Case9  追いかける背中②

文字数 6,150文字

 頭首を受け継いだのはいいものの、やることは何も変わらない。出来るだけ後悔のないように残りの日々を過ごすだけだ。少しだけ気まずい雰囲気の中、朝食を食べる。

 有難いことに、母はちゃんと焼売を残しておいてくれていた。それもわざわざ蒸し直してくれたようで、まるで出来たてのように湯気を立てている。この絶品料理があと数日で二度と食べられなくなると思うと、なんだかとても悲しくなる。

 それでも、前を向いて歩いていかないといけない。胸の奥を締め付けられるような気持ちは一旦心の中に棚を組みたててそこに置いておき、とにかく今はこの味を絶対に忘れてはいけないと思いながら焼売を口に入れる。

 やはり、この味だ。つい先程作ったばかりの心の棚から気持ちが微かにこぼれ落ち、泣いてしまいそうになるがそれを顔に出さないように必死に堪える。辛いのは俺だけではない。母も、父も、みんな平等に訪れる終わりを覚悟して、日々を過ごしているのだ。泣き叫ぶのは、一番最後でいい。目に僅かに浮かぶ涙は、きっと辛子を入れ過ぎたからだ。そうに違いない。

 無言で焼売を噛みしめ、飲み込み、胃袋に入れていく。これから俺はこの味を何度も何度も思い出すだろう。噛めば噛むほどに、飲み込めば飲み込むほどにテレビの液晶に映っていた「ワイルド・チャレンジャー」が木っ端微塵に爆発四散した映像を見た瞬間に俺の中でどんどん膨れあがっていった『諦め』という感情が、濃い硫酸でもぶち撒けられたかのように解けていく気がした。

 自覚をした瞬間、自分で自分を抑えることなど出来るはずもなかった。融けて無くなった俺の頭の中のスペースに新しい感情が押し寄せてくる。それをカテゴライズするのはとても難しい感情であるが、あえて言葉にするならば、「恐怖心と勇気」という背反する二つが混ざったものが近いのかもしれない。

 世界が滅びるのが。自分という存在が、意識が無くなってしまうことがとてもとてもとてもとてもおぞましいほどに怖くて、血管が裏返ってしまうような恐怖を心臓の裏側から感じている。だがそれと同じぐらいに恐怖に立ち向かって、後悔なく笑いながら立ち向かってやろうじゃないかという半ば自棄っぱちや蛮勇ともとれるよくわからない力が丹田の奥から湧き上がってくる。

 その力は身体の上へ上へと登っていき、胃袋の下あたりで恐怖心とぶつかり激しい衝撃が身体の中を暴れ回るような、そんな不思議な感覚だ。よくわからないが、戦場の最前線で銃を構えながら雄叫びを上げて突撃していく兵士はきっとこんな気持ちなのだろう。

 心の中の軍靴を大きく鳴らし、前を向く。視界に入った後片付けをしている母の後ろ姿はやはりいつも通りだった。時に厳しいけれど、子供の頃から今までずっと変わらない笑顔で見守ってきてくれていた背中。顔を見ることは出来ないが、今はどんな顔をしているのだろうか。最後まで残り少ない日々の下でも、いつものように笑みを浮かべているのだろうか。それとも、泣きそうな顔をしているのだろうか。

 敢えてそれを確認はしなかった。する必要もなかった。「ご馳走さまでした。やっぱめっちゃ美味しかったわ」と母の背中に向かって呟き、自室に向かって歩いていく。

「ふふ、ありがとう。謎の中国人も喜んでると思うわ」

 絶対的な自信ともいえる信頼があった。偽ることなどない本心からの声。背中に聞こえてくるのはいつでも変わらない、慈愛に満ちた声。この3人で住むには少々広すぎる風間家をずっと支えてくれていた絶対的な止まり木たる我が母は優しく笑っている。最低限、俺にはそう聞こえた。

 ところどころギシギシと鳴る木製の床で造られた廊下を歩き、自室のドアを開ける。壁掛け時計の短針はまだ「7」を少し超えたところを指していた。山石さんとの約束の時間まではまだまだ時間がある。短針が一周してもまだ足りないぐらいだ。

 約束の時間へ時間が進むということは終わりまでの時間も進んでいくということはわかっているが、そんなことはもうどうでもいいんだ。とにかく彼女が「全く見分けのつかない本物と偽物の見分け方」なんていう答えなどない不毛で理不尽な問い掛けに苦悩したまま、この星と運命を共にすることなんてあってはならないんだ。

 座椅子に腰掛けて、ゆっくりと深呼吸する。先日寝るのがそれなりに遅かった上に早起きをしてしまったので眼球の裏がじんわりと熱を持ち、このまま眠ってしまいそうになるが、意思の力で眠気を遥か彼方に吹き飛ばした。

 蠍の心臓の紅く輝く光の下で微笑んでいた小柄な少女の姿を瞼の裏側に描き出す。その姿ははっきりとした輪郭を持ち、目を瞑っている俺に向かって笑いかけている。俺の脳が創り出したに過ぎない幻想の山石琴里だ。空想の中の存在でも、俺に向かって薄く笑いかけるその表情に、思わず心臓が高ぶる。

 『いやだって、コータロー。キミ、その娘のこと、好きでしょ?』

 約12時間前、少し短く赤い髪の毛を夜のビル風になびかせながらアコースティックギターを不規則に掻き鳴らしていた女性の言葉を思い出す。

 俺は自分自身のことをただのお人好しだと思っていた。彼女に問いかけられたから。それに答えることが出来なかったから。その問いに応える為に動いていただけだと無意識で自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。

 出来るだけ後悔のないように。気持ちを我慢するなと先程に父は言っていた。ならば、戦さ場に向かう戦士の胸に湧き上がっているこの感情は、そういうことなのだろうか。正直なところ、この短い人生の中でも、初恋というものはとうに経験していた。それはすぐに玉砕したので置いておくが、しかしそれとは比較にもならないほどの様々な気持ちの奔流が心臓の周辺で蠢き暴れまわっていく。

 目蓋の裏の山石琴里は答えることなく、ただ儚げな微笑みを浮かべている。空想の中の彼女でさえ、笑いながら真っ直ぐに見つめられると心臓のビートがだんだん激しくなっていくし一回一回の鼓動が大きくなっていって、思わず変な声が出そうになってしまう。

 目蓋を開けると、見慣れた俺の部屋。文字通り幻のように消え失せた頭の中の山石さんに若干の寂しさを感じていることに納得しはじめている自分自身に不思議な気持ちになりながらスマートフォンを手に取り、スリープを解除する。

 待ち受け画面では相変わらずアスカがが液晶パネルを通して俺に向かって舌を出していた。アスカは今の俺を見たらどういう顔をするのだろうか。実際には人間でいうとお爺さんであったが、弟分と思っていたであろうニンゲンの男が頭首になったと思ったらクラスメイトの女の子のことをひたすら考えている。よくもここまで成長したなと褒めるのか心を乱されるなどまだまだ青いと思うのか。

「それを決めるのは、俺自身、か」

 洋食屋の店主の言葉を思い出す。俺の中で生き続けているアスカがどう思っているか。決めるのは結局のところ俺自身なのだ。いつも背中を押しているように見えていた液晶パネルに映るアスカは、実際のところは嫌で嫌でしょうがなかったかもしれないけれど、弟分の顔を立てて平静を装っていたかもしれない。

 それでも、俺はこのアスカの写真にいつも救われてきた。その事実は決して変わることはない。だからこそ言おう。写真のアスカは、俺に向かって相変わらず「頑張れよ」と声をかけてくれている気がしていた。

 世界の終わりまで時間は残り少ない。俺に出来ることなんてたかが知れている。漫画やアニメのヒーローじゃああるまいし、この滅びを止めることなど止めることなどできない。俺だけじゃない。世界中の他の人たちも出来ないからこそ「ワイルド・チャレンジャー」なんて人類最後のノアの方舟が造ったんだし、それがバラバラに吹き飛んだ瞬間に一斉に諦めたのだろう。

 それでも日々は過ぎていく。時計の針は動き続ける。心臓が動き続けるし、肺は空気を取り込み酸素を血管に乗せて身体中に運搬していく。酸素が届けば身体は動くし、身体が動く限り腹は減る。空腹を満たすために食べれば消化され、出るものが出るし眠くなった身体は睡眠を求め、意識を夜の彼方に追いやっていく。

 全ては生きているからだ。今現在を精一杯生きていよう。終業式に校長先生が言っていたことを思い出す。山石さんは意味なんて無いことだと言っていたけれど、今の俺にはそうは思えなかった。後悔することのないように、思い残すことがないように。出来ることを出来るだけやっていこう。

 再び目を閉じる。

 瞼の裏に立っていたのは先程までいた山石さんではなく、何度も何度も見た顔をしていた。自分と同じ眼。同じ鼻。同じ口。同じ相貌に同じ身体、同じ服装。紛れもない俺、風間孝太郎の姿をしていた。

『後悔なんてあるに決まってるだろ。大人にならずに死んじまうんだぜ。ダチと一緒に居酒屋で安酒飲んで騒ぐことも出来ない! 幾らか増える財布の中身で遊び倒すことも出来ない! 父さんや母さんのような幸せな家庭を作ることも出来ない! これから沢山あるであろう喜びを享受出来ない! これで後悔のないように生きるだァ? 綺麗事も大概にしやがれってンだ!』

 聞こえるのは自分と全く同じ声。俺の頭の中で叫ぶ俺は思わず耳を塞ぎたくなるような大きな声で絶叫する。至極当然だが、実際に耳に聞こえているわけでもない。

 ただ自分の中で響き続けている声だ。それでも自分と同じ声で叫ぶ声は悲壮感のようなものが溢れていた。

『悔しい、悔しい、悔しい! 死にたくねぇよ、死にたくねぇよ…… 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!』

 俺と同じ顔をした俺は癇癪を起こした子供のように顔を大きく歪めながら慟哭している。まるで全てを諦めてしまっていたつい先程までの俺と違い、この世全てに絶望してしまったような顔をして叫ぶ俺の中の俺が、脳の中で暴れ回る。

『なんで俺が世界と一緒に死ななきゃいけないんだ?』

 目の前の俺は両眼から涙を流し続けている。透明だった涙は、少しづつ色が付いていく。

 紅い。燃えるような炎の赤ではない。さらりとした涙につく紅は色と同時に粘度が強くなり、色が濃くなるほどにどろりとした粘性の液体に変わっていく。

『前を向いて生きる? そんなの無理だ。俺はまだ17だぜ? 何にもしてない。何も為してない。父さんが頭首を譲った? そんなのただの自己満足じゃねえか』

 両眼を大きく見開いてこちらを見据える目の前の俺の両眼から流れる液体は、血液だった。その紅い血液は止まることなく流れ続けていき、足元に紅い紅い水溜りを造り出していく。

「違う」

 頭の中で絞るように声を出す。目の前の俺がぴくりと動く。どうやらこの方法で聞こえるようだ。それもそうだ。こいつも結局、俺の空想の俺に過ぎない。だが頭の中の存在であろうと、俺自身が俺自身を納得させないと、前に進めない。

「それでも、悔いが残らないように生きてかなきゃいけないんだ」

 今も一対の眼からどろどろと血液を流しながら、自分と同じカタチをしたニセモノとも言い切ることも出来ない存在は訝しむような顔をしながら俺を見据えている。足元の血溜まりはどんどん拡がっていき、彼の足元一帯が浸されていった。身体を少し動かすと液体と肉体が擦れ合い、にぢり、と不快な音が聞こえる。

「前を向いて生きる。それはとても難しいことだと思う。俺はまだ17だ。何もしてない。何も為していない。最後の最後に頭首を譲ることが自己満足なんてもの、父さんはきっと百も承知なんだ」

 前に向かって踏み出すイメージ。

 にぢり。俺の顔が1歩分近くなる。

 にぢり。また1歩。

 にぢり。足元はもう血溜まりに濡れてべとべとだ。構うものかと歩みを進める。

 にぢり。目と鼻の先に俺の顔がある。力の限り睨みつける。風車に向かって突撃する騎士のような歪んだ勇気かもしれない。頭の中のビジョンが揺れている。歯の根が合わない気がする。自分自身の恐怖と向き合うことが、こんなにも恐ろしく悲しいことだとは夢にも思わなかった。

 それでも、視線を外すことなく真っ直ぐに、射抜くように睨みつける。

「世界と一緒に死ななきゃいけないのは悔しいし、納得なんてした覚えなんかない。こんな気持ちのまま、死にたくなかった。いつものように馬鹿騒ぎをして、何も為さずに、何も考えずに諦めを顔に出さずに、笑いながら死にたかった。でも、もう無理だ。認識しちゃったんだ。覚悟しちゃったんだ。やりたいこと――じゃない。やらなきゃいけない事が出来ちゃったんだよ」

 今夜、山石さんに答えを告げる。昨日聞いて感じたことを伝えて、笑って最後を迎えられない人を見つけてしまったまま安穏と馬鹿みたいな顔をして最後を迎えることなんて、出来ない。

 たとえそれが自己満足だとしても、それで結構だ。上等じゃあないか。最低でも、自分だけは満足しながら死ねる。これ以上のことなど、きっとない。

『これが、地球最後の夜になってもか?』
「これが、地球最後の夜になっても、だ」

 視線を外さずにニヤリと笑う。目の前の俺は、一瞬驚いた顔をした後に苦虫を噛み潰したような苦笑をする。

『あぁ、死にたくねぇ、死にたくねぇなぁ』
「俺だって死にたくねぇよ」

 お互いそうだよな、だって俺だもんな。俺と俺は同時に笑う。

「それでも。それでも答えを、俺の、俺が見つけた言葉を伝えるんだ」

 ゆっくりと眼を開ける。先程までと同じく、何事もなかったかのように俺の部屋が広がっていた。少しだけ強くなった日差しが、雲を通り抜けながら大地の総てに降り注いでいる。巨大な燃え盛る銀河の中心は、あらゆるものにその光と熱を届け続けるのだろう。照らすものの一つがもうすぐ亡くなることなど、それはきっと些細なことなんだろう。

 少し背伸びをして、壁にかけてある時計を見上げる。短針はもうすぐ真上を向くところだ。

 昼食を食べ、歳も年頃の息子のことも考えずにくっついている両親を見て少々げんなりしたり、外を歩いたりテレビを見たりして時間を潰しているうちにあっという間に時間は過ぎていき、雲に覆われた太陽は落ちて月の影が昇る。

 そろそろ約束の時間だ。靴を履いて外に出る。いつか繰り返し歩いていた道を再度歩くようになったいつもの道を歩き公園に向かう。街灯に照らされた道路をゆっくりと歩き、測ったように20分。公園に着いた俺を、いつもならば蠍の心臓アンタレスをゆらりと照らしながら、山石さんがベンチに座って俺を待っているのであるが、たまたま俺が先に来たようで彼女の姿はなかった。

 今夜は俺が山石さんを待つ番か。ベンチに座ってのんびりと待つとしよう。そう考えながらスマートフォンを弄りながら時間を潰していく。もしかして、今夜はここに来ないんじゃないか。少しだけ不安になるが、それが全くの杞憂であったたことを、数分後に理解した。

「……ごめんね。遅くなっちゃった。待った?」

 気づけば朝から空を覆い尽くしていた雲は一部だけ開けて、アンタレスがはっきりと紅く輝いている。夜の闇に包まれた彼女の姿ははっきりと見えず、少し離れた街灯が彼女の輪郭をぼんやりと映していた。
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