熱い心

文字数 2,241文字

 私が諦めかけ、呆然としているとき、誰かが部屋に入ってきました。
 力なく振り返ると、私の先輩で、おなじスタッフのあきらさんが立っていました。

「誰かとおもったら、涼子さんじゃないか、どうしたの? こんな時間まで?」
「はい……」
 私は力無く返事をしました。

「一度途中まで帰ったんだけれど、ちょっと気になることがあって戻ったんだよ、
 何か、虫の知らせ、みたいなものを感じてね……
 まあ、いいさ、それで何かな……明日の準備のようだね、
 でも、こんな時間まで部屋の灯りがついているので、誰かなと思ってね」

「すみません、明日までに仕上げるデッサンに間違いが見つかって、
 その修正の作業なんです」

「明日までに、どれ?見せてごらん、なるほど、
 これは、貴女の集大成みたいなもんじゃないか、
 売り出す前の大事なファッションのようだね」

「そうなんです、気が付いたのが遅かったので」
「貴女らしくないな、誰かに或る部分を任せたんじゃないのかな?」
「はい、そうです……」

「なるほど、これは微妙なミスで、気が付かないこともあるんだよ、
 しかし、今はそんなことを言っている場合じゃない、
 ところで全部で何枚あるの?」

「8枚です、やっと修正して3枚ほど終わりました…」

「そうか、あと5枚だね、僕も一緒に手伝おう、
 そうでもしなけりゃ間に合わない」

「はい……でもいいんですか、そんなことお願いして?」

「なにいってるんだい、これは君だけの問題じゃないだろう、
 それに今は時間がない、こんな時ほど仲間だろう、僕たち」

「はい、すみません、なかなか他の人に切り出せなくて、つい」

「駄目だな、そんな時こそ僕らに言ってくれなきゃ、
 まあいい、直ぐにやろう」

 私は地獄で仏に会ったような気持になりました。
 もう少し仲間を信頼すべきだった、素直に……と心から思うのです。
 そう思うと私は、そんな自分を恥ずかしくなりました。


 夜もだいぶ周りかけた頃、全部の修正作業が終わりました。
 私は疲労を感じていましたが、
 彼との二人きりの作業は楽しかったのです。

 彼は自分の作業をしながらも、何度も私を勇気づけてくれ、
 アドバイスをしてくれました。

 私は、家には電話をしてあったので心配はありませんでしたが。

 その時……
「頑張ってね、ママ、こっちは大丈夫よ、無理しないでね」
 という娘の言葉に励まされながら。

「できたね、涼子さんのこの作品は素晴らしいよ、
 どれも、お世辞を抜きにして、アイデアとセンスが良いと僕は思うよ、
 色合いと言い、配色と言い見事だ、
 この生地を、こんなように使うとは、思いつかないな。

 全体的にフワッとした柔らかさと、
 キュッと締まったウエストのバンドも引き立つし、
 ブレスレットも対照的に大胆で、若い子が飛びつくんじゃないかな、
 キュートで可愛いモデルに着せたら、最高だよ、
 これはきっといい製品になるよ、うん…素敵だ…」

「有り難う御座います、私本当に、一度は諦めたのに、嬉しいです」

 私は彼の援助を受けながらも、
 最後までやり遂げた達成感と安堵感、
 そして、彼の優しい思いやりに次第に目頭が熱くなっていました。
 いつのまにか涙が頬を伝って流れていたのです。


 ビルの窓の外は、相変わらず眠らない都会の夜が、まだ闇で光を放っていました。
 窓ガラスには、私とあきらさんの二人を写し出していました。


 彼は微笑みながら、
「おめでとう、完成した、よく頑張ったね」
 と言って私に手を差しだし、握手を求めました。

 私はその彼の手をしっかりと握り返しました、
 それは大きな暖かい手でした。
 その時、張りつめていた私の気持ちはいつのまに穏やかになって、
 その嬉しさと感謝の気持で一杯でした。

 (私は一人ではないわ、もっと明るく、自分らしくしなければ……)
 と心の中で思ったのです。

 私は、人の素直な心、その無償の愛を心で感じていました。
 この時ほど私は穏やかな気持になれて、嬉しかったことはありません。 

 私は彼の顔を見つめながら、
 自然に涙が湧き出てくるのを抑えることが出来ませんでした。
 そして、思うのです。

 (人を信じなければ、自分がもっと人を信じなければ、
 その愛を知ることも、感じることもできない……私は人間らしく
 もっと人の愛を感じる人にならなければいけない)と。

「おやおや、なきべそな涼子さんになってるね」

 そう言いながら、彼は胸ポケットから白いハンカチを出して
 私の涙を優しく拭いてくれました。
 私は急に胸が熱くなってきて、彼の胸に抱きついたのです。
 彼は少し驚いた様子でしたが、それでも私を優しく抱擁してくれました。

「しばらく、こうさせていてください、お願いです…」
「しょうがないな、涼子さん子供みたいに、いいとも、
 貴女が気がすむまで、でも今日だけだよ、こんなことは、いいね」

 私は黙って頷きました。
 (いま、今日だけでいいの、この瞬間だけでも…)

 私は彼の胸に立ったまますがり、眼を瞑ったままでいました。
 しばらく、すべての時が止まったように、
 私には音もなにも聞こえませんでした。

 ただ、自分のどきどきとする心臓の音だけが聞こえていました。
 彼の体からは暖かい生身の男性の体温が私の皮膚を伝わってくるのを
 感じるのです。
 私は、次第に感が極まってきて、私でないもう一人の私が言うのです。

「抱いて、お願いです、私をきつく、抱きしめて、キスしてください」
 私は急に身体が熱くなっていて、いつもの自分を見失っていました。


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