(2)
文字数 1,690文字
それは、大きな顔だった。
ひどく薄汚れていて、ひどい出っ歯で、日の光がまぶしいのか、目をしょぼつかせていた。
みっともない、ネズミみたいだと、あなたは思った。それは、あなたをまじまじと見ていたかと思えば、出し抜けにはにかんだ。そして、猫撫で声で、こう言った。
「あ。お、おはよう。お坊っちゃん!」
あなたは、恐ろしいのを忘れるほど、当惑した。雪の山から顔を出した人間とは、当たり前だけど、話したことがなかったから。穴の中にいる男は、あなたをしきりに手まねいた。
「ど、怒鳴って悪かったね。どうも、あさは気分が悪いんだ。ちっとでも、おどかされっと、ぜんたい、いやになっちまうのさ。あ、あんたみたいな元気の良い子にゃ、無縁かもひれないがね。おれみたいに穴にはまり込んじまうと、太陽なんてのあ、かっかえってどくなんだ。いきなりピカッ、てきたもんでね。あ、怒鳴って悪かったね……」
男は、醜い顔いっぱいに笑みを浮かべて、つっかえつっかえしながら、あなたに話しかけた。男の声はキンキン尖っていて、舌はのどを掴まれた鶏のように縺れていて、言葉が聞き取りづらかった。あまりに耳障りにしゃべるので、穴にはまった男の奇妙さを、あなたは忘れた。
かわいそうだったから。
あなたは、穴のそばにしゃがみこむと、微笑んだ。
「ぼく、きにしないよ」
男は、あなたの笑顔に、汚い歯を全部見せて笑った。
近づいてみて、男が老人といえるほどの年だと、あなたは気づいた。顔じゅう至るところに、深いみぞのように皺が走っており、そこにたっぷりと、雪がかぶったように、垢が溜まっていた。そのために、遠目から若く見えていたのだと、気づいた。あなたは、この不潔で、奇怪な老人に近づいたことを、早くも後悔していた。
それでもあなたは、精一杯の敬意を、男にはらおうとした。あなたは礼儀正しく、自分の名を名乗った。穴の男は、にたにたと照れ笑いを浮かべていたが、名乗らなかった。あなたは、妙なものの名を聞いても仕方ないと思って、特段気にとめなかった。
男は、あなたが雪をかきにきたのだと聞くと、良い子だ良い子だ、と大層はしゃいでみせた。あなたを褒めれば、自分が褒美をもらえると、思ってるかのようだった。あなたは、話を変えようと、男に尋ねた。
「おじさんは、どうして穴にはまってるの?」
男は、落ちつかなげに、体をゆすりながら答えた。ところで、穴はせまかった。男が身動ぎするたびに、ゴソゴソと雪がよそよそしい音をたて、フケだらけの頭へこぼれかかった。
「し、知らねえ。 おれが穴にはまりこんでるっと気づいたときにあ、ここにいたんだ。そっから、ずっとはまりこんでる。……なんのために? さあ、なんのためにだろう、なんの。おおれは、ぜんたいなんで、こんな?……ええ、なんでもいいそんなもの」
男はぶつぶつと、縺れながら呟いていたが、急にはっとなって叫んだ。くさい唾が、しぶきをあげて汚い口から飛び出してきた。あなたはさりげなさを装って、身をよじって避けた。それからまた、男に尋ねる。
「そんなとこいて、さむくないの」
「それあ、寒いにきまってる。雪の穴だもの。寒くないわけが、あ、あるかね」
「じゃ、なぜそこをでないの?」
不思議に思って、あなたは尋ねた。男もまた、不思議そうに目をパチパチさせながら、「出る?」
「うん。いやなら、そこを出ればいいじゃない」
あなたの言葉に、男は悲しい顔をした。
「出るったって、無理さ。なにしろ、深くはまりこんじまってるんだもの。ごらん、手だってほんのちょっとしか出やしない。おれひとりじゃ、からだ半分も出られっこない」
「それなら、ぼくが手をひっぱってあげる」
男があまり悲しそうなので、あなたは言った。男は、あなたの言葉にぱっと、顔色を明るくした。
「いいのかい?担いでいないね?」
「もちろんだよ」
あなたが言い終わる前に、男はいそいそと手を突き出してきた。待ちかねたようだった。あなたは、爪がのびきって真っ黒になった手を、おそるおそる握った。冷たくぬめった手は、ぺったりとあなたの皮膚にすいついた。おぞましさに、耳の後ろまでぞろぞろと鳥肌がたった。
ひどく薄汚れていて、ひどい出っ歯で、日の光がまぶしいのか、目をしょぼつかせていた。
みっともない、ネズミみたいだと、あなたは思った。それは、あなたをまじまじと見ていたかと思えば、出し抜けにはにかんだ。そして、猫撫で声で、こう言った。
「あ。お、おはよう。お坊っちゃん!」
あなたは、恐ろしいのを忘れるほど、当惑した。雪の山から顔を出した人間とは、当たり前だけど、話したことがなかったから。穴の中にいる男は、あなたをしきりに手まねいた。
「ど、怒鳴って悪かったね。どうも、あさは気分が悪いんだ。ちっとでも、おどかされっと、ぜんたい、いやになっちまうのさ。あ、あんたみたいな元気の良い子にゃ、無縁かもひれないがね。おれみたいに穴にはまり込んじまうと、太陽なんてのあ、かっかえってどくなんだ。いきなりピカッ、てきたもんでね。あ、怒鳴って悪かったね……」
男は、醜い顔いっぱいに笑みを浮かべて、つっかえつっかえしながら、あなたに話しかけた。男の声はキンキン尖っていて、舌はのどを掴まれた鶏のように縺れていて、言葉が聞き取りづらかった。あまりに耳障りにしゃべるので、穴にはまった男の奇妙さを、あなたは忘れた。
かわいそうだったから。
あなたは、穴のそばにしゃがみこむと、微笑んだ。
「ぼく、きにしないよ」
男は、あなたの笑顔に、汚い歯を全部見せて笑った。
近づいてみて、男が老人といえるほどの年だと、あなたは気づいた。顔じゅう至るところに、深いみぞのように皺が走っており、そこにたっぷりと、雪がかぶったように、垢が溜まっていた。そのために、遠目から若く見えていたのだと、気づいた。あなたは、この不潔で、奇怪な老人に近づいたことを、早くも後悔していた。
それでもあなたは、精一杯の敬意を、男にはらおうとした。あなたは礼儀正しく、自分の名を名乗った。穴の男は、にたにたと照れ笑いを浮かべていたが、名乗らなかった。あなたは、妙なものの名を聞いても仕方ないと思って、特段気にとめなかった。
男は、あなたが雪をかきにきたのだと聞くと、良い子だ良い子だ、と大層はしゃいでみせた。あなたを褒めれば、自分が褒美をもらえると、思ってるかのようだった。あなたは、話を変えようと、男に尋ねた。
「おじさんは、どうして穴にはまってるの?」
男は、落ちつかなげに、体をゆすりながら答えた。ところで、穴はせまかった。男が身動ぎするたびに、ゴソゴソと雪がよそよそしい音をたて、フケだらけの頭へこぼれかかった。
「し、知らねえ。 おれが穴にはまりこんでるっと気づいたときにあ、ここにいたんだ。そっから、ずっとはまりこんでる。……なんのために? さあ、なんのためにだろう、なんの。おおれは、ぜんたいなんで、こんな?……ええ、なんでもいいそんなもの」
男はぶつぶつと、縺れながら呟いていたが、急にはっとなって叫んだ。くさい唾が、しぶきをあげて汚い口から飛び出してきた。あなたはさりげなさを装って、身をよじって避けた。それからまた、男に尋ねる。
「そんなとこいて、さむくないの」
「それあ、寒いにきまってる。雪の穴だもの。寒くないわけが、あ、あるかね」
「じゃ、なぜそこをでないの?」
不思議に思って、あなたは尋ねた。男もまた、不思議そうに目をパチパチさせながら、「出る?」
「うん。いやなら、そこを出ればいいじゃない」
あなたの言葉に、男は悲しい顔をした。
「出るったって、無理さ。なにしろ、深くはまりこんじまってるんだもの。ごらん、手だってほんのちょっとしか出やしない。おれひとりじゃ、からだ半分も出られっこない」
「それなら、ぼくが手をひっぱってあげる」
男があまり悲しそうなので、あなたは言った。男は、あなたの言葉にぱっと、顔色を明るくした。
「いいのかい?担いでいないね?」
「もちろんだよ」
あなたが言い終わる前に、男はいそいそと手を突き出してきた。待ちかねたようだった。あなたは、爪がのびきって真っ黒になった手を、おそるおそる握った。冷たくぬめった手は、ぺったりとあなたの皮膚にすいついた。おぞましさに、耳の後ろまでぞろぞろと鳥肌がたった。