文字数 2,000文字

 ぼくの心の片隅には小さな穴が開いている。ふだんは忘れていて気に留めることもない。ただ、ごくたまにうっかり思い出してしまうと、ぼくは急いで旅に出る。
 昨日がちょうどそんな日だった。
 昔の友人の恋人の誕生日だったのだ。

 弘紀(ひろき)真紗(まさ)さんのことが好きだった。大好きだった。
 あいつが真紗さんに「好きだ」と口にしている所を二度、見たことがある。一度目はふたりが付き合いたての頃。弘紀ときたら真紗さんの顔も見ずにそっぽを向いていて、そのくせ顔を赤くしてた。早口の割に良く聞こえる声だった。
 二度目は真紗さんの誕生日。そう、ずいぶん前の昨日の話だ。突然、弘紀にプレゼントを買うのに付き合わされた。買った後すぐに別れて帰るつもりが、なぜか一緒に連れて行かれた。おかげでこの時はちゃんと真紗さんの顔を見ながら言うのを見る羽目になった。それを見てたら弘紀のやつずいぶんしっかりしたんだなあと妙にしみじみした。
 あいつが誰かと付き合うとして、もっといい加減で調子良くって適当かと思ってた。つまみ食いみたいな恋ばかり並べるのかと。いや、弘紀はいいやつだ。ただ、惚れっぽくてそのくせ飽きっぽいのを知っていただけだ。それがまさかあんなに一途にひとりのひとを思い続けるだなんて思ってもいなかった。
 その分、長い付き合いのぼくでも見たことのないあいつの顔、たくさん見せてもらった。どの顔もいい顔だった。幸せそうな顔はもちろんのこと、それがたとえ怒ってる時でも悲しんでいる時でも悔しがっている時であっても。ひとは本気で恋をするとこんな顔をするのかと何度も思った。
 あいつの大切なひとだ、そしてぼくの知らないあいつを見せてくれたひとだ、当然ぼくは真紗さんのことも好きだった。だけど真紗さんにはそうは思ってもらえなかったらしい。初めのうちこそあいつの友人として認めてもらってる気がしてたけど、いつからか完全に避けられてた。
 それと同時に、弘紀の態度がどこかよそよそしくなっていった。会う機会も減っていった。話をしていて「あ、」と口をつぐむことも出てきた。そりゃあ別に弘紀のこと一から十まで知ってる訳じゃない。知るつもりもない。それまでだって知らないことはお互いあったはずだ。だけど話の途中であからさまに弘紀から「しまった」って顔、見せられたことなんてなかった。
 あの話はいつ誰から聞かされたんだろう。覚えてない。あんまりショックだったから他のことは全部吹っ飛んでる。


 ぼくが、弘紀のことを、恋愛対象として見ているんじゃないか、って。


 たしかにぼくには今も昔も彼女がいたことはない。友達だって多くはない。それで言えば本当に心を許しているのは弘紀くらいかもしれない。でも、だからって。


 弘紀はぼくの大切な友人だ。大切な友人のことを思うのはそんなにおかしいことだろうか。友人の幸せを祈り、悲しんでいる時には側で慰めたいと思い、嬉しい時には共に喜び、困った時には支え合い。
 それって結婚の誓いと同じじゃないか、って?
 知らない。結婚なんてしたことないから。
 だけど、じゃあ、友情と恋愛にどれだけの違いがあるというのだろう。相手を思う気持ちは同じようなものじゃないか。違いがあるとしたら、繋がりたい、独占したい、それくらいしかぼくには思いつかない。
 ぼくは弘紀に対し、ときめいたりどきどきしたことなんか一度もない。繋がりたいとも独り占めしたいとも思わないし、しようとしたこともない。
 なのに、どうして。

 ふたりは突然、ぼくの前から姿を消した。そのことに気付いた時、ぼくは自分の心の中に穴を見つけた。小さくて、深い穴。
 ずいぶんと長い間、痛みがあった。痛くて痛くて動くこともできず、ぼくはずっとうずくまっていた。それでも時間が経つにつれ、穴はそのままに痛みは少しずつ薄れていった。今では痛むこともほとんどない。
 それでも、時に胸の痛みと共に、共に長く過ごした街にあいつの幻が現れることがある。

 いつものコンビニからひょっこりと。
 改札口のモニュメント横に気怠そうに。
 公園のベンチで缶コーヒー片手に。

 そんな時、ぼくは耐えきれなくなって見慣れた街を飛び出す。飛行機に乗って旅に出る。
 窓の外には雲海。この厚い雲の下のどこかできっとあいつは幸せに暮らしてる。
 ただ、ぼくが知らないだけで。

 知らない街に辿り着いたぼくは、知らない街を彷徨い続ける。どの角を曲がってもどのコンビニに入っても、あいつの幻は現れない。そのことにからだが納得するまで歩いて歩いて歩く。そうしてくたくたになったからだはようやく胸の痛みを忘れる。
 知らない街のホテルのベッドに潜り込んだぼくは、まぶたをぎゅっと閉じる。
 まぶたの下にあいつの顔が浮かばないように。
 気持ちだけは幻とならないように。

 次の日、ぼくは再び機上のひととなる。そうしてあいつがいない、いつもの街に戻るのだ。

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