十~十二

文字数 11,633文字


 どこかの店に配属された役者が登場したのかと思ったが、話を聞くうちに薄茶色の草木染の着物は普段着なのだとわかった。ショートにした灰色の髪がそれによく似合う。女性は七十代ぐらいだが、ぴんと背筋が伸び、エイジを見据える目つきに力があった。
「どうなさったね、ホテルにお泊まりの方さね」
 その瞬間、周囲の時間がとまり、エイジはその女性と二人だけで舞台に立たされたように錯覚した。それくらい存在感のある女性だった。エイジはふと女性の隣を見る。「三好屋」という古めかしい木の看板が出ている。なんの店かわからないが、商売をしているらしい。にぎやかしのバイト風情とはちがうようだ。相談しても悪くないかもしれない。
「そこの遊技場で的当てをしたんですが、大当たりの意趣返しか知らないけど、誰か部屋に押し入ってきたんですよ」
「押し入ってきた……?」女性は眉をひそめる。「尋常じゃないわね」
「そうなんです。わたしも信じられなくて。なかに入ってきて、気持ちの悪い人形を置いて行ったんです。もう腹が立ってしかたないです」
「話を聞かせてもらえないかしら」店先に置いた竹製のベンチにいざなう。
 エイジとしてもこのままなにもせずに部屋にもどるつもりはない。引っこみがつかなくなっていた。ベンチに腰を下ろすなり、もう一度いきさつを最初から話してみる。このさいたばこはがまんだ。女性は静かに扇子であおいでくれていた。それが心地よかった。それくらいエイジはかっかとしていた。
「あの人形を倒したのかね」話を聞き終え、女性は確かめるように訊ねた。エイジがうなずくと、さっと顔色が変わる。「ここができてからはじめてさね。誰もできんと思っとりました。この店はあのころからあったのですが、そのときからめったに聞く話ではないさね」
「あのころ……とは?」
「炭鉱があったころさね。昭和の三十年代、四十年代のころさね」
「こちらはなんのお店だったのですか」エイジはあらためて看板を見あげ、行灯にぼうっと浮かぶ店の奥に目を凝らした。
「芸者衆の置き屋さね。申し遅れました。うち、ハルヨと申します」そっと名刺を差しだしてくる。「三好家代表取締役 三好春代」とある。
 春代さんは話をつづける。「廃鉱になってからは茂利原に移りましてな。こちらができたのでまた出てきたさね。いまもお座敷で仕事をさせていただいております。懐かしいとおっしゃってくださる方もいらっしゃるさね。だけどそれだけでは苦しいので、いまでは土産物屋のほか、お座敷体験教室とかもしとります。ここの方たちはほとんどが昔からの知り合いでしてな。気心の知れた人たちばかりさね。ただ、的当て屋だけはずっと外の方がやられてきましてな。つまり、うちらもあまり関わりたくない輩さね」最後は春代さんも小声になっていた。
「どういう人たちなんですか。もうどこかに消えてしまって連絡もつかないんです。このままだと警察に言うしかない」
 春代さんは小さくかぶりを振り、困り果てた顔をした。「的当て屋は表向きさね。じっさいはウラでカネを渡して手配してもらう仕組みさね。べつに的を倒さんでも愉しめるさね。ああいう連中はいつだって、どこからだってやって来るものさね。この店までいっしょくたにされると困るんだけど、表だって文句を言うわけにもいかないさね。だからなにかあったときは、お客さんたちにまあまあって言ってなだめすかすしかないんよ。ああいうのはこういう場所ではしかたないもんだった。男たちが集まるところに虫みたいにわいてくる。男たちは日中、きつい仕事をしているさね。だから夜になったら、一杯引っかけたあと、腹の下にたまったものをかき出してもらわんわけにいかないさね」
 春代さんの言うことは容易に理解できた。それは瑛士自身が西棟のあの部屋で体験済みだった。いや、体験というほどでもない。ほんのさわりを嗅いだ程度だ。だがそんな密やかな奉仕があの時代、例の的当てに結びついていただなんて。
「そんな店まで再現するなんて」
「いつの間にか舞いもどってきたさね。おおむね、上の人たちに取り入ったんだろう。そういうのは得意さね、あの連中は。あっちのほうは目立たないようにやっとるし、お客さんたちとトラブルさえ起こさなきゃ、うちらも見て見ぬふりさね。ここを盛りあげてくれるなら、そりゃそれでいいさね。ところであんた、大当たりってことは“景品”はどうされたね」
「もらいました。最新式のスマホ。娘が喜んで」
「それだけかね」
 正直に明かすしかなさそうだ。「カギが入っていました。改装中の西棟の三階の部屋でした」
「行ったのかね」
「ええ、まあ……」
 春代さんはアスファルトの地面に目を落とし、どうしたものかと思案げに押し黙る。それがエイジの焦燥感をかきたてる。
意を決したように春代さんが顔をあげ、エイジを見つめる。そのとき気付いた。春代さんはかつてとびきりの美人だったにちがいない。おそらく芸者だったのだろう。酸いも甘いも知り尽くしたその女性がきっぱりと告げる。
「もし遊んだのなら、ホテルにはうちのほうから話とくさね、いますぐ娘さんを連れてここを出るといいさね」
「え……」エイジは言葉を失う。いったいなにが起きたというのだ。
「やっぱりあの子はまだこの世におるさね。的当て屋の男はそれを知っててまだ商売に使っとった。ただの飾り物かと思っとったのに」
「どういうことなんですか」たまらずエイジは訊ねる。道行く浴衣姿の宿泊客らがなにごとかと振り返る。
「ホテルは元々、鉱夫たちの家族が暮らす団地でな。そこの西棟の一角が苦界にされとったさね。手配師にカネを払ってカギをもらって部屋で待っとると、そこに訪ねてくるさね。あの仕事はね、なかには割り切っとる娘(こ)もおったが、相手を選べんさね、泣き声を押し殺して抱かれる娘がほとんどさ」
 エイジは苦い唾を飲みこむ。どこもおなじだ。かつての花魁のように奉られた女たちだって、橋の下の暗がりに筵(むしろ)を広げて横になる夜鷹と変わらないのだ。
かき出し屋なのだ。
 荒くれ者の鉱夫たちが入れ替わり立ち替わりやって来る場末の苦界が、どれほどの汚辱にまみれていたか、想像するだけでぞっとした。
「子連れの娘も多かったさね。母親が帰って来るのを腹を空かして待っとる子どもたちのなかには、事情を知っとる子もおってな。うちが聞いとる話では、そのなかの一人だったヨシオという男の子が、町の雑貨屋に奉公して小遣いをもらうようになったそうだ。それには理由(わけ)があってなあ。母親がそんな仕事をしないですむようになるには“身請け”をすればいいとどこかで聞きつけたらしいんよ」
「それで自分が?」
「そうさね。けなげな話さね。だけど、そうそう簡単に小遣いが貯まるわけでなし、そもそも身請けの代金なんて、あってないようなもの。法外な金額を吹っ掛けられるのオチさね。ところがヨシオはあきらめんかった。どうしたらいいか手配師に訊ねたさね。そうしたら横から的当て屋がしゃしゃり出てきて、あそこに立ってみたらどうかって持ちかけてきよった。的になれと言うのさね。片脚で一日立っていられたら、それまでの駄賃の十倍を払う。でも倒れたら景品として母親に客を取らせるという条件で」
「ヨシオは飛びついたというわけですか」
 春代さんはうなずき、自分の店の提灯をぼんやりと見つめる。まるでそこに往時の光景がよみがえっているとでもいうように。「坊主頭や、ふんどし一枚の体に向かって硬い木の球を投げつけられ、たちまち全身が腫れあがり、血まみれになった。それでも両手を左右に広げてバランスを保ちながら片脚で立ちつづけた。一日終わると、体は赤黒い飴玉のようになってしまったが、鬼気迫る形相で来る日も来る日も台の上に立ちつづけたさね。もし倒れたら、小遣いがもらえないだけでなく、母親のところに行く客を増やすことになる。究極の選択さね。そうこうするうちにうわさが広まって店は大繁盛さ。いくら苦界に沈んどっても母親は息子にそんなまねをつづけさせるわけにいかない。かあちゃんはだいじょうぶだから、おまえはそんなことはよしてくれろ。息子にそう懇願したんだが、おれはへいきだってヨシオは突っぱねた。ところがあるとき、とうとうヨシオは倒れてしまった。小遣いを支払うのがいいかげんイヤになった的当て屋が鉄の玉を客にそっと渡したのさ」
 エイジはドキリとする。最後に投げつけた鉄球の感触が右手によみがえった。
「頭にぶつけられてふらつき、脚をついてしまった。そこに二投目が飛んできてな。奈落の底に真っ逆さまさ。それで客は意気揚々として母親にむしゃぶりついたさね」
「なんてことだ……」
「それだけでないさね」春代さんは恐怖を目の当たりにしたかのように肩を震わせた。「息子にそんなまねをさせねばならなかった罪悪感からなのだろうが、母親は権現さまの崖から突きだしたクスノキの枝に浴衣のひもをかけて首を吊ってしまったさね」
 エイジは言葉もない。作り話であってほしかったが、春代さんの顔はつらそうだった。「それを知ったヨシオは最後の客を牛刀でめった斬りにして姿をくらましてしまった。母親が命を絶ったクスノキにしがみついて取りこまれたなんていう奇談をする人もおってな。それからしばらくして的当て屋に木彫りの子どもの人形が現れた。そんなの悪趣味でしかないさね。けれど、それはやっぱり決して倒れなかった。不倒不屈の意志を持った人形だとして、そのうち商売繁盛の護符みたいに思われるようになったんよ」
「それがまさかあの……」
「そうさね。いや、本当にそれなのかはわからん。もう長い月日がたっとるからな。途中で改造されて、絶対に倒れんように細工されたのかもしれん」
 エイジはあれに触れたときの薄気味悪い感触について話してみた。春代さんは魔物に魅入られたように蒼白な顔になり、もう一つ教えてくれた。
「その後、三十年ぐらいしたときのことさね。廃鉱になったあと、売春宿と的当て屋は結託したまま、茂利原でヤミ営業をしておったらしいんだが、そこの客の一人に不幸が起きたさね」
「その客というのはまさか」
「人形を倒したのさね。さすがにその後、的当て屋たちもひるんで、ヨシオと母親の供養をちゃんとやることになったさね。あの崖の上でな。ただなあ、クスノキはそのままだったというんよ。いまじゃ、その木もどこに生えとるかわからんさね」そこまで告げると春代さんはいきなりエイジの手を握りしめてきた。「ところであんた、その人形はどうされたんだね」
「不法侵入の証拠品なんですが、気味が悪いので袋に入れてゴミ箱に捨てました」
「ゴミ箱……? どこさね?」
 エイジは立ちあがり、春代さんを案内する。にぎわう屋台の合間に置かれたゴミ箱は、紙皿や割り箸でさっきより膨れあがっていた。春代さんはなかをのぞきこんだかと思うと、迷うことなくそいつを両手で持って引っ繰り返した。
 ビニール袋がない。
 春代さんの顔がそれまで以上に曇る。「あんた、娘さんといっしょだと言ったね」

十一
 エイジは駆けだした。
 想像は加速度的に悪いほうへと転がっていく。木彫りの人形がひとりでにゴミ箱から飛びだして歩いていくわけがない。だが何者かが拾いあげたらどうだ。ホテルまで百メートルも離れていなかったが、隣の駅ぐらい遠くに感じられた。エントランスに飛びこんだときには息があがっていた。
 あの人形は西棟のあの部屋の前にあった。やはりあの的当て屋のオヤジか。やつが悔しくていやがらせをしたのだ。自分たちの部屋に入ってきたのもやつだ。きっとマスターキーかなにかを持っていたのだろう。それで怒りにまみれておれが出ていった後をつけ、ゴミ箱に捨てられた人形をこっそりつかみあげる。それでどうする――。
 階段を二段飛ばしで駆けあがり、赤絨毯の廊下を猛然とダッシュする。べつの部屋から現れた仲居に激突しそうになるのをかろうじてよけ、角を曲がってさらに急ぐ。もう手には部屋のカギを握りしめている。
 四〇二号室の前に人形はなかった。スニーカーを脱ぎ散らかして部屋に上がっても、夕食の皿がのったままのちゃぶ台の真ん中で、あの人形が芽以を威嚇しているようなこともなかった。
 娘もいなかった。
「芽以! どこにいる!」
 次の間の障子を引き開け、風呂場もトイレも探してみてもどこにもいない。新しいスマホと古いスマホは座布団に放りだされていた。靴は玄関に残されたままだ。
そのとき足の裏にざらつきを覚える。恐ろしい予感に頭のなかがかっと熱くなる。土足で何者かが上がってきたのか。そう思った途端、首筋がひやりとする。部屋に冷気がしのびこんできていた。
 カーテンがはためいている。
 窓が開いていた。蒸し暑い夏の宵を静める川風がそよいでいた。だがここは四階だ。ロッククライミングでもしないかぎり、ここから入ってくるなんて無理だ。
 そうでなく玄関から入ってきて、ここから出た――。
 恐怖に駆られながらもエイジは気を強く持ち、窓の向こうに顔を出した。
 階下は闇に包まれているが、遠くの明かりでかろうじて川岸の散歩道がわかる。だがそこに人が倒れているかどうかまでは判然としない。部屋の窓から放りだされ、砂利道で全身を強打して動けなくなっている小さな体があるかどうかなんて見分けようがなかった。
 一縷の望みと戦慄が同時に起こった。声がしたのだ。川のほうだ。悲鳴だ。聞き間違えようがない。
 芽以だ。
 それが遠ざかっていく。窓から飛び降りたい衝動をこらえ、エイジは声の移動するほうを確かめてから、部屋に備え付けの懐中電灯とスマホを手にふたたび部屋を飛びだした。
「どうされました――」
 さっきぶつかりそうになった仲居が廊下で声をかけてきたが無視して「非常口」と表示のある鉄扉のノブをつかむ。外階段があるようだ。いちいちフロントまで下りてそこから建物を回りこむより、こっちのほうが早い。重たいドアがギイと音をあげながら開く。外に出るなり、活気にあふれる表通りから想像もつかない、墓場のような冷気が全身を包んだ。懐中電灯の明かりに錆びついた鉄階段が浮かびあがる。
「パパ……!」
 間違いない。
「芽以!」エイジは脱兎のごとく階段を駆け下りる。
 散歩道は川沿いに設けられ、日中なら川向こうの森の緑がさぞ美しいだろう。しかしいまは、温泉街の煌々とした明かりが漏れるこちら側とはちがい、対岸には闇が広がっている。まるでこちらをのみつくさんとしているかのようだった。それに抗うようにエイジは懐中電灯の明かりを突きつけ、娘の声――足音もだ――のほうを照らして追跡を開始する。
 愉快な昭和歌謡が表通りから聞こえてくる。それがエイジをいらつかせる。そのせいで娘が声をあげてもかき消されてしまう。
 吊り橋があった。姿は見えないが、足音がカツカツと木の板の上を逃げるように進む音が聞こえる。芽以じゃない。はだしのはずだ。正体不明の人さらいの足音だ。革靴だろうか。その音を頼りにエイジは息を切らせて走る。肺が潰れようが、心臓が破裂しようが構わなかった。やつに――誰なんだ、いったい?――追いすがり、娘を取りもどすだけだ。
 おれがいったいなにをした――。
 春代さんの言葉がよみがえる。
“景品”はどうされたね……。
 行ったのかね……。
 濃いバラの香りが脳裏によみがえる。ほんの一時間ほど前のことだ。あの人はサユリと名乗った。
 まさかそれの報復だなんて。
「芽以! いま行くぞ!」
 吊り橋を渡りきったのか、足音がぴたりとやんだ。やわらかい土の地面を進んでいるのか、それとも橋のたもとに潜んで、こちらを待ち伏せしているのか。緊張に背をこわばらせながらエイジは橋を渡りはじめる。暗幕が引かれたように急に闇が深まったような気がする。静けさも増している。あちこちのスピーカーから流されていた歌謡曲はもうおしまいか。というより、まるで背後の温泉街が狂乱の果てにあらゆるブレーカーが落ちて停電に陥ったかのようだった。
 三歩も進まぬうちにふわりとした足の感触にぎくりとする。足もとを照らしたときはもう遅かった。右足が張り渡した板きれの一枚を完全に踏み抜いていた。そこに開いた穴にあっという間に胸まで体が落下し、かろうじて両わきで挟まってとまった。激しくしなる吊り橋に揺さぶられ、いまにもずるりと滑り落ちそうになる。両腕に力をこめて必死にそれを防ごうとすると、激痛が両わきに走る。二メートル先の板の上に転がる懐中電灯が、こちらも放りだされたスマホを照らしだしている。しかしへたに橋が揺れるとどちらも滑り落ち、五メートル下の急流へとのみこまれる。
「ちくしょう……なんなんだ、こりゃ」
 痛みをこらえ、板の端を両手でつかみ、息を詰めて全身の筋肉に命じて体を引きあげる。もうそのときには理解していた。吊り橋ははなから腐っていたのだ。じゃあ、さっきのカツカツという足音はなんだったんだ。いまもそれが耳に残っている。こんな橋、誰が渡ったって、あんなふうに軽やかにしかも硬質な音なんて立てられまい。だがここ以外に橋はないはずだ。
 息をあえがせながらようやく橋の上で四つん這いになる。慎重に手を伸ばし、スマホと懐中電灯をしっかりとつかむ。耳を澄ませたが、もう芽以の声も足音も聞こえない。橋は十五メートルほど。エイジは四つん這いのまま、板を破らぬよう明かりを照らしながら一歩ずつ進んでいった。
 転がるようにして渡りきったものの、謎の誘拐魔もあのオヤジの姿もない。もちろん芽以も見あたらない。焦燥感が増す。落ち着け。エイジは耳を澄ませた。暗い森の木々が風にざわめくなか、わずかに枝が弾けるような音がした。足もとの小枝を踏みしめる音だ。芽以が広げていたテーマパークガイドには、森のなかを散策できるハイキングコースが記されていた。そこを進んでいるのだろうか。いや、吊り橋のことを考えればあやしいものだ。川向うの表通りほどには整備されていないかもしれない。でもいまは音のしたほうへ進むしかない。エイジはサーチライトのように明かりを一閃させ、どこかに登り口のようなところがないか探ってみる。だが鬱蒼と生い茂る木々がまるで侵入者を拒むようにこちらにせり出し、対岸にあったような散歩道もない。
「芽以!」もう一度叫んでみるが、木々のざわめきしか聞こえない。
 それにしてもだ。
 目的はなんだ。父親がすぐ後を追跡していることはもうわかっているだろう。たんなる愉快犯? それとも――。
 光の環が右手にある太い幹の向こうを照らしたとき、なにかがぎらりと反射した。枝葉をかき分けて近づくと、錆びたブリキの看板が現れた。朱書きの字が読める。
「権現堂登山道、立入ヲ禁ズ」
 権現堂……春代さんが言っていた権現さまのことか。ヨシオの母親が首を吊った崖があるという。誘拐犯はそこに向かっているのか。エイジは足下に明かりを振り向ける。下草が密生しているが、どうやらそこには登山道らしき痕跡が確認できる。ずっと以前に使われていた道が植物の浸食を受けて消えかかっているようだった。登山道は廃鉱のせいで使われなくなったのだろうか。それともその後、ずいぶんたってから茂利原で起きた事件が引き金となったのだろうか。
 とにかくいまはここを登るしかない。エイジは急斜面に足を踏み入れた。一気に周囲の葉擦れの音が高まり、耳を澄ませても完全になにも聞こえなくなった。しかも這うようにして十五メートルほど進んだだけで、もはや方向感覚も失われた。まさに闇雲に突進するだけで、登山道らしき小径に沿って進んでいるのか怪しくなってきた。
 そうだ。権現堂に向かったのなら、調べることができるはずだ。エイジは藪のなかで足をとめ、スマホでグーグルマップを開く。現在地表示の青丸がすばやく灯る。レトロパークの裏手のはずだ。権現堂は登山道の先にある神社かなにかだろう。そうした目印のようなものはたいていマップに表示される。それを見ながら進めばだいじょうぶだ。
 額から落ちた汗の滴も拭わずにエイジはマップを拡大し、指先で地図をあちこちずらしながらいらいらを募らせる。トウモロコシ畑沿いの県道は確認できたが、どこをどう探しても「レトロパーク的場」の表示が見あたらない。青丸は県道から一キロほど離れた山中にぼうっと灯っているが、周囲にはめぼしい施設もない。
 エイジはグーグルに切り替えて検索してみた。結果を見てみぞおちに錐をねじこまれたような痛みを覚える。きのうまで、いや、きょうの夕方到着するまでずっとチェックしていたサイトが見つからない。レトロパーク的場の公式ホームページはもちろん、利用者が記したブログもない。茂利原市サイトの見どころ紹介のページにも、トリップアドバイザーにもそれらしき記述が見あたらない。
 まるでネット空間から一切合切、消されたみたいだった。
 たまらずエイジは振り返る。森にはまださほど入っていない。川向こうには、大勢が宿泊するホテルと夜市がつづく温泉街が――
 ない。
 墨を塗ったような闇が一面に広がっているだけだった。温泉街が放っていた煌々とした輝きが消え失せ、しんと静まり返っている。例のにぎやかな歌謡曲もやんだままだ。ただの停電とは思えない。
 ただ一人、エイジが山のなかにいるだけだった。
 いったいどこだ、ここは――。
「芽以! どこだ! 返事をして!」
 その声をかき消すように木々のざわめきが増す。急に風が強くなったようだ。
 待て。
 電波は来ている。
 エイジは通話アプリを立ちあげ、迷うことなく一一〇番を押した。
 オペレーターがすぐに出た。
「警察です。事件ですか、事故ですか」女性だった。日に何十件とこの手の通報をさばいているのだろう。手慣れた感じの口調だった。
「娘が誘拐されたんです。いま犯人を追跡しているところです。レトロパーク的場の裏山なんですが――」
「どちらからおかけですか」
「レトロパーク的場です。茂利原市の」
「通報されている方のお名前は」
「真須田エイジです。誘拐された子どもの父親です」
「娘さんはおいくつですか」
「十歳です」
「お名前は」
「芽以です。真須田芽以」
「ご自宅から誘拐されたのですか」
「ちがいます。旅行に来たんです。レトロパーク的場のホテルです。きょうから一泊二日の予定でした。そうしたら部屋に誰かが入ってきて……娘をさらっていったんです」
「犯人に心あたりは」
「ありません……いや……温泉街の遊技場にいた男かもしれない。的当て屋があって、そこでわたしが景品を取ったものだから逆恨みしたんじゃないかな」春代さんから聞いた奇談については割愛する。そんなことをいま話しても理解してもらえない。
 だがすでに話は混乱していた。通信指令の女性はエイジがいまいる場所について、改めて訊ねてきた。「茂利原市のレトロ……すみません、落ち着いて、もう一度おねがいいたします」
「落ち着いていますよ。レトロパーク的場です。そこのホテルに宿泊しているんです」
「わかりました。それではそのホテルの住所を教えていただけますか。警察官を向かわせますので」
「住所って……番地のことですか。いや、いま外にいるんです。犯人を追跡中なんです。住所はそちらで調べていただけませんでしょうか。レトロパーク――」
 通信指令は質問をかぶせてきた。「的場ですよね。それではだいたいの場所をお知らせいただけますか。近くの山の名前や通っている道路、それにガソリンスタンドやコンビニでもけっこうです。なにかわかるものはございますか」
「いや、だから的場だよ。マトバだって」
「はい、茂利原市の的場地区にいらっしゃることはわかりました。ただ、的場地区だけですと、かなり広いものでして」
「レトロパークだよ。炭鉱町を復活させたテーマパークだ。二、三年前にできたんでしょう。どうしてわからないのかな」そう言いつつ、さっきスマホの検索で一つも引っかからなかったことが頭をよぎる。「そうだ。的場谷合という町ですよ。そこが炭鉱町の中心だったんだ」
「的場谷合という地名はいまはございません。ただ、炭鉱町というのは聞いたことがあります」
「そうだよ。そこだよ。テーマパークができているはずだ」
「先ほどから探しているのですが、それが見つからないんです」
「そんなことあるものか。ホテルがあって温泉街もあった。お客さんもたくさんいたんだよ。そうだ。県道沿いのトウモロコシ畑のあたりから一キロぐらいかな。川が流れていて吊り橋もある」
「吊り橋ですか」
「そう。かなり古くなっているみたいだけど、ちゃんと川にかかっていたよ」
「よかった。吊り橋の位置ならわかります。すぐに茂利原署から署員を派遣します」
 その言葉にエイジも安堵する。「いま、吊り橋を渡ってすぐの森のなかで往生しているんです。とにかく急いでください。犯人は狂ってる。まちがいなく頭がおかしい」
「電話はつないでおいてください。署員との連絡はこちらから行います」
「やつは登山道の上にある権現堂というところを目指してるんじゃないかと思うんだ。わたしはそっちに向かう。そっちはどれくらいで来られそうかな」
「できるだけ早く向かわせます。ただ、吊り橋のあたりは廃墟でして道路も寸断されているんです」
「え? なんだって」
「どうやってそこまでたどり着かれたのでしょうか。入り口というか目印のようなものは――」
「なにを言ってるんだ、いったい」
 苦りきってそこまで告げたとき、電話が切れた。
 電波が圏外になっていた。

十二
 ジージーとうなりつづけるパトカーの無線機が急に静まり突如、クリアな女性の声が聞こえてきた。
「誘拐事案発生。発生場所、茂利原市的場、的場炭鉱の跡地、的場川吊り橋付近。通報者氏名、東京都中野区梅野木――」
 番地とともに夫の名前が耳に飛びこんでくるなり、晶代はバックシートから前のめりになって運転席に顔を突きだした。
「すみません、いまの名前ですけど」
「どうしたね」ゆっくりとパトカーを走らせながら駐在は、たったいま入った無線内容など聞いていなかったかのように、のんびりと訊ねてくる。
「真須田エイジに芽以って……わたしの家族なんですけど」
道の真ん中で車がとまる。こんな田舎道で夜中だから追突されるおそれなんてありはしない。なめし革のようにつるつるした顔を後ろに向け、駐在は表情一つ変えずに訊ねてきた。「レトロパークに先に到着されていたご家族のことかね」
それに返事をする前に晶代は夫と娘のスマホに相次いで連絡を入れた。しかしいくらコールしても電話は出ない。圏外になっているようだった。
「ここからどれくらいですか、レトロパークまで」
「そうさね、もうすぐさね。十分かそこら」
いらいらして口調が強くなる。「すみません。急いでいただけますか」
「ほいだら、サイレン鳴らそうかね」めんどくさそうに言うと駐在は、まるで年寄りがパソコンをいじるようなぎこちない手つきでダッシュボードのボタンを操作し、赤色回転灯とサイレンのスイッチを入れた。するとおもちゃのようなサイレンが鳴り渡り、周囲のトウモロコシ畑が赤々と照らしだされる。
 駐在はのろのろと車を発進させる。速度はそれまでと変わらない。耳障りなサイレンの音だけが、ほかに車も通らぬ道路に響き渡っていた。
「もうすこし速く走れませんか」なんなら運転を変わりたかった。アクセルをベタ踏みして飛ばしたい。
「なに、心配することはないさね。もうすぐさね。曲がり道があるんだが、わしらもよく見逃すさね。よぅく見ておかんといかんさね」
「さっき炭鉱の跡地とか言ってましたけど」
「そうさね。跡地さね」
「テーマパークを作ったんじゃないんですか」
「跡地に作ったテーマパークさね。いまからそこに向かうさね」
「いえ、さっき吊り橋って言ってましたよね。そこから登山道に入ったとか。できれば直接そっちに向かいたいのですが」
「そうかね。わしはまずはホテルに行って話を聞こうかと思ったさね。けれど、あんたがそうしたいなら、そうするさね」
「ぜひおねがいします。こんなこと……どうしてこんなことになったんだか」
近しい人の安否注意――。
あのおみくじが頭をよぎる。なんてことだ。
「このあたりは昔は炭鉱町だったから、どうしようもないワルたちがはびこっとったけど、いまじゃ、そもそも人が住んどらんさね。ただ、山んなかには良からぬ者が潜んどるかもしれんなあ。昔でいう山賊みたいな輩たちさね」
そこで駐在はふいにハンドルを右に切り、トウモロコシ畑のなかにパトカーを突っこませた。サイレンを鳴らしながら狭い小径を走り抜けると、ひときわ闇が濃い開けた場所へ出た。
「もうすぐ着くさね」
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