プロローグ

文字数 3,162文字

夜の都市は、無数の光に覆われていた。星はひとつも見えない。空には、人工の輝きが広がっている。高層ビルの窓から漏れる青白い光、路上を這うように動くネオンの波、そして頭上を行き交うホログラム広告。それらの光がこの都市の全てを飲み込み、まるで未来の幻影を映し出しているかのようだ。

僕はその中を一人歩いていた。道を行き交う人々は皆、無表情で、目はどこか虚ろだ。彼らの足元を照らす街灯の光も、冷たく無機質で、その光の中に暖かさは一切感じられない。ビルの影に隠れるように走る自動運転車の列、ホバーバイクの低い唸り声、遠くで聞こえる広告ドローンのプロペラ音。それらはすべて、この都市の音として調和していたが、どこか現実感に欠けているようにも思えた。

道端に立つデジタルキオスクが、新しい製品やサービスを次々と映し出している。歩道を歩く人々の多くはスマートグラスをかけ、情報の洪水に浸かっている。その顔には感情の欠片もなく、ただ目の前のデータを処理しているだけの機械のようだった。すれ違う者たちは互いに無関心で、冷たい光に照らされたその姿は、まるで人形のように無機質だった。

僕は肩をすくめ、コートの襟を立てて歩き続けた。夜の空気は湿気を含んでいて、肌にじっとりと張り付く。頭上を見上げると、巨大なスクリーンに映し出された広告が次々と切り替わっていく。そこには、最新のファッションやテクノロジー、そしてこの都市が提供する夢のような生活が映し出されていた。しかし、その背後にある暗い影に気づく者は少ない。

この都市の下には、もう一つの世界が広がっている。地上の華やかな光の裏には、闇に包まれたスラム街がひっそりと息を潜めている。富裕層の住む高層ビル群の足元には、貧困層が押し込められた地下の迷路が広がり、そこには日々の生活に苦しむ人々の姿があった。彼らの多くは、この都市の輝かしい未来には無縁の存在だった。

僕の目的地は、その都市の隅にある古びたアパートだった。かつての栄華を失ったその建物は、他の高層ビルに比べてまるで時代に取り残された遺物のように見える。壁にはひびが入り、ところどころ塗装が剥げ落ちている。古びた鉄製のドアは錆びつき、重く、開けるたびに耳障りな軋む音を立てる。窓ガラスは薄汚れていて、曇りガラス越しにかろうじて見える内部の薄暗い灯りが、かすかな命の痕跡を感じさせた。

彼がここで最後に見た光景はどんなものだったのだろうか。無機質な都市の冷たい光の中で、彼はどんな思いを抱えていたのか。音楽を愛し、常にその音に自分の魂を込めていた彼が、なぜそんな選択をしなければならなかったのか。その理由を理解しようとするたびに、胸の中に苦い思いが広がっていく。

僕はドアを押し開けた。暗闇の中に足を踏み入れると、鼻をつくカビの匂いがした。部屋の中はひどく静かで、まるで時間が止まっているかのようだった。窓から差し込むわずかな月光が、埃をかぶった家具や床に薄い光の線を描いていた。その光景は、まるで時が止まっているかのような静寂を伴っていた。部屋の中央には古いソファが置かれており、その上には「君」が横たわっている。

彼の顔は穏やかで、まるで深い眠りに落ちているかのようだった。しかし、その胸の中には、もはや心臓はなく、冷たく硬いダイヤモンドがある。それが、彼が選んだ最後の道だったのだ。僕はその姿を見つめながら、胸の中に込み上げる苦しみを抑えきれなかった。

彼の手を取り、その冷たさに触れたとき、僕の心は一層冷え込んだ。彼の手は、かつて音楽を共に奏でた時と同じように、確かにそこにある。しかし、その温もりはもうどこにもない。彼の手は氷のように冷たく、その冷たさが僕の心の奥深くまで染み渡ってくるようだった。

「どうして、こんなことに…」

その言葉は、静寂の中で消えた。彼が何を思い、なぜこの道を選んだのか、その答えはもはや彼の中にはない。彼の心臓がダイヤモンドに変わったことで、彼の最後の感情がそこに封じ込められているように感じた。冷たく、硬く、何も語らないその宝石は、彼の絶望と孤独を象徴している。

彼が最後に残した言葉が何であったか、それを知ることはもうできない。彼が音楽を捨て、心臓をダイヤモンドに変えるという極端な選択をしたその理由を、僕はどうしても理解したかった。彼が求めていたものは何だったのか。音楽に捧げた彼の人生、その全てを投げ出してまで手に入れたかったものとは。

僕は彼の手を離し、部屋を見回した。壁には彼が愛した音楽のポスターが貼られ、机の上には書きかけの楽譜が散らばっている。それらは彼が最後まで音楽に執着していたことを示している。彼が何を考えていたのか、何を感じていたのか、それを理解するにはまだ時間がかかるのかもしれない。

机の上に無造作に積まれたメモ帳に目をやる。そこには彼の走り書きが残されていた。歌詞の断片、楽譜の一部、そして消えかけた鉛筆の線で書かれたメモ。「自由とは何か」「音楽の意味とは」など、彼が最後まで追い求めていたであろう問いが、そこに刻まれている。彼の葛藤が感じられるそれらの文字に触れることで、僕の中にもまた、彼の苦しみが伝わってくるようだった。

部屋の隅には、彼の愛用していたギターが立てかけられている。埃をかぶったそのギターを手に取ると、かつての彼の熱い息吹がよみがえるような気がした。僕たちが一緒に演奏した夜の記憶が鮮明に蘇る。ライブハウスで観客の声援を浴びた瞬間、深夜のスタジオでの果てしないセッション、そして二人で語り合った未来。あの頃の彼の瞳には、いつも確かな光が宿っていた。

しかし今、その光はここにはない。ギターを抱きしめながら、僕は彼の選んだ

道を思う。何が彼をここまで追い詰めたのか。何が彼にその極端な選択をさせたのか。彼の胸の中で冷たく光るダイヤモンドが、何よりも彼の絶望を物語っているように感じた。

外では、夜が静かに更けていく。風の音が窓ガラスを叩き、遠くで車のエンジン音が響く。この都市の冷たい夜の中で、僕は一人、彼の遺したものを抱きしめていた。彼がいなくなったことで、僕の中に何かが欠けてしまったような気がする。しかし、その欠けた部分を埋めるために、僕は音楽を続けるしかないのだろう。

彼の胸の中で輝くダイヤモンドは、まるで彼の魂そのもののようだった。それは美しく、冷たく、どこか恐ろしさを感じさせる光を放っていた。僕はそのダイヤモンドをじっと見つめながら、彼の選択の意味を探り続けた。彼が求めたものは何だったのか。音楽を愛し、芸術に対する純粋な情熱を持っていた彼が、なぜこのような結末を選ばなければならなかったのか。

外の世界は、相変わらず冷たく、無情な光に満ちている。都市の喧騒は静まり、遠くから聞こえる風の音だけが、この静かな夜を支配していた。僕は彼の手を離し、部屋の中を見回した。そこには、彼が残したものすべてが散らばっていた。それは、彼が最後まで守り続けた音楽であり、彼の魂そのものだった。

僕はゆっくりと立ち上がり、彼の胸の中に輝くダイヤモンドの心臓に手を伸ばした。その冷たさが僕の手に伝わると同時に、僕の心に何かが響いた。それは、彼が最後に見つけた自由への道だったのかもしれない。僕はその感触を胸に抱きながら、彼が求めていたものを理解しようと、再び歩き出すことを決意した。

この都市の中で、僕は彼の遺したものを抱きしめて、彼の記憶と共に生きていく。彼の選択が何であれ、それは彼自身の意志であり、彼が最後に見つけた自由だったのだろう。その自由がどれほどの意味を持つのか、それを理解するには、まだ時間がかかるかもしれない。しかし、僕は彼の残したものを胸に抱きながら、前に進むしかないのだろう。

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