第1話・中学受検するの?しないの?誰が決めるの?

文字数 6,278文字

 中学受験ではなく、中学受検と書く。公立中高一貫校では試験のことは検査と呼び、受験は受検と表記されている。

 笹倉橋晋平(ささくらばししんぺい)里穂(りほ)、傍から見ていても仲のいい夫婦だ。オシドリ夫婦の円熟味にまではまだ至っていないが、近所でも「あそこの夫婦はきっとうまくいっている」と思われているだろう。
 もしも晋平がニュースで取り上げられたら、きっと近所の人は「いい人でしたよ。挨拶もちゃんとしてくれるし、マンションに落ちてるゴミも拾う人でした」なんてコメントされるだろう。

 里穂の場合は「近くの会社でパートもされてたみたいで、地味そうだけどいつもお綺麗にされてましたよ。小学生の子供のスイミングスクールにもちゃんと送迎されいたみたいだし」と晋平にも劣らない、いいひとコメントをもらえるだろう。
 (はた)から見て、二人の人柄も夫婦間の関係性も問題なさそうに見える。それは、あくまでも傍から、外野から見た場合だ。

 実際はいいひとで、夫婦としても仲良しの二人には、どうしても折り合わないテーマがひとつだけある。息子・(ひびき)の中学受検についてだ。小学生のうちは自由に好きなことをと考える晋平と、高校受験を避け六年間伸び伸びと好きなことをさせるために中高一貫校に進ませたい里穂。

 ふたりとも響を自由に・伸び伸びと育てたいのには変わりないが、その方法は違っていた。だから、折り合いがつきそうでつかない。相手の主張を聞けば聞くほど、自分の主張を語れば語るほど、どうしてこっちの選択をしないの?と考えてしまうのだ。

 昨日も響きの中学受検する・しないで夕飯の時から対立していた。結局解決などすることなく、晋平は深夜まで観残していた映画を観て、明け方に眠った。次の日も会社だというのに。

「ねぇ、考えてくれた?」
 朝から里穂は不機嫌だ。晋平の不意打ちをついてやろうと昨日から泳がせてきた。いくら次の日が金曜日だからといって、夜更かししする夫は自分軸でしか物事を考えていないと思っている。まだ子供だ。我慢が足りないとまで里穂は思っている。

 いつもはテーブルの上にアツアツのコーヒーが置かれているはずだ。だが、何もないことから察するに、まだ喧嘩は継続していると晋平は判断した。夜更かししすぎたせいか、二時間程度しか寝てない。頭が冴えないから、コーヒーは必要なのに。妻の(たく)みな戦いっぷりに敬意すら感じていた。

「何を」

 と、ひとことぶっきらぼうに返事して、ふてぶてしそうに朝刊を読む晋平。物価が上がるニュースばかりで辟易(へきえき)としていた。給料は物価の上昇に追いついてくれるのか?と愚痴(ぐち)りたくもなった。
 コーヒーのない朝はさすがにキツイ。里穂はいつも通りに朝食を用意してくれている。目玉焼きのジューッと心地いい音がキッチンからリビングへと響く。カリカリのベーコンの香り、起きたばかりの四十男(しじゅうおとこ)には(こた)える。用意してくれている妻に、文句なんて言えない。晋平は初手(しょて)から負けていると、冷静に自分を分析していた。

「だから、中学受検よ」
「前も話したろ。高校受験からでいいだろ」
 晋平がこの返事をするのは何度目だろうか。晋平自身も覚えていない。どうしてここまで中学受検にこだわるのか、里穂の頭のなかはどうなっているのか、晋平には想像すらできなかった。

「どうして高校受験からでいいのよ?」
「なんだっけ?」
「ごまかさないでよ、高校受験からでいい理由を聞いてるのよ」
 里穂は無下(むげ)に誰かを否定はしない。意見を聞くべき時は聞くタイプだ。そういう点では晋平よりも器が大きいと、義父からも(ほめ)められたことがあった。とはいっても、褒められているのか皮肉なのか、捉え方次第ではあったが。

「だってさ、小学生だろいま。受検勉強なんかで、時間使ってたら遊べないだろ。可哀(かわい)そうじゃないか」
 晋平は正論を絞り出すようにして言い放ち、チンした白湯(さゆ)をズズッと音を立ててすすった。いつも里穂からやめてといわれている、晋平のクセの一つだった。
「じゃぁさぁ、響の意思を確認するってのはどう?」
「ああ、それでいいんじゃないか」
 どうも乗り気がしない晋平の言質(げんち)を取った里穂は、今日の夫婦の対話にそれなりに満足感を得ていた。

 里穂はどうしても受検をさせたいというわけではなかったが、この問題を適当に終わらせて結論付けるわけにはいかないと考えていた。自身が中・高・大と一貫タイプのスライド方式で希望の進路を歩んできた。
 きっかけは母からの「受験してみない?」の問いかけだった。母がすすめる中学校の文化祭に行った当時小学五年生の里穂は、お姉さんたちのいきいきした姿に興奮した。
その日のうちに母親に「自分もここに入りたい」と伝えて、受験勉強が始まった。
 志望動機なんてそんなもんだ、と里穂はいつも考えていた。

「おはよ」
 響が眠そうな目で起きてきた。昨日は食後にゲームをしすぎて、父に叱られていた。憮然(ぶぜん)としながらも、まだ父を怖い存在だと思っているのだろう、「ごめんなさい」と謎の謝罪をしてゲームを片付けて就寝した。

「響、あのさ」
 晋平が口を開く。タイミングや間を考えない自己チューな夫を、里穂は咳払(せきばら)いで制止した。
「今日の夕飯の時に、ちょっとお話しよっか」
 里穂は晋平の言葉を打ち消す。

「ほら、パパ。朝食のお皿、テーブルに並べてね」
 晋平は里穂の指示に従い三人分の朝食プレートとお茶碗をテーブルに置く。箸置き・箸のセットも晋平の仕事だ。

「ねぇ、何?僕、もう夜にはゲームしないよ」
 響は昨日の一件を反省しているようだった。父親に久々に叱られたことが効いたのか、そもそも自分でも夜のゲームは良くないと思っていたのか。とにかく素直でいい子に育ったと思うが、反面どこか親の顔色をうかがうようだと里穂は感じていた。伸び伸びと育てなければ、と気持ちは焦る。

「違うのよ、ゲームの話じゃないよ。また夕飯の時に話そうね」
「うん」
 響は家族分のお茶を用意して、テーブルに並べた。彼のお仕事だ。
 晋平は「決戦は夕飯」、今日は残業せずに帰らねばと頭の中で仕事の段取りを整理していた。一つのことで頭がいっぱいになりやすいのは、ちょっとしたパニック障害なのかもしれないと自認していはいた。

「パパも今日はノー残業デーでしょ。早く帰ってきてね。飲んできちゃダメだからね」
 妻の方が夫の仕事の段取りがよくわかっている。晋平は月末木曜日がノー残業デーであることをすっかり忘れていたのだった。18時にはフロアすべてが消灯される。できるだけ家族には、里穂にはわからないようにしてきたはずだったノー残業デーの存在。

 ふらっと飲みに行くなんてなかなかできなくなったと寝不足の目を見開きながら、晋平は家長(かちょう)として「いただきます」の号令を発した。いつもの朝食をいつものように始めた。

 晋平の会社は家から徒歩十五分、電車に乗ることもない距離だ。製茶工場がブランディングに成功し、今や観光名所にもなっている。社長は郊外の土地を買い、人を集めカフェを始めた。ノウハウがないものの、観光客、特に外国人には受けがいい。店では物販も行っており、抹茶を使った菓子のほとんどはOEMで、よその工場で作らせている。レシピを提供し、指定の原材料を提供し、製造してもらうのだ。晋平はその製茶工場でマーケティング課を発足し、主任の職に就いている。

「笹倉橋さん、なんか社長ピリピリしてますよね」 
 同僚の長塚早智子(ながつかさちこ)は、特技がおしゃべりというスーパーポジティブさが魅力だ。おしゃべりは職場では、コミュニケーション能力が高いと変換すれば長所として受け入れられる。

 世間が多様性多様性と念仏のように唱えるようになったのは、一体いつからなんだ、と晋平はなかなか立ち上がらないパソコンを眺めながら思っていた。

「社長がピリつく日は、銭勘定の時だけだよ」
 昨日、税理士に家族の分の役員報酬を勝手に変えたことを指摘されたせいだ。役員報酬は基本的に期初から三カ月以内。それ以降に変更するなら、株主総会の開催が必要だ。といっても、株は社長と奥様、ご子息と親戚たち一族で保有しているのだから、開催しなくたっていいだろうってことだ。こんな日、社長はもちろん、専務・奥様、常務・長男、本部長・長男の嫁、人事部長・次女には近づいてはいけない。

 日本の企業のほとんどは同族経営と言われている。約90%近くらしい。上場企業に至っては、50%ほどと朝のニュースで見た。貧乏人はいつまでも貧乏人だ。江戸時代の農民がなんて貧しくて可哀そうだ、富岡製糸場の女工の話なんかも昔の話。自分は豊かな時代に生まれた中間層だと思っているが、本当のところ彼らと何ら変わりがないのではないかと、良く思う。そのたびに晋平は憂鬱(ゆううつ)になる。トンビの子はトンビなんだと。

 晋平の父・浩一郎は中卒で、左官屋の職人となり今も現場で働いている。父のようにはなりたくないという一心と、自分のようにはなってほしくないという親心が合致して、晋平は勉学に励んだ。だが、中学受験は2校受けてどちらも失敗、高校受験は第一志望の私立に落ちた。奇しくも、中学受験で落ちた学校だった。第二志望の市内でトップクラスの公立二類特進コースにもかすりもせず落ちた。地元の公立高校・進学文系コースになんとか入学できたのだ。

 高校時代は部活もせず、帰宅部で受験勉強に特化した学生生活だった。カラオケにも行ったことはなかった。当時のカラオケはルーム使用料に加えて、1曲100円というシステムだった。決して裕福ではなかった晋平は、仲間らしい仲間も作らず勉強に没頭する青春だった。大学受験は8校受けて全滅。予備校生活がスタートした。浪人生活は苦しかったが、これまでの勉強法を見直し基礎の反復と暗記の徹底。赤本を買って過去問の分析をしっかり行い、志望校には合格した。8校受けて、6校合格した。だが志望大学の志望学部にはそれでも落ちた。
 晋平は努力が完全に報われるわけではないこともよく知っていた。だから、早いうちに我が子に挫折(ざせつ)を味わせたくないと思っていたのだ。必ず不合格になるわけではないが、不合格になるならもっと先の方がいい。だって、響は俺の血を半分引いている。いくら里穂が賢いからって、やっぱりトンビの子はトンビなんだと晋平は思い込んでいたのだ。

 晋平は家で飲めなかったコーヒーを会社の給湯室で淹れ、ズズッとすすった。
「それ、奥さんに叱られません?」
 早智子が手際よく経費申請をしながら()いた。
「どれ?」
「その、ずずずって、やつですよ」
「あぁ、叱られた。でも、いいだろ。俺は猫舌なんだ」
「猫舌で、よくお茶屋に就職しましたね」
「どういうこと?」
「お茶の試飲なんて、ほとんど70度くらいの煎茶でしょ?」
 早智子のおしゃべりは隣のブースにまで聞こえている。パート社員で構成されている総務・人事課からは、キーボードの打ち込む音しか聞こえてこない。だから余計に、早智子の声が通る。
「煎茶がアツアツでも関係ないよ、俺は試飲なんてしないよ」
「そうなんですか?」
「もちろん新茶ぐらいは試飲するけど、それ以外はもう味なんて同じだろ。俺にはわかんないもの、これが今年採れた新茶だって言われても。だったら、わざわざ舌を人質みたいにして、茶をすするなんてことしなくていいだろ」
「マーケティングって、なんかこざっぱりしてる仕事なんですね。もっと泥臭いかと思っていました」

 自分より少し若いがほぼ同年代の早智子。彼女の問いかけは、妻よりもクリティカルだと晋平はいつも思わされる。イラっとすることも多いが、へへへん、と受け流しておけばいい。だって、同僚とはいえただの他人だ。一生同じ部署でもないし、一生隣で働くわけでもない。そういう点で言えば、妻だって同じか、と晋平は思い返した。やっと立ち上がったパソコン、メールを確認する。

 マーケティングの部署があるとホームページで公開したものだから、売り込みが激しい。多い時で一日五件ほどの面談希望があったりする。社長はタダで話を聞いてもらえるなら、相談してみろと晋平によく言う。この会社では、「タダより安いものはない」というのが社是といってもいいくらいだった。
 マーケティングとは、限られたリソース(人・モノ・金)を使って、利益を最大化させる活動。晋平は、前職のインテリア通販会社で骨の髄までしみ込むくらいに、学ばされた。最初に学んだものがすべて、ヒヨコのインプリンティング・刷り込みのようなものだった。そういう意味では晋平の頭はとても固い。そして、トラブルごとに弱い。パニックにも陥りやすい。人当たりだけで乗り切ってきたので、そういう意味では強運の持ち主かもしれない。

「そういえば、今日ノー残業デーですよね。茶師(ちゃし)の杉原くんと飲みに行こうって言ってるんですけど、笹倉橋さんもどうですか?」
「いやぁ、俺はいいよ」
「どうしてですか?」
 おしゃべりが過ぎる二人にどこかから咳払いが聞こえる。ただ、飛ぶ鳥落とす勢いのマーケティング課に文句やクレームの類を言える同僚はいない。創業家以外は。

「今日、家族で会議なんだよ」
 ヒソヒソ声で晋平は返事した。
「なになに、いよいよ離婚ですか?」
「物騒なこと言うなよ」
 晋平は売上データを抽出して、ピボットでまとめて月末までの売上を確認している。
「じゃぁ、なんですか?」
早智子は悪気があるわけではない、ただの詮索(せんさく)好きなのだ。
「まぁ、お受験ってやつだよ」
「あぁ、響くんの。春から五年生ですよね。もう一月も真ん中だから、実質本番まで二年ってやつですね」
「そうなの?」
 晋平はキーボードを打つ手を止めた。

「そうですよ、ウチの子も受験終わりましたけど。めっちゃお金かかりましたよ。私立の、ちょっと学校は秘密ですけど。その学校用の特別授業コースやら、夏期講習やらで」
「どこの学校なの?」
「言いませんよ。受かりましたけど」
「受かったならいいじゃん」
「そういうところ、デリカシーないですよ」
 早智子は自分のデリカシーのなさを棚に上げたまま、いつも晋平には根掘り葉掘り聞いてくる。

「で、二年で塾代どれくらいかかったの?百万ぐらい?」
「な、わけないじゃないですか?」
「じゃぁ、五十万?」
 自身を持って晋平は訊いた。
「逆ですよ、もっと多いんです。二百二十万です」
「そんなに?」
「うちは少し多いとは思いますが、五年生で八十万ぐらい。六年生で百四十万でした」
「六年生になると、どうして多くなるの?」

晋平は今日の家族会議に向けて、情報収集に余念がない。
「だって、六年生になったら模試の回数も増えるし、春夏冬と直前の講習も多いし。それに、受験料だってバカにならないんですよ。ホテルに前泊したりもしましたし」
 隣の別ブースにある通販チームからチャットが飛んできた。

━お電話開通していますから、お静かにおねがいします。お客様からの入電もありますので。

 もう10時だった。通販の電話受注回線が一斉にオープンとなり、けたたましく電話が鳴り響く。個人情報を取り扱う部署だけあって、同じフロアでも鍵管理がなされている。声が漏れることはお互いにないが、朝からペチャクチャとおしゃべり尽くしの二人に人事部長の次女からチクリと注意が入ったのだ。

 次女は唯一、社員たちと感覚が近くまだ話せる。しかし、受験、いや受検ってのはここまで金がかかるとは、と晋平は自分の給料と貯金を思い出しながら、仕事に集中した。

 今日はノー残業デーだ。何が何でも終わらせなきゃならん、と晋平は自分自身に喝を入れた。
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