長夜

文字数 11,257文字

長夜

 すっかり暗くなっていたが、街灯は点いていた。白い蛍光灯の光。河原は久々に文明を感じた。昼間の野蛮人が隠れているだけの静まった廃墟のような街並みとうって変わり、一定区間ごとに外灯、照らされる夜道を見て、今まで経験してきた生活感のようなものを感じ取れた。地外区は人殺しだけの場所じゃないとさえ思えた。だが、暗闇には緊張感は存在する。何かが潜んでいそうだが、今は四人の強い男に囲まれている。多少の事では死ななくて済むだろうし、襲われる心配もない。恐怖が遠のくと、今いるこの街に親しみさえ覚えてくる。
 古い家並みの半分ぐらいの窓から明かりが確認できる。おそらく誰かが住んでいるのだろう。その明かりの一つに笹原と三船が抱き合って眠る家もあるかもしれない。そんな街並みを少し歩くと、辺りより明るい場所に出た。古い飲み屋街のような通りに出た。そこだけ道はレンガが敷かれ、街灯の下あたりにプラスチックで出来た桜の造花が安っぽく並び、誰かに蹴られて割れた電光看板が路上に並んでいる。なにより、開けっ放しの光が漏れる店から怒号や笑い声さえ聞こえてきた。繁華街ともいえる通りには汚れた作業着の男が数人歩き、大上の姿を見て、道を開ける。その際に、河原の姿を見つけ、じっと見つめる。だが、それは余り続かない。基本的に通りの男たちは大上一派を恐れているようだった。大上の連れである河原をじっと見ることは禁止されているかのように、急いで目を逸らし、しかし、伏し目がちに河原を目で追った。河原は注目を集めている事に気が付いていた。檻に入れられたウサギがオオカミの住む山を運ばれているような嫌な感じを味わっていた。
 「みんな見てるね。そろそろ来るかな。」
 「いや、来ないでしょ。おとうさんいるから。」
 虎次郎の問いかけに龍一が何気ないように余裕で答える。なにやらゲームでも楽しんでいる雰囲気の兄弟に対して、河原はちょっとした不快感を持った。だが、ここ地外区では力による序列が秩序を生み出しているに違いなかったので、その序列を十分に理解している兄弟こそが正しく、それに対して違和感を持つ自分が、間違っていると理解もしていた。「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出す。しかし、従えば、その常識を飲み込んだのなら、今までの常識を押し出すように否定、捨てることになるのではないか。ともすれば、それは自身の変質を認めることになる。一度変質したものは、二度とは元に戻らない。河原の不快感の原因がそのあたりにある。ただ、河原はそれ以上、そのことにこだわらなかった。何となくだが、事実の受け入れによる自身の変貌を拒否することは、そのまま停止と言う死に直行する気がした。
 「ねえ、私が餌ってことを話しているの?」
 河原は突如振り返り兄弟に言い放つ。兄弟はいきなりのことに動揺したのか、言葉が詰まる。兄弟は顔を見合わせ、目で合図する。
 「そ、そうだよ。みどりちゃんは戦いの餌になるんだよ。最近、俺たちの事、みんな恐れてかかってこないんだ。」
 龍一がやっとのことで言い終わると虎次郎が
 「餌は餌なりに黙っとけよ。」
 と興味無いように言い放つ。河原は、龍一はいいとしても、虎次郎に腹を立てた。ガキのくせに!と思ったが、口に出すのも大人げないので我慢しだが、どうしても癪に障るので、
 「それって、あんたたちのお父さんがいるから成り立っているだけで、あんたたちだけなら、私の事、餌って言う余裕ないんじゃないの?」
 と意地悪にかえしてみた。虎次郎は自尊心を傷つけられたようにカッとした。衝動的に手を振るおうとしたが、龍一がそれをさっと抑えた。河原はすくむどころか、とっさに身構えた。その構えを見て、龍一は河原がただの餌ではないことに気が付いた。戦えそうな感じがする。龍一の河原に対する親近感のようなものが増す。虎次郎も逃げまどい泣き叫ぶ女の弱さのようなものが無い河原に対して、こういう女もいるんだと、一瞬にして心を奪われた。一方で河原は兄弟が怒って騒ぎがあっても大上、げん爺が仲裁に入るだろうと落ち着いて構えていた。
 「おい、ウルフ、勝負しろ!お前なんて怖くないぞ!」
 作業服を着た赤ら顔の酔っぱらいの一人が大上に絡んできた。大きな体をして、酒の勢いもありの行動であろう。大上は中腰の態勢をとると「レリーゴー!」と掛け声かけて相手に素早く飛び掛かり、大男の両膝裏を両手で刈り、肩で押しながら相手の重心を崩し、後ろに倒した。一瞬の出来事だった。レンガの路面に後頭部を打ちつけた大男は白目を剝いて、そのままカニのように泡を吹き出した。
「タッチダウン!」
大上が腕を上げて大声で言うと龍一と虎次郎が嘲笑。しかしふざけた気軽な殺人を河原は笑えない。作業服の仲間の男たちが倒れた大男に寄り添う。何か言いたげに大上の方を見たが、奥歯を噛み切るだけで、何も言葉が出なかった。何事も無かったように大上は暖簾をくぐって一軒の店に入る。
 「あら、お帰りなさい。あれ、今日は一人多いのじゃね。可愛いお嬢さんね。」
 店に入るとカウンター越しに小奇麗にした老婆が一人。他に客は一人もいなかった。
 「おっかあ、酒だ。コップに注いでくれ。みどりちゃんも飲むだろ?」
 「あら、あんた、みどりちゃんって気軽に呼ぶんね。妬いちゃうわ。うちの「ひとみ」ってかわいい名前なんて呼んだこともないんに。」
 「おばちゃん、ええんよ。わしらがみどりちゃんって呼ぶから、げん爺も仕方なくみどりちゃんって呼んでるんだよ。気にするな。おい、龍一、おばちゃんに魚渡して。虎次郎のは今日はない。よかったな。」
 「ほんまよ。虎ちゃんが何か捕まえてきたら大変なんよ。きつねとか狸を絞めろって、うちは嫌よ。うさぎとかも可愛いのに皮剥いだりするの涙が出るんよ。」
 「ニワトリならよだれが出るんだろ。」
 「まあ、虎ちゃん、意地悪言って。でも、そうよ、コッコちゃん取ってきなさいよ。鳥は大丈夫。雀も歓迎よ。串焼いてあげる。とりあえず煮物食べんさい。その間に刺身つくるから。ちょっと、みどりちゃん、こっち来て手伝って。」
 指名された河原は素直に従うが、正直なところ、料理など殆どしたことがない。包丁を手にまごついていると
 「ちょっと、みどりちゃん、海でも浸かったの?匂うわよ。お風呂湧いてるから入りんさい。服も洗っておいてあげるから。当分居るんでしょ?」
 「おう、みどりちゃん、これ、着替え用意しといたから、これを着ればいい。」
 コップ酒を煽りながら上機嫌の大上が風呂包みを河原に渡す。河原の野戦服には汗、塩水、血と、一日の出来事が染みついていた。
 古くて小さな風呂、窓は板で塞がれていて、換気扇が湯けむりを外に出している。薄暗い光だったが、湯は暖かく、緊張がほぐれていく。河原は今日あったことが、全て遠い過去になっていく感覚に包まれる。このままずっと浸かっていたかったが、ガラスが割れる音とドンという音と共に家が揺れたので、急いで風呂から出て、用意してもらった着替えを広げた。
 「ちょっと、これ本気なの?」
 思わず苦言を漏らしたが、大上の言うことは絶対である。それに外が騒がしくなっていた。ガタガタと物音がして、男たちの怒号が聞こえる。とにかく急いで外に出る用意をしないといけない。用意された着替えはサイズピッタシであった。
 店の裏口からそっとドアを開けて中の様子を探る。血まみれになった大上が左の上腕筋で男一人の首を締め、右手ではもう一人の男の首を壁に押し付けて首の骨を砕いていた。カウンターには二人ほど死体が掛けてある。龍一と虎次郎は入口に立ち押しかける上下白ジャージの集団を殴りつけたり蹴り上げたりして侵入を防いでいた。
 「よし、二人入れろ!」
 大上の声に龍一と虎次郎は手を緩め二人ほど店の中に入れる。その後押しかけようとする集団を食い止める。入ってきた二人は対面する大上に戸惑いながらも飛びかかる。大上は一人目の顔を殴りつける。連続で三回。相手は顔面をガードしようと手を上げたが、ドンドンドン、そのまま拳を打ち込む。拳はガードをものともぜず顔面に連続に打ち込まれ、骨を砕き、顔は凹んだピンポン玉のように変形し、額は割れ、血が吹き出し、髪をべっとりと濡らした。耳や潰れた鼻からも血がドロリと流れた。瞬間的に一人破壊した。その様子にもう一人は、悲鳴を上げながら回し蹴りを繰り出すが、大上は腕で受けて、その膝に腕を絡ませ、もう一方の腕で締める。膝関節を決められて蹴った側は呻きを上げたが、その声にイラ付いた大上は肩の筋肉を隆起させ一気に締め上げる。ボコリと鈍い音がした。足が逆に折れて、肉体が壊される。白いズボンが真っ赤に染まる。河原は目の前で繰り広げられる殺人流血ショーに激しく嘔吐した。恐怖と緊張で胃が引き攣る。地外区が竜宮城と言った大上のことだから生き生きして殺人している姿は想定内だったはずだが、飼い犬が野良猫を食い殺しているのを不意に目撃したような衝撃を受けた。
 「もうやだ。なんなの・・。」
 足を破壊された男が床でもがいている。それ以外にも血染めの白ジャージ姿の死体が全部で床に八体転がっている。店内は血染め、げん爺とおかみさんの姿は無かった。
 「おい、龍一、虎次郎。みどりちゃん連れて、一旦逃げろ。明日には合流する。」
 「ええっ、おとうさん、まだ原井組の連中が外に沢山いるよ。」
 「沢山って何人いる?」
 「あと・・十五人ぐらい。」
 「じゃあ、二人で六人沈めろ。それからみどりちゃん連れて逃げろ。残りを蹴散らして、追っかける。いいな。」
 龍一と虎次郎が店の外に出る。隙を縫って四人が狭い店に入ってくる。ただ、あまりに狭いので一人づつしか大上に挑めない。そこで白ジャージの一人がカウンターに上がって煮えた大鍋を手に取り、大上に投げつけた。大上は目の前の白ジャージを捕まえて盾にする。湯気立つ煮汁が白ジャージを茶色に染める。余りの熱さにうめき声が上がる。だが、完全に煮汁は防ぎきれなかった。煮えた液体が大上の眼のあたりに飛び散った。顔をしかめた大上は一瞬動きが止まる。その隙に三人目の白ジャージがナイフを大上の腹に刺した。刺した男は恐怖に震えながらも、仕留めた感触を確信し、その血染めの手を離した。
 「うがあああああ」
 大上が獣のような雄叫びを上げる。そのまま掴んだ男をカウンターに向けて投げ飛ばした。鍋を投げた男は巻き込まれる様に一緒に落下する。その間に目を閉じたままの大上が手刀を突く。突いた先にはナイフで刺した男の顔があった。べチリと肉を断つ音の後、鼻の上部が裂け、血が噴き出た。衝撃で眼球が片方は飛び出し、片方は割れていた。血を吹く男はよろよろと破れたように歩き、そこに大上の前蹴りが入り、玄関まで吹っ飛ばされた。ガラスが割れ、入口に待ち構えていた白ジャージの男たちが飛び退いた。大上の視力は完全に回復したわけではなかったが、ぼんやりとした白い姿を追って外に出た。
 河原はガタガタと震えながらじっと見ていた。自分は大上に何を期待したのだろう?あれは野獣だ。近づいてはいけない。恐怖に慄きながら、何度も心の中でつぶやく。惨たらしい死体が店内に転がっている。噴き出た血が店の壁に飛び散っている。鉄の匂いがする。ようやく日常らしきものが戻ってきたのかと思っていたのに、それは、暴走トラックの衝突があったように、一瞬にしてすべてが滅茶苦茶になった。こんなものは誰かが罰しなければならない。だが、ここは地外区なのだ。ここには秩序がないのだから、別に悪いことをしているわけではない。それが許された場所なのだ。
 「うう。」
 大上に投げ飛ばされた男が呻き声を上げている。死んでは無かった。下の鍋を投げた男は打ち所が悪かったのだろう、泡を吹いて白目を剝いている。生存者一名。起き上がるとなると、厄介だ。河原は「頼むから死んで!」と思ったが、呻き声を上げる男の瞼が動き出す。さっきから視線に入っていたが、見ないようにしていた血染めのナイフが、その存在感を主張しはじめた。大上の腹に刺さっていたナイフだった。河原は咄嗟に手を伸ばし、ヌルヌルとしたナイフを握った。柄に着いた血はまだ温かった。その感触に殺人の予感が宿る。起き上がる前に刺してしまえば、何も無かったことになる。目の前の危険は遠のくだろうし、別にここでは罪に問われない。だが、いざ、ナイフを握り、負傷している男を刺そうと思うと、やはり躊躇する。これはやってはいけないことと、河原の培われた常識が殺人を防ごうとする。胸の鼓動が早まるが、手に血が巡らず、指先が冷え切っていく。力が入らない。もうどうしたらいいか分からない。だが、男が動き出すと、大上一派として思われているから攻撃してくるだろうし、そうなると防ぐ手立てがない。今のうちしかない。生存者の椅子は一つしかない。殺さない者が殺される。だが、そこまでして生き残ったとしても、何かいいことでもあるのだろうか?
この地外区の実験が始まって二年経つ。一万人いた地外区の人口は一年で半分になったが、新たに入居したものが一万人いた。トータルでは人口増だった。その中で、Kのような希望転出者は数十人と少なかった。河原はそれが不思議でならなかった。今、ここ地外区での争いを見て、やはり、こんなところの人口が増えていることが不思議だった。だが、河原の研究所では、それが都合の良い答えとなっていた。その答えが正しいとすると、自分が所属する組織が望む結果であれば、河原が今から行う殺人は正しいことになる。現状を知る為に調査に来たのだから、それを実行することに問題は無いはず。河原は、その編み出した答えに吐き気を覚えたが、だが、それが河原にとっての現実であった。そう考えると、指先に熱が帯びてきた。血が通いだした。背後にある正義がそれをやれと言っている。ナイフを握りしめる。
「おい、みどりちゃん、行くぞ。」
「なんで、その恰好?」
龍一と虎次郎が店に入って来た。虎次郎の疑問に、自分の姿を思い出す。
「これ、あんたたちのおとうさんの趣味だからね。そんなことより、何があったの?」
河原は自分の姿から話を逸らしたかった。
「でも、そんな体操服なんて着なかったらいいじゃん。それって、ブルマって言うんでしょ?間違いなく裸より恥ずかしいよね。おとうさんの冗談なのに真に受けるみどりちゃんが悪いんだよ。」
「だって、あの自衛隊の服で海に落ちたし、なんか血とか付いてたから、お風呂上りに着たくなかったのよ。」
「もう、そんなことはどうでもいいから、早く逃げよう。」
虎次郎の一言で三人は店の外に飛び出した。大上はまだ三人の男と戦っている。ただ、その横に血染めの白ジャージの死体が数対転がっている。
「大上さんを放っておいていいの?まだ戦っているよ。」
「大丈夫だよ。手助けなんてしたら、僕らの方がおとうさんに殺されちゃうよ。」
「そうそう、父さんに言われた通りにすればいい。」
兄弟二人が暗い街の中を走り出す。遅れまいと河原もペースを上げる。龍一と虎次郎は暗い街中をまっすぐ走ることなく、何度も細い路地に入り込んだり、小さな石段を登ったりして、すり抜ける様に移動していく。河原は必死についていく。はじめてはいた紺色のブルマは下着のみの様で落ち着かなかったが、走ることで太ももに熱が帯びてくると、当たる風が心地よく、足の付け根に引っかかることも無いので、それなりに走りやすかった。
暗闇、街灯、窓、石段、瓦屋根、水路などが目まぐるしく通り過ぎ、街を抜け、草むらに出た。丘の上に出たらしく、眼下には暗い屋根がずらりと並び、その向こうに真っ黒な海が広がる。見晴らしのいい場所だった。かつては畑だっただろう草原の奥に平屋が一軒建っていて、裏は山になっていて、その境は高い石垣が築かれていた。龍一と虎次郎は家と石垣の間に入って行った。裏口を開け中に入る。河原もそれに続いた。家は古い平屋で、家の真ん中に部屋に囲まれて、ふすまで四角く仕切られた六畳ほどの部屋があって、そこに入り、襖をしっかり締めて、上からぶら下がる裸電球を点けた。
「みどりちゃん、誰も着いてきてなかったよね?ここ最後の隠れ家だから、ばれたらヤバいんだ。この部屋なら光が外に漏れないんだ。前のとこもちょっとしたことで、原井組に見つかっちゃったし。」
「あいつらシツコイ。ここ地外区なんだから人殺しくらい大目にみろ。」
「原井組って、あの強い原井さんの組の人達ってこと?だから白いジャージ着てたんだ。原井さんも白いジャージ着てた。そういうことなんだ。でも、なんで、原井組が大上さんを襲ってきたの?」
「だから言ったじゃん、人殺ししたから。げん爺の店に入る前に、おとうさんがもろ手狩りで一人殺したでしょ?それで原井組の憲兵が大勢来たんだよ。原井組長が半年前ぐらいに地外区に来て、原井組を作ったんだ。で、その原井組が自警団のように殺人を禁止したんだ。「命を大切に」がスローガンなんだって。でもさあ、おとうさんに何回もちょっかい出して、組合員、けっこう死んでるのに、まだ突っかかってくるんだ。なあ、虎、俺たちも結構殺してるよな?」
「俺の方が微妙に多い。」
「うそつけボケ!俺の方が殺してるよ。」
「龍は甘いところがある。」
「龍じゃねえだろ、龍兄だろ!虎、お前最近生意気なんだよ。」
「うっさいボケ、カッコつけたいのか。」
実際のところ、龍一は少しいきがっていた。三人殺して興奮していたのもあるし、なにより、河原の太ももの白さが気になっていた。走って血の気が収まるかと思っていたが、この薄暗い隠れ家の電球の下、河原の裸に近い体操服姿がぼんやりとその存在感を増しているし、シャンプーの甘い匂いが追い詰められた部屋に充満している。なるべく見ないようにしていたが、意識から外そうとすればするほど、胸の内に女の存在が充満してくる。龍一はすでに勃起していた。それを悟られまいと座った。目の前に体育座りする河原が汗ばんでいる。押し倒したい衝動に駆られるが、突っ立ったままその様子をじっと見ている虎次郎が邪魔だった。兄弟喧嘩の際に何度か殺そうかと思ったことがあるが、今は何もしてなくても、ちょっとした笑い声でもあげようものなら、飛び掛かって、殺しにいける精神状態だった。
「おい、虎次郎、外に出て見張ってろ。」
「嫌だね。」
「いいから出ろ。殺すぞ!」
「出来るのか?」
「おまえ、舐めてんのか?」
殺伐とした兄弟の会話は緊張感に満ちている。河原は、ようやく難を逃れたのに、また衝突が起きようとしていることに嫌気がさした。それに自分が原因だと思っても無かった。トラブルの後で気が立っているんだろう。でも兄弟はまだ子供みたいなもんだから、その興奮を処理しきれずに苛立っているのだろう。その幼さを可愛いと少しだけ思ったが、やはり迷惑だった。
「もう、ちょっと、止めてよ。それよりこれからどうするの?」
その言葉に二人が河原の方を向いた。猛獣が獲物を狙うような鋭い視線が突き刺さる。黙り込む二人を見て、河原は自分の危機を知る。「どうしよう、私が原因だ。」そう思うと思わず足を閉じた。体育座りの内股よじり。その瞬間、兄弟二人の欲情が、興奮が怒涛の波の様に押し寄せる。
龍一が河原に手を伸ばす。すると虎次郎がその手を払い除け、座ったままの龍一に対して右回し蹴りを出す。回し蹴りに対して龍一は左手でガードをして、角度をつけてその回し蹴りを滑らす。虎次郎は蹴りの軌道を上に逸らされてバランスを崩しかけたところで龍一はさっと起き上がり左ジャブを打ち込んで牽制しようとしたが、虎次郎は軌道を逸らされた蹴りを瞬時に引っ込めて内周りの蹴りを龍一の顔に打ちつけようとした。内回し蹴りは龍一の目の前で放たれるが、それは視界から外れていた。急に足先だけが龍一の鼻先に表れた。ジャブで離れた手を戻すことなく、右手を差し出し寸前ところでガードに成功。龍一は両手がふさがれた状態で前蹴りを出す。虎次郎は右手で払って後方に下がる。この一連の動作がしゃがみ込む河原の目の前で行われる。一瞬の出来事だったが、河原はその一連の動きをじっと見て理解できた。だが、見とれているわけにもいかない。
「ちょっと、待ってよ。ケンカ止めてよ。あんたたちの考えている事分かったから。いいわよ、二人ともやらせてあげるわよ。でも、その前に、何か食べさせて。朝から何も食べてないの。」
河原は自分がいかに下品なことを言ったか理解して、自分自身がひどく驚いた。だが、お腹が空いていたのも事実だし、とにかく、一回落ち着きたかった。その発言に龍一と虎次郎はお互いの顔を見合わせた。その後、すっかり戦意を無くしてしまった。
「俺は別にいいのに。」
河原にあからさまに指摘され、虎次郎は恥ずかしくなっていた。そそくさと部屋から立ち去って行った。龍一はようやく邪魔者が消えたと思い、再び河原に手を伸ばしたが、虎次郎が缶詰を抱えて再び戻ってきて、その手を急いで引っ込めた。
龍一がご飯を炊いて、虎次郎が皿を用意した。四角い畳の部屋、裸電球の下、ちゃぶ台にならぶ炊き立てご飯とサバの味噌煮、漬物、プロテイン。河原だけはコップに注いだ水が用意された。「いただきます。」と三人でつぶやいて、ご飯を食べる。お腹が空いた河原にとって、炊き立てのご飯やサバの味噌煮は身に沁みる程、美味かった。
「おかわりしていいかな?」
そっと虎次郎にお願いする河原。
「いいよ。そのかわり、俺を先にして。」
「待てよ虎、おまえさっき、別にいいって言ったじゃないか!」
「龍兄、譲ってよ。頼むよ。」
虎次郎は、泣きそうになっていた。
「なんだよ、なんで、そんな必死なんだよ?」
「だって、俺、先に死ぬような気がする。父さん、たぶん来ないだろうし、俺、龍兄ほど強くない。さっき、三人相手にしたとき予感がしたんだ。」
「馬鹿かおまえ、おとうさんは朝になったら合流するって言ってただろ?おとうさんがやられるわけないじゃないか!それに、そりゃ、お前は俺より弱いけど、あいつらよりは強いさ。大丈夫だよ。」
「てか、俺、地外区嫌なんだよ。本当は勇二たちと高校入って、遊びたかったのに。」
「おまえ、馬鹿だから、受けても高校落ちてたよ。いいじゃないか、ここでも、十分遊べるだろう?今更そんなこと言うなよ。」
不穏な空気が流れる。おかわり茶碗を差し出した河原はそれを引っ込めるタイミングを計っていたが、虎次郎が黙って茶碗をむしり取る。湯気の立つ白いご飯が盛られる。無言のまま食事が続く。
「ねえ、あんたたち、やっぱ、怖いの?」
茶碗を空にした河原が出し抜けに聞いてみる。龍一はプロテインを飲み干すと
「怖くないよ。おとうさん強いから。俺たちもおとうさんに鍛えられているから大丈夫だよ。虎の奴、怖がりなんだよ。」
「でも、一人が強くても、相手が集団なら、最後には数で負けるよね。」
「虎、お前は黙ってろ!帰りたければ帰ればいいだろ!おとうさんもそのことは考えているって言ったじゃないか。それに、帰ってもいいことないぞ。弱い連中が集まって、俺たちの事、除者にするじゃないか。ここだって同じだろ。原井組なんて弱い奴らの集まりだから、そのうち勝てるよ。」
「でも、組員増えているよ。それに組長は強いよ。」
「じゃあ、もっとこっちも鍛えて強くなればいい。虎、おまえちゃんと稽古しないからそんなこと言い出すんだ。」
「でも、私、虎次郎君が言っていることが正しいと思うよ。大上さんは特別でしょ?」
「いや、おとうさんは、俺たちが小さい頃は、けっこう普通だったんだ。俺たちが小さい頃は、おとうさんも公園の鉄棒で懸垂十回ぐらいしかできなかったよ。でも、俺たちがすごいすごいと言ってたら、頑張って、その回数が増えて行って、毎日トレーニングし始めて、今の様になったんだ。」
「でも、父さん、やり過ぎだよ。それでこんなことになった。」
「どういうこと?」
「おとうさん、体つきがすごいから、酒場なんかで、よく絡まれたんだよ。で、ちょっとした小競り合いになったとき、おとうさんは緩くやったつもりでも、相手が大怪我して警察に捕まったり、で、外でやったら捕まるからって、道場通い出したら、そこで稽古中にワザとじゃないのに、ちゃんと加減したのに相手が弱いから死んじゃったんだよ。それで近所から嫌がらせを受けて、住めなくなったからここに来たんだ。」
河原は、お母さんはどうしたの?と聞いてみようと思ったが、それは聞かずとも解ることなので止めておいた。身体能力がいくら優れていても、それが不必要なもので、尚且つ突出していれば、一般から排除の的になる。だが、原初的な動物の優劣は、強弱によって決まる。強いものが生き残るはずである。河原は会議室での哲学の教授の話を思い出す。
「結局、認めたくないのだが、この世界は暴力によって支配されている。強い者の強大な力の前に、弱い者は従っている。ただ、世界大戦以降、暴力は物質的破壊力から、巨大な資本力に変化した。現在は、巨大な富を持つものが世界を支配している。富を持つ者のさじ加減で、持たない者は追い詰められ、経済的にも、肉体的にも死ぬことになる。このことを我々人類は文明、進化と呼ぶことが出来るのでしょうか?資本と言う暴力に支配された人類は、資本と言う人が作った設定により、その優劣を選別される。どうも、それは不自然です。だから、それは限界を迎えている。今こそ、原初的な価値判断を取り入れるべきであります。ただし、そうなると、私は劣る側に行くことになりますが・・。」
ここで会議室は抑え気味の笑い声に包まれる。その場にいた河原は、いや、他の参加者も、自虐的に笑うしかなかった。いまさら動物になれない。戦争も出来ない、これは当たり前のことだった。だが、資本による支配が社会を歪ませているというのも頷けるところがある。だから地外区という実験の場を作った。経過を見て、実社会に取り入れられるものがあれば、法制化する。ただ、それは内閣府の仕事であって、なんで、河原のいる厚生労働省で扱うのか理解しがたいところがあった。河原は年金制度に興味を持って、社会貢献したいと厚生省に入省したのだが、なぜか、地外区でブルマを履いて、悩める兄弟の話を聞いている。これも福祉の一環と思えばいいのだろうかと考えてみたが、どうもあほらしくなってきた。
「あんたたちも大変なのね。で、どうする?たぶんねえ、大上さん、私にこんな恰好させたの、あんたたちが私に欲情するようにって事だと思う。龍一君が私の事ばばあとか言ってたから、学生っぽく体操服を用意したのよ。でね、兄弟で私の事取り合うってのも想定内なんだと思う。で、勝った方が私とセックス出来て、勝った方の赤ちゃんを私が生んで、強い血筋を作ろうと計画したのよ。その大上計画に従ってみる?」
河原は、ふっと思いついた答えを下衆で投げやりな感じで話してみる。せっかく身の上話を聞いてもらえると少し期待していた兄弟は、その河原の身も蓋もない下品な有様に気持ちが萎えてしまった。
「もういいよ。明日にはおとうさん帰ってくるから、寝て待とう。」
「寝よ寝よ。」
不貞腐れたように龍一と虎次郎は食卓を片付けて布団を敷いた。河原はリュックに入った寝袋を出して部屋の隅で寝ることにした。別に二人の相手をしても良かったが、今日は疲れたのでゆっくり眠りたかった。
作戦は功を奏した。河原を狙うオス猫二匹は気分が悄気げて背中を向けている。安心して横になると畳と埃の匂いが少し気になったが、気を失うようにすぐに寝入った。一方で、すっかり取り残された兄弟は布団に入ってもなかなか寝付けなかった。
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