第十四話 再会

文字数 6,741文字

頬を切る風。
少女は自分の身に起きている事が信じられずにいたが、その頬を切る少し痛く冷たい風が”これは現実の事なのだ”と、しっかりと伝えていた。
(……まさか伝説の白馬に乗っているなんて)
なんとオリビアとグリンデは、伝説の白馬【シルキー】に跨り、小高い丘を下っていた。
ドロネアの洞窟周辺とは違い、背の高い木々はすっかりと姿を消し、花々が咲いているのか、駆ける白馬の足元には、黄色や白色の細かな点滅がちらついている。そして視線を前に戻すと、緑色の山々の奥に、頭に白く雪をかぶった大きな山脈がぼんやりと目に入った。
少女は、自分の腰元を強く巻く腕を気にしながら前かがみになり、シルキーの滑らかな鬣をしっかりと掴むと、その霞んで見える雪がかった山脈を強く見つめた。


数刻前。
オリビアは、小刻みに震えるグリンデを背に、地面へと倒れこんでしまっていた。
目の前で業火を繰り出していた、伝説の魔女の意識がない事だけでなく、洞窟の地面を這う不気味な冷気と、獲物として二人を狙っているのだろうか、ゆっくり近づいてくる数匹の【ロックワーム】の足音が、より彼女の心を絶望へと追いやっていた。
(こ、こんなところで……)
贄と化すしかないのか。力の入っていない、自分より背丈の大きな人間の体を動かす力など、もはや彼女には残されてはいない。
(もし黒羽族が生き残っていたらどうなるの?薬草は?流行り病は?)
死を思った時、オリビアの脳裏によぎるのはいつも同じものである。巡る様々な絶望の中、ふと亡き母の声が聞こえた気がした。
(……諦めたらお母さんのところに行けるのかな?)
もはや頭の中でこだまするのは、生前、母が自身にかけてくれた言葉ばかりであった。
『どんな人間でも、どんなに小さな命でも、きっとその力を必要としている人がいるわ。たとえ今はいなくても未来できっと出会う日は来る。私たちが貧しく弱くても、諦めずに強く前を向いて生きるのよ。“輝かしい未来の為に、今を粗末にしてはいけない”貴方の父さんがよく言っていた言葉よ』と。
これで何回目だろうか。再び一筋涙がこぼれ、地面の染みが広がった。だが少し前とは違う。少女の中で何が変わっていた。
「……そう、諦めては駄目よ。私の力で救える命が少しでもあるのなら……。せめてグリンデさんだけでも……」
大きな願いを交え、腕に大きな力が入った。その瞬間、暫くぶりに見覚えのある輝きが辺りを照らし出した。そう、白き女性と出会った時に見た、あの光である。なんと、グリンデから手渡されていた、あの鈍い鉛色のコインがオリビアの懐で輝き出し、白く淡い光が二人を包みこんだのである。
「……う」
意識をなくしていたグリンデは目を覚まし、ゆっくりと近づいてきているロックワームたちの存在に気付くや否や、勢いよく立ち上がり、手の平をかざして火球を洞窟の天上へとぶつけた。ロックワームたちはよほど驚いたのだろう。一目散に四方に逃げ去っていった。
「……グ、グリンデさん?」
完全に意識を失っていたのだ。喜びよりも疑問が勝るのも無理はない。ただ、一息置いて出た行動は、やはり前者であった。オリビアは立ち上がり、グリンデを強く抱きしめた。動揺しているのか、彼女は激しく細かい呼吸の震動を帯び、抱きしめた腕からそれがよく伝わってくる。思わずグリンデの顔を見つめると、やはり酷く蒼白していたが、先ほどのような細かな痙攣は治まっているように見えた。
「……マ、マリーは?奴の光を浴びてしまった事は覚えておるのだが……。奴は何処にいる!」
先程のロックワームに対する行動もそうだが、意識を取り戻したと同時に戦意を剥き出す様を見るに、いかに過去で争いに身を置いていたのかがわかる。
ただ、一先ず意識の戻ったグリンデに対し、嬉しさしか湧かない。呼吸を整え、段々と。さもないと順を追うのがやっとである。オリビアは、今まで起きた事を不規則な呼吸を交え、話し伝えた。

「……そうか。それではマリーは洞窟の奥へ閉じ込められているという事だな。奴は巨体だが腕がない。おそらくは自力で出ては来れんだろう。……それにコインが、か。……とかく一度この洞窟を出るぞ。我も完全には治ってはおらんようだ……。地が波を打っておるようだわい。しかるに先ほどの気味の悪い蟲どもに襲われては堪ったもんではない」
額の汗が引かないグリンデのその様子からも、外の空気を吸わせて落ち着かせた方が良いであろう。ひとまず洞窟の出口を目指す事にした。
それはまるで新しい命を見たかのようであった。お互いに手を取り合いながら、再び入り組んだ道を進み、【輝きの花】とは違う強い光と、心地よい風を身体で感じた時、ようやく生きている実感を噛みしめる事ができた。

「……ここまで空が心地よく感じた事はないぞよ」
長く生きてきた伝説の魔女においても、やはりマリーとの戦いは余程の苦戦を強いられたのであった。グリンデは洞窟の外に出るやいなや、座り心地のよさそうな滑らかな大きな岩を見つけると、すぐに腰をかけた。
そっと近くへ寄り、隣に腰をかけた少女は、水の入った瓶を魔女に差し出す。大きな喉音をたて、天を仰ぎながら水を飲んでいた魔女が落ち着いたのを見計らって、おそるおそる少女は尋ねた。
「……これからどうするのですか?」
いくら閉じ込めたとはいえ、滅んだとされていた黒羽族の仲間のマリーが、どういうわけかこの洞窟で生き延びていたということは、とても安堵できる状況ではない。やはり私たちの知らないところで黒羽族は生き延びており、今にも侵略を企てているのではないか……。少女の頭の中の暗闇は晴れるどころか、ますます深くなる一方だった。が、魔女の脳内は少し違う見解を見せたようである。
「……我らがマリーと出くわした際、奴は目を閉じて完全に意識を失っていた。動き方も単純で、ただの巨大な蛇そのものよ。ゴブリンの罠を使い、岩を奴の頭に叩き落としてやったのだが、その衝撃で目を覚ましたのやろうな」
その仮定は確信に限りなく近いものであった。マリーと出くわした際、彼女の身体には魔力を持つ者特有の、あの靄のような輝きがなかったことを、魔女は忘れもしない。やたらと喋りだした、意識を取り戻したとされる辺りからその靄は現れたのだ。
そして彼女がその時に言った『こんな所に閉じ込めて』と言う一言。それはおそらく蛇の意識しか働いていない時に、あの洞窟に入り込み、そしてあの岩の衝撃で女の方の意識を取り戻した証拠なのではないか。彼女からすれば、目覚めた瞬間にあの洞窟にいたら、そう錯覚するのも無理はないと思われる。
「それならまだ黒羽族は!」
「……もし黒羽族がマリーを使って再び侵略を企てようなら、万全の状態……ましてあのような意識のない状態にはせぬ。それにマリーと対峙しておる際に姿を現し我を止めようとするだろうよ。おそらく、百六十年前の争いでマリーの人としての意識を失い、蛇として長らくこの洞窟に棲み続けておっただけ……というのが高かろう」
自分の十倍以上も長く生きてきた、伝説の魔女の言葉には強い説得力があり、ふいに少女の強張った頬を少しばかり和らげだ。
「……しかしあくまで憶測は憶測。油断は出来ぬ。ここより南西に連なる【エルビス山脈】の麓に我の伝手がある。レクイエムの瘤も手に入れた。予定通り一度そこへ向かうとしようかの……」
予定通り?百六十年もの間、チェルネツの森で生きてきた人に伝手?

バキバキ……

少女の頭の中に多くの疑問が産まれたその刹那、二人が腰かけていた岩の前方の茂みから、大型の獣のものらしき重い足音が辺りに響いた。
「まさかあのリリオンどもか!報復しに来おったのか!」
それまで重く腰をおろしていた魔女も咄嗟に立ち上がり、手の平を茂みへ向けた。いくらグリンデが魔法を使えるとはいえ、万全の状態ではない今、油断は禁物である。
いつ茂みからあの鋭い牙と爪が飛び出るのだろうか。多くの仲間を呼んできているかもしれない……。草木が揺れる音、そして激しく打つ心臓の鼓動が、より頭の中に最悪の脚本を呼び寄せる。
草木を踏む音はもう目と鼻の先まで来ていた。魔女の手の平はしっかりとその対象を捉えている。牙が先か、火球が先か。その緊迫した空気の中、茂みから現れた者は二人の想像の範疇を超えていた。
絹糸を連想させる、白い立て髪。額にある角は木漏れ日を反射し、真珠のように淡い光を生んでいる。
「シ、シルキー?何故またここに!」
現れた白馬の足の付け根には、包帯が巻かれており、先ほどの個体に間違いなかった。シルキーは一度立ち止まり、二人をじっと見つめた後、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
それを見たグリンデは、片手で少女をかばい、もう片方の手の平を地面に向けた。その手の平からは炎が生まれ、今にも威嚇射撃を見せようものである。
「グリンデさん!大丈夫です、この子に敵意はないです」
何かを感じ取ったのか、オリビアは遮るグリンデの手を払い、シルキーに駆け寄った。
「お、おい!待て!」
手が届かず、言葉を投げるしかない。しかしその忠告を聞きもせず、少女の足は白馬へと近づいてゆく。こうなっては、もはや威嚇では済まない。グリンデはオリビアに重ならないように、回り込むような形でシルキーの姿が見える位置へ移動した。手の平は確実にシルキーの頭を捉えている。
そろそろ火球を放たねばならないか。そう思うくらいに、少女が白馬に近づいた時、向かうその白馬は驚くべき行動を取った。足を折り、地に腹をつけ、オリビアに対して服従の姿勢を見せたのである。
「……っ!」
目の前にいる者は、本当に気高きあの伝説の白馬、シルキーなのか。言葉を忘れるほど驚いたグリンデだったが、オリビアはそれを上回る行動を見せた。服従の姿勢を見せる、白馬の鼻の前に拳を出し、匂いをかがせ、より落ち着かせると、そっと頭の上に手を伸ばし触れたのである。
一瞬びくっと驚いたシルキーだったが、それを許し、オリビアの手つきはゆっくりと首元へ、そしてぐるりと周り、なでるように腰元へとたどり着いた。
「……嘘だろ、小娘」
呆気に取られた魔女の手の平は、とうに下がりきっている。
幼い少女による、驚愕の行動はまだ続いた。シルキーの隣に立ったオリビアは、軽くその腰元を叩くとそのまま足を跨いだ。白馬は慌てる様子を見せず、そのままむくりと立ち上がった。
「グリンデさん!ほら、見て!」
「……ま、真かこれは。懐くならまだしも、シルキーが人を背に乗せるなど、よほどの豪傑にしかなせぬはずぞ……。我が言うのもだが、おんしはいよいよ何者なのだ」
少女は鬣を掴み、魔女のいる方向へ力を入れると、白馬はゆっくりと彼女の方へと歩き出した。だがやはり両者の間には、ぴりっとした緊張した空気が流れ、シルキーは一定の距離以上、グリンデへと近づかなかった。いや、魔女の微かな殺気に、白馬が近づくことが出来なったというのが適切かもしれない。
それを見たオリビアは、ひょいとシルキーの背から降りてグリンデの元へ駆け寄り、彼女の手を掴んだ。
「グリンデさん、大丈夫。私を信じて」
少女は魔女の左手を取り、そのままゆっくり白馬へ近づくと、鼻元へ彼女のその手を近づけようとした。
「ぶるるるるる……!」
「お、おい!本当に大丈夫なのか!」
黒き瞳のものとは違い、緑の瞳が成す湖面は実に穏やかである。オリビアはグリンデの目を見つめ、軽く頷くと、慌てて退こうとする彼女の手を右手で掴み、自身の左手でシルキーの頭をなで始めた。そしてゆっくり、ゆっくりと時間をかけながら二人の距離を縮めてゆく。
優しくなだめる少女の仕草からか、白馬の荒ぶる呼吸が徐々に落ち着きだし、ようやく魔女の指先が固くひんやりとしたその白馬の鼻先に触れた。
「……ぶるるる!」
だがやはりシルキーはグリンデには心を許していないのか、オリビアが触れた時より強く、驚きと拒絶を見せ、後ずさりした。思わずグリンデはオリビアから手を離してしまった。
「大丈夫だから。安心して」
少女は少し距離を取った白馬にそっと微笑むと、再び魔女の手を握り、白馬の鼻元へと近づけた。もう一度、グリンデの手がシルキーの鼻先へ触れた際、やはり少しの驚きを見せたが、先ほどのように、強い拒絶は見せなかった。
グリンデの手先は少しずつシルキーの頭へと向かう。オリビアは、掴んでいるグリンデの手が、先ほどより強張っているのがわかった。振り返って見てはいないが、おそらく彼女の眉間には深い谷間が生まれているだろう。速度を遅め、ゆっくりとした動きで、魔女の指先と少女の手の平は、白馬の首元、そして腰へとたどり着いた。
オリビアの耳元で、はっと息を吸い込む音が聞こえた。グリンデがシルキーの毛並みに驚き、まさしく息を呑んだのである。
これは絹とも違う。まるで肌に纏わり付かない油が指先で転がっているかのようだ。彼女は長年生きてきたが、このような感触を得たのは初めての事であった。暫くの間、グリンデは吸い込んだ息を吐く事を忘れてしまっていた。
少女は白馬の腰元を叩くと、白馬は先ほどのように服従の姿勢を見せた。そしてオリビアはグリンデに誘うように目を配らせ、シルキーの腰に足を跨いだ。おそるおそるグリンデも足を跨ぐや否や、シルキーは驚いて勢いよく立ちあがった。
「ぶるるるるるる!」
「おぉ!」
グリンデは思わず声を上げ、自分の前に座るオリビアの腰元にしがみついた。
「どう!どう!大丈夫だから!落ち着いて」
少女が鬣を掴み首元を撫でると、白馬は次第に落ち着きを取り戻し、ばっかばっかと音をたて粗ぶっていた足元もゆっくりと静止し、その場に動きを止めた。
「……我も長く生きてきたが、よもやシルキーに跨る日など来るとは思わなんだ。まして子鹿のように細い小娘の腰元にしがみ付きながらとはの」
グリンデ自身も馬に乗る事は出来るのだが、やはりシルキーは別物であった。大昔より獰猛と謳われた生物の背中は、やはり強い緊張感が漂っており、魔女の額にもうっすらと汗を作りだした。


暫くその場でじっとしていると、二人の重さや匂いに慣れてきたのか、白馬は随分と落ち着きを取り戻していた。少女の指示をも理解し始め、従順に足となる想いすら伺える。
「……おんしは馬を飼っておったのか?随分と乗り慣れておるように見える」
「いえ……。飼ったはいないのですが、母の知り合いにとても馬の扱いが上手な方がいて、幼い頃からたまに乗り方や手なずけ方を教えて頂いていたのです。最初は鐙や手綱がないと乗れなかったのですが、馬が私に慣れてくると道具がなくても乗れるようになりました」
「……ほぉ」
母と同じくらいの年齢のその男性は、ランハルトと名乗り、とても優しく親切で、家族のような存在であった。馬の乗り方だけでなく、料理や、野に生えている植物の事など、幼少のころから様々な事を教えてくれた。
最近ではランハルトが小さな馬車で迎えに来てくれるおかげで、北西にある小さな町に炭や茸を売りに行けていたのであった。母とランハルトの二人きりでその町に行く事もあったのだが、その帰りには何故かいつも母は革袋いっぱいの銀貨を持って帰って来ていた。オリビアは子供のころから、この人こそ本当は自分の父親であり、何らかの事情があって、今は離ればなれに暮らしているのではないだろうか、とさえ思っていた程である。 
「……ところでグリンデさん。先ほど言っていた山脈の麓へはどのくらいかかるのですか?」
「歩きで二日と少しほどだろうな……」
「でしたらこの子の力を借りて行きませんか?足を怪我していますが、少しは走れると思います。おそらく着くのは夜になるかと思いますが……」
「……そうさな。我も万全の状態ではない。もし道中獣に襲われた時の事を考えるとその方が良いやもしれん」
グリンデはローブの内から地図を取りだし、そして頭の上で輝く、真上より少し動いた太陽を見つめた。彼女は、洞窟に辿り着いた時、目の前の大きな岩場の少し上から、太陽が覗いていたのを覚えていたのである。
「……ここから南西か。暫しこのまま真っ直ぐ進めば、この森を抜け、小高い丘に出ることができる。その時その大きな山脈が左手に見えてくるはずだ。そのまま山脈の麓にある森へ進んでほしい……行けるか?」
少女は魔女の黒い瞳を見つめ、強く頷いた。

百六十年間、森の中で生きてきた魔女の伝手。少女は疑問や不安よりも、今はとにかく病み上がりの魔女を助けたい想いのほうが勝っていた。オリビアはシルキーの鬣を強く握りしめると、軽く深呼吸し、険しい木々の間を見つめ声を上げた。
「どう!」
白馬の足はゆっくりと茂みに向けて駆け出した。
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