白線の内外(うちそと)

文字数 7,225文字

「白井健太、区立二中出身です! 中学時代のポジションはサードです!」
 野球部の初顔合わせ、そいつは大きな声で自己紹介した。
 そいつの顔は知っていた、姓が白井であることまでは。
 そして次は俺の番だ。
「山本裕、区立五中出身です! 中学時代のポジションはサードです!」
 そいつは自己紹介した俺の顔をじっと見ていた、おそらく向うも俺の顔と姓までは憶えていたのだろう。

 中学時代、俺は一番・サードで、そいつ……白井健太は五番・サードで対戦している。
 区の中学校大会の準決勝、俺は三打数一安打、一盗塁、健太も三打数一安打だが二塁打が一本、そして六回、ワンアウト一塁、二塁のピンチであいつが打席に入った時、俺は少しベース寄りに守備位置を移動した、こっちが二点リードしている状況だったので長打を警戒していたのだ。
 そしてあいつが放った打球は三塁線への痛烈なゴロ。ベース寄りに守っていたのが功を奏して俺は横っ飛びにそのゴロを掴んでそのままベースにタッチ、素早く起き上がって一塁へ送球した。
 ダブルプレー、ピンチをしのいだ俺たちはその試合に勝って決勝戦へ駒を進めることができた……結局そこまでだったが。
 あの時三塁線を破られていれば同点にされて試合の流れは向うに傾いていただろう、自分でも中学時代のベストプレーだったと思っている。
 
「あの時はやられたな」
 高校での初練習が終わると健太が声をかけて来た。
「まあな、だけどベース寄りに守ってなかったら完全に破られてたよ、いい当たりだった」
「その判断も含めてファインプレーと言うのさ……同じサードだ、これからはライバルだな」
「ああ、負けないぜ」
「それはこっちの台詞さ」

 俺たちが進学したのは区内にある公立高校、野球部は公立としては結構強くて中学時代に対戦した憶えがあるやつも多く入って来ている、だが、全国からリトルリーグで鳴らした選手をスカウトできる私立にはなかなか勝てずに、まだ甲子園出場記録はない。
 まるで歯が立たないと言うわけではない、数年前には私立のシード校を破って準決勝まで進んだこともある、だがそこまでだった……今までは。
 だが、俺たちの代は一味違うぞ、と思っている。
 中学の大会で優勝したチームのエース、小川博己が入学してきているのだ。
 あの大会の決勝、俺は三打数ゼロ安打、と言うか、誰もヒットを打てなかった、一四球のみのノーヒットノーランで敗れたのだ。
 中学は軟式だが高校野球は硬式、少し慣れは必要だろうが、奴がいるならば名門私立にだってそう引けを取らないはずだ。

 一年の夏まではまだ試合に出られる気配すらなかった、サードには四番を打つキャプテンがいたのだから当然だ、だが高校野球は毎年メンバーが変わる、この秋にはベンチ入りを、そして二年の内にレギュラーになりたい、そう目標を定めて俺たちは共に練習に汗を流した。
 健太とはクラスも一緒で、結構気が合った。
 同じサードだからいずれはポジション争いをすることになることはわかっていたのだが、気が合う合わないはまた別だ、むしろ良いライバルとして競い合い、上手くなって行くと共に友情も深めて行った。
 
 一年の夏、スタンドで共に声をからして応援したが、チームは四回戦で敗れた。
 そして秋の大会。
 私立の有力校ならまだ三年生が大半を占めるが公立高校ではそうは行かない、ウチの学校は偏差値五十二と平均よりちょっとだけ良いと言う辺り、浪人も含めれば八割が大学を志望し、残りも短大や専門学校に進学する、三年生は受験勉強に向かわなければならないのでチームを去る。
 そして俺と健太はベンチ入りメンバーに選ばれ、健太は代打で、俺は守備固めや代走で出場機会も得られた。
 
 春、二年生になると博己がエースの座を射止め、俺と健太も出場機会を増やした。
 レギュラーまでもう一歩……そう感じた俺と健太はますます練習に身を入れた。
 
 そして夏。
 夏の甲子園大会の東京都予選を前に、ミーティングで背番号が渡された。
 俺は五番を貰ったが、健太には背番号は渡されなかった……。

 健太の実力に問題があったわけではない、チーム構成の巡り合わせが悪かったのだ。
 春の大会で博己は肩を痛めた、そう深刻な故障ではなかったが医師からは五十球程度までに留めるようにと球数制限を言い渡されたのだ。
 勢い、五人ほどのピッチャーを登録しないわけには行かず、健太の他にも長打力のある三年生が多かったこともあって、一番バッタータイプの俺が選ばれ、五~六番バッタータイプの健太がワリを食った格好だった。
 その時の健太の落胆ぶりが思った以上だったのは気になった。
 俺が『秋には必ず選ばれるさ』と肩を叩くと、健太は力なく笑うばかりだった……普段はかなりポジティブなやつなのだが……。
 
 健太の落胆……その理由は後で知った。
 別のクラスメートから聞いたのだ。
 
 健太のおふくろさんが重い病気で入院していてかなり深刻な状態であること、そして健太が試合に出ることを楽しみにしているのだ、と。

「なんで俺に言ってくれなかったんだよ」
 その日の練習の時、俺は健太に向かって口を尖らせた。
「俺はお前を親友だと思ってるんだぜ」
「俺もそう思ってるよ」
「だったらどうしてだよ」
「お前はポジション争いのライバルでもあるからな」
「俺、『秋には必ず選ばれるさ』って言ったよな、それは俺にも言えることだぜ」
「バカ言うな!」
 健太は思わず練習中のチームメートが振り向くほどの大声を出した。
「俺はお前に実力で負けたんだよ」
 健太の勢いに押されたが、俺も言い返した。
「チーム編成のアヤってのもあるだろう?」
 それを聞いて、健太は少し落ち着きを取り戻したようだった。
「運も実力の内って言うだろう? だけどそうじゃないと思うぜ、運が良くたって実力が無きゃそれまでだ、運なんかに左右されないくらいの実力があるやつが結局活躍できるんだ、このチームには俺よりお前が必要、そう監督が判断したんだからしょうがないだろ、どうしても俺の力が必要だと思われれば運なんて関係ないんだよ……」
「すまん……余計なことを言ったな……」
「いや、俺の方こそカッとなって悪かったよ……」
 一応和解はしたが、その日の練習中、俺たちはなんとなくよそよそしい感じになってしまった。

「山本、ちょっと良いか?」
 練習後、監督に呼び止められた。
「白井のおふくろさんのことは俺も聞いてたんだよ……それでそのことをちょっと白井に言ったら、あいつ、なんて言ったと思う?」
「……なんて言ったんですか?」
「そのこととチームのことは関係ない、試合に出たいのは自分だけじゃないし、勝ちたいのはベンチ入りメンバーだけじゃなくて、スタンドのチームメイトだって同じ、応援に来てくれる生徒だって同じなんだ、だからあくまでチームのことだけ考えて公平に選んで欲しい……ってさ」
「……そうですか……」
「お前の気持ちもわかるよ、ポジションも同じだしな、だけどチーム編成を見渡せばレギュラーはお前だ、それに三年生は今年が高校野球最後の年なんだ、そう考えて行くとどうしても白井を選べなかった……無理に選んだら却ってあいつが傷つくと思ってな」
「わかりました……あいつの分まで頑張ります」
「ああ、その意気だ、しっかり頼むぞ」


 甲子園に続く都の予選が始まった。
 俺たちは順調に勝ち上がって行った。
 博己をクローザーに据えて継投でつないで行く戦術が嵌り、接戦をことごとくものにして行ったのだ。
 俺も塁に出て掻き回す役目を果たせていたし、守備でも貢献できていたと思う。
 
 試合後にスタンドに挨拶する時、健太はネットにへばりつくようにして「活躍してるじゃないか」と喜んでくれる。
 だが、そのあとすぐにスタンドから姿を消すのは、おそらく病院に向かうのだろう。
 おふくろさんの具合、良くないのだろうか……。

 そして俺たちは準決勝まで駒を進めた、今日からはローカル局でだがテレビ中継もある。
 相手は優勝候補の一角だが、ロッカールームで「一丁喰ってやろうぜ」と気勢を上げてベンチに入ると、そこに健太の姿があった。
「え? どうして?」
「ボールボーイにしてくれるように頼んだんだよ、俺もテレビに映りたいからな」
 健太はそう言って笑って見せた、しかし、それが心からの笑顔じゃないことくらい、親友を自認する俺にはわかる、おそらく健太にはテレビに映らなくてはならない理由があるのだ、そして理由として考えられるのは……。
「健太……おふくろさんの具合……」
「さあ、試合前の練習だ、締まって行こうぜ!」
 健太は俺の言葉を不自然に遮って駆け出して行った……その様子を見て何かを察したのは俺だけじゃない、ベンチにいた誰もが必勝を胸に誓った。

 試合は投手戦となった。
 相手のピッチャーはさすがに優勝候補と言われるチームのエースだけあって、そう簡単に打ち崩せるものじゃなかった、と言うよりもバットに当てることすらままならない。
 しかし、こっちの投手陣も踏ん張った。
 継投が常になっている投手陣は『自分の役目』をしっかり理解している、それぞれニイニングで良い、余力なんか残っていなくて良い、三人で六つづつ、併せて十八個のアウトをそれぞれが全力で取りに行けばあとは博己が締めてくれる。
 それぞれタイプの違うピッチャーを絶妙に繋ぐ監督の手腕も光る、一打席ごとに目先を変えられ、それぞれが目の前のアウトひとつに全力で投げれば、優勝候補の打線と言えども簡単に捉まえることはできない。

 そこまで両チーム無得点だった試合が動いたのは七回の表だった。
 俺たちはそこまでパーフェクトに抑えられていて、七回の先頭打者は俺だった。
(とにかく塁に)
 俺の頭にはそれしかなかった、ヒットは打てないまでもファールで粘る。
 三塁側にファールが転がるとベンチの脇に置かれた腰掛から飛び出して行くのは健太だ。
 ボールを拾って向き直る健太の目が『頼むぞ』と言っている、俺はとにかく食らいついて行った。
 カウントスリーツーからの最後のボールは力んだのだろう、大きく高めに外れて俺はこの試合初めてのランナーとなった。
 一塁ベースに立った時、健太が小さくガッツポーズをしたのが目に入る……(見てろよ、直にそっちへ行くからな)、俺は可能な限りリードを大きく取った。
 すかさず牽制球が来た、俺は頭からベースに戻る。
 だが、これは想定内だ、初めから戻るつもりでいればリードは大きく取れる、何度も牽制させることができれば何かの癖が見つけられるかもしれない、そう考えての監督からの指示だ。
 二番にも監督から『待て』の指示が出ている、ツーストライクまで追い込まれるが、そこからカットで粘る、左バッターだから健太は大忙し、テレビに映っていると良いのだが、と思って見ていると、ふと、ピッチャーのしぐさが目に止まった。
 キャッチャーからのサインを覗き込みながらちらりとこちらに眼球を動かしたのだ。
 おそらく一塁手の位置が気になるのだろう……案の定、速い牽制が来た、そして次の投球準備では眼球は動かなかった。
 まだ確証には至らない、しかし二番は既に追い込まれている……イチかバチか、次の投球で俺はスタートを切った。
 投球は高めに外れるボール、強肩のキャッチャーが伸びあがるように捕ると矢のような送球を送って来た、タイミングはギリギリアウトか……だがヘッドスライディングの態勢に入るとショートの動きから送球がわずかに左に逸れたのがわかる、俺はタッチから少しでも離れようと、右側に体を逃がして左手でベースに触れに行った。
「セーフ!」
 二塁塁審の手が大きく広がった、ベース上に立ち上がると、健太はこっそり俺に向かって親指を立てて見せた。
 それまで手足や体の向きばかり気にしていて眼球の動きまでは目が行き渡らなかった、健太を見たおかげで気づいた癖だ、俺は三塁側ベンチに向かってガッツポーズを見せたが、その実、視線は健太に向けていた、(お前のおかげで盗塁成功したぞ)と。
 二番はツーストライクまで追い込まれていたが送りバントを敢行した、粘っていて目が慣れていたのか上手く転がしてくれた、サードベースに立つと、健太の笑顔が俺を迎えてくれた。
 そして三番はキャプテン、相手バッテリーはスクイズを警戒して一球外し、二球目は勝負に来たが僅かに外れてツーボール、次の一球を置きに来たところをキャプテンがセンターフライを打ち上げてくれて、俺はホームを駆け抜けた。
 ノーヒットで一点先取だ。

 七回の裏からは博己がマウンドに上がった。
 博己は相手のエースのような剛速球を持っているわけではないが、球を低めに集めてコーナーを丹念に突くピッチングが持ち味、バッターを追い込めば低目から小さく落ちるスプリットで三振も取れる、この予選でも安定したピッチングでまだ失点ゼロ。
 だがさすがに優勝候補、コーナーギリギリのボールにも食らいついて来る、ヒット二本とフォアボール一個を与えたが、それでも七、八回は無失点で切り抜けた。
 しかし、九回の裏に再び試合は動き始めた。
 先頭打者に粘られてフォアボールを許すと、次のバッターにもヒットを打たれてノーアウト一、二塁。
 同点、あるいは逆転のピンチだ。
 迎えるバッターは相手の四番、プロも注目しているほどの左バッターだ。
 ワンボール、ワンストライクからの三球目、俺の右を痛烈なゴロが襲った。
 抜ければ同点、あるいは逆転サヨナラだ。
 俺は思い切り飛びついたが、打球はグラブの先を抜けて行った。
(しまった!)
 左バッターとあって、ベース寄りに守備位置を変えることなく、定位置に守っていたのだ、だが、相手の四番は振り回すばかりの大物狙いではない、しっかりミートして来る好打者なのだ。
 俺は素早く起き上がりながら打球の行方を追う。
 打球は既に白線の外側だが、ベースの外側を通ったのか、それともベースの上を通って行ったのか……
「ファール!」
 塁審の手が高く差し上げられた。
 助かった……フェアならサヨナラ打になりかねない打球だった。
 すかさず健太がボールを拾いに走る。
 その姿を守備に散ったナインばかりでなくベンチの控え選手も見守った。
(あいつを甲子園に連れて行ってやりたい)
 誰もがそう思った……。
 次の一球も四番はしっかりバットの芯で捉えた、またもや三塁線への痛烈なゴロ。
 しかし、今度は博己の球威、いや、気持ちがわずかにバットを押し返した。
 コースは白線の僅かに内側、そしてさっきの打球ほどの勢いはない。
 俺は横っ飛びにそのゴロを掴むとそのままグラブでベースにタッチし、素早く起き上がった、二塁は間に合わない、俺は渾身の力をボールに込めて一塁に送った。
「アウト!」
 塁審の片手が上がった。
 ダブルプレーでツーアウト! まだ二塁に同点ランナーが残っているが、流れは完全にこっちのものだ。
 そして博己は次の五番打者を三振に切って取った。
 決勝進出だ!
 博己がマウンドを駆け下りて来ると、あっという間に輪ができた。
 健太もその輪に加わりたかっただろうが……。

 試合後のロッカールームは歓喜に沸いていたが、その中に健太の姿はない。
 ボールボーイは後片付けの役目も担っているのだ。
 だが、しばらくしてグラウンドに出てみてもそこに健太の姿はなかった。
 聞けば兄と名乗る人が息せき切ってやって来て、健太はタクシーで一緒に病院に向かったと言う……。

 翌日の決勝戦。
 グラウンドに健太の姿はなかった。
 誰もが昨日病院で何が起こったのかを察した、そして、試合にも敗れ、あと一歩のところで甲子園を逃してしまった……。
 試合後、監督は選手一人一人にねぎらいの言葉を掛けた後、ある葬儀場の名前を告げた……。

 翌日、親族席に並んだ健太は、うつむくことなくしっかり前を向いていた。
 
 あと一歩で甲子園を逃した……悔しい思いは両手でも抱えきれないほど重い。
 だが、前を向かなければいけない……健太の姿を見たチームメートは誰もがそう思った。
 そしてこうも思った。
 あの準決勝に勝てたのは健太も一緒に戦ってくれていたからなのだと……。

「よう」
「おう」
 新学期、健太は晴れ晴れとした顔で登校して来た。
 聞けば、おふくろさんはテレビで健太がグラウンドを走り回っているのを見て随分と喜んでくれたそうだ、その後危篤に陥ってしまったが、健太が病室に飛び込んで勝利を告げるとかすかに手を握り返してくれたのだとも……。

「おふくろには世話ばっかりかけたけど、最後にちょっとだけ親孝行できたかもな」
「そうか……良かったな……」
「ああ、あの試合に勝ってくれて感謝してるよ」
「いや、あの試合はお前も一緒に戦ってくれてたしな」
「俺もそのつもりだったよ……だけどな」
「なんだ?」
「秋の大会からは俺も白線の内側で戦うぜ、サードのポジションは奪わせてもらうぜ」
「そうは行くかよ」
 俺はそう言って笑ったが、実は監督からショートへのコンバートを打診されている。
 三年生が抜けた新チームでは間違いなくそれがチームのためにベストの布陣になるはずだ、だから秋からは健太と三遊間を組むことになるだろう。
 だが今はもうちょっと健太とのライバル関係を楽しみたい気持ちだ、健太のファイトとエネルギーを分けてもらえる気がするしね。


     (終)
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