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 いつものように昼下がりまでコーヒーのおかわりで居座ることができないと知って、客はたいそう残念がった。
「ええ、ええそうなんです本日は。すみません。明日からは平時通りですので。お暇が合えばまたいらしてください。」
 扉が開けられ、冷たい空気と眩しい陽光が中へ飛び込んできた。2メートルはあろうかという扉の上右端に据え付けられた、不釣り合いなほど小さなカウベルがカランと揺れ、お昼時の最後の客が出ていくのを、篠原みづきは見送った。見送ってから、ふぅ、と一息をついて店内の方へ翻り、きびきびとテーブルに残された食器を片づけ始めた。その翻った足どりを追うふりをして、キジトラの猫が1匹、わたしも一仕事終えたぞとでも言いたげに、店主である彼女に向かってにゃあと一声上げてから、自らの定位置であるソファ席に戻っていった。 
 店内のどこに座っても目にも入るようにという趣向でカウンターに置かれたサイフォンは、こぽ、こぽ、こぽと、ゆっくり一定のリズムを刻んで、苦みの強いマンデリンのコーヒー液を抽出した。その音がいつもより大きく聞こえるような気がすることについて、店主には自覚があったし、むしろ今日に限っては仕方のないことだとすら感じていた。
 外では数刻のあいだにまた一段と低くなった陽光が、雪の積もった路に反射して辺りを青白く照らした。風が吹き、今しがた客が出ていった店に掲げてある【喫茶 あかつき】のトタン看板が微かに揺れていた。

 昨年の盆に入る前の頃、北北東の地方都市の、さらにベッドタウンにあたるこの街に、新しくあかつきという1軒の純喫茶ができた。新店とは言っても、さほど期待値があったわけでもない。辺ぴな田舎町でも、ギラギラと空気が流れる都会でもない、いたって平穏な土地に元々ある建物の一角を間借りした形式だったし、それに喫茶店やカフェがオープンすること自体それほど珍しい話でもなかった。実際に、近所にも既に数件のカフェがあって、店ごとに固定のファンがついたり、あるいは一帯ごとカフェ・喫茶店巡りのスポットとしてもてはやされたり、といったエピソードをよく耳にした。
 そのような場所にできた新店ともなると、頂いた胡蝶蘭を店先いっぱいに飾ったり、盛大にオープニングイベントをしたりしなくても、小ぢんまりとした雰囲気に寄せられてやってくる者もいる。あかつきはそういう場所になった。
 客の入りようによっては、営業時間の締めを少しだけ―どんなに長くても30分位であったか―サービスする日もあったけれど、それでも、10時からおおよそ16時まで開店。週の休みは月曜日と木曜日。加えて、隔週に一回、店主自身がコーヒー豆の仕入へ赴くための水曜休み。臨時休業もなくきっちりしていた。家事を終えた奥様方から、下校してきた学生達まで、立ち寄りやすい時間で開店していたのも功を奏したのだろう、一人また一人、口コミで話題が広がっていき、Instagramで店名にハシッシュタグ付きのポストが増えていくまでさほど時間は掛からなかった。  
 苦みのあるコーヒーも酸味の爽やかなコーヒーも揃っていて、イギリスパンを軽くトーストして作るサンドイッチが絶品。フラペチーノのような盛れる要素は少ないが、カフェラテに描くちょっとした植物の模様や、店主に選ばれたであろう器たちに素朴な美しさがあった。着物にエプロンという、今時はあまり見かけないいでたちで出迎える店主の丁寧さがそういった端々からうかがえた。
 物腰が柔らかくて、背筋がしゃんとしていて、立てば腰の辺りまですらりと伸びる長い黒髪。真白なエプロンの下に、夜空のように深い藍色無地の着物と、編み上げの黒いブーツ。そしてその足元にもう1匹の従業員。
 そういう店の軒先に、
『本日、店主都合により営業を14時迄とさせて頂きます』
と、店主の印象そのままに華奢で丁寧で、しかし一切の譲歩する余地がなさそうな文字で書かれたメッセージボードが24日の今日に立てかけてある。はたから見ればたった2時間、些細な営業時間の変更だけれども、少なくともこの店のファンにとっては、足繁く通うようになって以来の大きな、それはそれは大きな事件だった。

 時刻はまもなく15時になる。
 テーブル席を整え終えて、すべての卓上とカウンターを水拭きしてから、店主は食器を洗ってサイフォンを仕舞った。先ほどまで抽出していた分をこの後飲むつもりだっが、苦いコーヒーの気分から変わってしまった彼女は、別のものを淹れることにした。豆はキリマンジャロを選び、やや粗めに挽いてハンドドリップにした。普段なら早くとも16時半を回ってから、戸締りをして帰る前に自分用に淹れているコーヒーを、今日はこの時間に準備しているのでどうにも落ち着かない、彼女はそう思うことにした。
 ふと卓上に置いてあるカレンダーを見て、一昨日が冬至だったと気付いた。去年の暮れは店がオープンして半年経たずであったこともあり、暦にまで目を向けている余裕が無かったのだった。今日、最後に客を見送ったとき、やけに陽を眩しく感じたと彼女は思い直した。冬は1日が短くて、直射する光がちょうど扉や窓から差し込む。そういうありがちなことにすら今更気が向いたのだった。そこまで考えて、彼女は腑に落ちたようだった。
 沸騰した湯は85℃位まで冷まされてから、ドリッパーに入れたコーヒー粉の上で「の」の字を書くように湯を途切れさせず、細く、注がれていく。店主は注ぎながら、今日、何もかもが自分のルーティンから外れていることをとても可笑しく思った。
   コンコン、コン
ノックが3回鳴る。
 キジトラの猫は目を見開き耳をピンと立てて、扉へ向ける。みづきは注ぐ手を止め、細口のケトルを置く。襟を少し正してドアの目の前まで歩いて行き、そこから1歩だけ後ろに下がる。
 すぅ、と息を吸う。取っ手に手を掛けて、ガチャリ、と少し重たい扉を開ける。扉の向こうに誰が立っているのか、みづきには分かっていた。

「いらっしゃいませ。」


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