第1話

文字数 4,999文字

月がいるから 地球 いて
地球 いるから 月がいる
あなた いるから わたしいて
わたし いるから あなたいる

 歌が聞こえる。細長い1DKの賃貸マンション。私の住む部屋の玄関ドアの、すぐ右横が隣人の浴室なのだ。
 彼女は少し声を抑え、遠慮気味に(ささや)くように歌っている。私はその声をキッチンのシンクにもたれて聞いている。ちょうど夕食を終え、洗い物をしていた時だったから。

 ああ、彼女は今日も元気そうだ。
 よかったよかった。明日も元気でいておくれ。
 祈るように、私はいつもそう思う。

 壁一枚隔てた向こうの部屋からは、たまに彼女の健康そうなイビキも聞こえてくる。
 日曜の昼間には軽快なジャズが薄く聞こえてきたり、電話をする彼女のまるい、朗らかな笑い声が聞こえてきたりする。
 掃除機をかける音や、洗濯機が脱水する回転音、キッチンで炒めものをするジュージューいう音── それらの生活音を、私は心地良く聞いている。壁に耳をつけるまでもない。鉄筋鉄骨とはいえ、隣室との壁の間は安普請のマンションなのだ。
 彼女は、じつに規則正しい生活をしている。朝六時に起床し、夜は十時に就寝。土・日は八時頃に起きるから、そのぶん平日より二時間きっちり遅れたサイクルで一日が回っている。
 だがたまに、ごく(まれ)に、無音の時間が一日二日続くことがある。
 年に数回だが、そんな時間は長く感じられ、私をひどく不安にさせる。
 何かあったのではないか? 急病か何かで気を失い、倒れていやしないか?…

 だが、それはたいてい杞憂に終わるのだ。友達か、恋人… 恋人…?… と一緒にどこかへお泊まりしていたに違いない。
 やがてコツコツと、彼女のサンダルの音が共用廊下から聞こえ、鍵を開ける音、ドアの開閉音を聞く。そして私はホッと安堵し、やっと安眠できるのだ。
 まったく、彼女なしの生活など考えられない。彼女がいなかったら、私は子どもの手を離れた風船みたいに空に飛んでいったことだろう。
 だが、それも今は昔だ。いまや、あの頃が── 隣室から聞こえる一音一音に、心を躍らせたあの頃が、懐かしく思える。あの音は、なんと愛しい、愛すべき音だったろう! 私は、彼女という本体よりも、彼女の出すを愛していたのかもしれない。

 私は今年30になるが、今までにも何回かの、それなりの恋愛体験がある。だが、その都度愛した女、その女の

を愛したことは、一度もないような気がする。私が愛したのはその女の眼であり、声であり、笑顔であり── 端的にいえば表面、その本人に付属した表層のようなもので、本体からこぼれ落ちてくる(しずく)、葉が落ちて、カサ、と立てる音── そんな表象だけを愛してきたような気がする。
 もしかしたら、女と男が愛し合うなんて、薄皮一枚の皮膚をつかむようなもので、それをつくり出す本体のことなど、これっぽっちも知らないのかもしれない…。

 ところで、打ち明ければ、この隣人と私は三年前まで恋人どうしだったのだ。東証一部上場の製鉄会社に同期入社し、部署は違ったが、歓送迎会の二次会で意気投合した。たがいに、他の同席者の異性からは感得できない、特別な好感をもったのだ。どちらかといえば、私のほうがイレ込んでいたかもしれない。
 以来、誰もがするようなデートを重ね、二年ほどの交際の果てに、三年前のクリスマス・イブの夜、私はついにプロポーズしたのだった。
 新橋駅のガード下だった。その日のデートが終わり、駅へ向かう途中の路上で、通行人も多かった。冬の夜空には冷たそうな月が浮かび、私はそれに反抗するような熱い気持ちで彼女を見つめ、こう言ったものだ。「結婚しよう!」

 彼女は私の言葉にショックを受けたらしく、瞬間、風圧を受けたように身体をぐらつかせた。言った私自身も、自分の言葉によろめいていた。通りすがる人々の中には、酔客も多かったが、私の求婚の声に振り返る男もいた。
 だが、彼女の返答は、思わぬものだった。
「わたし、心配性なの」と急に乾いた眼になって、しかし私をまっすぐ見つめて言ったのだ。
 あなたがわたしを、永遠に愛してくれるかどうか。あなたが仕事をイヤになって、辞めたりしないか。ウワキはしないか。暴力を振るわないか。わたしが病気になったとき、ちゃんと看病してくれるか。子どもができたら、子育てに協力してくれるか…

 彼女の掲げる「不安」の内訳を聞いているうちに、私も不安な気持ちになってきてしまった。
「いや、それは、」わからない、とは言えなかった。
「それは、信じてほしい。がんばるよ。悪いようには、させない。したくない。きみを裏切ったりしたくない。失望させたくない。断じて」
 私は、精一杯の誠意を込めて、そう口走った。ほとんど怒り口調だったかもしれない。足が、少し地上から浮くような気がしたが、とにかくそう言わずにはいられなかったのだ。私は、彼女をほんとうに好きだったのだと思う── いや、厳密には、彼女と二人でいる時間が好きだったのだ。
 居酒屋はもちろん、ディズニー、花やしき、北海道や箱根、鎌倉、沖縄… 二人でいろんな所へ行った。でも場所なんかどうでもよかった。彼女と一緒にいれば、私はもうそれだけでパラダイスだったのだ。二人で過ごす時間、それだけのために、残業も厭わず、いやな仕事も率先してやり、私はガムシャラに働き、お金を稼いで来た、といって過言でない。

 だが彼女は言うのだった、「人って変わるものでしょう? 変わっちゃうものを、どうしたら信じられるの?」
 私も負けじと言った、「時間が経たないと、変わったかどうかも分からないじゃないか」
 彼女は少し下を向き、やがて顔を上げて言った。「わたし、あなたのこと大好きだよ。でもね、好きでしかないんじゃないか、って思うの。好きな

なんじゃないか、って」
「好きなだけじゃ、ダメなの?」私は拍子抜けして、思わず微笑んで言った。
「ほんとうに愛してくれないと、わたし、きっとイヤになる」彼女はスネた子どもみたいな上目遣いをして言う。
 私は、笑い出しそうになったが、その自分に耐えて言った、「愛してるよ、ほんとうに」
「ホントに?」
「ホントウに」
「じゃあ、隣りどうしで部屋を借りて暮らしてみない?」
「隣りどうし?」
「うん。愛ってね、自律した人間どうしが、初めてつくれるものだと思うの」
「ぼくら、自立してるじゃないか。おたがい、チャンと働いて、給料もらって。何も、別々に住まなくたって…」
「親のスネをかじってるわけじゃないし、形は自立してるわ。でも、ほんとの意味での自立… 自分を律する自

をしているとは思えない。わたしたち、とっても未熟だと思うの」
「未熟って…」
「あなたは、わたしがあなたの思い通りのわたしでなかったら、きっと不機嫌になる。わたしも、きっとそうなの」
「……」
「わたし、結婚したら幸せになりたいの。親から生まれて今まで生きてきた、これはこれでわたしの人生だったと思うけど、ほんとうの意味でわたしがつくってきたものではなかった。でも結婚は、初めて自分でつくることのできる人生だと思うの。
 卒業した学校とか、就職した会社とか、そんなの全然たいしたものじゃないわ。あったものに、沿っただけでしょ。でも結婚は違う。知らない人と一緒に、自分から、一から人生をつくっていくのよ」
「……」
「あなたは、わたしが不幸そうな顔をすると、あなたも不幸そうな顔になる。わたしが幸せそうだと、あなたもすっかり幸せそう。でもそれじゃ、共倒れする。支える支柱は、ひとりひとりの中にあると思うの。ひとりの自分の中で、支柱をしっかり立たせること。芯みたいな、幹みたいなものを自分の中につくること、それが自律するってことだわ」

 私は下を向いた。彼女は熱心に、子どもに言い聞かすように喋り続けた。
「誰に左右されるわけでもない、芯のある自分にならないと、相手やまわりに持って行かれちゃうよ。そんなあなたやわたしのままだったら、幸せな家庭なんかつくれないよ。あなたはあなた一人で幸せになって、わたしはわたし一人で幸せになって、そうなって初めてホントウに二人で幸せになることができるんだわ」

 私は溜め息をついて空を見上げた。ガードレールとビルの谷間に、さっきと同じまんまるの月がいて、ぽっかり口をあけてこっちを見ていた。
「あの月とこの地球みたいに、わたしたち浮かんで、回って行けたら、って思うの。かれらは、完全に

しているわ。星も人も、同じようなものでしょ、一人一人、この世に浮かんで、でも引力で離れられないの。そして、『一』じゃダメなの。人間が人間になる、星と星が浮かび合う、最小単位が『二』なのよ。そこから全部、はじまってるの。アダムだって一人じゃダメだった。イブがいて、初めて人間になったのよ」
「え、きみ、クリスチャンだったの?」
「違うわよ。うちは仏教、そんなことどうでもいいわ。天文学によると、宇宙空間で引力で結ばれている星と星は、一つ一つが一つ一つでありながら、二つでちょうどうまい具合に回転しているのよ。でもわたしたちは、まだ同じ空間に浮かべない。あなたとわたしは、おたがいに相手に吸い込まれて、自分を持って行かれて、衝突してBAN!よ」

「… 自律する訓練が必要ってことかい」私は、なげやりに言った。
「そうよ、」彼女は嬉々として言った、「いつも駅で別れる時、あなたはいつも淋しい顔するし。今だってそうよ。わたしだって淋しいのよ… ねえ、だから少し訓練しましょうよ。隣りどうしなら、いつでも会えるでしょ、でも会わないの。あえて、会わないの! ほんとにすぐそばにいるのよ、でも、会わないのよ!」
「何のために、そんなこと…」私は、涙ぐんだ。
「幸せになるためよ」彼女は明るく、歌うように言った。

 そして二年が過ぎ、三年が過ぎているのだ。
 今、たしかに私は一年前ほど、隣室の音が気にならない。
 彼女への関心が薄れたのではない。といって、かつてのような強い関心があるわけでもない。そのちょうど真ん中の、ただ、彼女がいるということを、そのまま見つめる── といっても壁越しだが、見つめることが、やっとできるようになった気がしている。
 もちろん、私は今も彼女を愛している。だが、私はもうけっして愛し

ていない。といって、愛さな

てもいないのだ。

 この三年の間にも、打ち明ければ、いくつかの魅力的な女性との出会いがあった。だが、それは一瞬の流れ星みたいなもので、常に二人で回っているような状態にはなり得なかった。
 私の中の、何やら本体らしきものが、彼女をやんわり必要とし、そしてそれぞれの軌道の上に浮かび

ようなのだ。
 その本体の正体が何なのか、いまだに解らない。
 だが今私はとてもおだやかな、あたたかい春の海辺にいるような気持ちで日々を送れるようになった。

 だが先日、朝のゴミ出しのとき、共用廊下で彼女と出くわしたのだ。挨拶を交わした後、彼女が言うには、「ずいぶんイイ顔になったわね」
 私も、彼女が以前より綺麗になったように見えて、「素敵になったね」と言った。
「会社で見かけなくなったね。元気だった?」
「うん、半年前に辞めたの」
「ああ、やっぱり」
「昼間、料理学校に通っているの。あなたに美味しいもの食べてほしいからね。わたしも壁越しに、あなたの気配、ずっと(うかが)っていたのよ」
 私は驚かなかった。
「明日、有給とってあるんだ。しばらく、ちょっと忙しくて休み取れなかったから」
「うん、知ってる」
「久しぶりに、どっかでメシでも食わないか。一日、どっかで遊ばないか」
「いいわね。でもわたし、毎日遊んでるようなものなのよ」
「うん、いいよ。まったく、いい。それでいいんだ、気楽に遊んで暮らしていこうよ」
 私たちは、三年ぶりに笑い合った。
「… ねえ、自律、できたのかしら、わたしたち」彼女がニコニコしながら言う。
「どうなんだろうね。チャンと軌道に乗ったような、乗らないような。とにかく明日… お昼に駅前で待ち合わせようか。ああ、あと、ここじゃなくて、3LDKぐらいの物件、探しに行かないか」
「いいわね」
「じゃ、また」
 私たちは他人行儀にお辞儀を済ませると、それから、それぞれの玄関ドアへ入って行ったのだ。
 まだ、早いだろうか。まだまだだろうか、と思いつつ。
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