第2話フィジカルサイバー

文字数 16,255文字

 底なし沼に果てしなく沈んでゆく。泥虫に生まれ変わったみたいに、ぬかるみの中を必死にもがいている。家族や友人の顔も思い浮かばず、底なし沼から這い上がろうとジタバタしている。しかし身体は沈むばかりで一向に光明は見えず、ああ、このまま分解されてゆくのだなと、諦めの気持ちになり、目が開いた。
 見回すと病室だった。ベッドに寝かされているが大きなケガや病気とは無縁に生きていたハネには初めての経験だった。ゆっくり体を起こす。けだるさがあった。足を床に下してベッドから立とうとしていると、ドアが開いて女性看護師が入ってきた。
「アラ、目覚めたの」
 具合悪そうな顔をされたので、ハネも、なにかまずかったのかと、意味も分からぬまま少々恐縮の態で立ち上がろうとしたが、
「待って、すぐに先生を呼んでくるから、じっとしてて」
 看護師は強い口調で言うと、部屋を出ていった。
 仕方なしにベッドに腰かけたまま、ハネは部屋を見回した。個室だった。豪華さはなく、むしろ殺風景な印象だったが、病院で個室はけっこう高額だと、母親が話していたのを思い出した。あのおふくろ、奮発してくれたのかな。まあ、なんだかんだ言ったって母一人子一人だから、いざとなったら財布のひもも緩むよな。などと思っていたら、看護師が医師を連れて戻ってきた。 
 診察のあと、ℂTや採血、脳波調べたりその他、精密検査ってヤツを受けさせられた。それにしても、看護師たちのよそよそしい態度が気になった。別に色男ぶっているつもりはないし、テレビドラマで、入院中のイケメン主人公に看護師たちがチヤホヤする、あれはテレビの中だけと心得ているのだが、それにしてもこの愛想のなさは、これが普通なのかと、初めての入院のハネは思った。
 検査が終わって病室に戻ると、服が畳んで置いてあった。キクモリ公園に着ていった服。制服のシャツとズボンだ。はいてみるとズボンは右足のすねが破れていた。おふくろにどやされる。シャツはのりが利いてパリパリで真っ白だった。
——ヨシキ——
 ヨシキの血が染みていたはずだがキレイに洗濯されている。キクモリ公園での出来事が脳裏によみがえり、ヨシキの最期の姿がまざまざと浮かぶ。
——ヨシキ、本当に死んだのかな——
 悪い夢であってほしかったが、記憶は打ち消し難いほどに鮮明だった。
「目覚めたのだね」
 声に振り向くと、中年の男が先ほどの医師と連れ立って入っていた。ヨレヨレのシャツに薄手のブレザーを羽織り、グレーのズボンもくたびれていたが、革靴だけは黒光りしていた。無精ひげの冴えない感じの顔には、なんとなく見覚えのある気がした。
「あなたは?」
「キクモリ公園で会ったが」
「あっ、サイバーに電気ビリビリのかんしゃく玉を投げて、助けてくれた人ですね」
 ハネは思い出した。ヨシキを手にかけたアーマーソルジャータイプのサイバーに殺されそうになったとき、駆けつけてサイバーになにかを投げつけたのだ。ソレはサイバーの体に青白い火花を放ち、動きを封じて助けてくれたのだ。
「無事だったんですね。よかった」
「味方のサイバーが来てくれてどうにかな」
「あなたのおかげで生きていられます。命の恩人です」
「たまたま通りかかっただけ。キミがツイていたのさ。恩に着ることはない。来島省吾だ」
「黒塚夜羽です。拳銃持ってましたよね。警察の人ですか」
「今も持ってる。政府職員だ」
 警察官とか正式な身分は言わないで、単に政府職員で済ますところはうさんくさいが、どうやら公務員のようだ。
「アイツ、やっつけてくれました」
「キクモリ公園で暴れたフィジカルサイバーか、逃げられたよ」
「それじゃあ、ヨシキはどうなりました」
「キミの友人かね。彼はツイてなかったね」
 やはりそうなのか。ヨシキはハネの数少ない友人の一人で、くだらない話題で盛り上がれた、気のいいヤツだったのだ。
「君は第四高校だったね。合同葬があったと聞いたよ」
「合同葬ですか」
「第四高校では何人か犠牲になっている。それで、学校で合同の葬儀を行ったのだよ。三日前だったかな」
「三日前って、オレ何日寝てたんです」
「キクモリ公園でのテロがあった日からだから、六日かね」
「そんなに。こんな大きな個室六日も使って、おふくろ文句言ってなかったですか」
「お母さんは、キミがここにいることを知らない」
「えっ!」
 入院しているのに、家族に連絡しないのはおかしい。
「お母さんに知らせてないのは、事情があってのことだ。まず、ここは病院ではない。研究所だ。東京第三国立研究所。関係者たちは3ラボと呼んでいる。業務上必要なので医療設備を備え、スタッフには医師や看護師もいる。キミの担当の山村研究員もその一人だ」
 ハネが医者だと思っていた男は、いや、医者であるのは間違いないようだが、3ラボだか知らん得体の知れない研究所の研究員で、何かの目的でかハネを担当するらしい。その山村研究員は三十歳ぐらい。細身の中背でメガネをかけ、白衣姿でタブレットを持つ様はそつが無さげで来島とは対象的な印象。ハネの高校の進学組の秀才が、順調にいったらこんなのって感じだ。
「大きい割には患者いないから、流行っていないのかと思ってたけど、研究所ね。でもなんです俺がそんなところにいるの」
「君を検査したところ、サイバー機能の定着が認められた」
 山村は、タブレットを操作しながら告げた。
「サイバーって、あっ」
 ハネは気を失うに至ったいきさつを思い出した。
「すみません、預かったアレ、飲んじゃいました」
 来島に、すまなそうな顔で詫びる。
「構わんよ。こっちもいろいろ手間が省けた。しかし無茶をするね。あんなもの、研究所の
外でやみくもに飲んだら九十九パーセント死んでるよ」
「そうなんですか」
「エーテルなんて洒落た名前がつけられてるが、アレは適合個体でないと劇薬級のダメージをもたらす。だからエーテルを使う際には適合個体であるか徹底的に調べる。微細な体質の差異が適合率に大きく関わり、エーテルの種類によっても適合条件が変化するから、このマッチング検査は何十項目にも及ぶものを高精度で行う、とても入念なものとなる。だがそこまでしても、往々にして不測の事態が起きる。だから、万一の場合に対応できる設備やスタッフの揃っている、施設の中でなければ、エーテルを人体に施すなんてできないのだ。まったく、君は運が良かったよ」
 だったらサロメはもっと運が良かったってことか。倒れることもなく、あの場でサイバーになって見せたのだ。だがハネは、ここでサロメの名前を出すか迷った。まだこの人たちを信用していいかわからないし、サロメのことは黙っておくことにした。
「しかし、デジタルピッキングでケースを開けるとは恐れ入ったよ。あのケースには敵に奪われた場合を考えて、手榴弾一個分の爆薬が仕掛けられていたのだが、うまくそのトラップも解除したな。下手してたらドカンだったぞ」
 来島はむしろ愉快そうだったが、ハネは今更ながらに肝が縮むとともに、ったく、サロメのヤツ知らない間に綱渡りさせてくれると、内心ボヤくのであった。
「では早速、フィジカルサイバーの能力を拝見したいところだが、ここは病室だ。ついて来なさい」
 来島と山村について、研究所、3ラボだかの廊下を歩きながら、自分がサイバーになるとか半信半疑のハネであった。
 地下に降りて、案内されたのは体育館みたいに広い空間だった。天井も高く、コンクリートの壁に、床はリノリウムのような素材だった。
「サイバーのトレーニングルームだ。さあ、ここなら遠慮はいらん。ニンジャコスプレしてみせろ」
「そう言われても、どうやっていいのかサッパリですけど」
「なんだ、閃かんのか」
 来島はちょっとガッカリの表情で、
「俺はエーテルなんてもの飲んだことないからわからないが、頭の中に、メカがあるような感じがするそうだぞ」
 適当なことを言う。
「検査のデータでは機能が定着していることは間違いない。あとは始動スイッチを入れるだけだが」
「始動スイッチって、寝ている間に、なんか手術したんですか」
 山村の言葉に、ハネは子供の頃に見た特撮番組の、人体改造手術のシーンを思い浮かべた。
「そうじゃないよ。エーテルを飲んで、キミの存在はトータルサイバーバースに認識されている。これはつまり、ネットワークシステムに登録したようなものだ。条件は満たされて、あとはきっかけのようなものを、なにか始動スイッチをクリックするような感じにたとえたのさ。なにか、今までと違う感じがしないかね」
山村は来島と比べると理知的な語りかけで、ハネも少し落ち着いて、内面に意識を集中させる。「あれ!」
「どうした」
「頭の中なのに触覚があるみたいな感じ。なな、なんだコレ!!」
 傍から見ればハネが一人で驚いている、やや滑稽の図であったが、しかしその体が見る見るうちに黒装束に包まれてゆく。
「やったじゃないか」
 来島は歓声をあげる。
 ハネは魔法のように黒装束をまとった自身の体に目を瞠った。
「コレって」
「おめでとう。おまえさんもニンジャタイプのフィジカルサイバーになれたのだ」
 来島は、いきなり拳銃を抜いてハネに向けた。
「な、なにするんです」
「祝砲だよ」
 銃口が火を吹いた。二発銃声がとどろき、ハネはその場に固まった。死んだかと思ったが痛みはなく、無傷なのを確認してホッとする。
「いきなり、なにをするんですか」
「サイバーコスチュームの強度を教えてやったのさ。俺が撃った弾は二発キミの顔面に命中したが、覆面にはじかれて痛みもなかったろう。この距離ならドラム缶も貫通する9ミリパラが、まるで紙鉄砲だぜ」
「それはご親切に教えてくれてどうもだけどさ、やるんなら足とかにしてくれない。顔っていうか頭部は、なんかあったらイチコロでしょう」
 ハネの猛抗議に、
「安全性は確かめてある。なにもない」
 すまし顔の来島だったが、
「あったでしょうが、一度。どうにか死なずにはすんだけど」
 山村がタブレットをいじりながらバラす。
「あれは、たまたまアイツがだ・・」
 言いかけて具合悪そうに口をつぐんだ来島は、
「そんなことよりコスチュームの点検だ」
 話を変えた。
 命の恩人ではあるけれど、このオッサン素直に恩に着てたらヤバいかもと、ハネは思った。
 山村は既にタブレットのカメラでハネを撮影していた。動画で三百六十度カメラを回して、画像は即座にデータ処理される。
 来島は、ハネの頭から足の先まで丹念に検分する。
 コスチュームは忍者の黒装束っぽい外見だが、実際はかなり違う。まずこれは覆面も含めて、頭部はから足まで一体成形となっていて、普通に着たり脱いだりするのは無理っぽい。手袋と靴は別のようだ。手袋は、薄く、しなやかにフィットするが、覆面のことを考えると、これも強靭な素材なのだろう。靴は、サロメはブーツだったが、ハネはローファーで、タイトに足を包む。「武器を見せてみろ」
 来島に言われて、ハネは装備を改める。こしにベルトを巻いていて、サックやケースが付いていた。また黒装束のボディスーツの左脇にもポケットがあり、右手を入れると何かがあって、取り出した。縦横十センチぐらいの十字の形をしたソレは、多分手裏剣である。ニンジャ漫画に出ていたのとそっくりだ。しかしこれはポイントカード程度の厚さで、素材もプラスチックみたいだ。ほぼ殺傷力0のこんなものが何の役に立つのかとハネには不思議だった。一枚を手に、来島に向けて投げる格好をしたが、
「危ないだろう。人に向けてそんなマネするな」
 怒鳴られた。
「自分は人に向かって銃をぶっぱなしといて、そんなに怒ることないでしょう」
「黒塚君、ソレ、あの的に向けて投げてみな」
 山村が指さしたのは、トレーニングルームだの壁際に立ててある人型の的で、三十メートルぐらいの距離がある。
「こんなプラスチックの手裏剣、あんなとこまで届きませんよ」
「いいからやってみなよ。当てるつもりでね」
 ハネはそこまで言うならと、的を狙い素早く腕を振り出した。しなった腕より投じられた手裏剣はオレンジ色に光りながら宙を滑り、三十メートル先の的に突き刺さった。
「ウソでしょう」
 ハネは的まで走った。手裏剣は硬い合板の的に三四センチの深さで突き刺さっていた。
「ソレはプラスチックじゃないよ。硬質アルミに浮遊物質Fトリユームをコーティングしたものだ。Fトリユームは投げられると活性化して推力を生み出し、見ての通りの威力だ。ただし、コスチュームを装備して投げた場合のみ、この威力は発揮される。つまり、フィジカルサイバー限定の武器だ」
「そいつが当たると、致命傷まではゆかないが、かなり痛いのだ」
 神経質とも見える表情の来島。
「来島さんは、手裏剣で痛い目にあっているのさ」
 山村が打ち明ける。
「余計なことを言うな」
「敵にやられたのですか」
「いや、部下のニンジャと言い争いになって、一発お見舞いされたのさ」
 含み笑いの山村。
 それであの反応かと、ハネも納得した。
「そんなことより、手裏剣は何枚ある」
 面白くもない来島は、話を変えるようにハネに聞く。ハネは十字手裏剣を数えた。
「二十九枚です」
「装備数三十か、まあ、そんなもんだろう。しまっとけ」
ハネは手裏剣をボディスーツのポケットに戻したが、
「コレ、こんなところに入れておいて、暴発とかしないですか」
 心配になって聞いた。
「投げて、一定以上の推力を与えないと、Fトリユームは活性化しないから心配ない。弾倉に何十発入れておいても、引き金を引かない限り発射しないのと同じさ」
山村が答えた。
「これは」
 ベルトの右腰になにかが差してある。引き抜くとボールペンぐらいの大きさの円筒の棒で、先端が尖っていた。
「そいつは棒手裏剣だ。気安く投げるんじゃないぞ。威力はライフル並だからな」
 来島の言葉に、ハネは肩をすくめて、棒手裏剣をベルトに戻した。
「何本ある」
「八本です」
「他にもあるだろうが、次はメインウエポンだ。背中のヤツを抜いてみろ」
 来島に言われて、ハネは背中に刀があることに初めて気づいた。
 刀は鞘に収まっているが、鞘はベルトで固定されているのではなく、ボディスーツと一体成型な感じで、しかも抜くとき上部が割れて抜きやすくなる親切設計だ。抜いてみると、これもやはり鋭利で物切れするという一般的な刀剣ではない。刃先など全然鋭くなく、指で触れてもケガしない。アートな感じすらするフォルムだが、サロメのよりはまだ一般的な刀剣のイメージに近い。長さはサロメのより短く、刃渡り六十センチ弱。力強さは感じるが、サロメの剣と比べると迫力で及ばない気がする。一度しか見ていないが、アレには禍々しいまでの迫力があった気がする。サロメの剣が龍とするならば、向こうを張って虎と言いたいところだが狼ぐらいか。なんであれ物騒な雰囲気の代物であった。
「ソニックソードだね」
山村は、ソレがなんであるかを告げると、さらに注意深く観察する。
「こいつはいい。ソニックソードのなかでも業物のようだ」
「とにかく、それがおまえのメインウエポンだ。そいつでなければあのアーマータイプのソルジャー野郎に対抗できないぞ。手裏剣は通用しないからな」
 教官のような口調の来島に、ハネは目を丸くして、
「いや、あんなのに出会ったら逃げますよ。友達の仇を討ちたいって気もあったけど、殺し合いっていうのもやっぱ気が引けます」
 ハネは正直な気持ちを口にしたまでだが、
「今さら寝ぼけたこと、ぬかしてんじゃねえぞ」
 来島に怒鳴られた。
 ハネは意味も分からず、啞然としている。
「まだ、黒塚君の置かれた状況ついて、なにも説明してませんよ」
 山村は取りなすように言うと、温和な表情を向けてくる。なにを切り出してくるやらと、ハネは身構えた。
「君はエーテルを飲んで命を落とすことなく、フィジカルサイバーとしての能力を獲得した。その時点で政府の特殊戦闘要員に任命されたことになり、これは、拒否することができないのさ」
「どういうことですか」
 いきなり、特殊戦闘要員とか物騒なものに任命されて、しかも拒否できないとか言われても、納得できるものではない。
「おまえが飲んだアレは、政府の物だったのだ」
 来島がじれったそうに口を出した。
「ブラックノヴァ謹製のエーテルを、金に目がくらんだ野郎が、闇のルートに横流しした。それがキクモリ公園で取引されるとの情報を得て、俺たちはキクモリ公園に張り込み、取引現場を襲い、ブツを奪い返した。しかし、敵のサイバー部隊が暴れてあの惨事だ。俺目的を果たしてそのまま撤収してもよかったのだが、おまえが殺されそうになっているのを見かねて助けたのだ。その際預けたエーテルを、勝手に飲むとは何事だ」
「さっき、許してくれたじゃないですか」
「あれは、おまえがこちらのフィジカルサイバーになると思っていたからだ。拒否するなら五百万円払ってもらう」
「五万円でも気が遠くなるのに、五百万円なんて、一生かかっても無理ですよ」
「だったら四の五のいうな」
「いいや、四の五のだろうが、六の七のだろうが言わせてもらうよ。そもそもそんな大事な物を横流しされるなんて、政府の落ち度じゃないですか。それを棚に上げて、善良な一市民に面倒を押し付けるなんて間違ってますよ」
 ハネは正論のつもりだったが、来島は半笑いであしらう。
「この国が、もっとしゃんとしていた頃には、そんな理屈も通ったかもしれない。だが今、国はガタガタだし花の都はこのありさまだ。それでも政府は国民を守らなければならない。なりふり構っていられない。無理も無体も承知の上だ」
「開き直られたってさ、物騒なことに巻き込まれるのはゴメンだし、はいそうですかとはゆかないよ」
「なあハネよ、今のおまえをうらやましく思っている者が、この世にはごまんといるんだぜ」
 来島は一転おだて上げる口調で、
「そのニンジャコスプレを鏡で見てみろ、カッコいいじゃないか。そいつで悪党サイバーどもをやっつけりゃヒーローだぜ。巷は拍手喝采よ。実際、フィジカルサイバーになれるのなら命も差し出すって者は多い。だが言ったように適合する者はわずかで、多くの者が事前審査で不適合となり、悔し涙を流して去る。それなのにおまえは、幸運にも得たその力を世の中に役立てもせず、無為に生きるというのか」
「縛られた有意義より、自由な無為がまだしもです」
 ハネも口八丁な方じゃないが、ここは下手に折れられない。
「ここまで言っても分からないとは、情けない野郎だ。それにひきかえ、あの紅河って子は、女の子ながらにもあっぱれな勇者ぶりだぜ」
「サロメを知っているんですか」
「君を病院に運んだのは彼女だよ」
 山村が言った。
「ここではない一般的な医院だ。運んできた彼女がニンジャコスプレだったので、君もエーテルの被験者と疑われて、すぐにこちらへ移されたのさ。彼女は名前も名乗らず、ニンジャコスプレは覆面をしていたけど、我々防犯カメラの映像などから紅河君と突き止めたのさ。話したら仲間になってくれることを、気持ちよく承諾してくれたよ」
「おまえがぐーすか寝ている間に訓練に入って、教官が言うには、今までにないほどに優秀で、
いずれウチのエースだとさ」
 来島の嫌味たっぷりの言葉などは気にも止めず、ハネは、サロメがあっさりこの連中に従ったのが意外だった。話したのはあのときが初めてだが、とてもそんな、しおらしいタイプには見えなかった。
「紅河君はキミより世の中を知っている。逆らっても無駄だとわかっているのさ」
 山村の言葉に、
「政府に逆らって、まともに生活してゆけないぐらい、おまえにもわかるだろう」
 来島も重ねて言う。
「でも、オレまだ高校生なんですけど」
「おまえの成績表見させてもらったぜ。とても、勉強が好きでたまらないってタイプじゃないよな」
 来島は鼻で笑い、ハネも、それを言われると返す言葉もない。
「だが安心しな。学校に行かなくても、来年の春には卒業証書が届くようにしといてやる。俺たちは造作もないことだ」
「わかりましたよ、そんな力のある人たちに、逆らっても無駄ですね」
「ようやくかい。だったらまずコスプレを解け」
 ハネはまた、頭の中をゴソゴソやった。まったく、自分の精神領域を客体的に捉えて、そこに触覚に似た感覚生まれるのも不思議だった。コスチュームを解くと、シャツとズボンのコスチューム装備前の服装で、いちいち更衣室に入って着替える手間が要らない、まったく便利なものだとハネは思った。
「これにサインして」
 山村がタブレットの画面を見せながらペンを手渡した。画面には、警視庁所管のフィジカルサイバー特務隊に入隊することに同意する云々と書いてある。ハネは目を通したが、ざっくりした内容で、危ない契約書を思わせた。しかし、どうせ突っ走るしかないのだ。ハネはサインした。
「もう一つわからせてやる。ほれ」
 来島は封筒を渡した。受け取ったハネは中を見て驚いた。百円札でかなりの枚数入っていた。
「支度金だ。取っておけ」
 来島は気前よく言うと、ハネの肩を叩いて、
「サイバーは高給取りなのだよ」
 ことほぐかであったが、うさん臭さに鼻しわむハネであった。とはいっても大金をポケットに入れると自然とホクホクした気持ちになる。
「今日は帰っていいぜ。無事な姿を見せておふくろさんを喜ばせてyれ。ついでに大金も拝ませたら、盆と正月が一緒に来たようなおめでたさってやつだ」
 古臭い言い回しを口にして、来島は笑った。
 第三研究所の車が家まで送ってくれる。運転手は若い女性で、車を走らせながらルームミラーで、後部座席のハネをチラチラ見る。
「俺の顔になにかついてますか」
「イケメンじゃん」
「どうですかね。研究所の看護師さんたちには受けが悪かったけど」
「それはキミの顔に文句があったのじゃなくて、がっかりしたからよ」
「がっかり?」
「エーテルを飲ん昏睡状態になった場合、五日の間に目覚めなければ、二度と意識は戻らないとされているの。でも黒塚君は、六日目に目を覚ました」
「それが、なぜがっかりなんです」
「エーテルを飲んだら死体になっても貴重品。解剖して特定の部位は、冷蔵ボックスに入れて某研究所に届けられるわ。この解剖処理に出される特別手当がけっこう良くて、看護師さんたちにはちょっとした臨時ボーナスなのよ。だから五日目になったらすぐに解剖室の準備を整えて、医師のゴーサインを待つだけにしていたのよ」
「それで俺が目を覚ましたのが、気にいらないってわけか。なんて奴らだ。白衣の天使が聞いてあきれるぜ」
「天使だろうと悪魔だろうと、食ってかなきゃなんないのよ」
「だけどそんなじゃ、助かるもんだって、ボーナス目当てにあの世に送っているかもね」
「それはないわよ。ラボでの不手際は徹底的に追及される。あなたは外で勝手にエーテルを飲んだ、どうなろうとラボの責任にはならない、滅多にないおいしいケースだったのよ」
「フン、あてがはずれていい気味だぜ。で、アンタは事務員さん」
「女だからそう思うの」
「じゃないけど、偉いさんなら運転手なんてしないでしょう」
「偉くはないけど、山村の同僚よ」
「俺の担当は山村さんでしょう」
「彼の免許は自動運転車限定なの。私は佐伯静香、3ラボの研究員よ。よろしくね、黒塚夜羽君」
 佐伯静香は慣れた様子で車を走らせる。窓に流れるのは洗練された都市の景観。この辺りは重点的に整備されて首都の面目を保った一画で、白昼にさらしても見苦しさはなく、夜だったらネオンに照らされて夜景もきれいだろう。ハネが足を踏み入れたことのない地域だ。それに自家用車に乗るのも久しぶりだ。何年か前におふくろのパトロンだかの車に乗ったことがある。あれはもっと高級感のあるやつだった。だが、これがボロというわけではない。標準クラスの乗用車で新車かもしれない。ハネの家の周りにあるのはポンコツばかりで、そんなのに比べたら雲泥の代物だ。
 車は安普請のひしめきあうような地域に入った。まだスラムとまではゆかない、下町の風情の残るハネの暮らす界隈だ。家の近くで停めてもらう。
「わかっているとは思うけど、フィジカルサイバーになったことは秘密よ。。ラボのことも話さないで。ウチのためではなく、あなたの身の安全のためにね」
 それは来島からも言われていた。
「おふくろにだって話しません」
 ハネは車を降りた。
「じゃあ、またね」
 運転席の窓から顔を向ける佐伯静香に、ハネは目を瞠った。車の中ではろくに顔を見ることもなかったが、目の醒めるような美人であり、車は鮮やかな面影を残して走り去った。
 ハネの家は老朽化の目立つ一軒家だった。ハネは真っ直ぐ家に帰らず、細い路地に姿を消して、しばらくして戻ってきた。
 玄関のドアのノブをつかむ。ポケットに入れていた鍵は、ラボで服とともに返されていたが、鍵はかかっていなかった。きしむドアを開けて入る。六日間寝ていたというのが本当なら、一週間ぶりの帰宅になるが、その間の意識がないので、一晩空けていたぐらいの感じだ。靴を脱いで家に上がる.
 狭い家だ。リビングのドアを開けると、おふくろがちゃぶ台に向かいカレーライスを食っていた。肩下までの黒髪は滴るが如く艶やかで、Tシャツにスカート、カーペットを敷いた床にあぐらをかいて、しかし背筋はピンと伸ばして、テレビを見ながらカレーライスを食べている。いつものおふくろだった。
「ただいま」
 声をかけたが見向きもしない。ゲスネタ垂れ流しのバラエティー番組に見入っている。だが、これぐらいは想定内だ。
「なんだい、一人息子が帰ってきたのにシカトかよ」
「フン、我が子ながら、出来が良すぎて涙がでるよ」
 いつもの皮肉をひとくさりだ。
「何日も学校にも行かず、どこほっつき歩いてたんだい」
「病院にいたんだよ。ずっと意識を失ってて、それで連絡も出来なかったけど・・」
 病院と聞いて、母親が振り返った。
「今まで入院してたっていうのかい。病院代、どれだけかかると思ってるんだい」
「タダだから心配するなよ」
「タダだって」
 疑うような表情。
「キクモリ公園のテロに巻き込まれて気を失ったのさ。それで、公的な災害みたいなもんだからって、医療費は免除になったのさ、それより、息子が入院したっていうのに金の心配かよ。親だったら普通、体の心配してくれるんじゃないのかい」
「だっておまえ、ピンピンしてるじゃないか」
 母親はしれっとして言った。
「親に心配かけまいとして、気丈に振る舞っているかもしれないじゃないか」
「笑わせるんじゃないよ。そんな殊勝なタマかい」
「これでも、そんなこと言えるのかよ」
ハネは、ちゃぶ台の上に封筒を叩きつけた。母親は手に取り、中身の金を数える。
「千四百円。病院の事務所を荒らして一稼ぎかい」
「バカ言うなよ。悪さはしても盗みはしないのが俺のモットーだぜ。そいつは支度金としてくれたのだ。俺は学校を辞めて仕事に出るのさ」
「ろくに高校も出ていないのに、こんなまとまった支度金を出す人なんているのかい」
「いるさ。だからその金があるのだろ」
「どうせロクな仕事じゃないね。ヤクザの子分か泥棒の手下、詐欺師の相棒、そんなあたりだろう」
「さんざん見くびってくれるけどな、こちとら政府の仕事をやろうってんだぜ」
「政府の仕事だって、おまえに公務員試験を通る頭があるのかい」
 母親は本気にしない。まったく、ハネが一番苦手とする人がこのおふくろ、黒塚ルミ子である。
「そんなことより正式なもんじゃないけどさ、役人なんて気取った連中がやりたがらない仕事を、代わってするのさ」
「どんな仕事だい」
「言えないよ、守秘義務ってやつだ」
「おや、難しい言葉を知っているじゃないか」
 台所の魚を狙う猫のような目を向けてくる。今年で四十二のはずだが、三十代といっても余裕で通る。化粧っけ少なくても人目を惹く美人で、スタイルに崩れもない。ハネは風俗嬢がどんな仕事か知らないが、ませたクラスメートが、ハネの母ちゃんなら今でもトップ取れるぜなどとぬかしていた。
「まあそんなわけで、その金は取っといてなんの心配も要らないんだぜ。俺は初任給もらったら、丸ごとおふくろに渡そうと思ってたから、初任給とは違うけど、親孝行の先払いさ」
「孝行息子でありがたいよ。で、夜羽さん、いくらもらったんだい」
「いくらって、いま持ってるだろう」
「何年あんたの母親やってると思ってるんだい。出したところでせいぜい五割。でもあんたに三千円出すとも思えないし。今回は奮発したとして、二千円でももらったかい」
「千八百円だよ。四百円は新しい靴とか服とか買わなきゃならないのさ」
「三百円出しな。そんなの百円もありゃ足りるだろう」
 ハネから三百円むしり取り、
「服を脱ぎな、ズボンもだよ」
 身体検査までする。
「なんて顔をするんだい。私に服ぬげなんて言われたら、歓ぶ男はゴマンといるんだよ」
「カモの変態オヤジと一緒にするなよ」
 ハネはパンツ一つになった。
 母親は服を調べて、裸のハネに目をやり、
「いいよ」
「喜んでもらおうと思って、いそいそと金を持って帰ったのに、疑うなんてあんまりだぜ」
 ハネはぶつくさ言いながら服を着た。
「腹減ったぜ。おっ、カツカレーなんて食ってるじゃん」
「おまえのはないよ」
 母親、黒塚ルミ子はちゃぶ台に向かい、テレビを見ながらの食事を再開した。
「金があるんだから、買って食いな」
「わかったよ」
 荒々しくドアを閉めて階段を上がる。自分の部屋に入ってドアを閉める。キツくてぬかりのない母親だ。一緒にいると神経をすり減らす。クラスメートたちは美人の母親をうらやましがったが、ハネはあれこれと子供の世話をやいてくれる、彼らの母親をどれだけうらやましく思ったか。だが、あの母親のおかげで、こういう周到さや用心深さも身についた。
 ドアを開けて、おふくろがいないことを確かめてから、閉め切った部屋の中でフィジカルサイバーになる。手裏剣のポケットに手を入れて、出したのは厚みのある封筒だった。
「こいつは画期的だ」
 持っていた金を近くに置いてコスチュームを装備する。そして金をコスチュームのポケットに入れてから、コスチュームを解く。再びコスチュームを装備してポケットの金を取り出す。この方法はラボのトイレで試して、安全性を確認している。
 ハネは家に入る前に、人目のない路地裏に入った。金の入った封筒を出して、母親に渡す分の千四百円を別の封筒に入れて、恐らく母親に取り上げられると想定している四百円は財布に入れて、それらは服のポケットに戻して、残りが入っている封筒は近くの地面に置いてフィジカルサイバーになる。フィジカルサイバーになってコスチュームを装備すれば、もう普通の服には触れない。そして地面に置いた、たんまり入っている封筒をコスチュームのポケットに入れる。これでコスチュームを解いて普通の服装に戻れば、コスチュームのポケットの金は、逆さにされたって見つかるもんじゃない。
 来島は七千円もくれていた。母親に渡した分を差し引いても、今までに持ったこともないどころか、手にするなんて思ったこともない大金だ。ハネは私服に着替えると、二三枚財布に入れて、残りはジャケットの内ポケット深くにしまう。いったん目をすり抜けたとはいえ、家に置いておくのは危険だ。異様に嗅覚の鋭いおふくろなのだ。
「どこへゆくんだい」
階段を下りて、家を出ようとしてると母親に呼び止められた。
「メシ食いに行くんだよ。さっき、買って食えって言ったろ。それに、学校に顔出さなきゃいけないし」
「やけにホクホク顔じゃないか」
 ドキリとした、だが、さっき身体検査したばかりだ。まさか、何千円所持してるとは思うまい。
「百円あるからさ。そんな金持つの、俺には滅多にないからね」
「ふーん」
 探るような視線に背を向けて、ハネはそそくさと靴を履く。
「じゃあ」
 玄関を飛び出して一息つく。
 ——あぶねー、やっぱこの金は、家に置いとけない——
 腹が減っていたが、まずは学校へ行くことにした。
 校門を通って校庭を歩く。放課後、生徒たちが校舎から出てくる見慣れた光景。ハネも彼らと同じように下校したのが一週間も前か。そして今、その時には想像すらしなかった人生を歩むことになった。だが、もっと残酷な運命に見舞われた者たちもいる。ヨシキ、そして他にも何人か、この学校の生徒が犠牲になったと聞いた。
——フィジカルサイバーとして生きるしかないのなら、必ず野郎はぶっ殺す——
 ハネはヨシキを殺した、青い目をしたアーマータイプのフィジカルサイバーの顔を、脳裏によみがえらせて誓うのだった。
 ハネは職員室を訪ねて担任にあいさつをした。
「ご心配をおかけしました」
 ハネは勉強ができないだけで不良というわけではなく、なので教師に対する態度も常識の範囲内だ。
「黒塚、よく無事だったな。キクモリ公園の事件のあと、おまえが行方不明だというので心配したのだ。そうしたらほんの一時間前に警察から連絡があって、おまえがどこかの病院で治療を受けていてホッとしたのだ」
「ヨシキたちの葬儀に出られなかったのが残念です」
「病院で寝ていたなら仕方ないさ。ところでおまえと四組の紅河のこと聞いたよ。学校を辞めるらしいな」
「はい」
「事情は聞かないが、キクモリ公園の事件では田代をはじめ、本校の生徒が七名も亡くなっている」
 田代はヨシキの苗字だ。
「これ以上若い者のそんなニュースを聞きたくない。命は大事にしろよ」
「はい」
 答えたハネだったが、どうやらこの先待ち受けているのは、安全など薬にしたくもない世界のようであった。

「ニュー東京の夜景は、一度栄光を失うと、取り戻すのは至難の業と教えてくれる」
 ホテルの高層階の一室。白人の男がグラス片手に、嵌め殺しの大窓よりニュー東京の夜景を眺めていた。髭面の中背だが、体つきはがっしりしている。
「かっての東京の夜景の映像を見たが、こんなものではなかった」
「壊滅前の東京は、そりゃあたいしたもんだったらしいですね」
 ソファーでウイスキーを飲んでいる男が言った。瘦せた小男で、柄物のシャツにアイボリーのジャケットとパンツ、宝石の輝く指輪に、金のネックレスとロレックス、光り物で飾った洒落者だった。
「単に壊滅しただけなら、日本の国力にらとうの昔に以前同様の復興を遂げているはずだ」
 洒落者の小男の向かいのソファーにくつろぐ男だった。コーヒー色の肌の長身で、飾りは身につけていないが、Tシャツの下で盛り上がる鍛えぬかれた肉体の、金銀よりも目に映える、ボクサーのような男だった。
「東京の凋落は、北海道に成長センターの座を奪われたからだ。北の繫栄が重石になって、東京はいつまで経ってもパッとしない」
「北の大地に鎮座ましますブラックノヴァのご威光に、敵うものはありゃしないよ。世界中の視線が集まり、金も集まり、女も食い物も北海道が一番だ。兄貴、一つみんなで繰り出してやしょうぜ。俺は畑で出来たトロじぁない、大海原を泳いでいた、マグロの刺身を食ってみたい」 
 楽し気な小男に、
「ドンパチやらかすつもりかよ」
 ボクサーが嚙みつく。
「観光客として、遊びに行くぶんにゃ問題なかろう」
「ロルカの兄貴のように」
 ボクサーは窓辺の男にちらりと目をやり、
「この世界でそれなり顔が売れていると、仕事も遊びもない。殊に北海道みたいなホットゾーンじゃ、どんな波風が立つともしれない」
「そんなに顔を売ったつもりもないがな」
 ロルカの兄貴と呼ばれた窓辺の男は、夜景から仲間たちへと顔をやる。
「札幌あたりに遊びに行くのも悪くはないが、東京だって捨てたもんじゃない。まだまだ稼げるしな」
「北海道に足を延ばすときにゃ声をかけてくださいよ。俺はススキノで羽目を外したい」
「けっ、フリオ、てめぇは遊ぶばっかだな」
 ボクサーの顰蹙に、
「生きてるうちに楽しまなきゃだぜ、なあ」
 洒落者の小男フリオは、ボクサーの横に座る男に、同意を求めるかのように声をかけた。その男は青い目をした長身の白人で、ボクサーと同じく逞しい体つきをしていたが、ブルーのシャツに灰色のズボンの地味な身なりで、肉体労働者のような雰囲気があった。
「俺の楽しみは故郷にしかない。早く国に帰れたらそれでいい」
「ユアンさんは故郷の恋人一筋かよ。ま、そいつはそれでけっこうだが、このあいだのブツを奪われた、あの失態はいただけないぜ」
「おまえはあの場にいなかったから、そんなことが言えるのだ」
 ユアンは不快もあらわに、強い口調でフリオに言い返す。
「サイバー特課の連中は、こっちの取引相手に警告もなしに銃弾を浴びせやがった。まったく、政府機関のやることかよ。ギャングさながら、こちらがなにをする間もなく、不意打ちで殺しまくって、ブツを奪っていきやがった」
「気合が足りなかったんじゃないのかい」
 ボクサーが血の気の多そうな顔で睨む。
「相手がそこまでして取りにきてるなら、こちらも、なんとしても奪い返すって気合がよ」
「カルロス、おまえ、仲間内でケンカを始めるつもりか」
 兄貴分のロルカが、ボクサータイプの男、カルロスを睨みつける。
「そうじゃないが、最近ユアンは妙に里心がついて、闘志がイマイチのようだ」
「ユアンは、おまえさんたちよりよっぽどマメに働いているぜ。サイバー特課が荒っぽい手段に出たのは、こっちのフィジカルサイバーが出る前に片付けたかったからだろう。例のサムライがやられてから、あっちのサイバーは大きく戦力ダウンだからな」
「誰の仕業かは知らないが、よくやってくれたぜ」
 感謝するような洒落者のフリオに、
「ああ、うちも助かっている」
 ロルカも同意する。
「あのサムライが東京のサイバー特課の中心だったからな。アイツがいなくなって、ずいぶんとやりやすくなった」
「東京も、急いで次のエースを育てたいんでしょう。で、奪われたエーテルは何本です」
「二本だ」
 ロルカの答えに、
「たったの、ですか」
 拍子抜けのカルロス。
「だが、ラボで作った物じゃない。ブラックノヴァ製だ。それも名前付きだと聞いている」
「ジョブはサムライですか」
「いや、ニンジャだったそうだ」
「ハハハッ、それなら心配いらない」
 洒落者フリオがたかをくくって笑う。
「ニンジャなんて二流ジョブだ。俺たちの敵じゃないぜ」
「だが、ブラックノヴァ製は化けるからな」
 ロルカは慎重な表情を崩そうとしない。
「そいつを飲んだ野郎が特課の新エースとして出てきたら、今度は俺たちの手で潰してやるさ」  
 期するかのカルロス。
「特課のサイバーは、今は気にしなくていい。それよりも問題なのは中国だ」
「このところ、えらく勢力をのばしてやがる」
 フリオも面白くなさそうな顔である。
「大阪の暗黒街は、ほぼ中国勢の傘下になったと聞いたよ」
 ユアンも、これには無関心でいられぬ様子だ。
「当たるのは避けたいが、簡単に頭を下げるというのもな」
 ロルカは悩まし気な顔である。
「やってしまえばいいさ。中国だろが、目ざわりな奴は排除する。しょせんやるかやられるかの業界だろ」
 奮然たるカルロスに、
「勝った方が独り占めって、そんなゲームにしなくてもいいさ。敵は特課だけにして、共存の道を探した方が無難だぜ」
 気乗り薄のフリオ。
「こちらがそのつもりでも、敵は特課だけになるとは限らない。隙を見せたら寝首を搔きにくる連中だぜ」
「私もフリオと同意見だ」
 ロルカであった。
「中国のチームといたずらに事を構えるつもりはない。話し合いで、お互いにウィンウィンとなるヴィジョンを示せたら、向こうも狂犬ではないのだ。いたずらに血を求めまい」
「狂犬よりも凶暴な相手かもしれないぜ」
 不満そうなカルロス。
「だがようカルロス」
 今度はフリオが問いただす。
「中国チームのエースはアイツだぜ。アンタでもどうにかできるとは思えないが」
「どんな相手だろうと、やる前から尻尾を巻く根性なしじゃねえぞ」
 息巻くカルロスに、フリオはあきれた表情だった。
 二人のやり取りを聞いていたロルカは、
「ヤン・ウイリー、エーテル名武侠林冲」
 憮然として、彼の難敵の名を呟いたのであった。




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