出だしのエピソード

文字数 1,825文字

 先生はあたたかく迎え入れてあげてください。と言った。
 朝から霧雨の降る連休明け。教室は静かだった。こんな静かなHRははじめてじゃないかなと思う。
 一旦先生が職員室に戻って本人を連れてくるという。みんな糸が切れたように大きなため息を吐き出した。
「なんか、複雑な心境だよね」
 リカが振り返って囁いた。頷く私。
「本当なら、今頃強化選手かっていう喜多川先輩がさ、こんなことになるなんて」
 うん、と力なく頷く私にリカはバンと肩を叩いてくれる。
「あこがれの先輩だものね、あんたには」
 なにを言われても頷くことしかできないでいる。あこがれの喜多川先輩は水泳部のホープだった。私はロクに泳げもしないのに先輩のクロール、なめらかに水面に吸い込まれていく指先を見ただけで入部届けを提出していた。
 バタ足しかできなかった私に先輩は熱心に指導してくれた。先輩のおかげでクロールも平泳ぎも背泳ぎもできるようになった。とても選手になれるスピードではないけど、ひとつずつ課題をクリアしていく私に「やればできる子」と笑いながら頭ポンポンとかしてくれて……。
 やだ、顔が熱くなってきた。リカにばれないといいけど。
「あとはバタフライだけだ。絶対泳げるようにしてやるからな」
 私がめいっぱい、力の限り頷くものだから先輩大笑いしちゃって。思い出すだけでもはずかしい。

 だけど去年の初夏、事故はおこった。

 先輩は川で流された小学生を助けようとして……。
 小学生を助けた先輩は意識不明の状態。
 意識が戻ったと聞いたのはそれから1ヶ月後。その時の嬉しさは今でも覚えている。第一報はみんなが集まるプールサイド。顧問の先生が駆け込んできて、朗報を聞いた私たちは歓喜と水しぶきで祝福した。みんなで抱き合って、プールに飛び込んで喜びをわかちあった。

 だけど……。

 ふたたび扉が開いた。緊張感が教室を支配する。
「喜多川、入れ」
 先生に促されて背の高い少年が右足を引きずり入ってくる。
(先輩、髪の毛のびた)
 水しぶきのなかにいた先輩はどこかに置いていかれたみたい。
 運動機能の低下。軽くグーパーしている右手も動かしにくいみたい。アスリートにとっては過酷な後遺症。それでもこの短期間でここまで回復したのは奇跡だとお医者様も驚いていたという。
 入院生活とリハビリが長引いた先輩は、今日から同級生として学校に戻ってきた。
「子供が助かって、本当によかった」
 教壇に立った第一声だった。小さくて聞き取りにくいけど、先輩らしい言葉。
「僕も、生きていてよかった」
 だれかの息を飲む音が聞こえた。だれか、じゃなくて私のだったのかもしれない。
「不自由なことが増えてしまって。みんなに迷惑もかけると思う。そこは今のうちにあやまっておきたい」
 頰に流れるものを、私はぬぐってはいけない。だれかに指さされても、泣いてやんのと茶化されても。先輩はここにいるから。
「それから、僕は水泳部にいたんだけど。あれからすっかり水がこわくなってしまったんだ」
 教室がざわついた。激しい運動は禁じられたと聞いていたけど。わかっていたけど、とてもさみしい。
「恥ずかしい話、風呂に入るのも命がけなんだ」
 しばらくしんみりしていたけれど、何人かが吹き出した。リカなんかは「そんなアホな!」と合いの手までいれた。それにつられて緊張感がほどけていく。みんなリラックスした笑顔になった。
 ひとしきり、笑いがおさまってから先輩は一呼吸おいてふたたび口をひらく。
「水に入るのがこわいのは本当。水面を見ると手足が震える。選手として泳げなくなった悔しさのせいかもしれない。けど僕は水泳部に戻ろうと思ってる」
 マジで? なんで? みんなが疑問符を先輩に投げかける。
「約束したから。その、バタフライ教えるって」
 あまりにさらっと言うものだから、どこにむかって言っているのかわからなかった。
「ずっと、彼女との約束が頭から離れなかったんです」
 先輩が私を見ている。
 クラス中の視線が私に集まる。
「ごめん待たせて、約束は守るから」
 頭をポンとされたような。やさしい笑顔。
「あんたって子は~」
 リカなににやけてるの、ちがうちがうって、そういうんじゃなくて!
 クラスのみんなはほんわかしたみたいだけど、私は真っ赤な顔で溺れそうです。

                 〈完〉
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