Shiver of the downhill runner

文字数 2,000文字

 目の前は崖っぷち、俺は上機嫌でランニグシューズを履いている。

 怖くないかって聞かれるけど、この傾斜角六十度有る、夏のスキー場の天辺から吸い込まれそうな草原を目下にして、草一本一本が風に翻って白い腹を見せているのさえ見逃せない。草原が一個の化け物になってザワザワと生きているみたいだ。俺を飲み込むつもりか?そうはいくか!見上げると目線に山並みがずっと向こうまで続いている。雲が近い、肩甲骨が外れるぐらいに手を伸ばせば空だ。こんな高いところにいて、機嫌が悪い奴がいたら連れてきてほしい。俺の法で、ぐったりするまでビンタしてやる。
 それにしても、こんなイカれた競技考えたのは誰だろう?高低差二百メートルの草原を一気に落っこちるように駆け抜ける。一歩踏み間違えたら、すっころんで、首から地面に叩きつけられて、それでも止まることなく骨を折り、肉を破りながら真っ逆さまに転がり落っこちるんだ!そんな落下走者に必要なのは勇気じゃない。度胸だ。でもバカみたいな妄信的な度胸じゃ走りきるのは無理だ。命からがら突っ走る狡猾さが重要だ。
 そんな俺が万が一落っこちて、おっ死んじまう様が見たくてたまらない残酷な連中が今か今かとコースサイドの崖にスマホ片手に嬉しそうに陣取ってやがる。お前らが希望するような残酷ショーにはならんだろうよ。
 丘の上に立ち、天辺の風を体で浴びる。崖っぷちの底から吹き上げる風で、俺は凧みたいに舞い上がるかって?そんなわけはない。俺は今から自ら落下するんだ。背筋を伸ばし、息を吸う。ピンみたいに体は反り返り、肺が膨らみ、結構な量の酸素が血に混じっていく。ヘモグロビンだっけ?とにかく血が真っ赤に化学変化するんだ!手の平は汗をかいているが、足の裏は風で冷え切っている。太陽が差してきやがるから俺は眉尻をあげて世界を見下ろすんだ。野獣のようにありったけの大声で吠えた。
 開始の電子音が鳴る。
 俺は右足を蹴破るように空に突き出した。体が傾き残された左足より下に下がると、一気に不安定になる。落下が始まるんだ。だが、怯んではダメだ。右足が地面に着く頃には、左足を空に放り投げ出さないと次の一歩に続かない。とにかく足掻くんだ。でも、慎重に着地し、中足で衝撃を受け、しかし全部受け切らず、次の跳躍をするんだ。落ちながら前に進む。腕は空を、雲を掴むが如く前に突き出すが、足を前に出すために空を掻く。何も掴めずに、しかし後ろに追い払うんだ。それを交互に、激しく、素早く、正確に繰り返す。
 肉体は機械的に駆け出す動作を繰り返しながら前に進むわけだが、精神は目に見える景色をしっかり捉えて落っこちていく恐怖に耐える。負けちゃダメなんだ。少しでも怖いとか死ぬとか考えちゃダメなんだ。隙があれば地面に弾き飛ばされてしまうんだ!
 目の前の空気を割って、空に向かって、崖下に向かって、落下速度が増していく。足は落下速度と競争してヘトヘトだが、死ぬかもしれないって恐怖が胸の底を熱くして、全神経が集中する。精神に追いつかない体が後ろに脱皮するように繰り返し落ちていく。落下するたびに俺は新しい俺にぶち当たり続ける。生まれ変わり、脱皮の連続、目まぐるしく過ぎていく景色、地面から足裏で受ける落下のリズミカルな衝撃。ドンドンドンドンド!激しく揺れるたびに全身が興奮し、満ち溢れる。何に興奮しているか分からないが、スピードとか、リズムとか、恐怖かそんなのが、ランドリーの回転みたいに体の中でガラガラ回っていて、それが走行風で冷やされていく。こめかみの辺りには脈打ちが延々に続き、その血の巡りのおかげで、脳の奥から興奮と幸福の汁みたいなのがジワーっと出てきて、それが瞬く間に身体中に伝播する。生きているという実感が、衝撃と去り行く景色、割れていく空気、落下に塗れて、大きな回転をして、俺の中にある強烈な光みたいものが溢れかえっていく。足を素早く動かし続ける限り、進めるんだ!早く走れるんだ!こんなのは理屈では説明できないが、この溢れ出る幸福感で体が慄いているのは、落下走者の俺には解るんだ。だが、一方で、冷静な生き残ろうとする精神が、足先の小石でグキッとなりそうになったら、足首に舵当てして、猛スピードなのに絶対に転ばないようにしやがる。もう、俺の命なんてどーだっていい、とにかく、猛スピードで転がりたい!って肉体が思っても、奥底の精神のやつが俺を守ろうとしやがる。
 ずいぶんな時間、落下速度に追いつくように足の筋肉はひっきりなしで、限界超えて引き千切れそうになって、乳酸を溜め込んでいた。もう、足が一歩前に出そうになかったが、体全身を振り切って、腕を振り回し、腰を回転させ、足を前に出す。体全体で猛スピードにしがみつく。もう振り切れそう、肺が潰れそう、心臓がパンクしそう、鼻血が飛び出そう!
限界で頭が真っ白になった頃、歓声が聞こえた。
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