第1話

文字数 796文字

彼女は言った。
「表現することを、何かを発信することを辞めないでほしいの」
それは小田急線で新宿に向かう途中、ベースをソフトカバーに入れた赤い眼鏡の女の子が言った言葉だった。


あれからもう15年が経っていた。
その時の光景とその言葉は、今でもすぐに思い出すことができた。だけど僕は「表現する」という活動は全くしなくなっていた。
そしてその言葉は、僕を励ますために言ってくれたものだったにも関わらず。



15年の間にいろんなことがあった。
結婚し、子供も生まれていた。そして僕は徐々に内面から腐敗していくような感覚を、徐々に蝕まれていく感覚を、ありありと、ぬめぬめした蛇を触るように感じることができた。


それは決して身体のことではない。心の問題だった。昔なりたくないと思っていた、いわゆる「大人」というものにいつの間にかなっていたという、よくある話だ。

毎日仕事をし、たまに酒を飲み、Sexをした。ラウンジで自分のステータスをひけらかし、承認欲求を満たす。友人と自分の地位や年収を比較して自分の方が良い生活ができている、リテラシーが高いと確認する作業。そういったいわゆる本当にどうでも良い、くだらないと思っていたものに、徐々に絡めとられていた。意思のあるツタが足にゆっくりと絡まり、沼にひきずりこまれていくような、ゆっくりと底に沈んでいく感覚。

そんな現状と全く逆の位置に存在していたのが、僕にとっての表現ということだった。
それはひどくピュアで、とても脆いもののように今は感じられる。
残酷なほどに、そして意識することもできず、時間が経ってしまったんだということを実感する。

結局15年経ったが、何者かになることもできず、目の前のことを必死にやっているうちに、時が過ぎ去っていた。残っているのは思い出の残骸だけ。
そのかけらをたまに拾って、眺めてみる。写真における役割と同じような、思い出を懐かしむための装置になっている。
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