第1話 「小さな手」が生んだ場所
文字数 2,467文字
昨年4月にNHK和歌山放送局が報じた、『「バスが来ました」小さな手のリレー』の話を知っている方は多いのではないかと思います。
バスで通勤する目が見えない男性の乗り降りを、登校中の小学生たちが長年サポートし続けてきた親切のバトンのリレー。
そこにできた「場所」のつながりと関係性の相互作用の有様をレポートしたものでした。
内容は、NHK WEBの特集記事としても紹介されていますし、木村美幸さんと松本春野さんによる『バスが来ました』と題した絵本にもなっていますので、そちらを読んでいただければと思いますが、私の伝えたい話に繋げるために簡単に紹介します。
音と杖だけを頼りに生活を続けるバス通勤の男性。35歳のころに視力を失い、すでに60歳。見えなくなった当時は、ショックや疲れで仕事を辞めたいとまで考えるようになったと言います。
そんなある朝、いつものように停留所でバスを待っていると、小学校に通い始めて間もない女の子が声を掛け、そっと腰を押しながらバスの乗車口まで案内してくれました。
そして、その日から男性と女の子の相互作用が始まります。
車内で交わす会話。女の子は学校での出来事を語り、男性もきょうは何を話すかを考えるのが楽しみになります。ストレスさえ感じていた通勤時間が、幸せな一日の始まりへ変化しました。
月日は流れ、女の子は小学校を卒業。バス停にその女の子の姿はありません。
ところが、再び背中に小さな手が感じられます。
卒業した女の子の行為を見ていた、下級生の女の子でした。
運転手やほかの乗客など、車内も暖かい雰囲気に変化していました。
誰に頼まれたわけでもない「小さな手のリレー」は、10年以上に渡って引き継がれました。
男性が最初に感じた小さな手のぬくもり。それは優しさや温かさ、あるいは支えてくれる人がいたことへの安堵感といったありふれた言葉をいくつ重ねても表現しきれない、強いて言えば、傷心の底から幸せを呼び起こした希望の光だったのだろうと思います。
背中を押す「小さな手」の力によって生まれた心の相互作用が、目の不自由な大人と優しい女の子という関係性のなかでつながりを生み出し、そのつながりがさらなる相互作用を生み、一つの場所となります。
バスを待つ停留所、車内などで二人を見守る人々に共感が広がり、二人の場所がバス停や車内だけでなく、下級生の子たちに引き継がれるなど、どんどんと開かれていきます。「読んだ人に親切な気持ちが広がってほしい」と考えた人によって絵本もでき、その場所は不特定多数の人々へも広がっていきます。
「あれ?なんで場所の話になるの」と疑問に思われる方も多いかと思います。
私が言う場所とは、つながりと関係性による相互作用の総体のことです。
たとえば、大人でも子どもでも、家庭や会社あるいは学校という場所を特定して、「居場所がない」という表現を使うことがありますよね。その意味するところは、結局、それぞれの場所におけるその人の人間関係が悪くなっている、つまりは人と人のつながりと関係性(親子や上司と部下、同僚、友達など)による相互作用が不全状態に陥っていることを意味しているのではないでしょうか。
「居場所がない」とは、物理的な空間や状況を示しているのではなく、その人の寂しさや疎外感といった心の状態を表しています。心の状態ですので、その場所は、実はその人の心にあります。もちろん、それはその人にとってたくさん積み重なった場所の一つにすぎませんが、その場所が損なわれていることで、心全体を支配している状態なのかも知れません。
私は、人というのは・・・もっと言うなら生きとし生けるものすべてが・・・場所だと考えています。先ほどは心について触れましたが、身体も同様に場所です。
生き物は気の遠くなるような長い進化の過程を経て今日の姿を獲得していますが、その過程は、太陽や月などが存在する宇宙の影響を受けながら変化する地球環境や自然環境、動植物間での直接的なつながりと関係性などによる相互作用の繰り返しによる変化だと思います。
その変化の結果を遺伝情報として次の世代に引き継ぐことによって、それぞれの個体を構成する細胞間のつながりと関係性の相互作用の有様を一定に保ちつつ、個体を取り巻く環境との相互作用によってさらなる変化を続けていくのが生命だと思います。
個体として存在していると思われるものは、実は場所であり、その個体とつながっていくものと場所を形成しながら発展していきます。
つまりは、「存在する」あるいは「生きる」ということは、場所を形成しながら変化していくことだと考えるのです。デカルトの表現を借りるなら、「我、場所ゆえに、我あり」ということかと思います。
目の不自由な男性を背後から補佐し、新たな場所を開いた「小さな手の力」。それは女の子の心にある無数ともいえる場所から無意識に呼び起こされた力であり、彼女の心を素直に表現する力です。
男性と女の子によってできた場所から、それぞれの心に無数にある場所に共通して流れる心の有様の一端が見えてきます。それが、それぞれの性格の一端を表現しているのでしょう。
目の不自由な男性は、昨年度で定年退職。
定年の節目に子どもたちにお礼を言いたいと、メッセージ動画を作ったそうです。
終業式で集まった子どもたちは、その動画を目にし、耳を傾けました。
そして男性が退職となる3月31日を迎えます。
バスを待っていた男性に、春休み中の子どもが寄ってきました。
中央に男性の似顔絵と、「今までありがとう。お疲れ様でした」と題字された手作りのメッセージカードを渡すためでした。一人ひとりがメッセージを読み上げたそうです。
相互に交わされた「ありがとう」。そしてその言葉を呼び起こした経験の数々が、場所にさらなる変化を与え、場所を共有する人々に力を与え続けていくのだと思います。
純真な心だからこそ、場所の大切さがわかっている。そんなことを感じさせる話でした。
バスで通勤する目が見えない男性の乗り降りを、登校中の小学生たちが長年サポートし続けてきた親切のバトンのリレー。
そこにできた「場所」のつながりと関係性の相互作用の有様をレポートしたものでした。
内容は、NHK WEBの特集記事としても紹介されていますし、木村美幸さんと松本春野さんによる『バスが来ました』と題した絵本にもなっていますので、そちらを読んでいただければと思いますが、私の伝えたい話に繋げるために簡単に紹介します。
音と杖だけを頼りに生活を続けるバス通勤の男性。35歳のころに視力を失い、すでに60歳。見えなくなった当時は、ショックや疲れで仕事を辞めたいとまで考えるようになったと言います。
そんなある朝、いつものように停留所でバスを待っていると、小学校に通い始めて間もない女の子が声を掛け、そっと腰を押しながらバスの乗車口まで案内してくれました。
そして、その日から男性と女の子の相互作用が始まります。
車内で交わす会話。女の子は学校での出来事を語り、男性もきょうは何を話すかを考えるのが楽しみになります。ストレスさえ感じていた通勤時間が、幸せな一日の始まりへ変化しました。
月日は流れ、女の子は小学校を卒業。バス停にその女の子の姿はありません。
ところが、再び背中に小さな手が感じられます。
卒業した女の子の行為を見ていた、下級生の女の子でした。
運転手やほかの乗客など、車内も暖かい雰囲気に変化していました。
誰に頼まれたわけでもない「小さな手のリレー」は、10年以上に渡って引き継がれました。
男性が最初に感じた小さな手のぬくもり。それは優しさや温かさ、あるいは支えてくれる人がいたことへの安堵感といったありふれた言葉をいくつ重ねても表現しきれない、強いて言えば、傷心の底から幸せを呼び起こした希望の光だったのだろうと思います。
背中を押す「小さな手」の力によって生まれた心の相互作用が、目の不自由な大人と優しい女の子という関係性のなかでつながりを生み出し、そのつながりがさらなる相互作用を生み、一つの場所となります。
バスを待つ停留所、車内などで二人を見守る人々に共感が広がり、二人の場所がバス停や車内だけでなく、下級生の子たちに引き継がれるなど、どんどんと開かれていきます。「読んだ人に親切な気持ちが広がってほしい」と考えた人によって絵本もでき、その場所は不特定多数の人々へも広がっていきます。
「あれ?なんで場所の話になるの」と疑問に思われる方も多いかと思います。
私が言う場所とは、つながりと関係性による相互作用の総体のことです。
たとえば、大人でも子どもでも、家庭や会社あるいは学校という場所を特定して、「居場所がない」という表現を使うことがありますよね。その意味するところは、結局、それぞれの場所におけるその人の人間関係が悪くなっている、つまりは人と人のつながりと関係性(親子や上司と部下、同僚、友達など)による相互作用が不全状態に陥っていることを意味しているのではないでしょうか。
「居場所がない」とは、物理的な空間や状況を示しているのではなく、その人の寂しさや疎外感といった心の状態を表しています。心の状態ですので、その場所は、実はその人の心にあります。もちろん、それはその人にとってたくさん積み重なった場所の一つにすぎませんが、その場所が損なわれていることで、心全体を支配している状態なのかも知れません。
私は、人というのは・・・もっと言うなら生きとし生けるものすべてが・・・場所だと考えています。先ほどは心について触れましたが、身体も同様に場所です。
生き物は気の遠くなるような長い進化の過程を経て今日の姿を獲得していますが、その過程は、太陽や月などが存在する宇宙の影響を受けながら変化する地球環境や自然環境、動植物間での直接的なつながりと関係性などによる相互作用の繰り返しによる変化だと思います。
その変化の結果を遺伝情報として次の世代に引き継ぐことによって、それぞれの個体を構成する細胞間のつながりと関係性の相互作用の有様を一定に保ちつつ、個体を取り巻く環境との相互作用によってさらなる変化を続けていくのが生命だと思います。
個体として存在していると思われるものは、実は場所であり、その個体とつながっていくものと場所を形成しながら発展していきます。
つまりは、「存在する」あるいは「生きる」ということは、場所を形成しながら変化していくことだと考えるのです。デカルトの表現を借りるなら、「我、場所ゆえに、我あり」ということかと思います。
目の不自由な男性を背後から補佐し、新たな場所を開いた「小さな手の力」。それは女の子の心にある無数ともいえる場所から無意識に呼び起こされた力であり、彼女の心を素直に表現する力です。
男性と女の子によってできた場所から、それぞれの心に無数にある場所に共通して流れる心の有様の一端が見えてきます。それが、それぞれの性格の一端を表現しているのでしょう。
目の不自由な男性は、昨年度で定年退職。
定年の節目に子どもたちにお礼を言いたいと、メッセージ動画を作ったそうです。
終業式で集まった子どもたちは、その動画を目にし、耳を傾けました。
そして男性が退職となる3月31日を迎えます。
バスを待っていた男性に、春休み中の子どもが寄ってきました。
中央に男性の似顔絵と、「今までありがとう。お疲れ様でした」と題字された手作りのメッセージカードを渡すためでした。一人ひとりがメッセージを読み上げたそうです。
相互に交わされた「ありがとう」。そしてその言葉を呼び起こした経験の数々が、場所にさらなる変化を与え、場所を共有する人々に力を与え続けていくのだと思います。
純真な心だからこそ、場所の大切さがわかっている。そんなことを感じさせる話でした。