佳景

文字数 2,025文字

 生まれてこの方、景色に見惚れた事はなかった。
 僕はずっと寂れた片田舎に居る。旅行の経験もない。小さな学校の修学旅行は、一つ県を跨いだだけ。今日まで、果てしない田畑以外の風景を直接見た事がない。美しさの何たるかを知らないのだ。目的なく高校に通い始めた僕に、両親はやりたい事を見つけろと言う。そんなのわからないのに。

 八月。軒先の風鈴が遊び飽きた、月半ばが僕の誕生日だ。同級生は夏休みで忘れ、家族はケーキを食べる日と思っている。僕は甘い物が苦手だ。
 しかし今年は、毎年の虚無感とかけ離れて待ち遠しかった。中学時代の友人三名が僕を祝いに集まってくれるのだ。全員進路が異なり、卒業以来となる。

 待ち合わせの公園へ行くと、先に居たタケが同級生らしからぬ太腕を振った。
「おっす」
 昨日会ったみたいな、いつもの挨拶。半年の空き時間がとても長く感じた。
「久し振り。皆は?」
「もうちょいで来んじゃね?」
 短パンから覗く焦げた肌。身長が伸び、厚みはまるでラガーマン。彼は去年の夏、土木会社に就職が決まった。
「仕事、大変?」
「毎日叱られてる。中学と変わんね」
 母と二人暮しのタケは進学を諦めた。希望より母を働き詰めにさせまいと道を変えた優しい男だ。現場で真面目に働く姿が目に浮かぶ。

 近況を語り合う中、公園に単車が停まった。フルフェイスに黒の革ジャンの猫背が乗っている。降りた不審者は僕らを目指し、小走りでやってくる。
「よっ」
「……誰?」
「俺だよ!」
 ヘルメットを外して露わになった細顔と縮れ髪は、ちゃんと友達のムラだ。彼はクールな見た目に反してニンマリ笑みを溢す。
「俺、有名人じゃん? 顔隠さないと即バレるって」
 ムラは中学の時から有名だった。作曲が趣味で、硝子の恋心を謳った歌がSNSでバズった。今や天才シンガーだ。
「すっかりビッグだね」
「ああ。新曲出るから買えよ」
「当然」
 暫く自慢話を聞かされた。都会の景色や、事務所のお偉方に連れられた高級料亭。ムラは一頻り話して満足し、水筒を飲んで言う。
「リカは?」
「遅いな。前より厚化粧になってんじゃね」
 タケの冗談に笑う。僕はリカが好きだった。とは言え愛嬌のある可愛さは評判で、僕は彼女を好きな大勢の内の一人に過ぎない。偶然話す機会が多くて、タケやムラとも気が合った。それだけの関係だ。

 背の低い女子が公園に入って来た。リカだ。目鼻立ちが上品で、小動物じみた魅力をよく理解したガーリーなワンピース。遠目でも制服より似合っている。しかしシルエットが近づくにつれ、ただのお洒落でないと察した。
「お待たせ」
 お腹だけが膨らんだ姿は怠惰の成果ではない。目を丸くする男子陣に、リカはもう、と眉を寄せた。
「驚かないでよ」
「いや無理」
 僕は今日で十六歳だ。去年まで一緒にはしゃいでいた、婚姻年齢にも満たない少女が妊婦なんて信じられない。
「相手、誰?」
「高校の先輩。二人で辞めたけど。歴代最速」
 情報量が多く、驚きを通り越す。少しの間リカの話題で持ち切りだったが、僕らはすぐ数か月前の昔話に花を咲かせた。

 その後は誕プレを貰い、馴染みの場所を回った。帰る時間はあっと言う間に訪れ、恋しさでタケとムラは泣いて抱き合う。ムラのゴボウじみた体が折れかけた。僕も真似してみたけど、涙は露ほども出なかった。
 健闘を祈り合い、各々帰路につく。男子二人と途中で別れ、リカと並ぶ。心臓はときめきを取り戻さない。静寂の中、不意に尋ねられた。
「あまり楽しそうじゃなかったね」
「そんな事ない。嬉しかった。ただ吃驚したんだ」
 僕は恥ずかしくて嘘を吐いた。困惑より流れる毎日を平然と受け入れていた自分に焦っている。
「皆、凄いよ。働いて、夢叶えて。親になるなんて想像もつかない」
「凄い、のかな」
 俄雨の最初のように、ポツリ、と聞こえた。
「私はね、焦ってた。周りと話してて、私、遅れてるなって。それで合わせてたら、いつの間にか後戻りできなかった。誇らしさは無いよ」
 僕が黙ると、リカは「浅いよね」と自嘲する。誘い笑いに応えられなくて申し訳なかった。
 タケは野球選手が夢だった。きっと叶わない。大人に目をつけられたムラは傀儡になるかもしれない。リカにはもう自分だけの時間がない。そうして誰かの道を俯瞰する奴ほど、斜に構えたガキなのだ。

 リカは、そんな僕を責めなかった。
「動いた方が楽だっただけ。なるようにしかならないもん。立ち止まって悩むって凄いんだよ」
 やりたい事って何だろう。その答えを、いつからか他人と比べ、探していた。馬鹿馬鹿しいくらい若い悩みだ。夕焼けは簡単に僕らを飲み込んだ。
「次はいつ会えるかな」
「皆の誕生日は冬なんだよね。私は難しいかも……今度は身軽だと良いね。お互い」
 楽しげな彼女に、今度は笑顔を返せた。
 一人で歩く橙色の綿雲。下り坂の先に広がる未成熟な稲の群れ。ゆらゆらと流れる風が茹だるアスファルトを冷ましている。僕は初めて故郷を美しいと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み