(3)

文字数 1,122文字

「さ、ひっぱっておくれ。すぐ、ひっぱっておくれ!」

男は急にせかせかとして、叫んだ。その変化にたじろぎながら、あなたは男の手をひっぱった。

雪山に片足をかけ、力いっぱいひっぱった。男のからだは、信じられないほど重かった。あなたはひっぱろうとして、逆にざりざりと穴へと引き摺られた。

あなたはいつしか汗だくで、上着の襟元から白い湯気がのぼった。でも、男はぴくりとも動かない。あなたは叫んだ。

「おじさんも、ふんばってよ!」

「頑張っているとも! おれのせいなのか! おれが、ここから出たいんだぞ!」

男は目をむいて、あなたを怒鳴りつけた。人の身になれ。そう言われると、あなたは弱かった。

「わかった、わかったよ。ごめんよ、おじさん」

「いいとも。さあ、ひっぱっておくれ」

 あなたはふたたび、力いっぱい、男の手をひっぱった。なんどもなんども、おなじことを繰り返した。男の長い爪が、あなたのやわらかな皮膚に、食い込んだ。しかし、男は動かない。あなたにしがみついて、激しくせっつく。正体不明の悔しさがあなたの胸に湧き上がり、目には涙が滲んでいた。



「はやく!はやくしてくれ!どうして出してくれないんだ!」

「頑張ってる! 頑張ってるよ!」

「嘘つけ!おまえみたいな子どもが、どうしておれひとり持ち上げられないんだ!」本気じゃないんだ!」

「違うよ!……ねえ、おじさん。一度、手をはなしてくれないかな。手がすごく痛くて、すこし休みたいんだ」

 あなたの言葉に、男はとうとう金切り声で叫んだ。「この、ぺてん師め!」

「逃げるつもりだな。おまえは逃げるつもりだな! 嘘つきの偽善者め! おまえははなから、おれを助ける気なんぞなかったんだろう!」

「なんでそうなるんだよ! 助けるよ! ぜんぶあんたを助けるためじゃないか」

 あなたは、男の剣幕におろおろして、言い募った。こんな風に怒鳴られるわけを、あなたはわからなかった。男は怒りのために、口の端からぶくぶくと泡を噴いた。

「悪がきめ、もうだまされんぞ。助けるため? ちがうね、おまえはふりをしただんだ。おれを助けるんじゃないんだ。おまえは、ばつが悪いから、いわれるままおれの手をひっぱっただけだ。本気じゃないんだ。一生懸命なふり、汗だくになるふり! そんなおまえをみて、「ああ、もういいよ、親切なぼうや!ありがとうね!」とか泣きながらおれが手をはなすまで、ただやりすごそうとしたんだろう! どっこい、はなすもんか。おれはおまえをはなさないぞ!」

 男は、めちゃくちゃにわめきながら、あなたの手にしがみついた。あなたは、ぼうぜんとして、されるがままになっていた。

けれどあなたは、ずりずりと、爪先が穴のふちへと近づいていくのをみて、わっと叫んだ。
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