一緒に死ぬ人です。

文字数 3,234文字

 正道は食卓でソワソワしている。今日、息子の賢斗が同い年の彼女を連れてくるというのだ。妻の慶子も不機嫌な様子でコーヒーカップの用意をしている。溺愛する息子の彼女に対する敵対心のようなものが透けて見える。正道はその点にウンザリしていた。確かに息子というのは母親にとって特別なものだろうけど、賢斗も十分に大人である。いつまで親でいるつもりなのだろうか?
 「どんな娘を連れてくるんだろうね?」
 少し意地悪だと思ったが、正道は慶子に和やかに質問する。
 「知らないわよ。同級生らしいけど、学校は違ったみたいね。賢斗が騙されてないといいけど。あの子、世間知らないところがあるじゃない?」
 「でもさ、そんな世間知らずの賢斗と付き合ってくれるって嬉しいじゃないか。彼女を家に連れてくるって、初めてじゃないか。」
 「だから心配なのよ。恋愛の免疫がない賢斗をどうやってたぶらかしたのか、ほんと、心配で、色々聴こうと思っているの。その女に。」
 その女、この言葉に鋭い棘を感じた。正道はこのまま、息子の彼女を家に招いていいのか思案する。しかし、今からくるのだ。それを追い返すなんて出来やしない。そんなことをすると、普段温厚な賢斗がいつだったかのように、荒れ狂うことになる。もうそろそろ、暴れる息子を押さえつける体力がない。
 「どうしよう?君が嫌なら、今からでも体調が悪いとか言い訳して、今日のことを断ることも可能だけど。」
 「いいえ、受けて立つわ。いつかはこういった日が来るって思っていたし。ただ、違うのだったら、きっぱりと断るようにする。それが賢斗の為だから。私たちが、ずっと賢斗を守ってきたけど、誰かに託す日が来ることは覚悟していたし、いつまでも賢斗を・・でも、同居もあり得るわね。四人で一緒に暮らすの。」
 「そりゃあ、こっちは助かるかもしれないけど、真菜さんは嫌がるよ。いきなり舅、姑って嫌なもんだろう。」
 「でも、結婚するって、そういうことでしょ?」
 「そうはいっても、君は、私の親とは同居しなかったじゃないか。」
 「今更、そんな話を出して、なんの意味があるの?」
 慶子が痛いところ突かれて、キレ気味になってきた。正道は「またか」とウンザリしたが、まあ、そういった慶子の直情的で単純なところは嫌いではなかった。なにより、嘘がつけない。それは信頼に繋がる。感情を露わにする女に対して、正道は悪い感情を持たない。それどころか、好意さえ抱いている。「まあ、そうは言っても、抱いてしまえば、こっちのものだ。」暴れ馬を調教するような達成感。じゃじゃ馬ならしは正道の得意とするところだった。
 一方で、慶子のイライラは、正道が「真菜さん」と息子の彼女の名前を呼んだことだった。私のことを慶子とは言わず「君」と呼ぶことに結婚以来、違和感を感じていた。我慢できずに「名前で呼んでちょうだい!」とお願いしたこともあるが「賢斗が君のことを名前で呼ぶようになるとおかしいから」と断られたことがある。聞いた時は「そうか」と思ったが、翌日になると、なら、賢斗が「お母さん」と呼ばずに「君」と呼ぶことがあり得るかと考えると、全くその兆候はなかった。つまり、言いくるめられたのだ。
 もうずっと、「君」で呼ばれているから、それは変わらないのだろうけど、せめて、他の女を名前で呼ぶようなことはしないでほしい。よりによって愛する賢斗を奪おうとする女の名前を会う前から口にするなんて言語道断!順番というもんがあるだろうに!と慶子はイライラしていた。
 ピンポーン
 呼び鈴がなり、玄関ドアが開く音。正道は座ったままで背筋を伸ばし、慶子は玄関に迎えに行く。正道には玄関先から知らない女性の声がくぐもって聞こえる。なにやら笑い声が響く。若い女性の笑い声は、慶子のそれと違って、高くて、ハリがある。ソワソワしてきた。
 声が一気に大きくなると、慶子と賢斗、そして知らぬ女性がいた。紫色のワンピースをこれだけ綺麗に着こなす女性は見たことない。目つきは穏やかで、全体的にほっそりとして、背も高く、何より顔立ちが美しかった。そして、手が、指が、長く綺麗なのだ。見慣れた慶子と比べて、はるかに上質な女だった。正道は久しぶりに恋をした。息子の彼女である真菜を見つめると、胸が高鳴るのだ。
 「はじめまして、賢斗さんとお付き合いさせていただいている橋田真菜です。」
 ポーッと見とれた正道は、ハッと我に帰り、威厳を保とうと咳払い、そして落ち着いた声で「どうも、父の正道です。」と声を出したが、緊張のあまり喉が張り付き、声が裏返ってしまい、惨めな声を出す羽目になった。ひどく恥ずかしさを感じたがそこに
「父さん、声、裏返って、なに、緊張してるんだよ!」
と賢斗に笑いのタネにされてしまった。初めて息子に殺意を覚えた。この麗しの女性の前で恥をかかせやがって!怒りが湧いたが、賢斗は、真菜を連れてきたことを誇らしげにしている。正道はその様子を理解した。これだけの美人を連れてくるとなれば、そりゃ、男としては、胸を張れる。慶子は思ったより真菜が綺麗なことに自信を喪失したようなところがあった。しかし、勝てないのは年齢のせいだと、もし、同じ年齢であるならば、私も、こんな女に負けてないと意地を張った。
 「お口に合うかどうか、どうぞ。」
 控えめに差し出された洋菓子の箱にはルシャリーと書いてあった。流行りのロールケーキだろう。なかなか手に入らないものだが、真菜はそっと差し出す。その仕草に嫉妬するのは慶子であり、うっとりするのは正道だった。賢斗は、ただただ、ニヤニヤしている。ようやく自慢できるものが見つかったように、ずっと誇らしげにしている。その様子、慶子にとって面白いはずがない。仕方ないようにコーヒーを入れて配ろうとすると、真菜はさっと慶子の動作を予知して邪魔にならないように手伝う。そういったフォローを受けたことのない慶子は、戸惑いながらも、真菜を認めざるを得なかった。正道はコーヒーを差し出す白い真菜の手に見とれていた。女の手を触ってみたいなんて、何年ぶりだろうか?どうしても触りたくなってカップを取るふりをして、そっと手に触る。柔らかできめの細かい感触が正道の手に伝わる。その感触の虜になり、もっと触りたくなり、手を伸ばそうとしたが、そっと、真菜は手を払った。正道は自分の下心を見透かされたことに気がついた。そっと真菜の顔を覗くと、やんわり微笑んでいる。正道は胸が締め付けられる思いがした。賢斗はいい思いをしているに違いない。真菜の裸を頭の中で思い描こうと必死だったが、それが、すでに、息子の手垢がついていることに、男として、負けたような気がした。
 ただ、その綻びを慶子は見逃さなかった。
「ちょっと、あなた、なに、鼻の下伸ばしているの!信じられない!賢斗の彼女なのよ!」
正道は、心臓が飛び出すほど悪い刺激を受けた。本当に息が止まりそうになった。
「それに、あんたも、あしらいがうまいわね。変になれている。綺麗だけど、水商売かなにかしていたんでしょ!」
 慶子が暴走する。正道は綺麗に咲き誇る花に除草剤をかけられる様を見るような嫌な思いがした。
「おい、いい加減にしろ!失礼だぞ!」
正道は声を大きく慶子をしかり飛ばす。正道は、真菜を逃してはならないし、嫌われてもならない、捕まえとかねばならないと、気持ちを奮い立たせた。
「ちょっと、止めてよ、父さん、母さん。真菜が困っているだろう?ごめんな、真菜、こんな人たちで。」
真菜の前で叱責された正道が、顔を真っ赤にして怒る。
「こんな人たちとはなんだ!俺はなあ、お前が働きもせず、家にいるのをずっと我慢して育ててきたんだぞ!賢斗、お前は還暦だぞ!そこまで、じっと我慢して育ててきた、俺と慶子になんて言い草だ!謝れ!」
 慶子は目を見開いた。結婚して六十年、初めて、名前で呼んでくれた。八十三歳になって、夫にときめきを感じた。了
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