十九~二十一

文字数 2,302文字

十九
 もはや猛然と燃え盛るようになった背後の炎のせいで、木の表面がはっきりと見えるようになった。顔だけでなく芽以の胸から下も露出していた。木の幹が彼女をのみこんだわけではなかった。ねじくれた左右の枝がまるで腕のように娘の胸に巻きついているのだ。柔らかい小さな体を弄びながら、黒い二つの眼(まなこ)に邪悪な悦びが満ちる。
 エイジは有無をいわせなかった。片方の目に向かって松明を突っこんだ。ゴムまりにぶつかったような感触が腕に広がり、フライパンで肉を炒めるようなジュッという音がした。そしてすぐさま、ほとんど根本まで火の回った松明を反対の目にも突き刺す。
 娘を締めつける枝がわずかに緩んだ。しかしそれは裏腹であった。木の内部に金属でも入っているかのように炎の熱がダイレクトに囚われた肉体に伝わるのだ。
「アツ……熱い……!」
芽以がそれまで以上につらそうにうめく。娘の体を焼いているようだったが、ここでひるむわけにいかない。エイジは消えかけた松明の炎を足もとに落ちていた枯れた熊笹に燃え移し、やけどするのもいとわずにそれを引っつかんで、やつの二つの目にふたたびくべる。そこから煙があがり、やがてぼっと音がして火の手があがる。
娘を締めつける枝がさらに緩んだのを見て、エイジは飛びかかり、ぐったりした体を抱えて一気に引き剝がした。数メートル後退したところで、こんどは自分のほうが背後に高熱を感じた。
森は完全に燃えあがっていた。
エイジは芽以を抱いたまま、左手に逃げた。生贄を失ったクスノキはさらなる炎をあげて燃えあがり、たちまち火焔樹と化した。エイジは目が釘付けになった。燃え盛る幹の一部が膨らみ、まるでアメーバが細胞分裂するようにそのまま別の個体に分かれたのだ。
ヨシオだった。
体のあちこちからオレンジ色の炎と黒煙をあげながら、仁王のような形相でエイジのほうをにらむと、下草を燃やしながら近付いてきた。エイジは背後に芽以を隠したまま、じりじりと後退する。
どんと背中がなにかにぶつかった。
赤い丸太だった。ちがう。崩れかけてはいるが形はなんとか保っている。
鳥居だ。
高さは二メートルほど。ここが権現堂なのだ。まさに崖の上だった。だが社のたぐいは見あたらない。とっくに倒壊して土に還っていて、鳥居だけが残されているのだ。まるで男たちの欲望渦巻く炭鉱町で人知れず慰み者にされた女たち、そしてその子らの悲しみを癒すことができなかった罰として、廃墟となった町を見下ろすこの荒れ地で、朽ち果てることも許されずにいつまでも立たされているかのようだった。
エイジは背後を確かめた。もはや芽以は鳥居から離れ、剥きだしの地面に立ちつくしていた。そこなら火の手が回ってくることもなさそうだ。
ヨシオはたくましい両腕を広げ、鳥居を背にして動けなくなったエイジを威嚇してきた。五メートルほどにまで近付き、やつの獣のような息遣いが聞こえてきた。
この怪物が襲いたいのは娘なんかじゃない。父親だ。目の前にいるこの男こそが、怨念を晴らす相手なのだ。その刑場がここだった。エイジはまんまとおびきだされたのだ。
あれは罪だったのか。
あの部屋での出来事が脳裏を駆け抜ける。だがそれを考えるより先に娘を守らねばならない――。
ヨシオが飛びかかってきた。組み敷かれる前にエイジは右に逃げた。怪物は鳥居に激突し、衝撃でついにそれが倒れる。
エイジは芽以のいる地面に転がっていた。傷ついた足首にまさに燃えるような激痛が走る。歯を食いしばってそれを堪え、ヨシオのほうを見あげる。
やつは崖っぷちに立ち、腹立ちまぎれに倒壊した鳥居を両手で軽々とつかんで、エイジに向かって投げつけてきた。身をよじってそれをよけたとき、右手に硬いものがぶつかった。
松ぼっくり大のごつごつした石だった。
ヨシオはまだ崖っぷちに立っていたが、レスリングのように上体を低く構え、いまにもとどめを刺しに踏みだしてきそうだった。その目はまさに炎のように爛々と輝いている。その上の部分にエイジの視線は吸い寄せられた。狙うならそこしかなかった。的当て屋で投げつけた鉄球が当たってできた傷がいまも生々しく残り、そこが弱点であることは先刻承知だ。エイジはすばやく立ちあがり、手にした石をクイックモーションから投げつけた。
「くたばれ、化け物!」

二十
 崖の上にようやく両手がかかり、晶代は安堵する。夜空は赤く染まっている。火災はかなりひどくなっているようだ。
 芽以ちゃん、いま行くからね――。
 最後の力を振り絞って晶代は崖の岩棚に体を引きずりあげ、よろよろと立ちあがった。最初に目に入ったのは、地面に立ちつくす娘の姿だった。よかった。間に合った――。
そう思ったとき、なにかがひゅっと風をきって接近してくるような気がした。

二十一
 投げた石は確実に狙った部分、相手の額にヒットした。赤々とした炎に照らされるなか、そこから血しぶきが噴きあがるのもはっきりと見えた。その体は闇夜の濃いほうへ向かって傾き、バランスを保とうと片方の足が一歩後退した。
 虚空に向かって。
 それはヨシオでなかった。
「なんでだよ――」
 血まみれとなった晶代の顔が最後に見えたとき、エイジはほかになにも考えられなかった。
 どこからともなく男の声が聞こえてきた。
「だから言ったさね。お気を付けてって」
 崖っぷちにふらふらと歩み寄ったエイジの隣に駐在は立っていた。
「あのときとおなじさね。廃鉱になって三十年ぐらいたったときさね。おなじことが繰り返されるんだねえ」
お気の毒さまといった具合にかぶりを振ると、駐在は黒い革手袋を外し、骨張った木彫りの両腕を大きく広げた。
(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み