅列のようにしか認識できない。

 「未来って何だろうね」

 私は下のパンズがなくなったハンバーガーの、その最後の一欠片を口に放り込む。指を見ると赤いケチャップで汚れていた。私はナプキンでそれを拭き取る。

「あっ、勿体ないです。」
「勿体ないとは何よ。汚れちゃったんだから拭くのが道理でしょ。」

 拭かないと不潔だ。

 「先輩。未来は上から降ってくるんじゃないんです。下からだんだん競り上がってくるものなんですよ。先輩はそれを分かってないんです。指についたケチャップは拭き取ってやるんじゃなくてきちんと舌で舐めとる。それが流儀です。」

 黄色く長いポテトを教鞭みたいにして、後輩は私に説教を垂れる。彼女の口の端にケチャップがほんの少し残っている。ケチャップが未来だと言うなら、彼女の端に残っているものも未来じゃないか。そんなものが未来なわけない。私は少しからかってやることにした。
 
 「ほれ、口元に未来が付いてる。」

 そういうと、後輩はすこしムッとした顔つきで、

「ありがとうございます」

 と言って舌を出し、ケチャップを舐めとろうとする。ケチャップは左端にあるのに、何故か唇の右端に舌は伸び、そうして時計回りをするようにして左端のケチャップを舐め取った。ケチャップはほんの少し、掠れたようにまだ残っている。
 私にはそれが、口元が切れて出てきた血の跡のように見えてしまう。

 「まだ残ってるから拭いてあげよっか」
 「いいです。私にはこのポテトがありますから」

 柿原ユウコは私の助言も聞かずに、ポテトをちょっと乱暴に自分の口元に擦り付ける。ポテトが通過すると口元にはケチャップは残っていなかった。代わりに塩が油とともにキラキラと輝いている。あんまり綺麗じゃない。

 「綺麗にやろうだなんて、どうしてそんなに構えているんです?私たちの時代は今を生きています。化石みたいに土の中で待ってはくれませんよ。」

 柿原ユウコは例えのセンスが独特だった。もしかしたら彼女がこれまでの人生で見てきた演劇や映画、ドラマやアニメにその形跡があるのかもしれない。彼女はかつて作られた過去を見て、同時に今を見据えている。

 「どれも大人たちによって作られた虚構でしょ」
 ふと声が出る。出すはずじゃなかった声は、柿原ユウコの逆鱗に触れた。沸点が一瞬で達するタイプだったかと、気づいた時には遅かった。

 「虚構なんかじゃありません!あれらが作られた時はあれが正しく未来だったんです!私たちが。いいえ。現実に生きた私たちが、真実を嘘にしてしまった。私たちは、十年前に見た夢を掴めなかったんです!!」

 両手をバネにバンと立ち上がった彼女はぶんぶんと首を横に振る。その姿は子どものようで。しかし私はそれを諫めることができない。私も幼い頃に夢を見ていた。魔法使いに変身する夢を。世界はそれを叶えるまで自由じゃなかった。けれど。レオくんは、私の目の前でライオン紋の王子様になった。あれがもしあの時限りの奇跡でも、私はそんな奇跡が起きる可能性を、はっきりと目にしてしまったのだ。

 「大丈夫だよ。ユウコ。まだ希望はある。私たちの中にあるんだよ。」

 項垂れるユウコにかける言葉が見つからなくて、私は咄嗟にレオくんの存在に縋ってしまう。あの子ならきっと、ここにいる柿原ユウコにこう言ってくれると思ったから。

 彼は今現在は男子トイレにいるみたいだけど。

 「根拠を。見せてください。」

 項垂れた赤縁眼鏡の奥から眼光は鋭く私を刺し貫く。根拠。彼女の世界を根底から覆すような根拠を、求められている。
 
 「南天先輩。私だって今すぐにでも、『ノケモノ会議』を発動できるんですよ。ハナエ先輩みたいに。」

 背中に嫌な汗が流れる。
 私は知らなかった。
 私の後輩がそこまで出来るような人間だったとは夢にさえ思わなかった。そこまで思い悩んでいるとは。彼女の思春期特有の、時間の流れに吹き飛ばされる悩みだと、どこかで思っていたのだ。
 私は恐れていた。私が彼女によって「ノケモノ会議」にかけられて「ノケモノ」にされる危機感からではない。誰かを「ノケモノ」にしてまで答えを欲しがる彼女の痛切さに、私の用意しているカードが通用するとは思えないのだ。私の抱えている希望が、ユウコが見たら路傍の石ころ程度のものでしかないかもしれない。
 でも。それでも私は逃げるわけにはいけなかった。ここで先輩が後輩の目の前から逃げてしまっては、何のために先輩をやっているのかわからなくなる。

 「いいよ。教えてあげる。」

 柿原ユウコは私の言葉を聞くとニヒルに笑った。

 「南天先輩。」

 ジャッジ。その言葉は一つの符号。
 私はそれに抗えないし、今度は私が問われるのだ。逃げるところなんてあるはずがない。
 「ノケモノ会議」が始まる。
 でも、私は逃げない。
 不安を抱える後輩を、見て見ぬ振りなんてするものか。

「ジャッ」

 その時だった。
 バーガーショップの明かりが一斉に切れたのだ。

『バケモノ出現』

 バーガーショップに集う無数の携帯端末から、機械的な女の音声が響いた。


足元の床が全て抜け落ちて、その暗闇へ、死の匂いに満ちた冥府へ落ちてゆくだけなのだと、初対面の誰かに、唐突に宣告されたような気分。

 突如包まれた暗闇と、バケモノの発する轟音とに、バーガーショップは唐突に揺さぶられた。店内にいた少なくない人々。仕事帰りのサラリーマン、子供連れの男女、私たちよりも数年幼そうな学生たち、杖を手放せないらしいおばあちゃん。それが一斉にどよめいて、各々が恐怖に駆られる。
 みんな知っていても理解はしていなかった。していられるほど、余裕がなかった。バケモノが出現して、逃げるための頭の良い方法もきっと知っている。それでも自分が今からその当事者になるとは、誰も考えられるはずがないのだ。日常はあまりに目まぐるしく、それでいて残酷に私たちを振り回すから、ついてゆくだけで精一杯なのだ。

 『避難。』

 そう呼びかけるだけの携帯端末の言葉。非常用のライトが床に光っている。
 
 『みなさん!どうか落ち着いてください!足元に気をつけて、一列に並んでください!』

 ユウコの注文を一時間前に請け負っていたあのバーガーショップの店員は、それでもいつかの訓練を覚えていたのだろう。その顔が恐れで引きつっていても、ハキハキとした言葉に乱れはない。その言葉をしっかりと聞き、従おうとする人々は、広くない店内で次第に列を作ろうと先導する。泣く子供を宥め、騒ぐ大人を黙らせ、体の弱い親子や老人を先頭にして縦列が出来上がっていく。すごい統率力だと目を見張っていたら、そのうちの一人が声を発する。男だ。

 「私たちは『獣人委員会』です!安心してください!」

 暗闇の中でも、歓声が上がる。
 四人か、五人。
 男女が立ち上がってそうどよめく人々に、呼びかける。『獣人委員会』。私たちの街を予算で守るヒーローたち。傍目にはどれも一般人にしか見えないのに、彼らはその手腕でもって、プロフェッショナルを証明している。
 列を外側から緩く統率してずれないように、問題がこれ以上起きないように細心の注意を払っている。『獣人委員会』がこの街の治安を守る際には、何も軍事用ヘリを飛ばしてバケモノと応戦するだけではない。街の人々を安全に避難させることはそれ以上に、彼らの大事な使命なのだ。私と柿原ユウコと、トイレから驚いて出てきたレオくんは彼らの先導に従った。レオくんは左胸に手を当てていて、何だか申し訳なさそうな顔をしている。ライオンバッジが眩しく光っているのだ。
 周囲にいる大人から、眩しい、どうにかして消せと、時に穏やかに、時に高圧的に指摘される。レオくんはそれにただごめんなさいと謝るばかり。私は彼を抱き寄せて、その光を塞ごうとする。彼は悪くない。彼はライオン紋の王子様なのだから。傲慢に胸を張っていてもいいのに。

 「そのバッジ、何で光っているんですか」

 光に目を細めて、嫌らしそうに柿原ユウコは私に尋ねる。狭い通路で足が自由に動かせない。
 
 「ひみつ」

 私はバーガーショップを脱出するまで、その言葉を繰り返していた。

 目の前に映画のスクリーンがあるんじゃないかと思った。ようやくバーガーショップを出た人々と、獣人委員会のメンバー、そして私たちは目の前の光景に絶句している。
 バーガーショップはこの街の役所のすぐそばにあった。その役所の高い屋根には高く満月が照っており、その月光を隠すように、その「バケモノ」はいた。昨日のものよりもはるかに小さい。狼の頭蓋骨は変わらず、しかしその体躯は犬よりもひと回りも二回りも大きい。その骨格が月明かりに白く浮き出ている。標本のようだ。
 人々が恐怖にどよめくよりも先に、獣人委員会は行動を始めていた。夜闇でも見えるゴーグルを着用し、実弾を込めた拳銃を「バケモノ」に向ける。街の人々とは一定の距離を開け、「バケモノ」を扇状に包囲している。言葉も、アイコンタクトさえもなく、まるでそこにそうあることが当然のように彼らは陣形を組んでいた。それがどんどん離れていくなかで、星座のようだと私は思った。

 数分で500メートルはルートを移動した。小高い丘の上に私たちは避難する。赤いコンベアーはいつもよりも早い速度で流れ、私たちを連れて行く。丘を登っていると、夜空がだんだん近づいてくるように感じる。
 バーガーショップに勤める従業員に先導されて私たちはその側を離れようとする。レオくんは、右手で輝くライオンバッジを握りしめて、もう片方で私の手を必死に握っている。堪えている。本当は戦いたいのだろう。私は彼がとんでもなく強いことを知っている。
 私はレオくんに瞳で合図する。

 (行けそう?)

 レオくんは私のそのメッセージを受け取ると、頭を上下にぶんと振った。
 ぽふん。
 軽い音がして、並んでいた人々が何事かと驚く。そして彼の臀部に現れた不可思議に目を見張る。
 尻尾だ。ライオン、ライオンの尻尾だ。悲鳴を上げる女性もいた。命の危険を感じるこの状況で、ライオンの尻尾を見たのだ。怖くないはずがない。
 
 「ライオンよ!」

 その叫び声に動いていたコンベアーは完全に止まる。
 「先輩!何やってるんです!隠さなくちゃ!」

 柿原ユウコはそう耳元で囁く。

 「いいの」
 「ダメです。無意味に人目を集めちゃだめです。」

 「仕事です」

 レオくんはそう元気いっぱいに声を発する。そうして私の手をどこからくるのかわからない、強い力で振り解いた。

 「レオくん!」

 私は咄嗟に声を上げる。
 分かってはいたけれど、やっぱり良くないんじゃないか。そんな気の迷いが私を戸惑わせる。

 「君、危ないよ」

 大列から逸れようとするレオくんの肩を掴んだのは、私服を着た獣人委員会の男だった。
 レオくんは彼の目を見て、そうして右手をライオンバッジから取り除ける。獣人委員会の男はその輝きに眩しそうに手を離す、

 「先輩、レオくんを連れ戻しに、なぜ行かないんですか」

 柿原ユウコは強い声で私をなじる。

 「いいから。今から起こることをじっと見ていて」
 「先輩は気がおかしくなったんですか。なったんですよね。どうして、何が先輩をそこまでさせるんですか」

 レオくんが深呼吸をするように息を吸うと、ライオンバッジは彼の胸から離れ、中空に輝きながら舞い上がると、閃光を放って砕け散る。

 「ユウコさん。私はね、奇跡を見てしまったの」

 私は夢見るように呟いた。

『獅子心臓に懸けて!』

 目の前で閃光が弾け、散り、収束する様は花火のようで、私はなぜ最初は怖がらなかったのだろうと思う。光の中から赤い外套に身を包んだライオン紋の王子様が登場すると、目の前にいた男は中腰の体勢でただ呆然としている。

 「なんなの、あの子」

 柿原ユウコは変身の一部始終を見届けると、そう口にした。

 「絵本があるでしょ。ライオン紋の王子様。彼、きっとあの中からうっかり飛び出してきちゃったのよ」

 ライオン紋の王子様は坂道の上でぴょんと跳ねる。全身が眩い橙色に光り、外套は翼のように広がり、ライオンの尻尾はぴんと張り詰めている。彼ががおうと吠える。突然、彼の体が光の中で掻き消えて、光の珠のようになる。光の珠は迷いなく天空に浮かび上がると、まるで流れ星のように私たちの元来た道を、空を飛んで逆行してゆく。それは一瞬のように早く、遠ざかってしまうことがなんだか切ない。

 そうして役所のあたりで消えたと思ったらまたすぐに強い閃光が天空に浮かび上がる。ライオン紋の王子様は高らかに叫ぶと、その白い槍を手に取った。

 「『断罪のツメ』!」

 星が地に落ちてきたような閃光が辺りを包む。少し遠いこの丘も例外ではない。私はその閃光を見るのは二度目なのに、その眩しさに目を瞑ってしまう。

 目を開けたときには閃光は既に収まり、流れ星がこちらに向かって流れてくる。

 天空でぴたりと動きを止めて、そうして地面に着くまではゆっくりと、ライオン紋の王子様は帰ってきた。

 「任務完了です!」

 ライオンの耳はぴんと立ち、ライオンの尻尾は元気よく振れている。赤い外套には汚れひとつなく、全身は輝いている。

 獣人委員会の男は通信内容に驚いて、ライオン紋の王子様を見やる。

 「きみが、「バケモノ」を倒したのか。誰も、何一つ傷付けず、銃弾三つしか撃たせずに。」

 ライオン紋の王子様は傲慢に鼻を鳴らすこともなく、子供らしく恥ずかしがることもなく、ただ勇敢に男を見つめていた。

 茶色い目に、夜闇でも光る金色の虹彩。
 
「ヒーロー・イズバック」

 柿原ユウコは夢見るように、そう呟いていた。人々の歓声が帰還したヒーローを包み込んだ。

シリウスさんが事故に遭った。

 そのニュースを聞いたのは、昨日のように図書館に向かったレオくんだった。彼の不思議な変身と、その活躍はもうこの街では知らないものはいない一大ニュースになりつつある。彼が街中を歩けばライオン紋の王子様と呼ばれ、彼はコンベアーに乗りながら笑顔で手を振る。テレビ記者が彼に会いに来ると、彼は気分よく、ハキハキと答える。
 私はそれを夜のニュースで知り、テレビ画面に映している。レオくんは街中の野次馬もテレビ記者の違いもわからない。彼はライオンの尻尾をもう誰にも隠さなくなっていた。

「骨折しているだなんて」

 私はどうしても呟かずにはいられなかった。この街では車は必需品ではない。むしろ不要なのだ。コンベアーで移動手段は確立されているために、交通事故だって起こらない。
 病院に駆け込んだ私とレオくんに、医師はその原因について多くを語らなかった。ただその症状だけを説明するだけだ。シリウスさんの病床には私たち以外に座る人はいない。彼はたった一人で海を越えて、たった一人で暮らしてきた。海の向こうの彼らの家族は向かってきているらしいが、到着は今日の未明となるらしい。

 「携帯端末で床にいても『元気だ』と伝えられる。良い時代になった。」

 シリウスさんは事故に遭ったその時を覚えていない。気づいたら病床に寝かされていたのだ。レオくんはシリウスさんを心配そうな目で見つめる。その目から何度も涙を流して、ときおり何故か、ごめんなさいとしきりに謝っている。

 「きみはシリウスさんの骨折りには、まったくの無関係でしょう」
 「同感だ。私が悪いのだ」
 「シリウスさんが悪いんじゃないんです。運が悪かったんでしょう。きっと階段で転んだんですよ。」

 私が彼の心を推し量ることはできない。けれど事実確認をきっちりしておけば、彼がその心を痛め過ぎずに済むだろう。
 シリウスさんはシワシワの手でレオくんの頭を撫でる。
 レオくんは、まだごめんなさい、ごめんなさいと謝るばかりで、シリウスさんが彼を抱き寄せると、彼はその涙がシリウスさんの服を濡らすのもお構いなしに大声で泣き出した。

 「お前が、どうして背負ってしまうのだ。罪を背負うべきは私と、この街に生きる全ての人々なのだ。」

 何故と聞いても、シリウスさんは私には答えを教えようとはしない。

 「君はきっと全て分かっている。分かっているのに見ようとしない。自分には関係がないと、ただ目を背けているだけだ」

 レオくんを優しく撫でながらシリウスさんの私を見る目つきは、とても冷ややかだった。


テレビ記者の向けるマイクに対して、レオくんはこう言い放った。ライオンの尻尾は彼の意思を代弁するかのようにぴんと立ち上がり、その顔つきは少年なのに雄々しい。

 「『バケモノ』はぼくがなんとかします。ぼくにはそれができる。その力が僕だけにある。だからぼくには使命があるのです。『獣人委員会』の方々は敵に銃弾を打つよりも、住民の保護を徹底してください。」

 「すごいね。ほんとにヒーローみたいだ。」

 私が隣に座るレオくんに声をかけると、彼はふふんと鼻を鳴らした。レオくんはその大記者会見の後、私の家まで一直線に帰ってきた。おかげで大名行列みたいに付いてきたテレビ記者が、私にもマイクを向けてくる。私は何も答えられなかった。ただ愛想笑いを向けるだけだった。
 柿原ユウコはポテトチップスを私の家のテーブルに置いて、むしゃむしゃ食べている。そのままニュースに耳を傾けている。

 「でもレオくん。いいの?こんなでっかいこと言っちゃって。きみがピンチになったら、誰もきみを助けてくれないかもしれないんだよ?」

 柿原ユウコは、ポテトチップスを一枚、袋の中でとびきり大きい一枚をレオくんに渡す。
 
 「いいんです。これは僕の仕事ですから。」

 その手でポテトを受け取ると、ライオンの尻尾が揺れる。
 レオくんはもうどこに行くにもその尻尾を丸出しにしている。隠す必要がなくなったのだ。ライオンバッジも胸元にいつも付けている。最近はしきりにチカチカと点滅して光るようになった。一体どんな仕組みで光るのだろう。仕組みなんて本当にあるのだろうか。
 私は深く考えない。
 目の前に起こりつつあることがあまりにも眩しくて、目を瞑っていなければここにいることさえできないような、そんな気がする。
「バケモノ」退治は沢山の費用がかかるこの街の大事業だった。それを一手に引き受けて、さらにもっと効率的な手段で解決してくれる存在が、偶然この街にやってきた。
 いや、多分二度目だ。ライオン紋の王子様はこの街に何故か戻ってきてくれた。

 レオくんは私が実家から取り寄せた絵本に夢中だ。だってそれは先代の王子様がどうやって戦ったかの記録なのだ。彼にとっての教科書と言える。
 昔は顔立ちの整った青年だったらしい。
 絵本にもそう描かれている。
 ライオンの尻尾は何故か描かれていない。
 みんなの信頼を一手に受けて、ライオン紋の王子様は悪と戦う。敵は何故か星座がモチーフだった。その体には外骨格のように白い線が広がり、所々で星を示すかのように節くれだったようなふくらみがある。敵がどこからやってきたのかはわからない。いきなり地上に現れ出てきたのだ。ライオン紋の王子様がどこから来たのか。それは分かっている。まだ人々の呼ぶ名前のなかった王子様は、最初の『バケモノ』退治を終えると、天空の星々を指差して、ゾディアークのうちの一つ。獅子座から私は遣わされたと宣言した。
 獅子。ライオン。百獣の王。
 世界を救うにふさわしいその威容は、彼をカリスマめいた存在にした。

 「あ、いけない。」

 レオくんは絵本を読みながらあるページを私に見せてくる。ライオン紋の王子様は「バケモノ」が出ないうちに、人々に王宮を作らせて、その中で普段は優雅に過ごしていたのだ。レオくんはそれが許せないらしい。

 「どうしていけないの。世界を救っているんだから、これくらいのことはして貰わなきゃ。」
 「これじゃ王宮を建ててもらうために戦ったようなものです。かっこよくない。ぼくはもっとかっこいいライオンになるつもりです」
 「どんなライオンになるの」

 私は興味本位に尋ねた。レオくんの尻尾は私の質問に対して、それまでぴんと張っていたのにちょっと萎れて、でもまたすぐにぴんと張り直した。びっくり、はてな、びっくり。いじらしくも考えているのだ。

 「ぼくは星を見つけて、それを掴みにきました。それを見つけて掴んでから考えます」

 「星?」

 テレビを見ていたユウコが振り返り、私は目を丸くする。彼はたまに脈絡のない発言をする。彼の中での秘密の論理が弾き出した答えであることは間違い無いのだが、彼はその論理の全てを明かしてはくれない。星。地球を含む、宇宙の間に散らばっている天体。この地上から見れば砂粒みたいで、でも本当は人間の手なんかより遥かに大きいものばかり。彼がライオン紋の王子様でも、こればかりは無理だろう。でも彼は頑張るだろう。宇宙空間の中でも、片手でダメなら両手で、両手でダメなら全身で捕まえようとするだろう。もしかしたらもっとすごいことをしてくれるかもしれない。私はぷっと笑いを堪えきれずに吹き出す。

 「どうして笑うんですか!」
 「だって、おかしいんだもの」

 ライオンの尻尾をぶんぶん振って、レオくんはご立腹だ。自分の夢を実現不可能だと笑われたように感じたのだろう。彼はどうして怒るのか。それは他人に否定されたからじゃなく、自分だけは否定せずに信じていたいからだ。夢を、そしてそれを叶えられる自分自身の存在を。

 「先輩。王子様を怒らせちゃだめです」
 「ぼくは怒ってなんかないですよ」
 「尻尾をぶんぶん振っていても?」
 「からかわないでください。これは一種の高ぶりです。ぼくにはどうしようもないものです。」

 動物的な衝動をこのライオンの尻尾は代弁しているのだろうか。ユウコはオレンジジュースの入ったガラスのコップをレオくんに手渡す。ストローがちゃんと挿してある。彼が飲みやすいようにと配慮されているためか。しかし、レオくんはそのストローをオレンジジュースから抜き取り、テーブルの上に置いた。

 「ありがとうございます。でもぼくには、ストローは要りません。言ってくれれば自分でジュースもコップも、取りに行きますよ」
 「おお。流石だね」

 ユウコはまるで予期していたようにその言葉を返した。
 レオくんはオレンジジュースをコップに口をつけて飲もうとする。でも流れてくるジュースは彼の空けた口には多すぎて、全て飲み込むことができない。口の端から水滴が流れて、彼の胸元へと流れていく。オレンジ色の流れ星。彼はシャツに染み込む冷たい感触に驚いたのか、びくりと体を震わせる。

 「もう、溢さないの」
 「ごめんなさい」

 私はそう声をかける。
 レオくんはそう恥ずかしそうに答えて、笑ってみせる。

 「次は、もっとちゃんとやります」

 ジュースひとつ飲むにしても、彼は全力らしい。誰かさんが彼のこの姿を見たら、同胞だと笑うに違いない。私はティッシュペーパーを一枚取り出して、彼の頬を拭く。シャツの染みは小さくて、すぐにも乾いてしまいそう。

 「レオくん。君、もしかして」

 ユウコが弾かれたように声を上げる。

 「何でもないですよ。ユウコさん」

 レオくんはその時ばかりは、強い声で返した。ユウコを見つめる目が、何故か鋭い。

 彼が最初のインタビューを受けてから三日が経って、私たちはそれでも普段の生活を続けている。「バケモノ」は一日一度は必ず現れるようになった。昔は、二ヶ月に一度あるかないかだったのに、どうしてだろう。まるで、レオくんに倒して欲しがっているみたいに、ボコボコ出てくる。レオくんはその度に、笑顔で仕事に出かけていく。そして一瞬で「バケモノ」を倒すのだ。

 ライオン紋の王子様がやってきてから、世界は変わってしまった。

 連日のように現れる「バケモノ」に街の人々は恐怖する一方で、レオくんの到着と戦闘を心待ちにしているのだ。獣人委員会の統制力はますます下がり、予算はますます減少しつつある。戦闘機がいなくても、ライオン紋の王子様がいれば良い。人々の声は一つだった。レオくんはその声を決して誇らずにただ責任のように受け止めていた。
 
 ふと思う。もしかしたらこれがこの世界の本当の姿であり、私たちはそれを見ない振りをし続けていただけなんじゃないか。変わってしまったのではなく、元に戻ったのではないかと。レオくんがやってきて、「バケモノ」と闘うことで、世界はようやく調和を取り戻したような気がするのだ。

 彼がいて良かった。私はこの異常事態にも安心していた。


蝉のうるさい合唱を聴いていると、ああ夏なのだと思う。七日で尽きる運命を背負った命がそれでも懸命に叫んでいる。何を言っているのかはわからない。でも彼らの生きた証なのだから彼らの好きに叫んでいて欲しい。彼らは七日しか生きられない。それ以上の長い期間を生きられる私たちは、果たして幸せなのだろうか。
 
 気づいたら、あっという間に、この街は変貌していた。街の住民は「バケモノ」が一体なぜ短期間に多数出現するのか、その理由を各々探り各々の解釈を実行し始めていた。私はそれを携帯端末のニュースで見ながら、人ごとのように眺めていた。まず標的になったのは街外れの繁華街だった。正体不明の「バケモノ」が出現しないあの区域はあからさまに怪しいと、街の人々は疑問に思ったらしい。繁華街にはこの街の娯楽、カラオケやゲームセンターなどが一か所に集約している。この街を作るにあたって、娯楽とは管理されてこそ娯楽たりうるという言説が、当時一般的だったらしい。私も、なんとなくそう思う。繁華街は当然のように閉鎖された。繁華街が閉鎖された日、「バケモノ」が現れた。レオくんはそれを倒した。この街の行政が「バケモノ」を使役しているのだという噂も立った。市役所に人が押しかけて、デモ集会のようになった。この街の市長が群衆の目の前に現れた。泡草耕造。泡草ハナエの父親だった。ネット上に流れるデマを彼は否定したが、そのような不安を生み出したことを詫びていた。しかし終始脈絡のない回答に民衆の溜飲は下がるはずもなかった。暴徒の男がペットボトルを投げると、それは市長の耳を掠めた。男は獣人委員会に連れ去られ、厳重注意を受けたそうだ。その夜に「バケモノ」は発生した。もちろんレオくんは戦い、一瞬で勝利した。
 
 民衆はレオくんの強いことを受けて、歓喜に沸いた。レオくんは民衆の不安を一身に受けて、ますます称賛されるようになった。しかし、インターネット上の「ノケモノリサーチ」に寄せられたコメントにはレオくんがもっと早く来ていれば、窓ガラスが割れなかったと、彼を詰る言葉も書かれていた。私はそれをレオくんが不意に見ることがないように、そっとその言葉を運営に報告し、削除させた。

 日を追うごとに、出現する「バケモノ」を討伐する彼を、詰るコメントは一つ二つと増えていく。私はそれをレオくんが寝た真夜中に、虱潰しをするように削除している。削除すればニュースのコメントにも取り上げられることはない。それが私にできる精一杯のように思った。まるでアイドルのマネージャーのようだなと、コメントを運営に報告しながら、マネージャーの実際さえ知らないのに私はそう妄想した。一昨日は5件削除した。今日は12件削除した。私に対する誹謗中傷も確かにあった。レオくんがただ一人生活を共にする女。私に対しても様々な憶測が飛び始めているらしい。私は私の名前を検索されないように非検索語録に登録しなければならなかった。レオくんは悪くない。私も、きっと悪くない。「バケモノ」が現れるこの世界が悪いのに、どうして私たちは苛まれるのだろう。夏の暑さは暗澹たる気持ちに追い討ちをかける。「バケモノ」は今日も現れる。もう日常だった。

 「暑いです」
 「そうだね。暑いね」

 レオくんのライオン尻尾は萎れっぱなし。日光が強すぎるせいで瞳もろくに開けられない。細い目つきで世界を睨んでいる。

 「太陽がもうちょっと優しかったらいいのに」

 私は暑いのが嫌いだ。暑さに耐えかねて、不満をぶつぶつ言う。レオくんは黙ったままだ。額には汗が浮かび、いくつもいくつも浮かんでは下に向かって流れていく。シャツに入り込むと時おり何故かびくりと震える。

 「どうしたの」
 「汗が冷たいんです」

 冷たい。この暑さで汗が冷たいとは思えない。私だってひどい量の汗をかいているけど、相変わらず暑い。レオくんは大きな麦わら帽子を目深く被っている。傍目から見てなんだか恥ずかしそうなのは、その麦わら帽子に青くて大きいリボンがついているからだ。
 私のお下がりである。新しいものを買ってやろうともしたが、何故かレオくんは私のお下がりが欲しいと言うのだ。男の子なのに。

 「服屋に行けば、もっとかっこいいのが沢山あるよ。ライオンの帽子だってあるんだから」
 「あなたのじゃなきゃ嫌です」
 「頑固者ね」

 教えてもいない。そうするように強制してもいない。でもレオくんはなぜかこの世界にある他の服を自分から求めようとはしない。出会った時のように横縞の服ばかり着て、ズボンも茶色のものだけ履くのだ。夜。彼が風呂に入っている間、その服を洗濯にかける。服を洗濯しているうちはなんと彼は裸で居ようとするので、私はせめてパンツとシャツとパジャマくらい着なさいと怒らなければならない。風邪を引くことすら考えられないのか。私がパジャマを買ってくると、何故かレオくんはそれを嬉しそうに着る。だのに店に行っても自分で選ぼうとはしない。必要最低限のものしか求めない。私のお財布には優しいのだが、どうしてそんなに無欲なのか。

 「どうして、この世界には色んなものがあるのに見ようとも、求めようともしないの」
 「ぼくにはやるべきことがあります。ぼくはライオン紋の王子様なのです」

 何を言っても聞いてくれない。心の中を開いてくれない。本当は色んなものを欲しいと思っているんじゃないのと、私はそう勘ぐってしまう。

 でも、暑い中でもコンベアーに乗って図書館に行くとそれは顕著にわかる。彼のうちに秘めた好奇心は図書館に行くと解放される。
 レオくんはアロハシャツを着て車椅子で応対するシリウスさんに、元気よく挨拶すると熱心におしゃべりをする。世界の色んなことについて知りたがる。鉱物とか、宇宙とか、自然現象とかについて何にも知らないのに熱心に考えて質問する。シリウスさんは業務の途中でも彼のお話に乗ってくれる。受付の仕事を手早く済ませて、レオくんとのお話に夢中になっている。まるで子どもが二人いるみたいだ。

 「きみは何が知りたい。何を求めてどのように生きていたいのかな」

 シリウスさんはレオくんが興奮すると、嬉しそうに問いかける。でもレオくんはいつも

 「ぼくは星を掴むのです」

 この一辺倒なのだ。
 それを聞くたびにシリウスさんは泣き出してしまう。クーラーの効いた室内でもちょっと温度が上がったような気分になる。

 「星など、お前が掴むようなものではない!私たちが掴み損ねたガラクタなんぞ!」

 シリウスさんをお見舞いに行ったあの日からもう数ヶ月経った。あの頃はまだ春だった。
 桜も咲いていたのに、私はお花見だって忘れていた。「バケモノ」がいつやってくるかわからなくなって、学校だって休校になってしまった。

 「これ、貸してください」

 聞き覚えのある声に、はっと後ろを振り返る。泡草ハナエがいた。青いワンピースを着ている。
 シリウスさんは彼女の細い目をじっと見ている。ハナエは何も答えないが視線をずらしてレオくんを見る。

 「ライオンくんは図書館が好きなのか」
 ハナエはそうレオくんに声をかける。レオくんは嬉しそうにうなづく。ハナエはそれを見るとにやりと笑う。
「何故そう思うのかな」
 レオくんはその質問に口籠った。そうしてなぜか下を向く。俯いてしまったのだ。

 「今はわからなくてもいい。きみがいつか、はっと気づくことがあるさ」

 ハナエはそう言ってまた笑った。
 何故なのだろう。ハナエとシリウスさん、そしてレオくんとの間には、不思議な連帯が生まれている。私はなんだか蚊帳の外にいるような気分だ。心がしんと雪に降られたように冷たくなる。

 ハナエが借りたのは、星座についての本だった。彼女はその知識について全てを知っているはずだ。わざわざ本なんて読む必要はないはずだ。
 不思議そうにする私に、ハナエは口を開く。

 「カナコ、知ったことが全てではないんだ。天球儀は私が動かさなきゃ、ずっと止まったままだ。」

 天球儀。ハナエの本の表紙に描かれている平面の空。金色の、本当は座標もばらばらな星と星を見かけだけで繋いだ、はかない幻。
 何も答えない私に、ハナエの語気は何故か強くなった。

 「きみは、届かないと知っていても夜空の星に手を伸ばしたことが、一度だってあるのかい」
 「あるよ」

 何故か反射するように答えていた。
 でも、届かなかった。
 レオくんに助けてもらったあの日、私は身動きのできない竜巻の中で、ハナエたちのいる世界に私も行きたいと願った。しかし変わらなかった。私には世界は変えられないのだと、その時何となく思い知らされたのだ。
 ハナエはその言葉にいつものポーカーフェイスを崩す。驚いたような、それでいて悲しんでいるような目の奥に、何か言いづらいものが渦巻いているように感じる。

 「きみは鍵を持っている。でも使い方がわかっていない。私から言えるのはもうそれくらいかもしれない」

 ハナエは何故かそんな遠回しに言う。
 何を言っているのかわからない。言葉の中の意味のつながりが読み解けない。シリウスさんみたいだ。明晰な彼女が何故そんなことを言うのだろう。

 ハナエはレオくんの前にしゃがんで、星座の本を目一杯開いて見せる。星座の絵にレオくんは夢中だ。星座の大きいものには一つ一つ物語がついていて、太陽が通る黄道の十二星座はあまりに有名なものばかり。レオくんはその中の一つ一つをでたらめに指す。ハナエはそれに的確に答えてゆく。何だ。レオくんに見せるためだったのか。私は納得ができた。

 「これは何ですか」
 「これは、小獅子座という星座だよ」

 小獅子座。
 携帯端末で調べると、獅子座のそばにある小さな星座だ。神話はない。その作られ方も乱暴で、獅子座の周辺に空間が開きすぎているから、その埋め合わせに作られたのだと言う。

 「この星座には今、神話はないよ。でも新しく作ることはできる」

 神話を作る。ハナエは何故か私とレオくんを交互に見て、そんなことを話す。馬鹿馬鹿しい。全部御伽噺なのだ。一人が描いた神話なんて、すぐに忘れ去られるか誰も見ようとはしない。でもレオくんはその空白の存在を聞くと目を輝かせていた。

 「じゃあ、ぼくがその星座のお話の一つになります」

 星座のお話に自分がなる。そんな荒唐無稽なことが成立するはずがない。私は叫びそうになるのを抑える。星座の物語はギリシャ神話などが題材にとられたお話が多く太古の昔に作られたものだ。その中にただ空白があるからと言って、埋めてしまっていいはずがない。空白とは無だ。それが全てなのだ。ライオン尻尾であったとしても、それは変えてはならない。
 私は、目の前の世界が私の心から急速に遠ざかってゆくのを感じる。後に残るのは、冷たくなった自分の心ばかりで、それをじっと見つめるしかない。
 私は踵を返すと次の瞬間駆け出していた。後ろを向いたら心を落ち着けようと思っていた。でも後ろを向いた途端に襲ってきた孤独は私の心臓を、その冷たい手で鷲掴みにしたのだ。私はそれに耐えられなかった。

 「お姉ちゃん!」

 聞き覚えのある声がする。
 それが他ならぬレオくんの声だと言うことに気づいた時には、私は既にコンベアーに乗り、時速10キロの速さで自宅に急いでいた。


レオくんはてっきり私を追いかけてくるものだと、そう思っていた。お姉ちゃんと呼ぶ声に、私は心のどこかで優越感を得ていたのだ。この街の中でなぜか私だけを最初に選んだレオくんは、私を特別にしてくれるように思っていた。コンベアーはすぐに私を自宅に漂着させる。レオくんは追いかけて来なかった。彼の足音も、声もない。まるでこの世界から忽然と居なくなってしまったみたいだ。
 ひぐらしの声が響く。

 「当然だよね。逃げたのは私だもの」


 ドアノブを回す。
 室内に入る。
 沈みゆく夕陽に照らされた室内は暗く、赤く染まっている。テーブルも、ベッドも真っ赤だ。
 部屋の照明をつけようとボタンを押す。

 スイッチをオンにしても明かりが点かない。
 一瞬だけ故障かな、と思った。
 でも本当は分かっていた。
 最近は、毎日繰り返されてきたことだから。

 『「バケモノ」出現』
 
 携帯端末から音声が響く。

 「レオくん、仕事に行ったんだ」

 彼が今日も戦うのだ。たった一人だけど「バケモノ」も一体だけなのだし、問題はない。彼の持つ「断罪のツメ」があれば、また一瞬で倒してくれることだろう。私は何もしなくていい。

 『「バケモノ」出現』
 
 情報を反復しているのか、携帯端末からは同様の音声が流れる。私はベッドに座り込む。
 洋服に染み付いた汗は私の体に張り付いて鬱陶しい。私はベッドに倒れ込む。ひぐらしの鳴く声がする。携帯端末からは警報が鳴る。私は白いシャツに、風通しの良い薄く青いロングスカートを着ていた。寝転がってようやく思い出す。ようやく、私を認識する。

 「お姉ちゃん、か。」
 
 そんな名称を言われたのは久しぶりだった。私の実家の弟は、私のことを小さい頃はお姉ちゃんと慕っていた。あの頃の彼は可愛かった。何をするにも付いてきて、自分のしたことをいつも誇らしそうに見せてくる。レオくんは弟の幼少期に似ていた。だから、私は彼を何の違和感もなくこの部屋に暮らさせているのだろう。今の弟は私のことをお姉ちゃんなんて呼ばない。呼び捨てにする。カナコ。カナコと呼んでくる。別にそれで彼のことを嫌いになった訳ではない。人間は成長していくのだから、しょうがないのだ。でも、多分私の名前を呼ばれることに動揺してしまうのは、私が南天カナコという名前にどこか薄っぺらいものを感じるからだ。親から与えられた大切な名前だけど、紙に書いて見ていると途端に恥ずかしさを覚える。与えられただけの名前。与えられただけの命。私はこんなものでいいのかと、この街に来る前はいつも自問していた。この街で暮らしていくうちに変わっていけるだろうと、希望を持った一日もあった。でもいつしかそう思うことさえ、忘れてしまっていた。

 太陽が沈む。外は暗黒に包まれる。切ったはずのスイッチが点く。スイッチをオフに動かすことを忘れてそのままにしていたのだ。部屋は電気で明るくなる。

 「レオくん、お仕事終わったのかな」

 レオくんはもうこの街の有名人になっていた。テレビのインタビューを受けることも珍しいことではなくなり、「バケモノ」を退治した暁には、いつもヒーローインタビューが行われている。私はそれを自宅で鑑賞することを、いつもの日課にしていた。病室にいた頃のシリウスさんはその中継をとても嫌がった。見たくないと言って、何故か啜り泣いた。せっかくの彼の勇姿なのに。勿体無い。

 数ヶ月前は側にいたはずなのに、何故か今はとても遠くに、彼を感じる。
 あのライオンの尻尾が、私の腕に不意に当たると、彼はちょっと恥ずかしそうにした。
 画面の中にいつもの笑顔が映るのだろう。
 私は何とも思わないで、テレビの電源をつける。少し前から鳴り始めた携帯端末を取ることは、彼の笑顔を見てからでも遅くないと思った。

 そう、思っていた。

 『「バケモノ」は依然市街地西区を移動しております。家屋を破壊しております。逃げ遅れた住民たちの保護を獣人委員会は行っておりますが、「彼」の到着を待つのみであります』

 夜の街。明かりのない街は黒い碁盤のようだ。巨大な蠍はその中を歩いてゆく。その体躯に浮かぶ白い線は蠍座の模様だ。家屋を踏み潰し、炎や煙をそこかしこに上げながら、街を我が物顔で進んでいる。黒い鱗のような甲殻に覆われた巨大な尻尾。地獄の鬼が持つ棍棒のようだ。

 突如、暗黒の空に小さな流れ星が奔る。オレンジ色の光。ミサイルのように直進し、黒蠍に向かって飛んでゆく。

『来ました!「ライオン紋の王子様」です!』

 キャスターが大声を出す。
 私はこの放送の真意を理解する。
 ショーだ。
 「バケモノ」の存在も、恐怖も、レオくんが全てなくしてしまって、ただ彼の強さを見せつける場となっているのか。
 でも何故夜までレオくんは来なかったのだろう。そんな疑問を抱き、ふと視線を逸らすと携帯端末に着信があることに気がつく。

 「すまない、カナコ。ダメだった」

 電話の送り主はハナエだった。何故か息を切らしている。携帯端末からはノイズのような風の音が聞こえる。

 「どうしたの、急に」
 
ハナエは走っているらしい。図書館からこの夜にどこへ向かおうというのか。黒蠍が街を破壊しているのに、なぜ留まっていないのだろう。

 テレビ画面に目を戻す。
 会敵する蠍と流れ星。
 オレンジの流れ星は蠍の正面に立ち塞がる。黒蠍の赤い目はその光源を眩しそうに見つけると、黒い尾を振り上げる。

 「此れより見せるは威厳ある王、その三振りがひとつ!」
 
 ライオン紋の王子様はその頭上に白い閃光を出現させる。両手を伸ばし、その中にある何物かを掴み取る。「断罪のツメ」と呼ばれる「バケモノ」殺しの槍である。中継しているカメラの位置が遠いために、その形ははっきりとは見えない。彼の体躯よりも一回り大きいその武器の光は、オレンジの光さえ掻き消してしまいそうだ。ライオン紋の王子様は黒蠍に向けてその鋒を差し向けると、その身を委ねるように突進してゆく。初めて会ったあの日と同じ、いつもと変わらない戦いの光景だ。

 「彼を、レオくんを止められなかった。私の責任だ」
 「責任?」
 
 何故止める必要があるのだろう。
 彼はヒーローで世界を救うことが任務なのだ。それを止めてしまうのは、おかしい。

 閃光と共に衝突し、そのまま貫通するかに見えたが、次の瞬間には黒蠍の上方に槍の一撃は逸らされてしまう。必殺の一撃は弾かれたのだ。弾かれた「断罪のツメ」は次第に光を失ってゆく。光を失った槍の姿は、白骨のように白く細長い姿をしており、闇夜に浮かぶその姿は、まるで亡霊のようですらある。白い閃光が消えた後には、オレンジの光が頼りなげに夜空に浮かぶだけだ。

 『弾かれましたね』

 テレビキャスターは事実を淡々と述べる。
 何だか面白くない。いつものように「バケモノ」を撃破して、意気揚々と帰ってくるものだと思っていたのだ。私の予想は外れたのだ。

 オレンジの流れ星は弧を描いて蠍の尻尾の上空に舞い上がる。蠍の尻尾は流れ星を撃ち落とそうと振り下ろされるが、オレンジの光はすんでのところでかわす。

 『躱した!』

 テレビキャスターが当然のことを話す。彼はこの街を背負うヒーローなのだ。これくらいの臨機応変さは持ち合わせているだろう。しかし、私の胸に燻り始めたこの苛立ちは何だろう。今すぐあのオレンジの光の側に駆け寄ってやりたい。この気持ちは、一体どこから湧いてくるのだろう。

 「わからないのか。カナコ。君の後輩だって気づいたんだ。どうして君が気づいてやれない」
 「ユウコが」

 柿原ユウコは私が家に招いたあの日から、だんだんと態度がよそよそしくなっていた。道で会う度に何か言いたげであったが、そのまま口をつぐんでいた。私が隠さないで言ってちょうだいと言っても、伏した目を上げずに答えなかった。

 オレンジの流れ星は二度目の衝突を試みる。しかし蠍の尻尾が鞭のようにしなると流れ星は弾かれてしまう。あのおしゃべりの彼女にしては不自然だった。

 『おっと弾かれた!』

 キャスターは当然のリアクションをする。
 弾かれるはずがない。弾かれていいはずがない。私は理由も見つけないうちに、そう思っていた。私は怒っている。何故か私はこの現状に怒っているのだ。

 「君の家に、そろそろ君の後輩が着くだろう。そうなったら、カナコ。君はちゃんと逃げないで、向き合ってあげなきゃいけない。レオくんと」

 ハナエの声は走り疲れているといるよりは震えていた。寒さに凍えているようなその口調は聞いたことのないものだった。

 「何よ、向き合うって」

 私とレオくんは共同生活をしている。一番近いところにいるし、彼は彼自身の意思でヒーローになっている。戦っている。私がその光景を見ることができる少ない機会なのだ。邪魔しないで欲しい。通話はハナエよりも先に私が切った。

 玄関の戸を叩く音が同時にこの小さい家に響く。

 「先輩!開けてください!」

 柿原ユウコは何故か切羽詰まった声を出して玄関の戸を叩き続ける。何をそんなに急いでいるのだろう。

 「どうしたの、そんなに急いで」
 「先輩は何にも、何にもわかっていないんです!!」

 ドアを開けた私を見るなり、柿原ユウコはそう叫んだ。道中転んでいるのか、制服とスカートに染みが付いている。怪我をしたのだろうか。白い蛍光灯に顔は赤く照らされて、赤縁眼鏡の奥の瞳は潤んでいる。ただごとではない雰囲気を感じる。

 ハナエもユウコも、なんだか異常だ。まるで後ろから誰かに追いかけられてでもいるように感じる。私は彼らをせっつかせているものが何なのかその正体を考えてみたが、心当たりはなかった。ユウコは私をキッと睨むと土足のまま玄関に踏み入り、テレビの前に立つ。黒い蠍とオレンジの小さな流れ星はまだぶつかったり離れたりを繰り返している。

 「ちょっと、私の家に土足で」
 「レオくんは私たちにずっと隠し事をしてきたんです」

 隠し事。その真意を考えるより先に、ユウコは制服のポケットから黒いイヤホンを取り出した。ワイヤレスのタイプで送信元とは無線で繋がっている。ユウコはその片方を私に差し出して、もう片方を自分の耳につけた。

 「今戦っているあの子の服に、このイヤホンのマイクがついてます。先輩がいなくなったあと、ハナエさんが彼にシールだと嘘を伝えて付けたんです。あの子がどうやって戦っているのか。先輩も知るべきです。」
「まぁ、それもそうね」
「先輩!」

 私はユウコが叫ぶことも、なにも考えないで、イヤホンを取り、耳に付けた。

 最初に聞こえたのは、心臓の音だった。
 バクバクと早鐘のようになり続ける振動。
 次に聞こえたのは、呼吸の音。
 深く吐いて、息を止めてを繰り返す音。
 三つ目に聞こえるのは、小さな声。
 言葉ではない。息を吐くのに合わせてほんの少し漏れ出る声帯の震え。

 恐れを噛み殺してまで戦おうとする、男の子の息遣いが、私の耳に流れてくる。

 不用意な私の心に、レオくんの呼吸がどんどん流れ込んでくる。
 テレビの映像に映る流れ星は蠍の体躯から離れる。耳から深い息を吐く音が聞こえる。意を決したように息を止めると、流れ星は蠍の体躯へと突進してゆく。衝撃が耳を襲い、私は咄嗟にイヤホンを外そうと手を伸ばす。
 しかし柿原ユウコはその手を掴んだ。

 「何するのよ」

 反射的に声が出る。
 柿原ユウコは、私をじっと見つめて震えそうな声を何とか抑えて言う。
「先輩。先輩だって分かってるでしょう。逃げちゃだめです、レオくんから。あの子は、世界を救うヒーローなんかじゃない。そんなことしていい人なんてこの世のどこにも。どこにも、もういちゃいけないんですよ」

 蠍の大きな尻尾に弾かれる度に、イヤホンの奥からは強い衝撃の音と、押し殺した叫びが伝わってくる。痛いはずなのに。痛いと声にすら出さない。そしてまた、息を整えて突進してゆく。弾かれる。突進する。弾かれる。最初は押し殺していたはずの声もだんだんと堪えきれなくなってゆく。ねえ、レオくん。何故。何故そんなにしてまで戦わなければいけないの。

 『苦戦していますね』

 『痛っだい!』

 冷静なリポーターの声と、耳元でつんざく絶叫のその差異に、私はもう、気が狂いそうになっていた。膝ががくんと落ちて、その場に座り込む。
 忌々しいテレビの画面を消そうとするが、リモコンはあまりに遠い。

 「もう、もうやめて。ユウコちゃん。私もう、もう限界なの。」
 「私だって!私だって、何とかできたらって思いましたよ。だから。だから先輩に言おうって、思ってたのに。できなかった。この街は、レオくんが戦わないと滅んでしまう。「バケモノ」を倒さなくちゃ、私たちが死んでしまう。獣人委員会は春にはもう予算を大幅に削減させたそうです。レオくんがいるから十分だろうって。あの子が戦えればそれでいいんだって。あの子自身が自信満々に言っていたことに変わりはない。任せておけばいいんだって。ハナエさんは一人でそれに抵抗していました。住民登録をさせることで、同じ人間なんだって認識をこの街の行政に持たせようとしたんです。私は、レオくんの方に変わってもらおうとしました。でもレオくん、頑固ですね。本当は胸に、いえ、身体中に「バケモノ」との戦いで傷ついた痣があるのに、先輩の前だと痛がる素振りをちっとも見せてくれないんです。先輩に気付かせまいとずっと我慢していたんですよ」
 「どうして止めてくれなかったの」
 「レオくんは今日も「バケモノ」退治をすることはわかっていました。ハナエさんとシリウスさんは、彼を戦わせないように図書館で足止めをしていたんです。彼は星座の本が好きですから、興味を持てばレオくんはそのまま、戦わないまま獣人委員会の到着を待っていられるだろう。そう画策していたそうです。でも。獣人委員会は図書館にやってきてしまいました。レオくんの力が必要だと、彼に要請したそうです。二人はレオくんを説得し、獣人委員会にも彼の体について話しました。しかし、彼らはもうそれを知っていたようです。」
「知っていたなら、どうして止めてくれないの」
「獣人委員会は西区の街に住む人々の、膨大な要請に耐えかねて、図書館にやってきたそうなのです。ライオン紋の王子様に早く『バケモノ』を退治させろ。被害が出てからじゃ遅いんだと。レオくんは行ってしまいました。ヒーローの仕事だからと二人に言い残して。」

 ユウコは最初こそ声を張り上げていたが、すぐにその声は弱々しくなる。
 イヤホンから聞こえる啜り泣き、涙を流す男の子の声を、テレビのマイクは拾わない。

 『ライオン紋の王子様、「バケモノ」から撤退してゆきます。

 レオくんの使う『断罪のツメ』でしたか、あれはレオくんにとってもリスキーです。一度使用すると何故か再使用まで幾分かの時間を要するらしいですね。二度目が使えるかどうかも不明です。困りましたね。

 あの硬い鎧をどうしましょう。獣人委員会の答弁はどうですか。

 獣人委員会は戦闘ヘリを飛ばすようです。

 やはり、御伽噺に語られたライオンのヒーローと言っても、子どもの彼には荷が重すぎましたか。獣人委員会の到着を、テレビをご覧の皆さんは、落ち着いて待ちましょう』

 逃げようとする少年の背中に、黒蠍の尾は巨大な鞭のようにしなり、うねり、迫り、打ち据える。その剛力は彼のまだ幼い体躯を西の街の高層ビルまで吹き飛ばし、壁面に叩きつける。
 イヤホンから流れるのは、耳をつんざく破壊の轟音。砕ける瓦礫の音。
 それに紛れて、レオくんの絶叫がイヤホンから聴こえる。

「先輩!ダメです!」

 私は一体何を考えていたのかわからない。ただ悔しかった。レオくんがこんなに苦しんでいることに気づこうともしなかった。でも、気づいてあげても何にもしてあげられない。自分が悔しがっているだかしかできないという事実にさえ私は、やり場のない怒りしか持てなかった。この抱えた怒りさえ、止められない涙さえ、あまりにも傲慢で罪深いのだ。


「先輩、手が」
「うるさい!」

 テレビの液晶を殴り付けても何も変わらないことくらい、私にはわかっていた。それでもやらなくてはならなかった。私の手がヒリヒリと痛むのに、そこからは血なんて一滴も流れない。液晶が鏡だったらよかった。殴れば割れて、破片が私の体をずたずたにしてくれれば良かった。液晶の方にヒビが入って、歪んでいる。キャスターは変わらず実況を続けている。

『戦闘ヘリが到着しました。三機、「バケモノ」を包囲しています。

 ライオン紋の王子様は撤退後行方が掴めていません』

 イヤホンから伝わる泣き声には嗚咽にも似た咳が出始めている。息が切れているのだ。
 行方が掴めていない。どこにいるか分からない。生きているの、怪我をしていないの。でもこのままじゃ、確実にレオくんの命は危ない!
「これ貰うね!」
 ユウコからイヤホンの片方を奪い取り、私はもう片方の耳に嵌める。そして開いたままのドアから外へと飛び出す。

「先輩!ダメです!先輩はヒーローじゃないんですから、レオくんのもとに行っても迷惑です!」
 そんなことわかっている。
 今までそうやって逃げてきたんだから。
 向き合えって言ったのはユウコの方じゃないか。


「迷惑かなんて知らない!言ったでしょ!もう我慢できないの!」
 青いコンベアーに飛び乗ると携帯端末で調節し、速度を跳ね上げる。時速何キロかなんて知らない。構うもんか。「バケモノ」が出てるから外に出るなんて物好きは私くらいだろうし、遠慮はいらない!
 コンベアーは今まで体験したことのない速度で進む。風を切り西区へのルートを直行する。家々が高速で目の前を過ぎ去ってゆく。恐ろしく思ったが、私はそんなことを考えている余裕はなかった。

 市街地を抜け、陸橋を越えて西区に差し掛かると、上空付近をふらふらと飛ぶオレンジの光が見え始める。レオくんの光だ。
 両耳に嵌めたイヤホンはどこから聞こえてくるのだろう。最初はレオくんの苦しそうな息の音だけだった。でも市街地で逃げているというのに、レオくんは忙しなく呼吸して、運動を繰り返している。まさか他にも「バケモノ」が出てきたのだろうか。街路を曲がり、オレンジの光を追ううちに、西区の町の人々が町の外に出てきている事実に気づく。一人かと思えば二人、角を曲がればそこに三人。私は何度もぶつかりそうになる。
「危ねぇな!」
 若者が声を上げる。
 私はその声を無視して進んでゆく。レオくんの光は弱まることはないが、その光を掠めるようにして、何かが飛んでゆく。それが何なのか。気づいた時にはもう、私は不意にこの街の喧騒を耳にすることとなった。

 人々「負けるな」
 人々「逃げるな」
 人々「戦え」
 人々「何のためのライオンだ」
 人々「王子様が聞いて呆れる」
 人々「槍を使え」
 人々「そうだ槍だ槍、それさえあれば」
 人々「なぜ使わない」
 人々「デメリットがあるらしい」
 人々「心が弱いと使えない?」
 人々「弱いのか、あいつは」
 人々「弱虫なのか」
 人々「私たちは弱虫に守られているの」
 人々「しゃきっとしろ」
 人々「戦え」
 人々「蠍をやっつけろ」
 人々「私たちを守って」
 人々「あなたにしかできないの」

 街路の人々の声は大きくて、オレンジの光はそれに応えているのに、誰も聞こうとはしない。星が投げかける声は、あまりに小さいからだ。
「ごめんなさい」
 その言葉を消えそうな息で繰り返している。両耳のイヤホンから、それは聞こえてくる。
 あの光を掠めた物体は、スチールの空き缶だった。誰かが投げたんだろう。レオくんに向かって。

 人々「期待外れだな」

「ぼくが、僕が頑張らなきゃ」
 そんな小さな声に、誰も耳を傾けない。
 オレンジの光はその動きをピタリとやめ、そうしてさらに上空に舞い上がる。
 私はその真上に、ようやく到着する。
「レオくん!ダメ!もう戦っちゃダメ!!」
 上空のオレンジの光に私はそう呼びかける。枯れそうな声で張り上げる。

 人々「誰だあの女」
 人々「戦うな?じゃあ誰が代わりをやるんだい」
 人々「お前がやってくれるのかい」

 私は何にも知ろうとしなかった。知らないままでただレオくんに全てを押し付けていた。レオくんが戦うことを望んでいる。ただその意思に甘えていた。きみはまだ子どもで、私は十八年も生きてきたのにね。

「お姉ちゃん!」

 オレンジの光は震える。そうして下降しようとしたが、すぐに元に戻ると、元来た道を引き返してゆく。強い光の軌跡は天空に引かれた轍のようだ。光が強すぎて、彼が今どんな姿をしているのか。それさえ分からない。

「お姉ちゃんを、お姉ちゃんも守らなきゃ。僕はライオン紋の王子様なんだもの。僕が、やらなきゃ」

「だめ!!行ってはだめ!!!」
 飛び去る星に願いを告げても、あまりに遠すぎて届かない。あれだけ騒いでいた人々はレオくんが蠍に向かってゆくと安心したように何も言わなくなった。私はただコンベアーの速度をさらに早く設定する。私が彼らにいう言葉はない。私は私のできることを、彼に届くようにするしかない。

 再び走り始めた時、オレンジの光の上にはもう眩い閃光があった。イヤホンから流れる呼吸は聞こえなくなる。息を止めているのか。「断罪のツメ」と叫ぶ声がイヤホンに響く。それはまるで谷底に咲く花を掴もうとするような、落下する恐れを振り切って蛮勇に挑むような、決死の叫びだった。

 やめてと叫んだ声も届かず、真っ黒な蠍へ向かって閃光は落ちてゆく。しかし、黒い蠍はその尾で閃光を受け止める。黒い鎧のような尻尾は閃光の光さえ反射してなおも黒黒と光っている。その槍の貫通する力に全く動じていない。私はコンベアーに乗りながら、彼の閃光を追いながらそれを眺め続けることしかできない。上空の戦闘ヘリはレオくんの放つ閃光のせいで視界が塞がれているのか、その援護に回ろうともしない。レオくんは歯を食いしばり、その鎧を貫こうと奮闘していた。
 しかし。

「あっ」
 レオくん放った言葉は、意味というよりも泣き声に、悲鳴に近い声だった。
 黒い蠍はその鍔迫り合いに飽きたように、ぶん、とその尾を振り抜いた。
 何故か聞こえる炎の、燃える音。
 べキリ、という通信が途絶える音。
 それを最後に、イヤホンからの音は途絶える。

「レオくん!!」
 私はそう叫ぶしかなかった。
 落ちてゆく星を私は無我夢中で追う。
 元来た道を引き返す。
 今までの倍のスピードで。
 その光が私の家を目指していることに気づいたのは、陸橋を越えて街路を抜けて、私の家の近くになってからだった。

 私の庭。あの人工芝生に向かって、オレンジの光は落ちてくる。確信があった。コンベアーを転がるようにして降り、私の家を土足で横断して、窓ガラスを開いて、私はその芝生の上に滑り込む。
「先輩」
 ユウコはまだ私の部屋でうなだれたままだった。
 私の胸ほどの大きさを持つ火達磨が、私の庭に突入してくる。
 私は仁王立ちでそれを待ち構える。

 私の胸に落ちてきたそれは、まさに太陽そのものだった。服が焼けるほどの熱。抱えきれない質量。光の繭に包まれた、ライオンの子の体。私はそれを体の痛みさえ構わないと抱き留める。腰が折れそうになる。でも砕けてしまってもいい。この子の痛みさえ担えないのならば、私は姉失格なのだ。
 どんなに熱くても、痛くてもそれがどうでもいいくらいに、私はこの命の塊を愛している。
 もう戦っちゃいけない。
 戦わせてはいけない。
 その戒めを私は自分に刻んでおかなくてはいけない。

 私の腕に抱きとめてからしばらく経って、光が解け、炎が和らいでゆく。私は服が破け痣と火傷でボロボロになっている自分の両腕で、ボロボロの赤い外套を着た男の子を抱きしめる。
 ライオンの耳。
 ライオンの尻尾。
 変身するとちょっと伸びる髪の毛。
 勝気な声。
 臆病な心。
 小学五年生くらいのかわいい体。

「お姉ちゃん」
 消え入りそうな声で、王子様は私を呼んだ。
 私は彼の声に応えられず、子どものように、大声で泣くことしかできなかった。私は悔いるべきなのだ。この命さえ無力で罪深いのに、それでも安心してしまう。

 レオくんが生きていたことが、こんなにも嬉しい。

 レオくんはゆっくり、ただ生きるために息をしている。火達磨になっていた体は外気にさらされると痛むのか、夜風が吹くたびに体を震わせる。外にいると彼の体に良くない。私は立ち上がって、家に戻ろうとする。全身から痛みが襲いかかってきたのは、その時だった。レオくんを受け止めようと精一杯だった私の意識は、私の体などお構い無しだった。立ち上がるどころか、身動きひとつするのが精一杯だった。レオくんを抱えたまま蹲ることしかできない。
「先輩!無理しないで!今ハナエさんも、シュウヘイとケンゴも来ますから」
 柿原ユウコは私に声を掛ける。ハナエとあの男子二人がやってくる。救急車をなぜ呼ばないのか、私はなんとなく思った。レオくんの治療も、私の治療もエキスパートに任せれば良さそうなものなのに。ユウコの声には強い圧があった。何か自分の内側にあるものを必死に押さえつけているような圧力を、その言葉から感じる。

「とりあえず先輩は、ここで、レオくんと一緒に、このまま動かないでいて下さいね」

 私はレオくんの震える体を上から包み込むようにして蹲る。彼がこれ以上外気によって傷つかないように、私が守ってやらなくてはならない。ライオンの耳は私の前髪を押し上げ、茶色に伸びた前髪は私の頬を擦る。か細くても息は熱い。もう十分だよ。君は十分頑張ったんだよ。声にできないならせめて瞳を通して伝わらないだろうか。レオくんの金色の虹彩を私はじっと見つめている。レオくんは、私の目を見ない。その視線は私の体が作った檻の、腕の隙間から私の背後へと向けられている。小さな庭の向こう、街路に向けられている。

「街の、みんなだ」
 か細い声はそう呟く。
 ユウコは一人、大袈裟にずんずんと音を立てて、街路に向けて歩を進めていた。

 けたたましく鳴る音は、水溜りを踏み抜いたようで、いきなり大雨が降ってきたような錯覚さえ覚えさせた。人々のどよめきと、そのむさ苦しい空気が、私の背後に忍び寄る。

「撮ってんじゃないわよ!」
 ユウコはたった一人で、その群衆に立ち向かっているのか。私はレオくんを強く抱きしめる。ふとよぎる恐れがあったからだ。群衆から伸びる無数の関心から、私からレオくんを取り上げようとする意思を感じたからだ。群衆の言葉が耳に届く。

 黒蠍はまだ活動しているらしい。西の町を破壊しながら被害を増やしている。人命や負傷者の被害も出始めている。獣人委員会の戦闘ヘリでは役に立たない。三機の内一機は既に黒蠍によって撃墜された。無人機では限界がある。これからどれだけ被害が出るのかわからない。避難している地域に黒蠍がやってこないとも限らない。止められるのは、ライオン紋の王子様だけだ。彼が一番可能性のある手段なのだ。私たちが救われるために、彼には戦ってもらわなくてはならない。私たちのただ一人のヒーローなのだから。

 シャッター音は止まない。
 群衆の叫びは止まらない。
 私は痛みを堪えて、ライオン紋の王子様の姿のままの、レオくんをより強く抱きしめる。行ってはだめ。ヒーローだからと言って、彼らの犠牲になろうしては、だめ。そんな願いは言葉にせずとも届くだろうか。
 金色の虹彩は、私の泣きはらした目を強い力で見つめている。まるで民衆の声援が、その空虚な呼び声が、彼の力にでもなったかのようだ。でも私は知っている。その体が痛みになお震えて、その瞳は涙で潤んでいることを。遠くから傍観する群衆には、決して見えないのだ。ライオンの尻尾が生えていたって、レオくんはレオくんなのだ。大衆の願いを叶えるような、万能の道具などではない。

 ユウコは群衆の目の前に立って、ただ黙っている。発言権を留保して、テレビリポーターの関心を集めている。
 群衆の中には、テレビリポーターもいるのだろうか。高性能のカメラで、レオくんの涙を映したのだろう。あの子、泣いているのか。
 その呟きが、群衆の中にどよめきとなって伝わる。そうだ。レオくんは泣いている。その決意の重さと、その運命の惨さに苦しんでいる。
 レオくんはか細い声で呟く。さっきまで息をするのもやっとだったのに、どうしてそんな空元気を絞り出しているのか。
「ぼくが戦わなきゃ、みんな死んじゃうんだ。だから、みんなの為に。『よだかの星』みたいに」
 レオくんは胸に輝くライオンバッジを握りしめる。
「この、命を使わなきゃ」
 よだかの星。
 レオくんが図書館で借りた本の一つ。
 星になろうと憧れて、天に舞い上がり、燃え続けることで星になった夜鷹の話。レオくんは星を掴むと言っていた。その星とは、初めからそのように滅びるという意味での「星」だったのか。私が見上げてただ美しいと回想するような、弱く儚い子獅子座の星になるつもりなのか。シリウスさんはそれにいち早く気付いて、だから涙を流したのか。そんなことはしてはいけないと。私はレオくんの言葉に、その「星になる」という言葉の恐ろしさを考えようともしなかった。彼の仕事は、彼が敵を全て残滅するか、この街で無惨に死ぬことによって完成する。まるで都合の良い道具だ。
「そんなの、だめ。」
 肺に空気を込めるとズキズキと痛む。それでも、伝えなくてはならない言葉があった。
「お姉ちゃんは、そんなの絶対許さないよ。レオくんがどんなにやるって言ったって、絶対に許さないよ」
「でもそうしなきゃ、みんなが」
 レオくんの言葉には自分を思いやる要素が欠けていた。民衆のためのヒーローとして、責務を果たすことしか、彼の思考には含まれていない。自分が死ぬ運命さえ、彼は受け入れてしまっている。
「みんななんて、どうだっていいの!もう戦っちゃだめ!」
 私は子どものように、大声で叫んだ。

 群衆のどよめきの中に怒号が生まれる。
 私たちの財産が、家が、そして家族が危険にさらされるというのに、解決するなと、あの女は言うのか。ライオン紋の王子様が悲壮な決意で世界を救うのに、どうして留めるのか。あの女さえいなければ。あの女をノケモノにできれば、ライオン紋の王子様は黒蠍を退治してくれる。再起したヒーローが弱いはずはないのだから。

「いい加減にしてください!!」
 ざわめきに叫びを返したのは、ユウコの声だった。群衆を、自分よりも数年以上先輩の大人たちに、後輩である彼女は声を張り上げる。
「貴方たちは、今の現状に対して一体何をしてきましたか!

 獣人委員会は軍備を減らし、テレビではレオくんの戦いを実況中継して、みんなで傍観して、安全なところから楽しんでいた!そうでしょう?

 この街に住んでいる以上は安全圏なんてないことぐらい、レオくんがバケモノを倒し始めたこの数ヶ月で、分かっていたはずです!私たちは、レオくんが一人で戦う最中に何か新しい対策を考えましたか?退避訓練の充実を、レオくんは話していたはずです!なのに、どうして今、私たちはここにいるのですか!

 レオくんが居なくてもバケモノ退治は出来ていました!獣人委員会の手で出来ていたんですよ!!予算を減らしてレオくんを苦しめたのは私たちの怠慢です!

 この街を救うヒーローを、私たち自身の手で『ノケモノ』にして、排除してどうするんですか!それはただのわがままです!」

 群衆の怒号に同じくらいの大声で、ユウコは叫び返す。怒号を挙げる人々は一人また一人と黙ってゆく。

「ジャッジだ。柿原ユウコ」
 群衆の中から、冷ややかに声が掛けられる。
 そして群衆を掻き分けて、その声の主は数人を引き連れて、ユウコの前に進んでくる。
『ノケモノ会議』発動の符号だ。
「私がノケモノになって、この街から追い出されても、南天先輩はレオくんを離しません!」
 そう叫ぶと、ユウコは符号を叫んだ。

『「ノケモノ会議」を執り行います!』

 しかしいくら経っても、異空間は現れない。群衆はしんと静まり返って、声も出さない。
「ノケモノ会議」は絶対であり、符号が成立すれば確実に行われる。この街の人々は、そのルールに従うことで、暗黙の規律を守って生きてきた。しかしその「絶対」はいともたやすく崩れ去った。

「あー失礼」
「ちょっと失礼」
「お騒ぎのところ失礼」
「杖つきの老人が通りますよ」
 群衆も、リポーターも、今まで体験したことのない事態にどよめき、後退りする。その中から、一人の女性と二人の男性、そして一人の老人が出てくる。

 ユウコは彼らの名前を知っていた。
 女性の名前は泡草ハナエ。
 男性二人の名前は茅葺シュウヘイと漆野ケンゴ。
 老人の名前はザカライア。ザカライアー・シリウス。

 ハナエは大きな紙をプロジェクターのように広げて、群衆の前に掲げているのか。紙が風にはためく音が耳に伝わる。

『「ノケモノ会議」は今もなお続いています。だから会議の発令ができないのです。これは、この街で「ノケモノ」にされた人の日時と、「バケモノ」が出現した日時の対応表です。この二つには因果があります。単刀直入に言えば、「ノケモノ会議」が「バケモノ」を生み出していたのです!』

 シュウヘイとケンゴ、シリウスさんは蹲る私の周りに集まる。
「群衆に気をつけながら、二人を室内に護送する。」
 シリウスさんの号令で私の背中と足に手が通され、シュウヘイとケンゴの二人がかりで私はレオくんごと宙に浮かされる。

 私の家のベッドに私とレオくんは下ろされる。
「戦わなきゃ」
 そう呟くレオくんを、シリウスさんは大声で、こら、と叱った。
「お前にはお前の本分がある!今は休むのが本分だ!戦うことが本分ではない!」
「でも」
「『でも』じゃないの!」
 ユウコが駆け寄ってきて加勢する。

 ケンゴとシュウヘイは群衆への対応に向かって行った。

 ライオン紋の王子様は私の腕を跳ね除け、上半身を起こして見せたが、すぐに倒れてしまう。私はまた彼を逃げないように抱擁する。
 ライオンバッジはなおも光っている。私と、ユウコと、シリウスさんの監視に、彼は遂に観念したようだった。

 彼の息が寝息に変わるのを見届ける。すると、私の目蓋は急に落ちた。


陽だまりのような暖かさを感じて、もしや私は死んだのではないかとなんとなく思う。私はイメージとして死というものは暗く冷たいものではないと考えている。生物として体温が低下し、血流が滞り臓器機能が停止していくことももちろん死ではある。だがそれは肉体面での話だ。生物としての死と、人が心に思い描く死の理想は別物だと思う。人間には想像力がある。それは冷たい現実に抗うためにこそ発揮される。そういうものだと思う。

 柔らかいものが、頬に当たっている。風だろうか。音が聞こえる。規則的に吹かれる笛のような、穏やかな音。匂いがする。お日様に当てて干した時の洗濯物のような、希望に満ちた香ばしい匂い。私は頬に当たるものが、規則的に私の鼻の先から耳の側まで往復していることに気づく。

「生きてる」

 感触がする。暖かいものを暖かいと認識できる。嬉しいというよりも、安心する。私は頬を往復するものが毛束であることにようやく気づく。そして、ゆっくりと目を開いた。

「レオくん」

 私は私の部屋のベッドに寝かされていた。世界にはもうすっかり太陽が昇っている。まるで昨日のことが奇妙な夢のようだ。
 目の前で、私の腕に抱かれたままで、男の子は眠っている。ライオンの耳も、赤い外套も羽織ったまま。痣だらけの足を折り畳んで、傷だらけの腕で私の首に手を回している。
 ライオンの尻尾が私の頬を撫でる。その度に、毛束の一、二本が私の頬に残る。赤く体に浮かぶ痣は一見するとタトゥーのようで、胸の真ん中から放射状に広がっている。真っ赤な、それでいて小さな茨。オレンジジュースを溢したり、汗が流れる度にびくりと震えていたことを思い出す。レオくんは目を瞑って、まるで叱られた時のように、何かに怯えてそれでもじっと耐えていたのだ。自分が痛めつけられることに、何の躊躇もない。それどころかきっと彼は、その痛みすら誇りに思うだろう。まだまだ幼い体で、支えきれない私たちの願いを背負っている。

「いいの。いいのよ、レオくん。背負わなくっていいの。あなたにみんな押し付けちゃって、ごめんね」

 私の腕は、意識を失ってもまだ彼を包んでいた。寝ている間に少し力が抜けたのか。その抱擁は緩いものになっている。私はレオくんの体を私にさらに近づける。レオくんをきつく抱きしめる。かわいい、勇敢な私のライオン。ただ一人の、不思議な男の子。私は義理でもお姉ちゃんなのだ。この子を離すものか。絶対に。たとえ君がどんなに強くても、どんなに簡単に世界を救うことができても、きみの命で贖われた世界に、私は住もうとは思わない。両腕から剣山の無数の針で刺されたような痛みが伝わってくる。彼を抱きとめたあの時に、腕が焼けるような感触はあった。ひどい火傷が完治せずに残っているのだろうか。それでもいい。私はレオくんを抱きとめることができた。残酷な運命の谷底に落ちないように、助けることができた。私にも出来ることはあったのだ。自然と体に力が入る。

「くる、しい」
「あっ、ごめんね」

 レオくんは意識が戻ったのか、そう私に訴えるとゲホゲホと咳をした。レオくんの目尻には涙が滲む。レオくんは私の胸に真っ赤な痰を吐く。瞳が開かれ、金色の虹彩が私の眼を見つめる。怯えたような瞳。重力を背負いすぎて、壊れかけた星の光。私は彼の頭を撫でてやる。愛おしい。この命は愛おしいのだ。

「ごめんなさい」
「いいのよ、レオくん。こわい時はこわいって、辛いときは辛いって言うの。みんなそうやって生きているの。大丈夫。きっと大丈夫。お姉ちゃんが付いてるよ」

 ライオンの男の子は最初こそ挫けまいと意固地になっていたが、ずっと撫でさすっているうちにその我慢もだんだん限界を見せてくる。肩が震え、瞳は潤み、首筋に回した腕には力が篭る。ライオンの紋の王子様が大声で泣き始めるのには、長い時間は要らなかった。

 何もできないと思っていた。眼を伏せているだけで、眩しいものには眼を細めているだけで、そうやって世界を救う存在に任せていれば、世界は丸く収まるものだと思っていた。
 でも違う。救われる命があれば、救われない命がある。救われない命のために、命を捧げようとする命がある。世界に特別な存在なんていない。夜空に輝く星々のように、どれも輝いて、どれも等しく貴重なものだ。

 それに、光の強さに関係なく、昔の賢人は星座を作ったのだ。たくさんの星座で何もない天を覆い、大きな物語にするために。でもちょっと配慮が足りない。適当に星を繋いだだけじゃ、余り物ができてしまう。余り物は余り物で星座を作ったけど、そこに物語は作られていない。レオくんはお話のないそんな小さなライオンに、物語をあげるといつか話していた。私はそれを応援するけど、応援するにも限りがあるし、こうなってしまっては応援すらできない。自分の身の丈に合わないことを無理にでも為そうをすると、自分の体のことを考えなくなってしまう。まずはそのことをちゃんと教えてあげなくてはいけない。そして、それを強要する世界には、もうレオくんを任せていられない。

「この世界がきみの生きやすいものに変わるまで、私がきみを守ってあげる。」

「違うぞ、カナコ。『私たち』だ」

 ドアが開く。
 一人、部屋に入ってくる。
 決意に満ちて私が呟いた言葉に、聞き覚えのある声で返答があった。

「ハナエ」
 不意に声が出る。
 私が一人で背負うものだと思っていた。
 それに間髪入れずに否を突きつけられたのだ。せっかくの決意がちょっと挫けてしまう。

 もう一人、部屋に入ってくる。
「おはようございます。先輩、それにレオくんも。」
「ユウコ」
 振り返ることはできない。今大声で泣いているレオくんを変に刺激したくない。後輩の声は昨日よりは元気を取り戻していた。ハナエが変えたのだろうか。

 そしてもう一人、私の部屋に重い足取りで入ってくる音がする。この人は、纏う雰囲気でわかる。吐く息でわかる。そこにいるだけで、世界をゆっくりと変質させて可能性を与える。
 賢人とは、そういう人だ。
 松葉杖の音でもしっかり分かるのだが、それでは何とも味気ない。

「ミスター・シリウス!」
「おや、バレてしまいましたか」

 柔らかい笑い声が、背中から聞こえる。

「さぁ、みんなで反撃を始めるよ」
 ハナエは、そう宣言した。


ハナエはテレビの画面を点ける。私が殴ったことでヒビが入り歪んだテレビだ。そこにはあの西区の状況が、ありありと映されている。

「ここがソドムで、あっちがゴモラ。似たり寄ったりだったのさ。ソドムに王子様が降りてこなかったら、多分ここに、黒い蠍はやってきた。」
 蠍。
 あの黒々とした体躯はどういうわけか、今では見る影もない。
「膨張しているの」
「恐らくは」
 ユウコが不安そうに問い、シリウスさんが答える。黒い蠍は昨日の夜、あの後一時間は暴れたらしい。戦闘ヘリが相手をしても、三機のうち二機が大破。残りの一機は帰投に成功するので精一杯だった。そして夜の十二時になると、天を指すようにその尻尾を上げて、それから急に糸が切れたように動かなくなった。

「膨張が始まったのは太陽が登ってからだ。その体積は増えつつある。しかし、内部の分析はできない。」
 ハナエはテレビの前に一人立って、リポーターのように解説している。
「みんなの携帯端末に膨張する蠍のデータを送った。」
「ねぇ、ハナエ先輩」
「何だい」
「一体どこまで調べたんですか」
「出来る限り、全部」
「流石に呆れますよ。ちょっとは手伝わせてくださいよ」
「私が私の処理キャパシティーを九割ほど使ったのがそんなにいけない?」
「八割でいいですよ」

 泣き疲れたレオくんは私の膝の上で寝ている。ライオンの耳と赤い外套はそのままで、まるでコスプレをする子どもみたいだ。その寝息を聞きながら、私はハナエから送られたデータに目を奪われていた。

 それは現代科学で行える赤外線などの非接触かつ非破壊内部測定をいくつも行った結果だった。あの帰投した戦闘ヘリがなければ入手できなかったデータだ。

 結果は、ブランク。
 何も存在しないということだった。
「どういう、こと」
「そのままだ。何にもない。いや、ほんとはあるのかもしれないね。膨らんでるし。」
 映像の中で黒蠍は一つの頂点を持った円錐のようになっている。胴体が肥大化した歪な体躯。いや、天を目指すその姿は塔のようだと言うべきか。

「私が調べたのは、これだけじゃないんだ。この街そのものについても、調べた。」
 ハナエは新しいデータを送信してくる。
 地域史。この街の歴史だ。東の町と西の町は元は一つだった。だけど陸橋で分断された。それは今からたった五年前らしい。最後の記録。最古の記録。

「それ以降の記録は、どこにもなかった。これにはシリウス翁の尽力あってこそだ。」
「私はこの街に三年前に来た。おかしいとは思ったが、そういうものだと順応するしかなかった。さもなければ、『ノケモノ』とされる。私はその歪みにただ耐えていた。涙を流すことでね。」
 シリウスさんはハナエが四つ折りにしたコピー用紙を見る。その中には「ノケモノ会議」の犠牲者と「バケモノ」発生の絡繰が示されていた。「ノケモノ」になった存在は「バケモノ」に変身させられる。獣人委員会は「バケモノ」となった彼らを掃討していた。獣人委員会の使用する近代兵器は「バケモノ」をそのまま殺傷する。シリウスさんは私とレオくんが図書館を訪れたあの日の夜、「ノケモノ会議」の被害者になった。包帯が巻かれたままの左脚はまだ癒えていない。

 ハナエは私の方を見る。
 いや、私ではない。寝入っているレオくんを見ている。
「カナコ。悪いんだけど、君の弟を起こして欲しい。どうしても、聞きたいことがあるんだ。」
 私はレオくんを見やる。その前髪を撫でてやる。すると、待ちかねていたように、その目蓋はうっすらと、しかしゆっくりと開かれる。
「レオくん、体はいいの」 
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。戦うのは無理だけどね。お話くらいは出来るよ」
「そう」
 よかった。
 ハナエはレオくんに寄る。そして頭を下げた。
「すまない。ライオン紋の王子様。国民の咎を君一人に負わせてしまった」
 レオくんはゆっくりと、でもしっかりとした声で答える。
「良いのです。時はもう直ぐ満ちます。僕はそれをなんとか止めようとしたけど、ダメでした」
「先代の真似事をしてはならんと、言ったはずだ」
「ごめんなさい。シリウスさん。でも揺らぎに懸けてみて、よかったです」
 シリウスさんはレオくんのその目を見ると、にっこりと笑った。そして私の方を見ると、その小さく青い目で見据えてくる。私はうなずく。
「ゆめ、忘れるな」
「はい」
 私たちの間にはもう言葉さえ、本当は要らなかった。

「質問があるの」
 質問を投げかけるのはユウコだった。
「はい」
 ライオン紋の王子様は答える。

「『ノケモノ会議』って何?」
 レオくんは私の顔を見る。ライオンの耳がひこひこと動く。私はうなずく。レオくんは何も言わないで、ユウコの方を見る。

「『ノケモノ会議』は、はじめは違う名前でした。はじまりの海に浮かび、調停の王が、その主権を担い、補佐に九人の判官がいました。しかしある日、狼の皮を被った人々がやってきて、王様を引き摺り下ろしてしまい、残りの判官まで殺してしまいました。そうして彼らははじまりの海を汚してでも、そこに居座ったのです。」

「はじまりの海?」

「ええ。星のない、分かたれざるはじまり。もう直ぐやってくるはじまりです。」

「私たちの携帯端末にある『ノケモノ会議』はアプリケーションのはずよ。ソフトウェア。人が架空から作った架空のもの。」

「でもそれは違った。そうだろう、ユウコ」
 ハナエの声にユウコはうなづく。
「ええ。だって人の手で作られてすらいないもの。痕跡がないの。」
 端末に新たなデータが送られてくる。
 それは『ノケモノ会議』のソフトを解析した結果であった。

 何もなかった。プロパティにも、ソースコードすら何も無かった。

「私たちはよくわからないものでも、その仕組みも考えないで使ってしまう。ソースコードを調べるという簡単なことをすれば、この異常性に気づいたはずだ。しかし、気づいた者はこの街にはいられない。『ノケモノ会議』はそれを許さない。ルールからの逸脱を、ね」

「ねえ、レオくん。私たちが使っていたものって何なのかしら。」

「それは、あなた方の世界の言葉で言えば、『魔法』です。あのヒトたちが自分勝手に奪い取った『魔法』なのです。だから汚れてしまいました」

「僕はあれを、僕の先生、『王様』の手に取り戻すために、ここに来たんです。先生は今深い森の中でお休みなので、僕が代わりに来
 ました」

「ありがとう、王子様。答えてくれて。」
 ユウコは、そう言った。

 私はレオくんの頭を撫でる。
 レオくんは私の顔を見る。

「じゃあ、今度は私の番ね」
 ライオンの紋の王子様は太陽のように笑って見せた。

 その直後、液晶に映る黒蠍は爆音と共に破裂する。
 真っ黒なはじまりの海は、西の町だけでなく、東の町までを一瞬で包み込む。

 星のない、漆黒が全てを包んだ。


 漆黒の闇。それは世界を天蓋のように覆い尽くした。集まっていた私たちは分断され、一体今は誰がどこにいるのかわかったもんじゃない。第一ここがどこで、私が生きているのかさえよく分からない。何も見えないのだ。光がないとは、そういうことだ。
「でも、私わかったんだ」
 何も見えないことが、絶望の条件じゃない。
 本当の絶望の条件は、自分の中にさえ、希望のひとかけらを見つけられなくなることだ。
 目には見えなくても、私にはわかる。
「暖かい。レオくんは暖かいね」
「だってぼくはライオン紋の王子様です。こんな暗闇へっちゃらですよ」
 私は今、星を抱いている。
 天に光るだけだった星は、いつしか俯いてばかりの私を心配して、こうして降りてきてしまった。私たちは落ちてきた星の輝きばかりに目を奪われて、大切なことを見失っていた。見失わなかった人は、きっと最初から気付いて、そして信じてきたのだ。

『光がない。どこにもない。もっと、もっと光を』
 人々は光を求めて、街を彷徨う。
 覚束ない足取りで、暗闇を彷徨う。
『光だ。なぜ光っている。お前は』

「信じているから」
 この街は暗闇に包まれれば、簡単に動けなくなってしまう。コンベアーが動いても、いったいどこに辿り着くのか、誰も分からないからだ。まぁ今はそのコンベアーだって動いてないけど。

 踏み締めると、青い光が足跡になって残る。
 暗闇の中で、ほのかに光る足跡たちは、彷徨う人々の寄る辺となるだろう。

「お姉ちゃんも、星を掴んだんだね。すごいや」
「君にばっかり、押し付けてもいられないでしょ」

 私はレオくんを地面に下ろす。オレンジの光は地面に降りると、そのコンベアーにオレンジの足跡を残す。私よりも輝いている。それでいいのだ。

 私はレオくんと手を繋ぐ。
 手を繋いだところが、青とオレンジが混ざった色になる。赤い色。私たちが遠ざけていた色。ヒーローの色だ。

「ねぇ、レオくん。どうして、私を、この街を選んでくれたの」
「何ででしょうか。今はもう分かりません。でも、あなたでよかった」

 走ろうか。そう尋ねると、レオくんはうなづく。足跡は不規則でもいい。不揃いでもいい。途中で踊ったりしても構わない。だって私たちは生きている。星の光で輝いて、今を生きているのだ。

「楽しい」
「ぼくらなら、どこへだって行けますよ」

 走っていてもここがどこかなんて、目的地に近づいているかなんてわからない。街は複雑だ。いったいここが何処なのか、誰も教えてくれない。それでも君となら、歩いて、走って、踊って、足跡を残していける。そうやって走っているうちに、私は嫌でも気付くようになる。緑やピンク、茶色やグレー。いろんな色の、似通っていてもおんなじなんかじゃない、特別な光たちの存在に。彼らも私たちのように、この街を迷いながら、踊りながら目的地を目指している。たった一人で踊る人は、とびきり素敵だ。その人の足跡は他の誰より輝いている。明滅が激しいけど、ちらりと私を見つけたら、途端にぱっと輝きだす。

「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
「あなたは何処へ行くのですか」
「何処へでも。ここではない何処か。貴方は」
「私は無くしたものを、取り戻しに」
「もう。落としてはいけませんよ」
「はい」

 光たちは迷いながら、それでも一つの目的地へ急ぐだろう。みんなが迷えば迷う分だけ、街は足跡で一杯になる。足跡でいっぱいになれば、街全体が輝いて見えるようになる。

 私とレオくんも、その目的地にようやく着いた。東の町と西の街を繋ぐ陸橋だ。橋を塞ぐように、一つの扉が立ち塞がっている。

「行こうか」
「うん」

 光たちの中で扉に挑もうとするのは私とレオくんが最初だった。暗闇の中でも二人で両扉を押して。開く。

 いつか見下ろしていただけの赤い絨毯の上に、私はレオくんと共に立っている。そうして一緒に浮遊する九つの議席を見つめている。

 ヒト「誰だ」
 ヒト「何故だ」
 ヒト「ここは私たちの許しなしでは」
 ヒト「入室することさえできない」
 ヒト「聖域だ」
 ヒト「秩序だ」
 ヒト「侵されざるものだ」
 ヒト「不届きものめ」
 ヒト「ノケモノ風情が」

 ノケモノ「果たして、そうでしょうか」
 王子様「僕らは、そうは思いません」

 ヒト「思わないからと言って」
 ヒト「それだけではないか」
 ヒト「願うだけでは」
 ヒト「何も変わらん」
 ヒト「我々のように」
 ヒト「行動と力と知識がなければ」
 ヒト「たどり着けなかったのだ」

 ノケモノ「でも、そこに希望は見つけられたかしら」
 王子様「希望は、追い求めるだけでは掴めません」

 ヒト「希望」
 ヒト「希望だと」
 ヒト「笑わせる」
 ヒト「そんなものこの世の何処にもない」
 ヒト「探しても見つからない」
 ヒト「誰も教えてくれない」
 ヒト「見つけても踏み潰される」

 ノケモノ「いいえ。例え踏みつけられたってなくなるもんですか」
 王子様「君たちは知ることさえ許されなかったのかい」

 ヒト「黙れ!」

 ヒトはノケモノと王子様に『懲らしめの鎌(アギト)』を差し向ける

 ノケモノ「やっぱり」
 王子様「あなた方が持っていましたか。恐ろしくて、手放せなかったんですね」

 ヒト「うるさい!」
 ヒト「刈り取られることがなければ」
 ヒト「奪われることもない!」
 ヒト「これは生きるために必要なことだ」
 ヒト「真理だ」
 ヒト「真実なのだ」

 ノケモノ「大丈夫です。私たちは『毛深い」。毛深い心臓を持っています」

 王子様「『毛深い』心臓は醜いけれど、それでも暖かいものを秘めています。僕らはそれを知れば、背負っていけます」

 ノケモノは王子様を見やる。
 王子様はノケモノに胸のライオンバッジを外して、つけてやろうとする。
 ノケモノはそれを拒んだ。

 ノケモノ「大丈夫。お姉ちゃんだもの」
 王子様「そうなの」

 王子様はライオンバッジでしか変身できないと思っていたので、驚いた。

 ノケモノ「選ばれなくっても、みんな最初から心に持ってるから」

 ノケモノ『獅子心臓に懸けて!』

 仮初の化けの皮ならば、簡単に剥がれるが道理なのだ。
 しかし、胸の内に秘めた真の輝きならば、どんなに摩耗しようとも、胸の内に灯り続ける。ライオン紋の王子様は驚いて目を丸くした。いや、見惚れていた。世界を塗り替える青い輝きは、ライオン尻尾の少年には奇跡に見えたのだ。

「すごいや、お姉ちゃん」

 それは果たしてライオンではなかった。狼。その頭蓋骨を勇ましく被り、青い外套は背中に流れる。黒い瞳には銀の虹彩が円に光っている。

「太陽を食べる天狼ってところかしらね。太陽を追いかけて追いかけて、追いかけているうちに北の空から南の空に来ちゃったの。でもようやく帰ってこれた」

 天狼の手には銀のナイフが握られている。

「あっそれ」
「ご名答」
「使い方わかるの」
「た、多分」

 天狼は『ノケモノ会議』の中央目掛けて駆けて行く。『懲らしめの鎌(アギト)』は振り子刃のような形をしており、天狼の行手を阻もうとする。ヒトはただ怯えるばかりで、我が身を案じ、事の是非さえ考えない。天狼は揺れ動く鎌の大きな刃に己が小さいナイフの刃先を沿わせ、時に弾き、時にいなし、弾き飛ばされようとも立ち上がり挑んでゆく。

 そうして二つの刃先を突破した天狼は『ノケモノ会議』の赤い天幕を、銀のナイフで引き裂いた。
 天幕に隠されていたのは最も中央に置かれた王座であった。
「レオくん!」

 天狼の呼び声に応えて、王子様は答えた。

「王座は今解き放たれたり!」
 それはこの会議を終わらせるライオン紋の王子様のみが知る符号であった。

 王座から呼応するように金色の光が迸る。ヒト型の靄はその威光に形を保てず、次から次へと靄となって消えてゆく。白い仮面を残して、過去の亡霊は秘密のヴェールを剥がしてゆくのだ。
 最後の一人が消えてゆくとき、天狼はか細い一つの言葉を聴いた。
 
 「弱くあれども、真実を見ろ」

 天狼はその言葉を頭の片隅に覚えておくことにした。
 亡霊の靄が消え失せると、そこにいたのは黒蠍を生み出す「ノケモノ会議」を開催した人々だった。高校生の男。中学生の女。主婦。タレントの男。スーツを着た若い男女。私服の老人の男女。主催者はテレビで見たことのある政治家のような服をしている。私は彼らの白い仮面を剥ぎ取ってゆく。剥ぎ取られた人々は各々恥じ入って叫び声を上げる。そしてそれぞれ私に顔を見せないように下を向くが、下を向いてもそこにはレオくんがいるので、意味がなかった。卑怯者。レオくんは議席に座った人々にそう叫んだ。その目には涙が、今にも溢れそうだ。彼らは慌ててこの「ノケモノ会議」から居なくなる。ログアウトしたのだ。

 レオくんは本当の敵が居なくなった「ノケモノ会議」の舞台の上で、次々と流れる涙を両手で拭おうとする。しかしいくら拭っても涙は流れるばかりで止まらない。レオくんは涙を拭うことを諦めて、私の方を見上げた。
 「ありがとう、お姉ちゃん。お姉ちゃんが居なかったら、ぼくはもうダメになるところでした」
「何言ってるのよ。弟は姉に頼りたい時は頼っていいのよ。弟を泣かせる奴らを私が見過ごすものですか」
 
 レオくんは私のその言葉に笑顔を見せて言った。
「さよならです」
 私は驚いて、とっさに何の返答も返せない。
「この空間はもうすぐ崩壊します。でも王座に僕が座れば、この世界は保たれます。ぼくは先生の代わりにあの王座に就いてこの世界を管理しなくちゃいけません。ぼくは、ライオン紋の王子様なのです。」
「保たれても、君はどうなるの」
「ぼくは、あの席に座ったままになります。でもこの世界をずっと見下ろして、お姉ちゃんのことも見守っていますから。だから、心配しなくて、いいです。」
 大粒の涙を流しながら、何を気張っているのだろう。こんな責務を背負わせてしまったのはきっと私たちなのに、レオくんは自分から背負ってしまう。そんなのは私たちの怠慢だ。私はもう、迷わない。私たちが背負うべきものは、どんなに重くとも私たちが分散して背負うと決めたのだ。レオくんに背負わせてなるものか。

 「逃げるよ!」 
 「ええっ!」

 王座と共に崩れゆく空間で、跳躍する。 『懲らしめの鎌(アギト)』の上さえ飛び越えてゆく。ライオン紋の王子様は世界が崩れるなかでも泰然としていたが、自身が夜空に放り出されると知った時には急に慌て始めた。

「先生の王座が!王座が壊れていく!」
「そんなのいいの!壊れても、私たちでまた一から作ればいいの!お願い!私たちを、今ある世界の可能性を、君に信じて欲しいの!」

 天狼は王子様の虚空に伸ばした腕で、落ちてゆくライオン紋の王子様を捕まえると、そのまま引き寄せて胸に抱き止める。青とオレンジの光は、重なって濃い赤色の流れ星となって、元いた世界に落ちてゆく。この街で赤の色はノケモノの色。そして、赤い色はヒーローの色だ。ライオン紋の王子様は崩れてゆく王座を見上げながら大粒の涙を流して、叫ぶ。

「駄目だよ!ぼくは最初から除け者だったから、みんなに認めてもらうにはヒーローになるしかなかった!お姉ちゃんがヒーローになったら、ぼくはいらない子になっちゃう。弱いヒーローはいらない!また除け者にされるんだ!そんなの怖いよ!」
「そんなこと、絶対にさせない!私が、ハナエが、ユウコが、シリウスさんが、街のみんながきっと君を認めてくれる!認めてくれない人がいても、その人が認めてくれるまで、私たちが君を、守り抜いてみせるから!
 だから、一緒に生きよう!」


 天狼、否。束の間の変身は解け、彼女は普段の服装を取り戻す。取り戻しながら、ゆっくりと彼女の街へと、ライオン紋の王子様をぎゅっと抱きしめながら、降下してゆく。

 南天カナコはライオン紋の王子様を抱えながら、地上に広がる光景を目にしていた。色も光の強さもばらばらな、無数の光が東の街にも西の街にも隔てなく広がっている。それはまるで、無数の星々に向かって落ちてゆくよう。

「北天から見上げていたら見えない。私の、南天の世界だ。こんなに星が、いっぱいあったなんて」
 カナコはそう呟いた。

 黒い天蓋は中心から崩れ始め、開いた穴からは日光が差し始める。暗闇の中で光っていたものたちは、太陽の光に当てられると、その真の姿を見せてゆく。人。人間。心に燃える星を抱くものたち。彼らは一人一人では弱いかもしれない。しかし彼らには星座になれる強い力を秘めている。使わないのはあまりに勿体ない力だ。

 雲の切れ間を見ながら、陸橋の真ん中で、南天カナコと南天レオは欄干に持たれている。
 陸橋の下にあったものは、かつて水路だった煉瓦の敷き詰めだった。
 そこに真っ黒な穴が開いている。
「あれが『森』です」
「そうなんだ。深そうだね」
「今度、一緒に行きましょうよ」
「どうして」
「ご挨拶に」
「王様に?」
「お姉ちゃんができましたって、言わなきゃ」
「わかった、一緒に行こう。変な弟だって言ってやるわ」

「ひどいですよ」
 南天レオは自分よりも年上の、一人の女性を見つめる。
「大丈夫。お姉ちゃんに任せて」
 南天カナコは弟の頭を撫でる。南天レオは恥ずかしそうに笑う。

 足音がする。
 西の街からも、東の町からも陸橋を越えて人々が行き来し始める。

「今日が、始まりましたね」
「早起きしてくるもんだね」

 二人の肩を叩く人物がいた。
「よう」

 その手には、彼女の好きな菓子の入った紙袋。

「探していたんだ。休日なのに何処にも居ないんだから、焦った」

 紙袋からは、仄かに花の香りがした。


 「ノケモノ会議」を終結させたあの日から、丸一年が経った。変わったことはいくつもあるが、細かいことを挙げると切りがない。確実なのは、この街はほとんど普通の街になりつつあるということだ。普通の街とは何か。街中コンクリートの道路で舗装され、両端の狭い道に歩行者は追いやられ、中央の広大な道を自動車が幅を利かせている。横断歩道として白線が横縞に引かれる。人々はその上を信号機が青のうちに渡っていく。普通ならば三年は掛かりそうな工事も、何故かこの街では数ヶ月でそれぞれ済んでしまった。最初は車を走らせるなんて物好きはこの街には居なかった。動かなくなったコンベアーを取り外しコンクリートの地面が顔を出しても、人々は不便に思いつつも歩行に徹していた。しかし、自転車からスクーター、バイク、自動車という順番に、人々はこの街の外で営まれる「一般的な生活」を手に入れ始めていた。関所もなくなった。街の外からはメディアや産業が大量に流れ込んでくる。この街は特別だった。でも、もう過去のものになりつつある。この街の外側はこの街以上に発展した街だらけだったのだ。私はそこからやってきたのに、その事実をすっかり忘れていた。この街に残った特別はあと三つ。この街の中心にある小中高大一貫の『学校』という不思議な組織。電車の通過する駅がないこと。最後に、陸橋の下に隠されている大穴の秘密だ。

「近未来だなんて所詮ハッタリだったのさ」

 切れ長の目を細めて、サンドイッチにかじりつく。泡草ハナエはニヒルな笑みを浮かべている。
 外の街からやってきた商業にはもちろん外食産業も含まれている。時間の止まったようなこの街でひっそりと営まれていた市役所隣のバーガーショップはその衝撃を逃れることはできなかった。バーガーショップはなくなり、今では小綺麗なカフェが開いている。
 しかし店舗が変わっても、間取りは一緒なので、ここにもかつて長椅子とテーブルがあったなと、丸椅子に座りながら懐かしく回想することもできる。

 現在の延長線上に未来が存在するのならば、近未来という理想に果たして存在意義はあるのだろうか。日替わりランチを三人分頼んで席についた私とレオくんにハナエはそんな話を持ちかけてきたのだ。

「近未来」

 レオくんは近未来という概念を知らない。ライオンの尻尾を持ち、ヒーローとなる変身能力さえ秘めている彼は、実のところ現在しか見ていなかった。現在苦境にある人々をどう助けるのか、それだけが彼の人生における命題だったのだ。ライオン紋の王子様への変身と「バケモノ」との交戦。彼は当然のようにその仕事を引き受けて、分不相応なのに背負い込み、危うくその命を散らしかけた。彼には自分の好悪に従って生きることさえ、十分には教えられていなかった。近未来を自力で描けるほどの想像力と余裕が彼にあるとは思えない。それと、レオくんはライオンの尻尾をまたズボンの内に隠さなければならない。この街はもう無数の他人が行き交う世界の一部と化してしまったためである。彼の本性をより広い世界に知らしめることはあまりに危険だ。選ばれた人間に対する残酷さを人々が己がうちに背負わない限り、この街は彼の安住の地とはならない。ライオンの尻尾を隠していれば、金色のライオンバッチをつけたただの男の子である。

「近未来。もしもの世界と言うべきか、それとも、あるべき世界と言うべきか」
「あるべき世界なんて無いのよ。人々が選び取った結果が、世界に反映されるだけじゃないの」
「なかなか辛辣だね。カナコはリアリズムを求めるのかい」
「世界を変えるためには行動あるのみなのよ、誰かに頼るのではなく。『ノケモノ会議』だって眺めているだけでは終わらなかったかもしれない」

「ノケモノ会議」の会場はもうこの世界のどこにも残ってはいない。あの九人の亡霊が居なくなったことで、古くから維持されてきた議会も構造を保てなくなり自壊した。後継者がいればまた別の存在として残ったかもしれない。そういえば、あの隠されていた王座についてレオくんは不思議なことを言っていたっけ。あの赤い天幕の向こう、ライオンの王が座る王座に彼自身が座らなければ、ノケモノ会議は崩壊すると。一年もの間私はそれが脳裏に残っていたが言葉にする機会はなかった。それよりも、激動の中でも彼と過ごせる一年の方が重要だった。

 夏の海も、秋の紅葉も、冬の雪もレオくんは知らなかった。私はそれを嫌と言うほど知っていたから、それまで興味を誘われることはなかった。しかし、彼が私の知っている世界を見たらどのように反応するのか、私はそこに強い興味を覚えていたのだ。私が見逃した発見を、彼が見つけてくれる。私が落としてしまったものを、彼はきっと拾ってくれる。実際、夏の貝殻や、秋の風や、冬の星空を彼は拾って見せてくれた。そんな彼の秘密をあえて探ろうとはどうしても思えなかった。彼に見知らぬ世界をまだ探検してもらいたかったからだ。

 もし、私が気づかなければそして行動しなければ。あの黒い蠍がやってきたあの日に、レオくんはオレンジ色の流星のまま、消えてしまったかもしれない。今でも思い返すと背筋が凍る。だから私は覚えていなくてはならない。南天レオの姉として。あの日に空を見上げた傍観者の一人として。

「なるほど。カナコは抱え込んでいるね。だから言葉に棘が付く」
「そうです。お姉ちゃんは心配症です」
「二人で勝手に、私の顔色で合点しないで欲しいな」

 サンドイッチにはレタスとハムと輪切りのトマト。そして何やら酸っぱいソースが含まれていた。パンからは甘い香りがする。ほのかな花の匂い。

「ハナエはハニー味が好きなのね」
「やっぱり、君は苦手だったかい」
「いいえ。慣れてきたところよ」

 小麦本来の味も好きだが、だんだんと甘い味がないと物足りないような、そんな嗜好が私の中に芽生え始めている。きっとハナエのせいだ。そしてそれを受け取る私のせいだ。レオくんは黙々とサンドイッチを食べている。
 彼のことだ。自分の舌に合うか合わないかなんて考えていないかもしれない。差し出されたものしか受け取らないその姿勢は、無欲というよりも生きている実態が薄いように感じる。後で感想を聞いてみよう。私たちの飲み物はエスプレッソのコーヒーと、レモンティーと、オレンジジュースだった。


カフェを出てふと足を歩道に踏み出して、そうして踏ん張りそうになる自分がいる。コンベアーで移動していた名残は私の中にしっかりと生きている。一年が経ってもふとした拍子にその習慣は私に変化を突きつける。私はその亡霊を振り切って、足を交互に踏み出す。歩く。これが前に進むと言うことなのだ。

「ノケモノ会議」が終結してから、なぜコンベアーが停止したのか。ニュースで聞いたところ、電気で動いていたコンベアーシステムがあの日から完全に壊れてしまったのだという。復旧の目処は立たず、結果として近未来の移動手段は消滅した。しかし、我々は歩くことができる。両足の運動機関は一年の長いブランクを同様の年月をかけてゆっくりと取り戻し始めている。街を挙げての旧式生活への回帰、すなわちリハビリテーションは「学校」が主導した。体育の授業のように老若男女が広い校庭の外周を走るその様はとても異様だ。小中高大一貫として成立していることが功を奏したのは、年齢別にその運動を区分けすることができたからである。「学校」は学ぶためだけの場所と認識していた私たちはその柔軟な解放に驚いた。大人たちは大学の広大な校庭で生徒らとは別に外周を走る。大人たちが居なくなれば大学の生徒らが走る。高校、中学校、小学校ではそれぞれの生徒たちが体育授業のカリキュラムをそのまま遂行するだけで良かった。大学の変化に比べるとなんとも味気ないと思った。

 私は今十九歳。それでも高校三年生だ。「バケモノ」の多数出現、都市インフラの停止という非常事態は全学校の業務を一年停止させるほどの凄まじいものだった。空白の一年間を越えて、私とハナエは「学校」に登校しようとしていた。

「レオくんは図書館に行くのかい」
「はい」
 ハナエが聞くと、レオくんは首を縦に振ってそう答える。レオくんは騒動が終結してから市役所隣の図書館に篭りっきりであった。司書のシリウスさんがそばに居るから、何の問題もないのだが、あの中で一体何を学んでいるのか。気にならないはずはない。しかし、南天レオはこの社会に適合しないライオン尻尾を持った超生命体だ。一年が経っても外見には何の変化も見られない。ハナエは学校教育を受けさせた方が良いかと質問した私に、首を振って答えた。

「彼は彼の望むように生きる権利がある。彼がそれを望むのならば、我々はそれを与えるまでだよ。押し付けるものではない」

 私はおぼろげな答えは持っていた。「学校」に連れて行き授業を受ける彼の姿を想像するに、何だか籠の中の鳥のような窮屈さを感じたのだ。いや、檻の中のライオンか。その情景があまりにも悲しげに映ったので、私はハナエに事の是非を打診しなくてはならなかった。私たちは彼をヒーローであるというだけで利用し、危うく殺しかけた。彼をこちらの常識に無理に嵌め込もうとするのは、その繰り返しではないか。私はレオくんに「学校」に行くか、図書館に行くかという選択肢を投げた。レオくんは図書館を選択した。私はそれに従う。この世の原理で測れないものを、定規で無理に測っても、意味などないのだ。

「ヒーローには考える時間が必要よ。レオくんの好きに生きられる何かを、見つけてほしいの。」

 図書館への分かれ道で、私はレオくんにそう告げる。

「僕の好きに生きること、ですか」

 レオくんはその背に小さなリュックサックを背負っている。その中には今日期限切れする貸し出し本が四冊入っている。どれも星座と童話の本だった。背負う姿は重そうなのに、日光に照らされる笑顔は希望に満ちている。

 彼の向かうところに、優しいノケモノがいますように。
 星と星がつながって、新しい星座が生まれますように。
 新しい星座には物語が語られますように。
 
 ライオンの子は、図書館へと通じる坂道を駆け登ってゆく。

「どうかこのままでありますように」

 私はそっと呟く。もし彼が大人になっても、この社会の中で有用に使われてなどならない。彼がこの世界で有用になることなど、あってはならないことなのかもしれない。有用になれば私たちはまた彼を利用するだろう。そして幾度も繰り返すのだ。イヤホンから聞こえた叫びはまだ私の心を掻き回している。私はせめて私が生きているうちは、この苦しみを私だけで背負っていなくてはいけない。
 誰も、レオくんを私欲で利用しないために。私の咎は私一人で背負うのだ。

「私たちは、私たちにできることをやろう」
 レオくんに背を向けて、歩き出す。ハナエはその言葉に深く頷き、歩き出した。「学校」への坂道には強い風が吹き、私とハナエの髪を無遠慮に揺らす。

 私たちの一日が始まる。

 「あっ、そうだ」

 背後から、そんな声がする。レオくんの声だ。坂を登っていたはずなのに、大急ぎで駆け下りてくる。バタバタと足音がする。

 振り返ると、ライオンの尻尾を出した男の子が、リュックサックを背負って、両手を後ろに組んで、何だか踏ん切りのつかないご様子なのだ。

 お姉ちゃんである私は、そんな弟の様子が気になる。関心を向けなければ、もうどうしようもないのだ。ハナエをチラリを見る。「学校」の始業時間を気にしているからだ。ハナエは首を縦に振った。どうやら時間の余裕を持っていいらしい。

 「どうしたの」

 私は彼の目線にしゃがみ込む。実の弟に、こうやれていたのはいつまでだったろう。同じ目線に立って、同じ世界を見てやることを、いったい、いつからやめてしまったのだろう。ぞんざいに呼ばれるようになるのも納得がいく、と私はレオくんの茶色の目を見つめる。今度家に帰ったら、昔のように接してやろう。ちょっとは進展があるかもしれない。

 しゃがみ込んだ拍子に前髪が一筋、視界に垂れてくる。私はそれを指で摘んで、整えてやる。元の前髪の中に戻して、整えるのだ。
朝にきちんと整えても、ひょんな事で乱れてしまうから、ヘアスタイルも気にしてみようか、と考えた。

 レオくんはいきなり、顔を近づけると、私に擦り付け、そうして元の姿勢を取り直す。

 「大好きですよ」

 何を当然のことを言うのだろう。私だって命を懸けて君を助けたのだ。大好きでなかったらいったいなんだと言うのか。私は不意におかしくなって笑ってしまう。レオくんはそれに安心したのか、くるりと背を向けてまた坂道に駆け出して行った。

 「何だったんだろう」

 ハナエは口笛を吹き始める。古いアニメソングであることは私にも分かった。分かったが、分からなければよかったかもしれないと、私はその直後に思うのだった。だってあまりにキャッチーなその旋律は、私に事実を突きつけたのだから。火照った顔をハナエに向けると、彼女は怒るなよ、と笑ってみせた。
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