2 ナラティブと近代

文字数 4,184文字

2 ナラティブと近代
 「プロット」を「ストーリー」と「ナラティブ」の間に入れて比較すると、両者の違いがより明瞭になる。「プロット(Plot)」は「ストーリー」の類義語であるが、「ナラティブ」のそれではない。「ストーリー」が作品展開の順序に沿ったあらすじであるのに対し、「プロット」は出来事の因果関係に着目した要約である。前者は登場人物の心理に触れるなど内容に踏みこむが、後者はフローチャートで示すことができる。「ナラティブ」は「物語」と訳されるけれども、こういった出来事の流れや展開の集合を指すものではない。

 また、「ナラティブ」は英語の”narrate”と同じく、「語る」や「説明する」を意味するラテン語の”narrare”を語源としている。そのため、「語り」と訳すのは間違いではない。けれども、ドラマにおけるナレーションはダイアローグに対して鳥瞰的な視点からの説明である。世界の内部の視点のみによる作品を抒情詩、外部を持つものを叙事詩とアリストテレスの『詩学』は区別する。「ナラティブ」の「語り」は前者ではなく、後者である。叙事詩は、ホメーロスを代表に共同体における規範を説くものとしてしばしば語り継がれている。

 「ナラティブ」の「語り」は、従来、叙事詩的なものである。叙事詩には登場人物がいる。その声は共同体で共有される規範の下にある。演劇は抒情詩に含まれる。こうした抒情詩が人を動かす場合、それを支配する規範のナラティブに内属している登場人物への共感が働いている。例えば、ギリシア悲劇は当時のポリスの道徳に基づいている。その登場人物はそれを具現している。だから、抒情詩的なものは叙事詩的なものを前提にしている。前近代において主客が分裂していないと哲学史が語るのはこのことだ。ナラティブは共同体の認めるよい生き方を示しているのだから、それを参考にして行動することは望ましい。

 ところが、近代に入ると、詩は抒情詩、叙事詩は散文に吸収される。今日のナラティブの功罪は近代の基本原理と関連している。

 前近代は共同体主義の時代である。神話を根拠として共同体が先に存在し、個人がそれに属する。この人々は共同体の認める規範を共有している。規範に従う義務の対価として共同体は個人に権利を与える。現実の状態から規範の教える美徳の実践を通じて理想へと近づく、もしくは至る。政治の目的はこの徳の実践であり、個人の幸福は道徳の教えるよい生き方をすることだ。

 規範は人為的に作られた倫理や法ではない。超越者から与えられたり、共同体内の慣習として形成されたりしたものである。しばしば神話を始めとする叙事詩的なものによって語られる。規範は一般的・抽象的なものであるが、叙事詩はそれを個別的・具体的に語る。一般的・抽象的な文言であれば、それを解釈して個別的・具体的な事例に適用できる。しかし、叙事詩にはドラマ性があるので、登場人物の行動の模倣が美徳の実践と共同体において称賛される。

 文芸を含めた芸術の目的は絆を広げたり、強めたりすることである。その創作・鑑賞・評価は規範を共通認識としている。規範は一般的・抽象的であり、文芸はそれを個別的・具体的にする。その際、作者は叙事詩的なものから引用することもしばしばである。

 前近代における代表的な散文フィクションのジャンルが「ロマンス(Romance)」である。これはもう一つの世界を舞台とする。ノースロップ・フライの『批評の解剖』によると、神々の物語である神話とは異なり、後に述べる近代小説と神話の中間に位置する。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、その意識的・無意識的願望の分身、すなわちアバターであって、何かを象徴している。性格よりも個性に関心が向けられ、近代小説がこの点で因習的であるのに対し、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。子の願望は規範に裏付けられている。登場人物は複数の世界を渡り歩ける選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しく、作者の操り人形にすぎないことも少なくない。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。顕在的・潜在的であれ、始まりに終わりが提示され、その目的に向かって話が展開される円環構造をしている。すべての要素はそれを実現するために従属している。作者にとって、曖昧なものや無駄なもの、意に沿わないものは除外され、ただ因果関係が叙述される。ロマンスの短編形式は「お話(Tale)」である。

 しかし、16世紀の欧州で、宗教改革をきっかけに宗教戦争が勃発する。自身の道徳の正しさを根拠にした破壊と殺戮が繰り広げられる。そこで、17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは政治の目的を徳の実践から平和の実現に転換する。平和でなければ、よい生き方をするのもままならない。

 ホッブズはこのような殺し合いが正当化された原因を政治と宗教が一致しているからとして、政教分離を提唱する。政治は公、信仰は私の領域にそれぞれ属し、相互に干渉してはならない。これにより価値観の選択が個人に委ねられる。こうして個人主義としての近代が始まる。

 価値観の選択が委ねられているのだから、個人は自由で平等、自立している。これが近代人である。17世紀英国の思想家ジョン・ロックはホッブズの理論を踏まえ、その個人が集まって社会を形成すると述べる。それが公正で効率よく機能する目的で、個々人人は権利の一部を信託して国家を構築する。政府は権利を信託されているので、社会のために活動する義務がある。近代において義務を課されているのは個人ではなく、政府である。

 近代では政教分離により公私は相互に干渉することが許されない。ただ、それでは何が社会のための活動か政府には見当がつかない。そこで、社会は「共(Common)」の空間として「公(Public)」と「私(Private)」を媒介する。近代は社会の時代であり、新しい学として社会科学が登場してくる。個々人は社会におけるコミュニケーションを通じて政治に参加する。また、政府はそれを踏まえて統治を実行する。近代における公共性は、ユルゲン・ハーバーマスが『公共性の構造転換』で述べた通り、時として相異なる価値観の個々人間の社会的コミュニケーションによって形成される。

 価値観の選択が個人に委ねられているので、個々人によって向かうべき理想も異なる。近代における倫理思想は従来の卓越主義や超越主義に代わり、動機を重視する義務論と結果から判断する功利主義を二本柱とする。いずれも決定的ではないので、その都度、倫理的指針は社会におけるコミュニケーションによる合意形成が必要になる。前近代の道徳が静学的だったとすれば、近代は動学的である。

 倫理は行動によって評価される。有閑が美徳だとしよう。行動が勇敢であるかどうかによって倫理的に評価される。そのため、道徳に基づくナラティブは行動を促す。一方、近代の価値観も行動が評価対象であることに違いがないが、動機や結果によって是非が問われる。近代の価値観に基づくナラティブも行動を促すけれども、その際の動機や結果が強調される。愛国心に駆られた勇敢な行動や国家の危機を救った勇敢な行動のように、美徳の実践として行動が倫理的に評価されるわけではない。

 文学の創作・鑑賞・評価の共通基盤を規範に求めることなどできない。それは社会に基づくことになる。近代の文学は社会の中の文学と位置づけられる。価値観の多様性が前提であるので、作品はそれを個別的・具体的に扱う。だが、価値観を共有していない人にとってその同時代的社会における意義を認識しやすいわけではない。そのため、作品は社会的コミュニケーションを通じて理解される。それを一般化・抽象化して体系に位置付けその社会的儀を論じる批評家の存在が不可欠である。

 近代社会を扱うために生まれた文学ジャンルが「近代小説(Modern Novel)」である。この文学の真の主役は近代社会だ。代表的な作家としてダニエル・デフォーやヘンリー・フィールディング、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンなどが挙げられる。登場人物は等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいはほんとうの人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。また、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度でとり扱うことが要求される。エミール・ゾラは、それを実現しようと、自然科学や社会科学を援用している。語りは、ロマンスが規範に偏っているのに対し、価値中立性を指向する。この短編形式は「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。

 前近代において文芸は規範に従わなければならない。それは「義務としての物語(ナラティブ)」である。「人間はナラティブという形式で世界を、そして自分や他者、世界を定義して生きている」ことは自明であり、何ら問題はない。

 一方、近代は価値観の選択が個人に委ねられ、内面の自由が保障されている。それを表現する自由も認められているのだから、文学活動は「権利としての物語」である。誰もが自分の物語を語る権利を持つ。それは物語の多様性のみならず、氾濫も用意する。また、自分の価値観と同じ、もしくは近い人との交流も自由である。従来は移動の自由をはじめ諸々の自由が制限されていたため、人付き合いは主に共同体内に限定される。若者が極論を口にしても、大人がそれを諭す。けれども、近代は人間関係を選べる。同質的な集団を形成し、その中では批判が弱いので、極論が増幅しやすい。こうして育った極論の物語が暴走することになる。

Stories are different every time you tell them - they allow so many possible narratives.
(David Antin)
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