第5話

文字数 19,587文字

9・ 月は着実に下ってゆく


 現実がどれほど混迷しようと、ミーナールの上で夏は進んでゆく。陽射しと熱気に覆われ日々はそのまま少しずつ、時間を刻みながら進んでゆく。
 ……今。ミーナールの現実を目の当たりに、それでもやるべき事はあるだろうか?
 何かをやれば、世界は変わるのだろうか?
 それを考える事に、吐き気を覚えた。ワリド家のアーリドは、ファーリス国の密使と会っていた。

 旅客を装った四人は、皆、仮面を着けたかの様に冷徹な顔であった。ファーリス王の秘密の勅使は、全く感情を交えぬ態でワリド邸の奥まった一室に居並んでいた。
「ダキア港に停泊中の我が国の軍船には、八十人規模の兵が乗船しています。当軍船の出港時にダキア港湾局へ申告する要項に関しましては……」
「兵への日当は、ダキア港より出港をもって発生します。一般歩兵には六ディル、指揮官には十五ディル。これ以外にも必要経費に関しては、ミーナール側の負担割合については……」
「ルツ王国の主港・オーティア港にはファーリス商館があります。帰還する我が国の商船は全て、ルツ国内で見聞した時事を商館へ報告する義務があります。これら情報には高い有益性が含まれるので、必要な場合はミーナール側と共有をして……」
 抑揚の無い標準語が無駄なく、淀みなく流れていく。それをワリド家のアーリドは、無言で受け止めている。傍目にも疲労を溜め込んだ顔で、濃緑色の長椅子に座したまま、身動き一つもしなかった。
 背後の窓の向こう側では、今日もまた美しい、金色のミーナールの夕刻が始まっていた。

 同じ金色の頃合いに、こちらでも冷たい顔の男がいた。
 しかしこちらは決して、淡然の口調では無かった。かなり強い態度で、執務卓の向こうに座る相手に詰め寄っていた。
「あの修道士から自白を引き出すべきです。確実にワリド家のアーリドが後ろにいます。いなくても良い。そのようにすれば良いだけです」
「――」
「ワリド家のアーリドをルツ太守暗殺未遂の首謀者として告発出来れば、その引責によりミーナールの生意気な自治など即座に停止させられます。こんな労なしの展開など、望んでも望めるものではありません」
 夕光が強く差し込み、金色が映える執務室で、本国より同行した補佐官のゴドゥの顔は不満のみならず、もはや軽蔑までも含んでいた。
「第一、貴方は殺されかけてのですよ。貴方が親友と思っていた者に。
 なぜ今激怒を示さないのか、私には全く理解出来ません」
 エウジスは常の通りだった。執務卓に座したまま、無言だった。
 ゴドゥは――太守より遥かに年上で、遥かに官吏としての知識と経験に富む彼は、見事に無駄の無い正論を述べ続けてゆく。
“友人相手だからと情に流されるなど、為政者にあるまじき甘さだ”とか、
“部隊まで招請した以上、万が一にも失態を見せれば、ルツ宮廷における貴方の地位は確実に失墜する”とか、
“一刻も早くレイミア姫と婚約し王家との婚籍関係を固めるべきなのに、何をもたついているのか”とか。……
 しかしエウジスは、無言を貫いていた。
 執務卓の上で両手を組んだまま、姿勢を変えず、顔色も変えず、硬い視線も変えず、エウジスはぴくりとも動くこと無く座していた。
 その間にも窓の向こうの遠い海では、大きな日輪が水平線へ近づいていた。海も、空も、街も、全てが朱を帯びた金色に染まる、美しい夕刻だった。

 金色の夕刻にアーリドとエウジスが接した状況は、その後もしつこくしつこく二人の上に繰り返されてゆく。
 来る日も来る日も、両者は同じ相手に、同じ問題を提示されてゆく。
 伸びやかだったアーリドの顔付は、痩せてゆく。エウジスのトビ色の眼は、明度を失ってゆく。ミーナールは少しずつ、晩夏へと進んでゆく。……

             ・     ・     ・

 今日も同じ。
 大きな太陽が西の海に沈みかけ、街は美しく鮮やかな色彩に染まっている。
 ただこの数日、小さな変化は確実に始まっていた。風と空気に、どこか湿度を感じ始めたのだ。季節は着々と夏の終わりを迎えていたのだ。
 ……この質感を変えた夕刻の中を、アーリドは歩いていた。
 今日もまた、不安定な情緒だった。今日も、恐ろしく苛立った顔付だった。
「ニジュルの商船隊も、こんな時期に急遽の来訪などしなくて良いのに。夜宴も不要なのに。  ――何が歓迎の夜宴だ」
 苛立ちも露骨に言う。評議会を終え、ムワサト広場を足早に横切っていく時だ。
 横から、評議会に従事するベテランの書記官が忠告した。
「外国よりの来訪者に、現在のミーナール内政混乱の詳細を知られるのだけは、何としても避けて下さい。アーリド殿。夜会ではくれぐれも慎重な対応を願います」
「――」
「アーリド殿。よろしいですか? 聞いていますか?」
「聞いている」
 不機嫌を丸出した口調だった。
“本日も難事山積。本日も進展遅々。本日も全面的困難。本日も、不快”
 子供じみたことに今日アーリドは、もう苛立ちを隠す事もしなかった。朝から延々と続いた評議で、怒鳴り声を上げてしまった。不貞腐れた態度と発言を平気で見せ、これまた苛立っていた評議員達を一層に苛立たせた。
 全くもって、これが長くにわたって誠実さと思慮深さをもって信頼を得ていたワリド家当主・アーリドとは。
「聞いているよ。だから今、急いで帰館しているんじゃないか。賓客を待たせるわけにはいかないんだろう? そんな無礼は許されないんだろう? そういう事だろう?」
「――」
「そうだろう!」
「そうです。アーリド殿。怒鳴らなくても私には聞こえています」
「だったらもう黙っててくれっ」
 苛立ちと共に吐き出した。
 自身にも、日ごとに感情を抑え込むのが難しくなっていくという自覚はあった。たった今も喚きたい衝動に縛られ、もうどれだけ繰り返したか分からない語句がまた神経に沿って這い上がってきた。
(どこだ、どこだ。どこだ、エウジス)
 エウジスは完全に、姿を見せない。
 あの日以来、閉じこもっているのだろうか。あてにならない噂では、周囲を厳重に警備させて太守館の角塔にこもり、ごく数人の側近としか会わないとか。さらにあてにならない噂では、今はもう街を出て外地の城砦に移ったとか。
(どこにいるんだ、姿を見せてくれ、エウジスっ)
 アーリドと書記、それにイナブ豪商を含む五人の評議委員達は、衛兵達にぶ厚く囲まれ、一かたまりになって広場を横切っていく。
 この一行を見つめる住民達の態もまた、堅苦しい。期待やら懇願やら不信やら憤怒やら、それら全てを混濁させた、刺すような視線を向けてくる。その視線を意識するだけで、アーリドの神経は一層高ぶり、熱くなる。
(どこだ、どこへ、一体貴方はどこへ消えたんだ)
 カーイも消えた。
 捕縛され連行されてゆく後ろ姿を最後に、行方が途絶えた。以前に太守館への投石で逮捕された男へは、ルツ刑法の適法による鞭打ちの懲罰が執行されたのに、カーイについては何の沙汰もなかった。それどころか犯行自体が公にされず、隠蔽された。なぜだ? 何の為なんだ?
(誰か捜してくれ、頼むからカーイを捜し出してくれっ)
 こんな時にこそカーイという友がいたらと、砂を噛むように思ってしまう。
 こんな時、いつも彼は助けてくれた。あまり公に出来ない事案がある時、彼に相談するといつも手を貸してくれた。様々な伝手を使って解決の策を探り、そして助言をしてくれた。
なのに今、そのカーイ自身が完全に消えてしまった。
(カーイは今どこだ? 一体どこに連れられたんだっ)
 無事なのか? 何かを喋ったのか? 喋らされたのか? 禁断の箱の陰謀について喋ったのか?
 生きているのか? 今。まだ。
 まさか。それとも、もう……神様。
「餓鬼臭い、みっともない顔だな」
 右側に並び歩くイナブが、嫌味な笑顔で言った。それすらアーリドは無視する。答えず、見向きもしなかった。
 夏の終わりに、空はずるずると明るい。夕刻なのに風が無く暑さが消えない。高い気温に湿度が加わり、それだけでアーリドを疲れさせる。一行は無言のままムワサト広場を横切り、そのまま夕刻の人通りで溢れる大路へと入り、
 大路の真ん真ん中に、ルツ太守の補佐役・ゴドゥが立っていた。
(エウジス――カーイ!)
 猛烈な焦燥感と共、思わずアーリドが発そうとした寸前、イナブの大声が先んじた。
「これは太守館のゴドゥ殿。随分と長らく御無沙汰をしております。良い宵の口ですな。夕涼みの御散歩ですか?」
「――」
 陽気でわざとらしい挨拶にも、返答無し。挨拶も無し。表情を全く変えないゴドゥに、イナブはさらに楽し気に続ける。
「補佐官殿、今宵はお一人で行動ですか? その割には護衛の人数が豊富で羨ましい。我々の評議会の方は、このところずっと慌ただしい事態に追われ、衛兵数が圧倒的に不足して難儀しておりますよ。
 ここに佇んでおられたということは、誰か待ち人でしたか? もしかしてその待ち人は、私達ですか?」
 完全に無視し、ゴドゥは冷淡に始めた。
「ミーナール評議会に対して通達事項がある」
「それならば陽の高い内に評議会館に来訪下されば、そのまま議事にかけることが出来たものを。今おっしゃられても検討は明日以降になってしまう」
「検討の必要は無い」
「カーイだろう?」
 この無防備な餓鬼!
 イナブが鼻をしかめる。が、アーリドは抑えない。
「カーイの事だろう? 通達ってカーイの事だろう?」
「――。ルツ太守よりの通達」
「教えてくれっ。カーイは今、どこにいるんだ? まさか無事なんだろう? 隠さないで教えてくれ。それにエウジスは? どこにいったんだ? 彼に会いたいっ」
「明朝、ルツ王国の――」
「先に教えろ! どこなんだ、エウジスはっ。とにかくすぐエウジスに会わせてくれ、すぐに会って話をしないと、でないと――」
「明朝、ルツ王国刑法に則り、罪人の公開での処刑を執行する。罪科は、ルツ太守への暗殺未遂。罪人の名は、カニサ修道会修道士・カーイ。当日はミーナール評議会から立会者を派遣するように」
「――。え?」
 アーリドの体内で、何かが歪んだ。
「……。何を……?」
 何かが歪み、
“嫌だ”
 嫌悪を覚えた。拒絶を、全てに向かって叫んだ。
「そんなの、嫌だ――!」
「アーリドっ」
 イナブが噛みつくような顔を剥くが、アーリドは見ない。
「嫌だ! 嫌だっ、そんなはずないっ、だっておかしいっ、エウジスがカーイを処刑するなんて! だって彼は――違う!」
「アーリド!」
「だって、カーイがやったことを私――」
 瞬間、喉が強く詰まる。襟首を捕まれたまま、強く右へ引っ張られる。公衆の面前だというのにイナブは激しい力でアーリドを引きずり、横の路地の奥へと押し込んだ。
「放せっ、イナブ! 貴様なんかに邪魔させない!」
 猛烈に抵抗して大声を上げた時、ドスリと音を立ててアーリドの背中は路地の壁へ押し付けられた。
「餓鬼が! 全てをぶち壊す気か!」
「嫌だ! カーイの処刑など有り得ないっ、させない!」
「逆だっ。断言する、これは良い展開だっ。あの修道士は何も喋らずこのまま死んだ方がいい、我々の密約が封印出来る」
 その瞬間、反射的にアーリドの腕が上がった。生まれて初めて憎悪をもって人を殴ろうとした。だがイナブの掌が先回る。激しくアーリドの顔を打った。
「餓鬼っ、聞け! 逮捕からずっと、奴がいつ拷問に屈するかに俺達の命運がかかっていたんだっ。分かってるんだろうな? 奴の一言で俺も貴様もミーナールの未来も、全てがふっ飛ぶんだっ」
 鉄の味の血がにじむ口のまま叫ぶ。
「私のせいでカーイが殺されるぐらいなら、私が全ての責任を負うっ」
「貴様一人なら好きにしろっ。だがもうその次元の話じゃない、貴様にミーナールの全てがかかっている、それは貴様も分かってるはずだっ」
「私はミーナールの為政者じゃない!」
「貴様がミーナールを負っているんだ、それがワリド当主の義務だ!
 俺は認めないぞっ。ミーナールの自治をルツに奪われることだけは、何があっても認めない、させない。その為ならあの修道士の命など幾つでもくれてやる。俺の手で殺したって構わない」
「イナブ!」
「それで俺を責めるのか? 馬鹿が!
 当然だっ。それが俺の責務だ。なぜなら俺はミーナールの未来を護ると誓ったからなっ。
 貴様も誓っただろう? それでもあの男を救ってミーナールを危機にさらすのか? ミーナールとあの男のどっちを選ぶ気だっ」
「黙れっ。こんな顛末は天上の神の前に許されないっ、黙れ!」
「何が天上だっ。ここはミーナールだ、現実だ、それが全てだっ。見ろっ、現実を見ろ!」
「――黙れっ」
「見るんだ! ワリド家のアーリド!」
「……。黙れ……」
 ついにアーリドの言葉は詰まり、目から涙を落とした。恥ずかしくも人前で涙を流してしまった。
 離れた大路の方からは、ゴドゥがこちらを見ている。残っている評議員達は、間の抜けた主張を続けている。『極刑の執行に対しては評議会の承認が必要なのに……』、『罪状に関しての公的な書面はもう発行されているのか……』などの意味の無い句が、発せられては消えていく。はなよりゴドゥに聞く耳など一切無いと解っているのに。
 そしてアーリドは、駄々をこね出した。
「嫌だ……」
 もはやこの単語だけにすがりついた。目も鼻も口も歪ませ、ぽろぽろと涙を流しながら必死にイナブを見返していた。それしか出来なかった。イナブに、心底から苦々しい息を突かせた。
「神に愛されたミーナールの街が、こんな情けない餓鬼を代表者に据えなければならないとはな」
 二度目、殴打した。
 アーリドはもう、痛みすら感じなかった。情けないと言われた泣き顔をさらしたまま、もう何をどう考えれば良いのか全く解らなかった。現実が恐ろしくて、理解を拒否してしまった。
“エウジスがカーイを殺す”
 その間にも夕刻の空は、ゆっくりと明るさを失い始めてゆく。間もなく明るさは消え、夜になる。やがて夜は終わり、明日になる。
 ――エウジスがカーイを殺す。

 さらに情けないことに、アーリドはその宵のニジュル人隊商の歓迎の宴を欠席した。
「誠に申し訳ございません。ワリド家のアーリド当主は、体調不良のために今宵の夜宴を欠席いたします」
 涼やかに抜ける夜の風。香料をふんだんに用いた贅沢な料理とミーナール産の上質の葡萄酒。すでに着席していた色とりどりの異国装束の賓客達。
 それらを前にワリド邸の差配役が告げた時、同席していたシャイクは黙してしまった。イナブは見下し切った声で独り笑い、サスキアは最低の罵倒句を母国語で吐いた。最低の展開となった。
 それでも中庭で夜宴は始まってゆく。時間は進んでゆく。美辞での挨拶がとめどなく交わされてゆく間にも。ニジェル人の名士が、先日自国の学者が発表した珍奇な地政学新説を面白おかしく紹介していく間にも。だというのに夜宴の場はどうも盛り上がりに欠け、為に客人達が今夜はもう宿舎へ戻ろうかと夜空を見上げた間にも。
 夜空は星々を乗せて進み、着実に明日が近づいてくる。

 同じ邸内の上階。
 閉じこもるアーリドにも、朝は着実に迫ってくる。
 扉越し、夜宴への出席を懸命に説得してきた家人達も、今はもう諦めて去った。彼は完全に独りになった。蠟燭一つだけの灯る薄暗い部屋で独り、壁に寄りかかって座り込んでいた。短い夜の中へ放り出されていた。
(嫌だ……)
 ただ一つだけの炎が、かすかに揺れている。
 考えねばならないのに何一つ考えつかない間にも、張り詰めた神経が内臓を締め上げ書き気を覚える間にも、夜は進んでゆく。
(もう、嫌だ……)
 白い炎が不安定に揺れている。頼りない蝋燭は、少しずつ燃え尽きてゆく。時は着実に進み、何も考えられず、夜は更けて進み、明日になる。
 明日になったら、カーイが死ぬ。
 エウジスがカーイを殺す。

 ワリド邸から、ニジュルの賓客達が丁寧な辞退の句を残して去り出した頃、
 アーリドが壁に背を当てたまま何もせず、何も考えず、ただ時間の中に身をされしていた頃、
 カーイもまた壁を背にあて、目を閉じて座っていた。
 そこからは、月も星も見えなかった。闇だけだった。街を遠く離れた小城塞の奥底の、肌寒い、孤独と静寂の空間の中だった。
 ……カーイは目を開ける。
 静寂が破られているのに気付いた。一つの足音が通廊の石壁に響いている。それが長く時間をかけて近づき、扉の外側で止まったのが分かる。
疲弊し切っていた心身が、緊張を帯びた。重い金属音と共に鉄錠が動くのを、暗闇の中なのに的確に認識した。
 鋲打たれた扉がゆっくりと開いてゆく。と同時、射し込む光の眩しさにカーイは相手の輪郭を結べない。相手を見極めるまでの間、彼の全身は強く強張り、やがてそれが誰か判った後も――判ったからこそ、体は一層に強張る。
「カーイ」
 輪郭は、相手が右手に持つランタンの光の中で結ばれ、揺れていた。
 カーイは座ったままだ。立とうとしても不可だった。彼の両腕は大きく引き伸ばされ、手枷で石壁にくくられていた。拷問の許可は出されなかったが、それでも顔と体に刻まれた多数の傷に、彼が獄吏から酷く小突かれ続けた事が示されていた。
「カーイ。答えられないのか。その体力も無いのか」
 エウジスが一歩ずつ進み出てくる。目の前に立つ。カーイは漠然の遠くを見、答えない。言われた通り、酷く疲弊している事は、間違いなかった。
「聞こえているのか」
 答えない。長い静寂が流れていく。
「後悔しているのか」
「――。何にですか?」
 やっと顔を上げる。黄色いランタンの薄明かりの中に、ようやく旧友同士は顔を合わせた。
「後悔ですか?」
「……。そうだ」
「何に対して?」
「……あの時。レイミアも巻き添えにしたまま、そのまま私を殺すことも出来たはずだ。
 いつでも冷徹に現実を見通す事が出来る君が、なのに、なぜかあの時、判断を誤った。失敗をした。
 後悔しているか?」
「その事ですか」
 再び、長く、冷えた静寂となった。冷えた動かない空気と、揺れる小さな灯りの中、カーイの表情も揺れた。
 ――確かに。
 なぜか最悪の機に、葡萄酒杯を取ったレイミア。そのまま彼女が毒を飲むのが、進むべき現実だったのだろうか。あのままレイミアも巻き込んでそのまま事態を進めるのが、正解だったのだろうか。
“私はアーリドと結婚するの。そしてアーリドの子供を産むの。その子が未来のミーナールを良い方へ導いていったら、素敵でしょう?”
 星月夜の下。それは希望に思えた。それこそは最も望ましい、あるべきミーナールの未来かも知れないと、自分には思えた。混乱した現実の向こう側で、ミーナールとルツ両国の理想の姿になるかも知れないと、確かに自分は望んでしまった。だから、
「判らないですね」
 長い沈黙の果て、カーイは静かに答える。
 ランタン光が僅かに揺れていた。エウジスは硬く発した。
「私は後悔が嫌いだ」
「――」
「だから君を処刑することにした。明日、執行する」
「――」
「君は、拷問には耐えきれないだろう?」
「――。ええ。おそらく」
「もう私にも、側近達の声を押さえきれない。今回の事件が、ルツ本国に報告されてしまう。彼らは君を本国へ移送し、自白を強要し、陰謀の首謀者としてアーリドの名を引き出そうとする。
それだけは絶対に阻止する。アーリドを逮捕したり処罰したり、そんな現実には絶対にさせない」
「――」
「君とアーリドとならば、アーリドを選ぶ」
「――」
 カーイは、何も応えなかった。
 ランタン光は淡く、黄色く、隙間風に揺れている。静寂が淀んでいる。
 獄舎から見えない天上で、月はゆっくり下り始めている。時間は着実に進んでいる。
 用は済んだ、と思った。エウジスは踵を返した。長衣の裾を低く鳴らして、歩み出した。
 それをカーイが引き留めた。
「貴方には、まだ有るのではありませんか。エウジス?」
 ガランとした獄房の真ん中、足が止まる。
「違いますか。貴方は今、私に訊ねたい事が有るのではありませんか」
 自分を殺す友を見ながら、いつも通りの静かな声で言ったのだ。そしてエウジスは、己の眉間に熱がこもるのを覚えた。
 カーイに嫌悪を覚えた。極刑を宣され、もう運命から逃げる術は無いのに、それなのにまだ主導権を取ろうとするカーイに耐え難い不快を覚えた。そう。
 昔から、いつもだった。
 そう。いつもいつもそうだった様に。長くずっとそうだった様に。また年齢と経験と知識の差を見せつけて、涼しい顔で言うのか?
『そうですね。エウジス。確かに、貴方の言う事も正しい。でも、他の位置からの見方・考え方があっても良いのではないですか? 勿論、貴方の考えもまた正しいのでしょうけれども』
 そうしたまた、まだ、自分を屈辱感の中に下すのか?
「訊きたいことなど無い」
「本当に、そうですか?」
 静寂が迫ってくる。攻めてくる。無音の中、相手が自分の内面の不安定を見抜いているような気がする。
「……」
 カーイは見抜いている。
 あの時以来、自分はろくに眠れていない。拷問のように神経を苛む不安感に、もう耐えられない。そこから解放されたい。それだけを欲している。
 止めろ、と矜持が叱る。止めろ、訊ねてはいけないと命ずる。
 また相手の主導を認めるのか? また屈辱を味わうのか? 止めろ。自分の心の弱さが情けない。なのに。
「これは――」
 止めろ。これが自分なのか?
 己の力以外は信じないと、そう誓ってミーナールに戻ってきた自分なのか? ミーナールに輝く未来に導く全霊を賭けて戦うと誓った自分なのか?
 それなのに、
「……これは、
 アーリドが関与した陰謀ではないはずだ」
 低い小声で、訊ねてしまった。
「アーリドは、何も関わっていない。そのはずだ。
 そうなんだろう? 答えろ。言え」
 はからずも声が上擦りかけた。耐えきれず、屈してしまった。
(神よ。肯定して下さい)
 答えろ。答えて、教えてくれ。肯定してくれ。頼む。頼むから、カーイ。私を解放してくれ。
「……答えろ」
 薄闇の中。揺れ続ける灯りの中。
 浅い呼吸四回の後だった。
「アーリドは、関与していません」
 神よ。感謝致します。
 感謝を致します。アーリドは、自分を殺そうなどと考えていなかった。自分を、見捨てなかった。
「……つまり。今回の件は、貴様が独りで企み、実行した犯罪なのか?」
「そうですね」
「なぜだ」
「なぜなら、私も貴方と同じ考えだからです。
ミーナールと貴方とならば、ミーナールを選びます。アーリドと貴方とならば、アーリドを選びます。それだけです」
 そういう事だ。
 それだけだ。そう。
 自分達は二人共がアーリドが好きで、そして今、アーリドを挟んで死を宣告する者と宣告される者に分けられたという事だけだ。この世はこんなにも単純に構築されているというだけだ。
 もう良い。これ以上理解しなくて良い。もうこれ以上、心を削られたくない。
 ランタンの光が大きく揺れた。再び歩み出し、エウジスは獄から退出した。心の奥底で、現実が自分の望んだ場から遠く外れてしまったと感じた。

(嫌だ)
 エウジスが崩れそうな感情を引きずりながら獄のある小城砦を後にした頃、アーリドはいまだ壁に背を押し付けていた。一つしかない現実を、朝に向かって時間が進むという現実をただ、拒否し続けていた。
(嫌だ)
 背中が冷える。疲労が体を縛る。蝋燭の火が燃え付きようとする中で、アーリドは無為のまま、流れる時間の中に疲れ、座っている。
 月星が沈み、陽が昇る。明日が来る。
 カーイが死ぬ。
 どんなに頑なに拒否を続けても、時間は流れ、明日は来る。カーイが死ぬ。殺される。
(嫌だ)
 コン
 錠を下ろした扉を叩く、僅かな音が響いた。
 アーリドは動かなかった。扉を開けようとしなかった。それでも、閉じ切った扉の下に小さな書簡が差し込まれたことには目が留まった。
 なぜか、手に取る前から分かった。
 その手紙の差出人も、書かれている内容も、分かった。彼女が、猛烈な泣き顔で、だというのに強い眼で自分を責める姿が鮮烈に目に浮かんだ。
 ……
『天上の神様。こんな事が許されるのでしょうか。
 アーリド、聞いたでしょう?
 そんなの嫌よ。明日、カーイがエウジネスの命令で処刑されるのよ。
 ねえ、どういう事なの? 貴方は何を知っているの? なぜエウジスがカーイを殺すの?
 止めさせて。絶対に止めさせて。カーイを殺さないで。それが出来るのは貴方しかいないって判っているのに、なぜ何もしないの?
 もう時間が無いの。明日なのよ。貴方は何をやっているの?
 お願い。お願いだから何とかして。アーリド。早く何とかして。
 カーイを救って。アーリド。カーイとエウジスを救って』
 ……
(もう、嫌だ)
 その間にも月と星はじりじりと滑り落ちてゆく。間も無く没する。逃げ場は無く、明日はやって来る。
 全ての者の上にミーナールの朝が来るまで、あと数刻。



10・  全ての者の上に朝が来る


 少しずつ、小鳥のさえずりが聞こえ始めた。
 少しずつ、夜明けの曙光が窓の鎧戸の隙間から射し始めた。光は少しずつ、濃さを増し始めた。
 ミーナールは美しい夜明けを迎えた。
 ……
 ゆっくりと、アーリドは立ち上がる。
 一睡もせずに過ごした目は、うっすら赤味を帯びていた。しかし今、その目で前方のどこかを見据えていた。
(もう嫌だ)
 最後にもう一度、そう思った。
 長すぎた夜に疲れ、そして飽きた。何一つも思考がまとまらないことにも。
 一晩中、何も変わらなかった。戸惑い、恐れ、怒り、苦しみ、泣いて、喚き続け、なのに何一つも変わらなかった。現実に押し流されるだけで、自身の方は現実を何一つ変えることが出来なかった。そのことを、もう嫌だと思った。
(こんな現実はもう嫌だ。だから、)
 何かをしたい。
 そう思った。何でも良い。何かをする。その為にアーリドは疲れ切った背中を壁から離した。強張った体で立ち上がった。
 真っ直ぐに鎧戸の隙間から斜光が射し込む自室を、固い足の八歩で横切る。昨夜、自らの手で下した鍵を解き、扉を外へと押し開ける。
 視界に飛び込んできたのは、異様であった。
「……。何の用だ」
 扉のすぐ外に、四人の男達が並び立っていた。
 どの顔も良く見知っている。館の家令と、側仕えと、書記と、評議会の文官だった。誰もが硬く緊張した面持ちで、自分を見据えていた。
「何の用だ」
「アーリド殿。誠に申し訳ありませんが、本日はこのまま、室内でお過ごしください」
 文官の固い台詞と、それ以上に硬い顔。それだけで解かった。
 やってくれるな。
 と思った瞬間、アーリドの目の前で扉は閉じられる。外側から錠を挿し差す音が、薄暗い室内に鈍く響いた。
 やってくれたな。
 おそらくシャイクの差し金だろう。それともサスキアが怒って命じたのか。いや、自邸か評議会の誰かが、純粋に自分の身を案じたのかもしれない。いずれにせよ今、アーリドは自室に閉じ込められた。それだけだ。
 勝手にしろ。やりたければ好きにやれ。
 その間にも、朝の冷えた空気は動いてゆく。鎧戸の外では、光が増している。小鳥の声が高くなっていく。アーリドは扉の前に立ったまま、じっと閉じられた窓の方を見捕え続ける。
 さあ今は、動く事を考えろ。
 疲労と眠気を重ねた神経が、ひりついて微熱を帯びている。思考は安易に感傷の方へと逃げ込もうとし、その度に苛立ちながら現実へと引き戻す。朝の時間だけが走るように進んでゆく。
 考えろ。
 思考はすぐに戻りたがる。眩しくて居心地の良い、夏の光に満ちた記憶の中に。――少年の頃に。自分とエウジス、それにカーイとレイミアがいて、四人が何の曇りも無い友情と未来を信じていた頃に。
 ……いつも一緒にいた。
 特にエウジスとは、一緒にいるのが当然だった。呼吸のように当然で、だから友情という単語すら意識に登らなかった。
『アーリドっ、港へ行こう!』
 その一言が全てだった。何の疑問も躊躇も無い、喜びの時間だった。光に満ち溢れた世界だった。
 アーリドは再び室内を横切る。窓の許へゆく。
 自らの手で鎧戸を押し開けた瞬間、射しこんできた光の量に目が痛んだ。夏の終わりのミーナールの朝は、とっくに先へと進んでいた。
 そのまま窓枠に手を突き、身を乗り出してみる。見下ろした下方には、四階分の高さの宙が広がっている。壁面に沿って藤の古木の太い幹が、ゆったりと張りついている。
『アーリド様。駄目です。今日は計算術を学ぶ日です。外に行ってはいけません』
 そんなの知るか。今朝はエウジスと桟橋に行く約束なんだ。今朝はマグリーの大型船が入港するんだ。
『これを見逃せる訳無いよな、アーリド。さあ行くぞっ』
 ゆっくりとアーリドは、窓枠をまたぐ。宙に出した右足を慎重に、慎重に動かし、緑の葉がおおい茂った藤の大木の枝に足を乗せてゆく。
『お前の部屋から抜け出すなんて簡単だよ。藤の木が足場になるもの。僕の部屋は三階だけれど、窓の外に足場が何も無いんだぞ、抜け出すのが難しいんだよ』
 ミシリ、と音を立てて、うねった大枝が鈍くたわんだ。現実の自分は、あの頃より上背も体重もはるかに増していた。何の恐れも躊躇も知らない少年では、とっくに無くなってしまっていた。
 ミシリ。アーリドの全身はたわむ枝の上、壁にへばるように宙に浮く。足場の不安定さに、はからずも動悸が高まった。まだ窓枠を握っている左手に早くも汗がにじみ出した。その手を外してゆく。ゆっくりと、ゆっくりと、次の枝を目指して体重を移動させてゆく。
『ほらね。簡単だろう?』
 簡単だったという記憶には、濁らない幸福感があった。そこから長い年月を重ねた今、アーリドは恐怖感をもって足を運ばなければならなかった。
 一歩。一歩。たわんで揺れる幹を、少しずつ下ってゆく。四階の高さから、三階の高さへ。さらに二階へ。
『ほら。だからやってみれば簡単なんだよ。やれば出来るんだから』
 その瞬間、はっと息を飲む!
 遅かった。鈍い衝撃と摩擦感が体の半分を突き抜けた。無残にへし折れた古枝と共にアーリドは音を立てて地面に落ちていた。
『ほら。抜け出せたじゃないか。――さあ、早く桟橋へ行こうっ』
 ひりつく痛みに気遣っていられる時間は無い。次には自邸の外塀が待っている。
『アーリド、ここで誰かに見つかったら意味ないぞ。急げ、マグリーの大型船なんて数年に一度しか来ないぞ。まさか接岸を見逃す気か?』
 見上げた空で、太陽は着実に高くなっていた。空の全体が明るい光に満ち始めていた。なのに地上でアーリドはまたも困難に直面してしまっていた。
 人けの無い北面の外塀は、こんなにも高かっただろうか。石の出っ張りやへこみに手足をかけながら登っていくのに、予想以上に困難を覚え、時間を喰ってしまう。信じ難いことに掌に僅かな血までにじんでしまう。
 やっと塀の上まで登り切った時、もう一度見上げた空で太陽はさらに高くなっていた。もう時間を喰っている暇は無い。
『急げ、アーリド!』
強引に飛び下りた。
 ――痛い!
 着地の瞬間、傾いた体勢を支えきれず足首に激痛が走った。
 顔が大きく歪む。呼吸二つも置かない間に右足首に脈打つような痛みが始まった。
『本当にのろまだなぁ。何してるんだよ、さあ早く立てよ。急げよ、さあ!』
痛みを無視し、アーリドは立ち上がる。
『急げよ! アーリド、急げ!』
「待てっ、聞きたい事があるっ」
 たまたま通りがかった二人連れの女達に、早口で訊ねる。その答えを聞いた瞬間、余りにも出来過ぎた偶然に、感動すら覚えてしまった。
『早く! 早くしろ、アーリド! きっと桟橋にはもう人が押し寄せてるぞ、間に合わなくなるぞ!』
 熱を帯び出した右足を引きずり、アーリドは走り出した。
 ……
 陽射しは目に見えて強くなってゆく。
 キラキラと輝く光が、夏の最後の美しさを見せつけている。神に愛されるミーナールに万遍なく注いでいる。
 アーリドは走る。足首の痛みが徐々に体の上へ上へと突き上がってくるのを、こらえながら走る。
 街の中心へ近づくにつれて、ミーナールが普段と異質なことに気づく。商店の多くが閉じたままで、朝の活気が滞っているのだ。
 それにこの人通り。とてもミーナールの朝とは思えない。明らかに少なすぎる。加えてその少ない人々のほとんども、足早に同じ方向に進んでいくのだ。
「……としても、公開の処刑など数年振りだから……」
「……の件でついにルツが極刑を執行するということは……」
「……どうせ評議会の承認無しだろうし今後は一層騒乱が……」
「……あれは、ワリド家のアーリドだぞ……」
 散らばった言葉が耳に飛び込んで来る。アーリドは足を止めない。痛みをこらえて走り続ける。
 解っている。これは逃げ込むことが許される感傷では無い。もう動揺するな。動揺する時間も意味も無い。自分がやることは、
『走れよ、アーリドっ』
 行動だ。だからとにかく走れ。
 上空で、太陽はみるみるうちに高くなり強くなっている。時間だけが着実に進んでゆく。閉じた小さな商店が立ち並ぶ通りを抜け、
『遅いぞ、間に合わないぞ、早くっ』
 ガランと人けを減らした小広場を横切り、
『きっと桟橋はもう人が詰めかけて賑わってるぞっ』
 ごちゃごちゃと込み入った裏路地を何度も左右に曲がり、
『のろま! アーリド、急げっ、走れっ、桟橋だ!』
 路地を出た途端、唐突に視界は無限に広がった。
 青く、全方向に突き抜けた、空。
 遠い水平線へ向かって僅かに弧を描く、海。
 そして、夏の最後の強烈な光。
『やっと着いたな! ほら、見てみろよ。アーリド』
 アーリドの目が、光に眩む。ミーナールの平和と繁栄と栄光の象徴である港は、晴れ渡った空と海の間で圧倒的な輝きを帯びていた。
『僕はここがミーナールで一番好きだ。
 凄いよなあ。この港が、ミーナールを外へ向けている。ここから、どこへも行ける。ここを出発すれば、ルツへは勿論、もっと遠くの国へも行ける。ここからならば、望みさえすればもっと遠い、世界中のどこへでも行くことが出来るんだ。
 お前はどうだ? ミーナールもルツも素晴らしいけれど、でももっと遠い、広い場所へ行ってみたいと思うだろう? もっと一杯見てみたいと思うだろう? そうだろう? アーリド?』
 あの時、何と答えたんだっけ?
 覚えていない。でも覚えている。
 ――エウジネスの眼。
『もっと広い場所を、世界を見たい。
 僕は世界から、このミーナールを見てみたいんだよ、アーリド』
 まだ未熟さをさらした眼で、でも港を、その遥か向こうを懸命に見ていた。内側に理想の大きさを抱え、自意識や矜持に潰されそうになりながら、それでも必死に現実と対峙しようとする眼があった。
 エウジスは、昔からずっと、遠くを見る想いを持ち続けていた。
 何も気づかなかったのは自分だった。ミーナールの揺籠のような安寧の中で、何も考えず、何にも苦しまず、ただ幸福だけに浸っていたのは自分だった。
 ……目に眩い夏の光の中、エウジスの顔がある。
 桟橋の向こうに投錨した巨大なルツ船の甲板にいる。あの時とは大きく異なり、冷たく強張ったエウジスの顔がある。己の意志のみで突き進んできた者に相応しい自負と、それに反する不安とを混濁させた顔がそこにあり、そして、
 胸が押し潰される圧力を覚えた。
 エウジスの横に、カーイがいた。後ろ手に捕縛され、首に太い縄を掛けられたカーイが、立っていた。
 ……
 すでに桟橋周囲には人々が溢れんばかりに詰めかけていた。文字通り、かき分けないと踏み入ることが出来ない程の群衆となり、混雑ぶりになっていた。
 それも当然だろう。数年ぶりの公開の処刑だ。いまや全住民の憎悪を買っているルツ太守が、初めて、独自の権限で執行する極刑だ。しかも本人も立ち会うのだ。
 群衆が下世話な興味を剥きだして沸き立っている。ああだこうだと全く勝手な見解を持ち出し、好き勝手に喋り合い、喰いつくように甲板上の太守と、その暗殺未遂犯を見上げている。
 その人垣をアーリドは強引に押し分けて前へ歩んでいった。
「押すな! 阿呆がっ ――っ、――!」
 食い入るように船を凝視している外国商人に、鋭い外国語で怒鳴られる。
「あれ? ワリド家の――?」
 それらを無視し、右足を引きずりながら強引に前に出る。一歩ごとの足首の痛みは神経を突き、吐く息に低い呻きが混ざる。なのに感情が高ぶり、その痛みも上手く感知出来ない。思考は単純な、だが困難な問いのみに支配され続ける。
“こんな現実は絶対に嫌だから。だから変えないと”
 はっと、腕を掴まれた。振り向いた視界に飛び込んできた顔に目を奪われた。
 いつもの通り、サスキアは強い怒りの顔だ。その顔を近づけ耳元で吐いた小声には、これまたいつもの通り、激しい不満が込められていた。
「呪われろ。何でここにいるのよ」
 サスキアの横には、イナブがいる。更にシャイクもいる。両人ともが不満感を秘めた目で見てくる。彼らは今、心の中に同じ事を思っている。
(まずいな。もう一度捕まえて、今度こそどこかに閉じ込めるか)
「アーリド、右頬」
 言われて頬に触れた指に、血がついた。じっとりとした擦り傷の痛みを初めて覚えた。
「今まで傷に気付かなかったの? 阿呆なの? 帰りなさいよ」
 聞かない。アーリドはサスキアとイナブの間に分け入って立つ。
「貴方がここにいると邪魔なのよ。帰れって言っているのに、聞こけないの?」
 聞こえない。眼を前方に釘付けたまま動かない。
 彼らの立つ場所――人垣の最前列からは、場の全貌が良く見える。前方の十二歩先には、ルツ兵達が一列に立ちはだかっている。そのすぐ後ろの桟橋の先端からすこし離れ、ルツ軍船は高くそそり立つように停泊している。突き抜けた青空を背景に、威圧と重量を見せつけている。そしてその甲板に、
「皆が貴方の表情を窺ってるのよ。どうせ冷静を保ち切ることなんて出来ないくせに。 貴方が動揺の顔を人に見られないからっ、アーリド」
 よく見える。カーイが。
 カーイは、甲板の縁に立たされている。船に渡し板を取り付け場所で、そこだけは今、手すりが取り外されている。彼はあと一歩を前に進めば、海面へと落ちてゆく。首に太縄をかけられたまま――。
「いつだ」
 初めて発した。
 これに答えるべきか、とサスキアが迷ったのは一瞬だった。彼女の鋭い洞察は “帰らないわね、この男“と即座に察した。この顔はたとえ引きずられても帰らない、閉じ込めてもまたすぐに抜け出して来る。
「すぐに。次に聖ファロが正時の鐘を打った時に執行」
 弾かれた様にアーリドは桟橋の北の礼拝堂を仰ぐ。細長い鐘楼の、その砂色の壁で時を刻む針は、今にも正時に達しようとしている。
「なぜ――」
「何?」
「――」
「アーリド、何よ」
 言葉は継がれない。アーリドは一心に、死の直前に立つカーイを見る。
 カーイの表情には、何もない。思考も感情も何も示していない。ただ、長い髪と長衣の裾だけが、途切れることの無い海風を受けて揺れている。
 なぜ? なぜカーイは怯えていない? 恐怖に引きつっていない?
 死の淵に追い詰められているのに。あと一歩で苦痛と共に死の中へ消えるのに。なぜ常の通りの冷静そのものの顔でいられるんだ? そしてその横で。
なぜ?
「アーリド。最後まで見る気なら絶対に顔に出さないで。平静を保ってっ」
 なぜだ?
 カーイの横で、エウジスの顔が追い詰められている。
 冷徹な無表情で、懸命に隠そうとしているのが面白いように、手に取るように判る。エウジスは今、追い詰められている。普段の強さを保てないほど追い詰められている。それでもしかし、己の意志を貫くことだけは決している。
「アーリドっ、表情を崩すなっ」
 なぜだ。なぜカーイは恐怖を打ち消せるんだ。なぜエウジスは怯え追い詰められながら、それでも現実を推し進めるんだ。
 なぜ自分達の夏は、ミーナールの美しい夏は、こんなに捻じれてしまったんだ。
“嫌だ――こんな現実は嫌だ。だから今、何かを行えっ”
 ……
 エウジスの眼が、アーリドを見捕らえていた。
 遥かに下方、桟橋にひしめく群衆のその最前方にいた。久し振りに見る友はかなり頬が痩せていた。そのどうでも良い事実だけで動揺している自分に驚いた。とっくに切り捨てたはずの感傷をまだ引きずっている自らに、驚いた。
 アーリドは彼らしく、何も臆せずに辛さの感情をそのまま表している。その顔で自分を見ている。こんなに歪んだ現実を先導した自分を見捕えて、責めている。
 ならば、アーリドは動くのだろうか? この現実を修正するために。あの柔軟に物事に対処する深い眼で前を見ながら。
「時間です」
 背中側から補佐官・ゴドゥの声が響いた。
 エウジスは表情を変えることも無く、二歩前に出る。この瞬間に、桟橋を埋める騒々しい群衆は一斉に静まった。桟橋の全体の空気が緊迫し出した。執行宣告の時だ。
 静寂の中に海鳥の声が甲高く響いた。エウジスは、乾いてしまった舌を引きずるように動かそうとした。
 その時を狙っていたのか?
 彼の中の抑え切れない葛藤は、別の形をとって現れた。
「これって、正しいの?」
 核心を真っ向から突いてきた。
「何でこんなに物事をこじらせるの? おかしいじゃない。聞いてるの? エウジス、答えてよっ」
 背中側から必死に訴えかける。しかし振り返らない。前を見たままエウジスは小声で言う。
「船室に入っていろと言ったはずだ」
「これが正しいなんて言わせないっ。貴方だって判っているくせに、なのになぜ間違ったまま物事を進めるのっ?」
 振り返らなくても分かる。今、レイミアは怒りに紅潮しながら真っ直ぐに自分を睨んでいる。
 信じ難いことに彼女は、この場に来ると言って譲らなかった。自分の親友が自分の親友を殺すところを見ると言って聞かず、付いて来てしまった。神が彼女に授けた純粋という強力な武器によって、事態の異常に訴える役を担ったのだ。
「聞いてるの! 答えて、エウジス!」
 答えない。もう自分の現実は定まってしまったのだから。
 エウジスは再び空気を吸った。すでに言うべき文言は決まっていた。昨夜書記官から渡された処刑執行へ対する公式文面は、動揺する内心とは裏腹に、不思議なほど素直に頭の中に入っていった。それを今、自分の舌に乗せて桟橋に向かい発するだけだ。
 もうそれだけで良い。だから今はそれだけに集中しろ。それだけだ。そう。解っている。解っているのに、――なのに、
 なのに最後の瞬間に、感情はまた自分を攻めた。堪えきれず、感情に捕えられてしまった。屈辱的なことに『もう一度見たい』と願ってしまった。
 己の犯す罪悪が怖くて、もう二度と見られなくなることが怖くて、だからもう一度だけ自分の右横を――殺すべき親友を、振り向いて見てしまった。
 ミーナールの真昼の光の中。
 カーイの顔は、変わっていない。常の通りの冷めた、水の静けさをたたえていた。現実の物事など、生死など超越した落ち着きを払い――
「こんなにカーイを恐怖で苦しめて! よく平気でカーイを見られるわね!」
(え?)
 はっと息を飲む。
 ――カーイは、怯えているのか?
 そうなのか? 初めて気づき、気づいた途端、なぜ今まで気づかなかったんだろうと痛烈に思った。
 そうだ。カーイは今、極限まで怯えている。
 当たり前じゃないか。死の淵にいる者が、怯えてないはず無いじゃないか。カーイだから、少年の頃から自分がずっとその知性と冷静とに憧れ、だからいつでも嫉妬と劣等感に縛られ続け悩まされてきた相手だからといって、死を恐れない超越者のはずないじゃないか。自分の眼がそうだと決めつけて見ていただけじゃないか。それにたった今まで気付けなかったのか?
 なぜ? 一体自分は何を見ていたんだ?
 ならば、アーリドはどうなんだ?
 アーリドは気づいていたのか? 矜持と虚勢以外に己を守れない自分と違い、常に柔軟に物事を受け止められるアーリドならば? アーリドならば澄んだ眼のまま現実を見られるのか?
「エウジス! 止めて!」
 レイミアの悲鳴が現実に引き戻した。
 もう抵抗は出来なかった。定まってしまった現実を引き戻す力は、もう自分には無かった。誇りの名を借りた小心の前に、完全に屈してしまった。
 再び正面を見据える。陽射しを受ける眼下の桟橋の全体に向かって、全く感情を含まない声を発した。
「ルツ王国より属州ミーナールに派遣された太守の権限におき、太守の謀殺未遂の罪科を犯した逆賊・大罪人に対し、これより処刑を執行する」
 晩夏の日差しが眩しい。海風と海鳥の声が抜けている。
「本件に関して異議を訴える者は、次の正時までに、即ち鐘楼の鐘が鳴り終わるまでに申し出よ。申し出がない場合は、その時点をもって絞首刑が執行される」
 アーリドが自分を見ている。その真っ直ぐな視線で、自分を責めてくる。だからあらん限りの意志をもって冷徹の態を貫く。
 もう自分には出来ない。現実を変える勇気も度量も無い。だからアーリド、君が何とかしてくれ。決断して変えてくれ。
 出てこい。
 私にカーイを殺させないでくれ。
 出てくるな。
 私に君を逮捕させないでくれ。頼む! アーリド!
 ――桟橋全体に鐘が鳴り響き出した。
 アーリド、エウジス、レイミアの体が同時にびくりと揺れた。海と航海の守護聖者ファロの鐘楼が、夏の最後の空気を震わせて鐘を打ち始めた。
 まずは正時を予告する小鐘の音が四回、甲高く響く。これに続き大鐘の低い、間延びた音色が響き始める。この大鐘が十回鳴り、その余韻が天に消えた時、正時が完成する。
 一つ目の長い鐘が終わり、今、二つ目が鳴る。
 カーイの表情が、瞬きすら失ったかのように凍り付いている。
 エウジスは締めつけられ、乾き切った喉に唾を飲みこんだ。そしてアーリドは――、
アーリドは、壮絶に顔を歪めている。
(出るべきなのか)
 解っているのは、あと大鐘が八回鳴る間に自分が異議を申し立てなければ、カーイは一歩前へと突き落とされるということ。絞首によって絶命するということ。
(出るべきなのか。自分は。今。ミーナールの行末を変えても、カーイを救うべきなのか)
 三つ目。四つ目。
 鐘の音が長く、間延びながら桟橋に響く。アーリドの腫れた右足首が、僅かに前に動く。その途端、左手首を掴まれた。サスキアが文字通り眉を吊り上げて脅迫した。
「出ていかせないわよ。傷つけてでも」
 気付くとアーリドの周りには、評議会の衛兵やらサスキアの家の郎党やらが近づいて来ている。シャイクの小柄な全身も右隣に立ち、鋭い気迫をもって自分を見ている。
「行かせない。私はミーナールを愛してる。だから貴方を殺してでも行かせない」
 サスキアは揺るがない圧倒的な決意をもって手首を掴む。
それが己の取るべき行動と、信念をもって行動する。もしかしたら後日になり、判断が誤りだったとアーリドから責められる事が有るかも知れない。何より、アーリドから決して消えない憎悪を買うかも知れない。
 でも彼女は構わない。ただ己の意思のみを信じ、己のすべきことのみを貫いている。
 五つ目。
 では今。自分の信念は何だ? 自分には、何ができるんだ?
 長く尾を引きながら、大鐘が鳴り続けてゆく。カーイの静かな眼が――追い詰められた眼が、遠い虚空にすがっている。無言で救済を求めて、アーリドに訴える。
 六つ目。
「今動いたら、全ては破滅よっ」
 断ずる。全てが破滅だって? そうなのか?
 七つ目。
 そうなのか?
 違う。全ては破滅しない。少なくとも、この場でカーイの死を回避できる。その先に別の現実が生じる。少なくとも今、自分が動けば。
 八つ目。
 少なくとも、少しだけは現実が動く。
 嫌だと呪い続けた現実に少なくとも、少しだけ抵抗が出来る。少しだけは未来が変わる。だから。
 やらなければ。動かさなければ。この歪んだ現実を変えなければ!
 九つ目。
 アーリドは息を吸った。瞬き一つの間だけ発すべき言葉の選択に迷い、そして決した。十回目の大鐘が鳴りだす直前。
「駄目! 許さないっ、絶対!」
 サスキアが手首を力任せに引く。その手を体ごとよじって振り払った。素早く二歩を進み出、力を込めて叫んだ。
「私が異議を――!」
 その声が消された。
 サスキアでは無い。シャイクでも。その他の者でも。鐘の音でも無い。
 空気を裂く奇妙な音響がアーリドの声を遮った。




【 最終章へ続く 】
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