針を置く

文字数 1,132文字

 カウベルがカランコロンと鳴ったような気がしたし、よく聞こえなかったような気もした。
「こ、こんにちは。」
「お久しぶり。地元の成人式以来かな?」
「多分そう、だね。」
「わざわざ都内から来てくれたんでしょう。―開けていると寒いし中へ入って。」
「おじゃまします。空いてるね? 営業中だから混んでいると思ったのに。」
「もう閉めたの。15時前ににひなちゃんが来るって連絡をくれたから、営業していては落ち着いて出迎えられないだろうなと思って。」
「わざわざ?! いや、なんかごめん……」
「私がそうしたくてしたのだからそこはお構いなく。まあ結局、慣れないことをして落ち着かなかったのだけれど。」
「落ち着いてないんじゃん。」
「何か飲みますか?」
「……じゃあコーヒーで。苦くないやつ。」
 ソファに座っていたキジトラの猫はのそり、と起き上がり、朝比奈かおるの足元にやってきた。
「ラテとかカフェオレとかにもできるけれど。」
「ブラックで飲んでみたい。」
「そう? 無茶な注文をするのね。分かった。」
「―あの。」
作りに行こうとして呼びかけられたみづきが振り返る。
「成人式のときの話、覚えてる?」
みづきは一瞬考えてから、「ひなちゃんから連絡をもらって思い出したよ。」と言って厨房の方へ向かっていった。
「本当に喫茶店を開いたこと。私、頻繫に連絡していたわけじゃないし、何も応援できていなかったけど。お店のこと知ったと来たいと思っちゃった。だから―」
「ありがとう。」
みづきは続ける。
「私はその辺り、重要なことではないと思っているの。例えば、私はこうしてあかつきを開いて、今日までコツコツ続けられて、今、ひなちゃんが聞きつけてここに居合わせてくれている。ここじゃなくても、どこかにいて私に関わることを考えてくれている。それで充分。加えて何か行動してくれたなのらそれはとっても嬉しいこと。その泥跳ねを見ていると尚更にそう思う。」
「……へ?」
「今の今まで気付かなかったの? 走った?」
「新幹線に乗るまでダッシュした……。」
「化粧室そっちに入ったらあるから、自由に使って。ご注文のコーヒー淹れておくから。」
本当に雪なんて振ってくれないほうが助かるのに、と、かおるは声にならない音で文句を言い、泥跳ねの付いた自分の顔をみづきに見せてしまったのをひどく気恥ずかしく思った。
 かおるが席を立つ。明るくなった橙色のランプがカウンターを照らし、みづきがかおるを出迎える直前まで注がれていたコーヒー液を琥珀色に光らせた。まだ温かさが残っているその液をゆづきは飲み干して、新しい豆を取り出し、また粗めに挽き始める。キジトラの猫は大きなあくびをひとつかいて、窓の外の寒さを恨めしそうに一瞥してから、ソファに戻りまた丸くなった。


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