第1章

文字数 3,759文字

夜の帳が降りる頃、都市の光はまるで星のように輝いていた。その光は冷たく無機質で、空を埋め尽くすネオンの洪水が夜の静寂を塗り替えていた。僕はそんな都市の片隅にある、埃っぽいライブハウスの前で立ち止まった。かつての喧騒がまだ残るこの場所で、僕たちは初めて出会った。壁に貼られた古いポスターは、過去の栄光を語るように色褪せ、床に散らばるガラス片は、ここで演奏された数々の音楽の残響を物語っているようだった。

「君」がギターを手にステージに立ったとき、その存在感に僕は圧倒された。彼の体は細く、まるで風が吹けば飛んでしまいそうなほどだったが、彼の瞳には強い光が宿っていた。彼がギターの弦をかき鳴らすたびに、音は空気を切り裂き、その場にいる全ての者の心を揺さぶった。彼の演奏は荒削りで、洗練されていない部分もあったが、その中には確かに魂が存在していた。彼の音楽は、まるで叫び声のようであり、また同時に祈りのようでもあった。

観客はまばらで、ライブハウスはほとんどが煙草の煙とビールの匂いに包まれていたが、その中で「君」の音だけが真実を語っているように感じた。僕はドラムスティックを手にしながら、次の順番を待っていたが、彼の演奏に引き込まれてしまい、何もかもが止まったように感じた。彼の音楽が終わったとき、僕はすぐに彼に駆け寄った。

「君の音楽、もっと聞かせてくれないか?一緒にやらないか?」

僕の言葉に、「君」は一瞬驚いたような表情を見せたが、その後でゆっくりと笑った。その笑顔にはどこか哀しみが宿っていたが、それでも確かに喜びもあった。

「音楽が好きなんだ。ただ、それだけなんだ」

彼の言葉は静かだったが、その中には深い意味が込められていた。彼にとって音楽は、ただの趣味や娯楽ではなく、彼自身の生きる証だった。その時僕は、彼と一緒に音楽を作ることが自分にとっても重要だと感じた。

それからというもの、僕たちは頻繁にライブハウスや路上で演奏するようになった。僕たちの音楽は、即興性に富み、自由で実験的だった。特に「君」は毎回新しいアイデアを試すことを楽しんでおり、その創造的なエネルギーは僕を含めた他のメンバーをも引き込んだ。僕たちは音楽に夢中で、成功も失敗も考えず、ただ音を楽しんでいた。

バンドを結成することに決めたのは、ある夏の夜のことだった。路上でのセッションが終わり、僕たちは小さなカフェに入り込み、汗を拭いながらコーヒーを啜っていた。その時、「君」は突然言った。

「もっと多くの人に俺たちの音楽を届けたい。バンドを組んで、ちゃんとした形でやってみないか?」

その提案に、僕はすぐに賛成した。僕たちは音楽で世界を変えたいという共通の夢を持っていた。ケンジとサラも加わり、僕たちは正式にバンドを結成した。ケンジのベースラインは重厚で力強く、サラのキーボードは繊細で優美だった。それぞれの音が重なり合い、僕たちの音楽はさらに豊かになっていった。

バンド結成の初期は、困難の連続だった。僕たちは地元のライブハウスで演奏する機会を得たが、観客はほとんどいなかった。収入もなく、時には演奏後に機材が壊れてしまうこともあった。しかし、「君」は決して諦めることはなかった。

「音楽は俺たちの全てだ。これを諦めることなんてできない」

彼の言葉に、僕たち全員が再び勇気を取り戻した。ケンジは友人から古いアンプを借り、サラは自分の貯金を使って修理費用を賄った。その結果、僕たちは困難を乗り越え、さらに強い絆で結ばれるようになった。

転機となったのは、小さな音楽フェスティバルでの演奏だった。僕たちのステージは朝早く、観客もほとんどいなかったが、「君」のギターソロが始まると、周囲の空気が一変した。彼の演奏はまるで嵐のようで、観客の心を鷲掴みにした。そのライブが終わった後、SNS上で僕たちの名前が一気に広まり、地元の音楽関係者からも注目を集めるようになった。

それでも、バンドの中では常に葛藤があった。音楽のスタイルや方向性について、僕たちは何度も議論を重ねた。「君」は新しいアイデアを追求することに情熱を燃やし、ケンジとサラはそれぞれの音楽的バックグラウンドを重んじていた。僕はその間でバランスを取りながら、全員が納得できる音楽を作り上げようと努めていた。

しかし、商業的な成功が近づくにつれて、僕たちの間には見えない壁が立ち始めた。インディーレーベルからのデビューのオファーが舞い込むようになり、レコード会社からの要求が次第に増えてきたのだ。特に「君」は、その商業的な圧力に強い抵抗感を示していた。

ある日、レコード会社とのミーティングで、次のアルバムのスタイルについて大きな変更が求められた。その時、「君」は突然立ち上がり、激しい口調で言った。

「これは俺たちの音楽じゃない。俺たちは商品じゃないんだ!」

彼の言葉は鋭く、室内の空気が一瞬にして凍りついた。僕たちは誰もが彼の怒りに驚き、同時にその気持ちも理解できた。彼にとって、音楽は魂の表現であり、それを売ることは自分自身を裏切ることに他ならなかった。

それ以来、「君」はバンドのリハーサルにも顔を出さなくなり、次第に孤立していった。彼の心の中で、音楽に対する情熱とそれを取り巻く現実との間で引き裂かれていくようだった。彼は音楽が好きだったが、その音楽が自分を苦しめるものになってしまったことに気付いていた。

僕はそんな彼を見て、どうすればいいのかわからなかった。彼を支えたいと思いながらも、自分自身もまたバンドを続けるためには現実を受け入れなければならないと感じていた。しかし、ある夜、彼が突然僕に言った。

「俺はもう限界だ。音楽が俺を壊していく…」

その言葉は、彼の心の底からの叫びだった。彼は涙をこらえながら言葉を続けた。

「俺の音楽はもう俺のものじゃない。誰かに支配されている気がする。俺の心はもう、ここにはないんだ」

僕は彼を慰めようとしたが、彼の絶望はあまりにも深く、僕の言葉は彼に届かなかった。その夜、「君」はバンドを去ることを決意し、姿を消した。僕たち全員が彼の不在に動揺し、バンドの未来が不透明になってしまった。

そして数ヶ月後、「君」が心臓をダイヤモンドに変えるという決断をしたという知らせが届いた。その知らせを聞いたとき、僕は全身が凍りついたような感覚に襲われた。彼がなぜそんな極端な選択をしたのか、全く理解できなかった。彼の最後のメッセージは、「音楽が僕たちを繋げたことを忘れないでほしい。でも、僕の心はもうここにはない」という短いもので、その言葉には彼の苦しみと絶望が詰まっていた。

「君」が心臓をダイヤモンドに変える決断をしたのは、商業主義に対する最後の抗議だったのかもしれない。彼は音楽に対する愛情を失ったわけではなかったが、その音楽が自分を傷つけるものになってしまったことに耐えられなかったのだ。彼は自分自身を守るために、あの選択をしたのだろう。

彼の死から立ち直れないまま、僕はただ日々をなんとか生き延びていた。そんな中、ある日、僕は昔「エマ」が歌っていたカフェに偶然立ち寄った。そこは、小さなステージでアコースティックライブが行われる静かな場所で、落ち着いた雰囲気が漂っていた。

カフェの奥の席に座ると、突然「エマ」の声が聞こえてきた。僕は驚いて振り向いた。そこには、少し年を重ねた「エマ」が微笑んで立っていた。

「久しぶりね、元気だった?」彼女は優しく尋ねた。

僕は一瞬、言葉が出なかった。彼女との再会は予期していなかったが、どこかで彼女と話したいという思いがあったのかもしれない。僕は「君」の死について話し始め、「エマ」はそれに深く共感し、彼女自身も音楽業界を去った理由と重なる部分があることを語った。

彼女は静かに頷きながら、「音楽が自分を見失うことになるなんて、誰も思っていなかった」と言った。その言葉は、僕の心に深く響いた。彼女もまた、自分を見失いかけた過去を持っていたのだ。

「君」の選択が正しかったのかどうか、僕にはまだわからなかった。しかし、「エマ」との再会を通じて、彼の選択を少しだけ理解できた気がした。彼が最後に自分を見つけた瞬間、それが彼にとっての真実だったのかもしれない。

「エマ」との再会が僕にとっての転機となった。彼女の言葉を通じて、僕は自分の音楽に対する見方を再評価し、自分自身を見失わないようにするための決意を新たにした。彼が残したものを抱きしめながら、僕は音楽を再び始めることを決意した。彼が求めていた自由と純粋さを、僕自身の音楽で表現することが、彼への供養になると信じていた。

街の灯りが一つずつ消えていく中で、僕は新たな一歩を踏み出した。音楽が僕たちをつなげ、また引き裂いたものならば、僕はその音楽を通じて彼の魂に触れることができるのではないかと、淡い期待を抱いていた。

彼の記憶と共に、僕は音楽を続けていく。彼が残したものの意味を理解するために、僕はこれからも自分自身と向き合いながら、生きていくのだろう。彼のいないステージはまだ空虚で、彼の音が恋しいと思うこともある。しかし、その空白を埋めることができるのは、僕自身しかいない。彼の魂と共に、僕は新たな音楽の道を進んでいく。
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