第4話食堂屋のおやじ

文字数 1,319文字

ムンバイには初めて来たはずなのに、初めてという感じは全くしなかった。
夜寝ると、ボンベイに夢を追ってやってきた青年の夢を見た。間違いなく私だった。
混乱を極めた時代に生きているやり場のないわだかまりを感じていた私は『Do Bigha Zamin』のバルラージ・サーヘニーを観て憧れてしまったのだった。
そうだ、ボンベイに行こう、もしかしたら映画俳優になれるかも。なれなくても何かしら仕事はあるだろう。大きな街だから。

夢のある青年はボンベイを目指した。『夢の街』というように、一応全インドの中でモダンな街だから。それは今も昔も変わらない。

私は18で親の反対も押し切ってボンベイに出てきてしまった。もしあの時、地元で親の仕事を継いでいたらもっと穏やかな人生だったのだろうか。

結論から書けば彼は俳優にはなれなかった。
親元を離れ若干そわついていた彼は彼女がすぐに出来てしまい、彼女の親の反対をかなり強く押し切って、半ば駆け落ちのような形で、結婚してしまったのだった。

彼は彼女が大好きだった。
だけど、彼女は同じボンベイに住む彼女の家族と交流できなくなってしまったことを後悔していた。
彼はどうしても彼女を幸せにしたかった。この頃には俳優になることよりも、いかにお金を効率よく稼いで妻に楽をさせるかが彼の主題になっていた。

学のない彼は、唯一の特技である計算を生かすために食堂で勤めた。
彼の経理の能力と真面目でかつ野心的な姿勢がオーナーの目に留った。オーナーは次第に経営について彼に語るようになった。
彼はスポンジのように全てを吸収した。

彼に2人目の子供ができた時、オーナーに「自分はもう引退する。子供も戦争でいなくなってしまって継いでくれる人もいない。お前がやらないか。」と提案される。

彼は二つ返事で承諾した。

彼の食堂になってから、毎日子供を連れた妻が来るようになった。
妻が来てから、テーブル周りや壁などの細かいところがきれいになったせいか、客が前よりも増えた。
その後の人生もそんな事の繰り返しだった。

とても充実していたし、お金にも困らなかった。
夫婦仲も子供との関係も良好で幸せだった。

だけど、どうしても拭えない後悔があった。

妻も私も、親を捨ててしまった。
本当は捨てるつもりはなかった。
そのうちお互い怒りが収まってまた普通に話せるようになると信じていた。

しかし、親たちは自分たちを許さなかった。

もっときちんと親と話し合えば。
若い頃はどうして衝動的にしか行動できなかったのだろう。

彼は、自分の親と話せないことも辛かったが、妻が妻の家族も話したいのに話せない姿を見る事が一番辛かった。

妻のためにも軽率に行動するべきではなかった。
自分の幸せのために妻を犠牲にしてしまったのではないか。

彼は夢の中でずっと苦しんでいた。

目が覚めるとボンベイの海の湿気の混ざる重たい空気が体にまとわりつく。
変わらず湿った街だ。

ボンベイは彼にとっても夢の街だった。
妻と過ごした夢のような時間、だけどその夢の代償は大きかった。

彼の後悔のように、ボンベイには曇った空が広がるのだった。
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