第1話

文字数 1,804文字

 姫が眠りについて、もう50年ほどが経った。
 姫は塔の先端で魔女の差し出す糸繰機の針に触れて眠りについたと語られる。けれどもこれは氷山の一角。針は巡らされた罠の端っこ。
 姫から溢れた血液は魔女の操る糸を伝ってこの城深くに埋められた茨の呪いにたどり着く。

 その呪いはもともとただの人間だった。羊飼いをしていた。毎日羊を追って暮らし、野と山を往復した。
 羊飼いはある晴れた日、1人の少女に出会った。何も知らないようなとても無垢な少女の姿をしたその可愛らしい生き物は、自分がこの国の姫であると偉そうに述べた。
 羊飼いは馬鹿なことをと思いながら、ふわふわしたした衣装を身にまとった少女に家に帰るようすすめた。

 この先は魔女の足元、魔女の砦。この清らかな小川を渡ると、そこは冷たい茨で覆われた深緑色の魔女の帝国。
 少女は不思議そうに言う。

「魔女は私の出生を祝ってくれたわ。お友達よ」
「お嬢さん、世の中にはいい人と悪い人がいるように、いい魔女と悪い魔女がいるのです」
「この先にいる魔女は悪い魔女なの?」
「この先の魔女はちょうど中間。性状は会う人によって異なるでしょう。この先の魔女の名前は茨。その性質は冷徹ですが、微笑めば幸運を、恐れば不運を送るでしょう」
「それならきっと大丈夫。お父様はこの国の魔女はみんな私のお友達と言っていたわ」

 そう言って少女は暖かな陽光を反射する穏やかな川に入り、川岸に一歩足をかけた瞬間、地面から突然生え伸びた茨に囚われ姿を消した。

 羊飼いは慌てた。初めて見たきらびやかな少女はすっかり羊飼いの心を捉えてしまっていたから。羊飼いはじゃぶじゃぶと急いで川を渡り茨の訪れを待ったが、いつまで待っても何も起こらなかった。
 羊飼いは一度川向うに戻って羊を全て開放してから再び川を渡り、その先の茨の森へ分け入った。茨は皮膚を鋭く掻き、歩を進める度に羊飼いを血に染める。どのくらい歩いただろうか、茨に覆われた冷たい白亜の城が現れた。これが噂の魔女の居城。

 羊飼いは覚悟を決めてその門前に立つと、門はゆっくりとその内に開かれた。恐る恐る様子を伺いながら入ると、そこには1人の魔女がいた。魔女はすらりと背が高く、静かな目で羊飼いを見下ろした。

「用はあるか」
「ございます。少し前に女の子が川を渡りました。その子を助けたいのです」
「助けるとは何か」
「女の子をもとの生活に戻してあげたいのです」
「あの者の国は以前私を拒絶した。次は私が拒絶するのが理である」

 魔女とは世界と同義である。何故その国はそのようなことを。羊飼いは混乱した。

「私はその子の国の者ではありません。私の願いで交換したく存じます」
「何を差し出すのか」

 羊飼いは困った。あの子の国がこの魔女に何をしたのかわからなければ、釣り合うものが測れないからだ。

「私で釣り合いはとれるでしょうか」
「1年ほどであれば相当であろう」

 羊飼いの命は少女の命の1年分相当。
 1年経てば、少女は世界に拒絶される。

「何か方法はないでしょうか。あの子を不幸にしたくはないのです」
「不幸とは何か」
「私はあの子が世界に拒絶されるのは嫌なのです。あの子にこのまま笑って暮らしていって欲しいのです」

 魔女とは世界の理に触れ、それを行使するもの。少女は自ら魔女の領土に来たのだ。そうである以上、負債を支払わずここを出るのは均衡が取れない。
 魔女は対価の衡平性について頭を巡らせた。

「では私の仕事をそなたに依頼しよう。それで対価に満ちるだろう」

 羊飼いと同じ16歳まで少女は生き、羊飼いが行使する茨の魔法によって対価に等しく満ちるまで城は時をとめて凍りつく。対価として魔女は時を受け取る。対価が満ちた後、少女と城の時は再び動き出し、その運命に従って理どおり生命を終える。
 呪いになればもう人には戻れないけれども、羊飼いは一も二もなく同意した。魔女は羊飼いに茨の種を埋め込んだ。

 その後、魔女はその国に少女は16歳のときに糸車に刺されて眠りにつくと宣言し、国は恐慌に陥り国中の糸車が焼かれた。
 魔女は優しい羊飼いのために糸車を用意し、呪いを発動させた。そうでなければ魔女は対価に少女を刈り取らなければならなかったから。

 城は茨に覆われ、閉じ込められた。数百年の後に王子が現れ呪いを解き、茨は最後に美しい花を大量に咲かせてその訪れを祝福し、散り果てた。
 羊飼いのことは魔女以外誰もしらない。
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