第1話
文字数 1,998文字
煙草。
味やブランドはよくわからない。ましてや電子煙草との違いなんてさっぱり。
けれど、彼と煙草を嗜む時間は好きだ。
残業の合間、ひとり無表情で吸う彼の姿に惹かれた。
コンビニに駆け込んで煙草を買い、その足で彼のもとに向かった。煙草が好きだなんて、今思えばあからさまな嘘だったが、快くわたしを迎えてくれた。煙草のことも優しく教えてくれた。
喫煙所では戯れるように、ふたつの煙が揺れている。わたしの気持ちが煙となって彼の肺に吸い込まれていくんじゃないか、気が気でなかった。
わたしが煙草に馴染んだ頃、彼と付き合いはじめた。
家族や親友から嫌な顔をされるたび彼のことが恋しくなり、共に過ごす時間が長くなっていった。
彼を何度も泊まらせた。のちに同棲をはじめ、彼がいたら何もいらないと本気で思った。
彼はわたしを煙たがるだろうか。そうだとしても、愛おしい日々だった。
しかし、わたしは風邪をこじらせてしまい、煙草が吸えない体になった。
彼も吸わなくなり、最近は塩キャラメルを舐める姿をよく見かける。
いや誰だよ? わたしの彼氏は仕事中に煙草ソムリエをやっていた人だが、って感じ。
さらに、彼は仕事ばかりするようになった。仕事。仕事。仕事!
ねえ、本当は煙草が吸いたくてたまらないのでしょ。わかるよ、人間関係も血の繋がりも煙草も切ってきたわたしには。
ねえ、あの頃みたいに夢を見せてくれないの?
見せてくれないなら、わたしが連れていく。
「――花火、見に行こうよ」
仕事帰りの疲れきった彼を、半ば強引に連れ出した。
がらんどうとした電車に乗り込む。
「もう終わってるんじゃないの?」
尋ねる彼を無視し、彼の手を引いてわたしは会場の海へ急いだ。スーツ姿とスウェット姿の、歪なふたり組だった。
○
花火大会の終わった海は、少し煙たい空気を漂わせていた。
「やっぱり終わってるよ」
「終わってない。わたしたちの花火はこれから」
「おまっ……、ダメだろ!」
危ないだの心配だの、彼は理由を並べながら取りあげようとする。
「最後の一服。付き合って」
とわたしが吸いはじめると、彼は大きく溜め息を吐いた。
煙草を吸わなくなったのは、わたしのせい。
無邪気に笑えなくなったのも、わたしが変えてしまったせい。
だから、命と引き換えに吸うのだ。
彼はゆっくりとした足取りで近寄り、片手をこちらに差し出した。その手のひらに一本の煙草とライターを乗せると、彼はしぶしぶ煙草に火をつけた。
吐き出された彼の息が鼻奥をくすぐり、懐かしい気持ちにさせる。瞳は淀み、唇は先ほどと違って静かにしていた。海面を凝視しながら、また煙草を咥える。
あの頃に時間が巻き戻ったみたい。そうしてるあなたが好きよ、と言おうとした。
「……俺はずっと悩んでた。何をしても無意味な気がして」
先に声にしたのは彼のほうだった。
「そんなことないわ」
「そうかな」
「そうだよ。あなたとの時間に無意味なことなんてひとつもなかった」
「じゃあ、この煙草にも意味が?」
わたしがこくりと頷く。
「そう」と消え入るような声を漏らしたあと、彼は煙草で口を塞いだ。
何か考えているんだわ。懐かしい彼の癖を見て穏やかな気持ちになった。
「それって、いいことなのかな」
……彼の言葉を聞くまでは。
わたしは彼の手の先を見つめる。唇から離れた煙草はじじじと燃え続けている。
「いいことじゃなきゃ駄目なの?」
今度は彼がわたしの煙草を眺めた。
「わたし、あなたと過ごすこの時間が好き」
「これ以外は? この時間しか好きじゃない?」
「……いいえ」
強い意思が宿る声とまっすぐな眼差しに気圧された。
「俺は今の生活も嫌じゃないよ。たしかに煙草は好きだし、君が話しかけてくれたとき嬉しかった。まぁ煙草好きは嘘だってすぐにわかったけど、それも楽しかった」
淡々と話しながら、彼は煙草をくゆらせる。
「でも今は違う。君と生きていけたらいい。これはいらないって、俺が決めたんだ。君は、こんな俺は嫌? こっちのほうがいい?」
俯いてしばし、わたしは首を横に振った。
彼は煙草を海へ投げ捨て、わたしを抱き寄せて一呼吸。そして、すくいあげるように頬を掴み、唇を合わせた。
煙草の味がしていた彼はどこか甘くてしょっぱくて……、塩キャラメルの味がする。これが今のあなた。
胸が焼けるように痛い。あの頃の彼がなくなる。あの日々が遠くなっていく。嫌だぁ……。
叫んでしまいたいのに、彼を感じ入ってしまった。緊張の糸が切れそうな声。震える手。気づいたら引き剥がすことはできない。
長い抱擁のあと、ようやく彼はわたしを解放した。刹那、わたしの指から煙草が落ちた。重力に従い、火はあっけなく消えた。じゅ――。目を凝らしたが、見当たらない。
黒い海は唸り声をあげ、思わず彼にしがみつく。手を引く彼に導かれるまま、わたしたちは暗闇から脱出した。
味やブランドはよくわからない。ましてや電子煙草との違いなんてさっぱり。
けれど、彼と煙草を嗜む時間は好きだ。
残業の合間、ひとり無表情で吸う彼の姿に惹かれた。
コンビニに駆け込んで煙草を買い、その足で彼のもとに向かった。煙草が好きだなんて、今思えばあからさまな嘘だったが、快くわたしを迎えてくれた。煙草のことも優しく教えてくれた。
喫煙所では戯れるように、ふたつの煙が揺れている。わたしの気持ちが煙となって彼の肺に吸い込まれていくんじゃないか、気が気でなかった。
わたしが煙草に馴染んだ頃、彼と付き合いはじめた。
家族や親友から嫌な顔をされるたび彼のことが恋しくなり、共に過ごす時間が長くなっていった。
彼を何度も泊まらせた。のちに同棲をはじめ、彼がいたら何もいらないと本気で思った。
彼はわたしを煙たがるだろうか。そうだとしても、愛おしい日々だった。
しかし、わたしは風邪をこじらせてしまい、煙草が吸えない体になった。
彼も吸わなくなり、最近は塩キャラメルを舐める姿をよく見かける。
いや誰だよ? わたしの彼氏は仕事中に煙草ソムリエをやっていた人だが、って感じ。
さらに、彼は仕事ばかりするようになった。仕事。仕事。仕事!
ねえ、本当は煙草が吸いたくてたまらないのでしょ。わかるよ、人間関係も血の繋がりも煙草も切ってきたわたしには。
ねえ、あの頃みたいに夢を見せてくれないの?
見せてくれないなら、わたしが連れていく。
「――花火、見に行こうよ」
仕事帰りの疲れきった彼を、半ば強引に連れ出した。
がらんどうとした電車に乗り込む。
「もう終わってるんじゃないの?」
尋ねる彼を無視し、彼の手を引いてわたしは会場の海へ急いだ。スーツ姿とスウェット姿の、歪なふたり組だった。
○
花火大会の終わった海は、少し煙たい空気を漂わせていた。
「やっぱり終わってるよ」
「終わってない。わたしたちの花火はこれから」
「おまっ……、ダメだろ!」
危ないだの心配だの、彼は理由を並べながら取りあげようとする。
「最後の一服。付き合って」
とわたしが吸いはじめると、彼は大きく溜め息を吐いた。
煙草を吸わなくなったのは、わたしのせい。
無邪気に笑えなくなったのも、わたしが変えてしまったせい。
だから、命と引き換えに吸うのだ。
彼はゆっくりとした足取りで近寄り、片手をこちらに差し出した。その手のひらに一本の煙草とライターを乗せると、彼はしぶしぶ煙草に火をつけた。
吐き出された彼の息が鼻奥をくすぐり、懐かしい気持ちにさせる。瞳は淀み、唇は先ほどと違って静かにしていた。海面を凝視しながら、また煙草を咥える。
あの頃に時間が巻き戻ったみたい。そうしてるあなたが好きよ、と言おうとした。
「……俺はずっと悩んでた。何をしても無意味な気がして」
先に声にしたのは彼のほうだった。
「そんなことないわ」
「そうかな」
「そうだよ。あなたとの時間に無意味なことなんてひとつもなかった」
「じゃあ、この煙草にも意味が?」
わたしがこくりと頷く。
「そう」と消え入るような声を漏らしたあと、彼は煙草で口を塞いだ。
何か考えているんだわ。懐かしい彼の癖を見て穏やかな気持ちになった。
「それって、いいことなのかな」
……彼の言葉を聞くまでは。
わたしは彼の手の先を見つめる。唇から離れた煙草はじじじと燃え続けている。
「いいことじゃなきゃ駄目なの?」
今度は彼がわたしの煙草を眺めた。
「わたし、あなたと過ごすこの時間が好き」
「これ以外は? この時間しか好きじゃない?」
「……いいえ」
強い意思が宿る声とまっすぐな眼差しに気圧された。
「俺は今の生活も嫌じゃないよ。たしかに煙草は好きだし、君が話しかけてくれたとき嬉しかった。まぁ煙草好きは嘘だってすぐにわかったけど、それも楽しかった」
淡々と話しながら、彼は煙草をくゆらせる。
「でも今は違う。君と生きていけたらいい。これはいらないって、俺が決めたんだ。君は、こんな俺は嫌? こっちのほうがいい?」
俯いてしばし、わたしは首を横に振った。
彼は煙草を海へ投げ捨て、わたしを抱き寄せて一呼吸。そして、すくいあげるように頬を掴み、唇を合わせた。
煙草の味がしていた彼はどこか甘くてしょっぱくて……、塩キャラメルの味がする。これが今のあなた。
胸が焼けるように痛い。あの頃の彼がなくなる。あの日々が遠くなっていく。嫌だぁ……。
叫んでしまいたいのに、彼を感じ入ってしまった。緊張の糸が切れそうな声。震える手。気づいたら引き剥がすことはできない。
長い抱擁のあと、ようやく彼はわたしを解放した。刹那、わたしの指から煙草が落ちた。重力に従い、火はあっけなく消えた。じゅ――。目を凝らしたが、見当たらない。
黒い海は唸り声をあげ、思わず彼にしがみつく。手を引く彼に導かれるまま、わたしたちは暗闇から脱出した。