第1話

文字数 9,131文字

長岡京市、大山崎町と共に旧乙訓郡を形成。
京都盆地の南西端に位置し、京都市に、胎内に突っ込むような形で隣接する60年代後半に開発が始まった競輪場と、国鉄の巨大車庫と、竹やぶに囲まれた、まだ田畑の残るベッドタウン。
人口、五万人強。面積は日本で三番目に狭い7・72平方キロメートル。
 駅の数は、隣町よりは多いのが自慢で、阪急の西向日駅と東向日駅。そして、遠足の時以外、滅多に乗らない国鉄の向日町駅と計3つ。
小学校の数は、開発と共に増え、この頃には6つを数えた。

 これが、手に届く世界の全て。
 少年たちの80年代。
昭和の終わりまで、あと三年ばかしあった。



「50円、貸してんか」
 あかんオッサンが話しかけてきた。
往時はジャンパーと称したであろう、鼠色の上っ張りを着たオッサンが、競輪場から駅へ向かう同じような色目の群れからわざわざ出てきて、立ち小便の後の摘んでいた物を、何度か振る位の当たり前の気安さで、ランドセルを背負った航汰に金を無心した。
勿論、航汰の知り合いなどではない。
こんなオッサン、小学生の交友範囲を鑑みるまでもなく、知り合いのはずもない。
 きっとスったのだ。ガチガチの本命に賭けたのか、欲をかいて穴にぶち込んだのかは知らないが、もろくも敗れ去り、財布を空にした。
だから、航汰に話しかけてきた。午後三時過ぎ、最終レースが下校時間と重なると珠にこうなる。
地元からの抗議も当然あって、誰が運営しているのかは知らないが競輪場は競輪場で、駅まではバスに乗る事を奨励しているようだが、その啓蒙活動の相手は、そんな事を聞く手合達ではない。
 ほんの少しのバス代をケチり、小学生に無心する。そんなオッサン達の群れだ。
「返さへんとは、言うてへんやん」反応に苦慮する航汰を放ったらかしに、あかんオッサンが二の句を継いだ。あかんオッサンとしてのギアを上げた、と言っても良かった。
「おっちゃん、帰りの電車賃あらへんねん」
 そうなったのは誰の所為でもなく自分の所為だ。
それを今、会ったばかりの他人に、しかも明らかな未成年者に吐露されても、どうしようもない。答えに窮するどうでもいい情報だ。
だが、それを事も無げに披露した。ある種の豪胆とも言える所業だ。
 そして反応の悪い小学生に、オッサンがフィニッシュブローを叩き込む。
「名前教えてくれたら、返しに行くやん」
 誰が教えるねん。
 この手合いに、名や住所を教えるわけがない。また、オッサンも言う筈がない事を知っていながら、聞いてきている。
 そこまでは小学生の思考力でも容易に想像ができた。
 このドブずれの提案は、駄目で元々なのだ。故に、試みるポーズが肝要、と恥も外聞もなく敢行された。のんびりトップロープに登るプロレスラーと同じ理屈なのだ。そして、この結末にスリーカウントは多分、無い。
 あかんオッサンが、有難う、とばかりに手を差し出した。皺くちゃの黒い手だった。
掌の皺は、すみずみまで墨を染みこませたように、より濃く刻まれていた。
丁度、模型名人が零戦のパネルラインを際立たせるために黒い塗料を落とし込んだ後のような塩梅だった。そして手相の生命線は、今まで見た中で一番長かった。
 だから航汰に、階段下に設置した昆虫誘導装置の中で、手足の自由を粘着シートに奪われながらも、まだ藻掻くアイツを思わせた。
あかんオッサンは、アイツの中でも羽が茶色がかったヤツと同じ色に見えた。
あかんオッサンの手が、更に前に伸びた。ヤニとワンカップが混ざった息が、航汰の鼻腔に、周回遅れの鈍臭いランナー宛らに縺れ込んだ。
その時だ。
「そんなオッサン、放っとけ」
級友の杣谷だ。堪り兼ねて割って入ってきてくれたのだ。
杣谷も、そもそも財布を持ち歩いていない航汰が、オッサンに金銭を渡す事が無いのは分かってはいたが、このまま級友が絡まれ続けるのを良し、としなかったが故の行いであった。 
オッサンとはなんだ、と抗うオッサンに「歩いて帰れ」と杣谷は無慈悲に言い放ち、航汰は袖を引かれ、その場を脱した。
競輪場の前の道は、航汰にとって本来の下校経路ではなかった。
この日は家とは逆の方角にある友人の家に向かう途中であった。だから、いつも通る者たちとは違い、航汰にはオッサン達の御し方が身についていなかったのだ。
故に手間取ってしまった。
経路で言えば、航汰と同じ方角に家のある杣谷もそうなのだが、長男の航汰とは違い、兄の二人いる杣谷は、このあたりの振る舞い方を身につけていた。兄が居るというのは、この年頃では、かなりのイニシアティブをとる事になる。同い年の者より大人びた知識が幾分、豊富になるからだ。例えば、知らない店。主に模型店になるのだが…の場所を知っているというだけで一目を置かれることになった。
今は大型店舗や通販店に淘汰されてしまったが、この頃は個人経営の模型店が小学校の校区ごとに一店舗はあり、ガンダムブームも手伝って、子供たちの社交場として機能していたからで、別の校区の模型店を知っているとなると、英雄視され、授業が昼に終わる水曜や土曜に級友を連れ、自転車で店まで案内する。これが一つのステータスにもなっていた。
航汰は、杣谷に少なくとも三店舗は案内されていたので、それだけの分、要するに三段分、航汰より杣谷は大人の階段を先んじて登っていたと言えた。
そこでは異文化との邂逅があり、他校生徒との摩擦にも巻き込まれた。
それは当然で、此方は、彼らの校区であり、彼らのテリトリーへの侵入者として扱われるわけであるから、放課後であろうが休みの日であろうが、被り続けていた黄色い学校指定帽の前頭部の校章が違う、となれば、
「お前、何イキってんねん」突然、こう話しかけられた。何をしたわけでもなく、こうなるのだ。
そして次の問い。
「何年や?」
「五年や」
「俺もじゃ」
 だから、どうした? 答えはない。
 彼らの言い分は「イキって、来てんな」である。ちなみに『イキる』とは粋がる、格好を付ける、の意であり、この年代の少年たちにとって広く一般的な、喧嘩を吹っ掛ける際に導入部に用いる常套句であった。
 喧嘩を収める際には、
「○君、知ってんのけ?」
「知らんわ」
「△君は?」
「誰えッ?」
「×君は知ってるけ?」
「おう。×君やったら、兄ちゃんの友達じゃ」
「ほな、まあ、エエ事にしといたるわ」
 と共通の知り合いの名が出るまで、サングラス男のお昼の番組のような、友達紹介の数珠繋ぎ探りが展開される。
広域的に名前が売れていそうな地域のスポーツ少年団で活躍する上級生や同級生の名前を開陳し合うのだが、この段に及ぶと、どのみちお互いに喧嘩をする気もないので、四人目くらいになっても知り合いの名前が出なかった時は、もう勝手に知り合いにしてしまって喧嘩を回避する事も多かった。

 さて、場前の雑踏を脱した航汰と杣谷は、オッサンの群れとの距離をとって、脇道の前で待っていた同じく級友の川元と合流した。
此処は川元の毎日使う下校路だ。朝は最短距離を取るべく、神社の境内を回って参道脇の裏校門から登校するのだが、帰りは駄菓子屋のある商店街から続くこちらの道を使って、いつも下校していた。
だから、馴れた彼は、君子危うきに近寄らず、を実践していたのだ。
それならそうと教えてくれればいいのに、面白がって航汰が絡まれるのを見ていたのだ、と彼は言った。
小憎たらしい。
仕返しとばかりに航汰は、川元の尻を軽く蹴り上げておいたが、「お前が鈍臭いからじゃ」と罵られると、返す言葉が無かった。
そんな事をしている間に、オッサン達の列は先程より太くなった。オバハンはいない。もし居たとしても見分けは付かなかったろう。それぐらい同じ色の葬列だった。
「早よ、行こけ」
杣谷に声をかけられ、三人で連れ立って、名残惜しくもない競輪場の、脇の細い小道を団地の方に向けて歩き出した。
開発が進み、地形を削り、盛った住宅地なので高低の差が分かりにくいが、競輪場や航汰達の通う小学校、競輪場の向こう側にある市役所などは向日神社を頂とする小高い丘の中腹に建っており、今歩く道はのんびりと登っていて、この丘を超えた谷の底に、十数棟を要する巨大な団地群が軒を連ねていた。
この頃は、各学年5から6クラスを擁す、全校生徒千人超の小学校のどこのクラスにも、この団地から通う子供が五六人はいて、一つの大きな一家の様でもあった。また何故か、男子比率が高いのも特徴であった。
これから向かう川元の家も、この団地の中にあった。
川元も含め、団地っ子達には独特のこぼれ出る逞しさがあり、本人が言わずとも、それは何となく判別できた。
物心が付いたその瞬間から、この大人数のガキの群れのコミュニティで揉まれているからこその空気感が、それを醸し出していたからだ。
だからなのか川元は、日常の一光景よりも低い鮮度で接する様に、あかんオッサンには目を呉れることも無かった。
 三人は、川元の下校路でもあるトタン板の高い壁の続く道を進んだ。
右手の壁の向こうは競輪場。左手には絶えず新築工事の金槌の音の響く住宅地が続いた。
トタン壁は、極々どこにでもある住宅街との間を隔てる境目。浮世と俗世を分かつ壁のようでもあった。どちらが浮世で、どちらが俗世かは、その人の財布の中身によって判断が異なるだろう。
 小学生の航汰の価値観で言うと、あかんオッサンと、まともな人間を分かつ壁であった。
 壁沿いの道を五分ほど進むと、煤けたコンクリートの巨壁の群れが、航汰達の前に姿を現した。
全ての数は数えられなかった。
頭の先だけが道路の向こうに姿を見せていただけで、全体像がまだ掴めなかったからだ。
なおも進むと谷の淵まで来た。
壁の反対側の住宅が途切れ、いくつものバンパーを跳ね返した向こう傷の付いた頑丈そうな車止めに遮られた細く急な下り坂が姿を見せた。この車止めは、川元の解説によるとスケートボードやローラースケートを用いた根性試しの折には、スタート板として活用するのだそうだ。近づくと、なるほど。ラージヒルの発射台の様でもあり、高台から見下ろすような感じになった。  
眼下には、近眼気味の航汰の視力の許すギリギリまで、丘と丘に挟まれた盆地状の谷の底を埋めるように、びっしりと奥までコンクリートの集合住宅が並び建っていた。
全てが同じ形で、そして全てが鼠色に黒を混ぜ込み、カビくすんでいた。
60年代後半産だと聞く。この頃では築年数は、まだ15年も経っていなかった筈だ。
が、校区に雨後の筍のように建ち続ける新造物件と比べると、もう老境の域に達していた。
 三人は、車止めの脇をすり抜け、最後のひと坂を下りにかかった。
 つま先に力を入れながらゆっくり下りないと、底まで駆け下りる事になってしまうくらいの急な坂であった。
 底まで下りると、コンクリートが迫って、航汰たちを見下ろした。同じ顔がずらりと並ぶ。
「見分け付くんか?」航汰は罪悪感の欠片もなく、素直に訊いた。
「間違わへんのか、ってか?」川元が聞き返した。
「おう。全部一緒に見えるから」
「アホか。何で自分の家、帰るのに迷うねん。それに壁に番号が書いてあるやろ」と川元が建物を指差した。
 確かに、コンクリートの巨壁の肩口に番号が振ってある。
「俺ん宅(ち)は9。佐野や。真弓やったら良かったんやけどな」阪神の選手に例えて川元が言った。
 航汰は、何か返さなければならないと思った。だから背番号が何番かなど知りもしなかったが、「川藤と違て、良かったな」と言っておいた。
 川元だけでなく、杣谷も同意して笑い出したので、この返しは正解だった、と航汰は確信した。
川元は「エレベーターもある」とは言ったが、航汰たちは結局、急な階段を六回も折り返して四階まで上がった。なんだか目が回る建物だった。
左側にドアの並ぶ通用廊下は、右側は子供の肩の高さくらいから壁が消えて、外が拝めたが、建物の高さの割に、隣の棟が邪魔で景色がそれほど良くなく、ただでさえ、そう広くもないのに皆が皆、家の前に植木鉢を並び立てるので、人一人が通行するのがやっとの幅。
消防署員が職務に忠実なら、消防法違反である、と指摘する光景だった。
航汰たちは廊下を中程まで進み、川元が持っていた鍵で自宅の鉄扉を開いた。
部屋の中は意外と広かった。間取りで言うなら3DK。
中学生の兄には個室まで宛てがわれている、と川元が聞いてもいないのに、麦茶を出すより先に、自身の住宅事情を開陳した。
航汰も杣谷の家も戸建ではあったが、兄弟二人部屋だったので、羨ましさと同時に、一人で寝る事の寂しさを想像した。多分、スケベな本にまみれているだろう事も。
なので、全部ひっくるめて「兄貴、やるな」と航汰は言っておいた。
航汰と杣谷は、川元に促され、太った事を頑なに認めない女のスカートの様に、こじんまりしたキッチンに無理やり押し込んだ高脚のダイニングテーブルに席を取り、麦茶のご相伴を預かった。
航汰は、余所の家の麦茶を飲むたびに、味が濃いな、と感じていた。
これは同居する明治生まれの祖母の淹れる麦茶が、茶の色の付いた水と称されるほどに薄く仕上げられた物であった為だ。
この味に生まれた時から馴らされていたので、どうしても余所の家の麦茶は、お茶臭くて馴染めなかった。
だから半分ほど飲んだところで、もうこれ以上、と出されたコップが洋菓子メーカー、モロゾフのものである事を大して珍しくもないのに長々と話し込んで、場を繕った。
このモロゾフとアルファベットで型押しされたコップは、この頃の関西の一般家庭では、多くの家で常備されていた代物だった。
生前は、それなりの高級プリンの入れ物として活躍し、中身を食べ終わると綺麗に洗われ、各家庭でコップとして転生した。道理としては、大工の倅が救世主になった事案と似ているかもしれない。
子供が飲むには一杯分として丁度いい大きさで、兎に角、分厚く、丈夫で、落としたところで、そう簡単には割れない代物だった為、小学生のいる家庭では重宝される事となったのだろう。
だから、どの友人宅でも、プリンを食べたのは遠い過去か、記憶がないにも関わらず、何故か複数、戸棚に並んでいた。
話は、モロゾフからパルナス(こちらも有名洋菓子チェーン。旺盛なテレビCM戦略で名を馳せ、この頃の関西圏の小学生たちは皆、このCMソングをフルコーラス諳んじられた)に移り、神戸風月堂のゴーフルの缶の直径が30センチあるか、無いかの論争に発展したところで、川元の母親がスーパーのビニール袋を両手に吊り下げ、帰ってきた。
家にゴーフルの缶があるかどうかも確認せず、定規を探しに行っていた川元が自室から顔を出し、航汰と杣谷を母親に紹介した。
「いらっしゃい。初めまして、やね」と愛想よく応対してくれた川元の母親は看護婦であるとは聞いていたが、声の野太さも手伝い、白衣の天使感はほぼ完璧に鳴りを潜め、婦長感のみの漂う女性であった。
吊り下げていたビニール袋から、麦茶のあてになりそうな物を探っていたので、戦中生まれのチョイスしたババくさいお菓子の提供を受けるのも億劫なのも手伝って、長居する気はないのでお構いなく、と川元の母に丁寧に辞し、訪問目的であった物だけを手に取り、航汰たちは部屋を出た。

「なんか、お茶飲んだら食いモン欲しなってきたわ」階段を下りながら、航汰は言った。
「そやからオバちゃん、チョコレート出してくれそうやったやんけ」杣谷も目ざとく袋の中身を探っていたのだ。
「あの硬いヤツやろ」
川元の母の手にあったものは、袋詰めのお徳用のチョコレートだった。航汰も人生の中で幾度も食らった事のある代物であった。ぐらついていた乳歯を根元の数欠片を残し、ヘシ折った事もある難物。
この頃、大手メーカーの物は『どくいり きけん たべたら しぬで』だったので、多くの主婦たちは、聞いた事もない田舎メーカーの物を買い与えたがった。味や質。値札や高級感。巨人の帽子をかぶる男への反骨心よりも、実子の身の安全を一厘でも上げる方に、注力した結果だった。
故の前述の台詞であった。
「何で、あれ美味いやんけ」あからさまな拒否反応の航汰に、川元が口を挟んだ。やはり母だ。いつもより少なくなった選択肢の中から彼の好みのものを買ってきたのだろう。
「美味いかもしれんけど、あれ、それ以上に硬さが来るぞ。中のナッツよりガワの方が硬い。硬球の次くらいの硬さや。少なくとも軟球よりは確実に硬い」
「お前、軟球食うた事あんのけ?」
「食わんでも、想像したら分かるやろ。何の為、高い金出してもうて、ユニホームまで買うて、少年団で野球やってんねん」
「その為、違うわ」
「監督のオッチャンに、キャッチボールで会話しろ、て言われてたやん」
「硬いですか、って訊くんけ?」
「訊いたら、答えてくれるやろ」
「一生、訊かへん」
「訊く訊かんは、お前の自由やけど、それは可能性を消してる」
「そやけど、夏やったらちょっと柔らかなって、丁度ええぞ」
 尚も言いすがる川元に、航汰は言ってやった。
「俺、夏はチョコ食わん」
 無駄な宣言だった。個人的嗜好において柔らかくなったチョコの口触りが許せない故の放言だった。
後年、夏場でも冷蔵庫で保存しておけば、硬さは担保されるという事を教えられたが、それは別の話だった。

川元の手にはスコップがあった。関東ではシャベルとスコップの名称が逆になるようだが、園芸や砂遊びに片手で使える小さいやつ。あれがスコップだ。
航汰達は、それを取りに川元の家に寄ったのだ。
丘の上に鎮座する向日神社の麓から続く石畳の参道脇、丘の中腹に航汰たちの通う小学校はあった。市内で唯一、高度経済成長の前の…戦争を挟んで…そのまだ前の、明治時代に建てられた学舎で、新造校達が鉄筋コンクリートの体育館を有す中、戦前からあるという木造瓦葺きの講堂が、まだ現役で居座っているような古参校であった。
小学校の裏、金網の向こうは神社の境内。
というより新興住宅地の中に取り残された所謂、鎮守の森だった。
森は、丘の反対側に広がる隣町との境まで続く広大なもので、鬱蒼とした木々が太陽を跳ね返し、夏の昼間でも薄暗い。そんな場所だった。
これを小学生が放っておく筈もなく、放課後には各所で探検隊が組まれ、川口浩の真似事が展開された。だが、それぞれの学級、グループによって流行り廃りがあるらしく、全校生徒千名を超える第二次ベビーブーム世代真っ盛りのマンモス校の軒先でありながら、探検隊がバッティングする事は、まず無かった。
そして、この頃、校内最大の秘密基地を有していたのが航汰達のグループだった。
藪の中の窪みを掘り込み、屋根まで擁した6人は収容できる本格的なもので、この日はグループ増員に伴い、新たに屋根を増設するためにスコップが必要だったのだ。
前日、屋根の骨組みとなる梁替わりの竹枝の先を固定するためには地面に穴を掘らねばならぬ、という結論に達し、そのために入用となったスコップの供出を、皆に広く求めたところ、
「俺が持ってくる」と、いちはやく新加入者の川元が、勇んで安請け合いをしたのだが…案の定、持ってくるのを忘れ、取りに帰るという愚を犯す事となった。
「スコップ持つ気無いんけ?」川元が言った。
 団地を横切る段になって、人の目が気になりだしたのであろう。
もう五六年生にもなれば団地コミュニティでは兄貴分であり、顔役である。敷地の中の舗道で遊ぶ低学年の弟分達の評価を落とすわけにはいかなかった。
手ぶらの級友たちと並び歩くスコップ片手の自分。俯瞰で見るに下手、と川元は感じたのだ。
「朝、忘れるからじゃ」杣谷が割と無慈悲に、聞く耳を持たぬ体で言った。
 川元がムッとした。その顔を彼は隠さずに見せた。基本的に運動神経がいいので平素、余裕を持って生活している川元が普段あまり見せない顔だった。
航汰は冷たい空気を肌で感じた。
小学生は足が速いというだけで、イニシアティブが取れる生物である。
人から一目置かれ、結構な高棚に置かれる。
故の余裕を川元は有していたのだが、それを今は感じなかった。
彼の中では、それほど切迫していたのだ。
 川元は、スコップを航汰の前に差し出した。
 航汰はすぐさまポケットに両手をねじ込み、出来ぬ理由を述べてやった。
「俺、死んだ祖父ちゃんの遺言で、人のスコップだけは持つな、って言われてんねん」
戯けておくのが肝要である。
 航汰は尻ポケットにスコップが差し込まれたのを、おできの出来た尻で感じた。
 これは宣戦布告である。
航汰は応戦した。スコップの刺さったケツでは夢を見られないからだ。
結果、スコップは両手を隠す三人の尻ポケットの中を何度も何度も行き交った。
 神社の境内を突っ切り、裏山の秘密基地にたどり着いた頃には、まるで有袋類が我が子を愛でた様に、スコップの刃先は生暖かくなっていた。
「スコップ、持ってきたったぞ」
 結局、最終保持者になってしまった航汰は、秘密基地建造に集まっていた仲間たちに、俺が用意してやったんだぞ、と言わんばかりに尻ポケットからスコップを取り出し、幾多の男たちが撥ね付けられた巨岩から、抜き出した聖剣エクスカリバーの様に、皆の眼前に差し出した。
「川チンのやろ」事も無げに節夫が言った。
「そうやけど、誰のか、は問題か?」
「誰のでもええけど、この人数考えると本数は問題やろ」と今度は浜山。
 航汰が発起人となって作った秘密基地グループは、大人が宛てがったドッジボールへの嫌気及び、その競技ルール上、休み時間の大半を、その他大勢として過ごす事を由としない者を中心に、我も我もの参戦を呼び、元来、ドッジボールでも主役を張れるほど運動神経のいい杣谷や川元も取り込み、男子22人中14人が在籍するクラスでも最大勢力となっていた。
14人にスコップ一本。作業効率を考えれば節夫の言は著しく正しかった。
「3人で行ったから、でっかいシャベルでも持って来んのかと思て、待ってたのに」今度は角川が言った。
 そういう手もあった。
だがスコップ一本。
この日は、皆が言うとおり作業は捗らなかった。こんな日もある。大抵はこんな日だったが。
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