第4話

文字数 24,137文字

7・ 長い夜のしじまの果て


 ふわふわと、浮くような感覚を覚えた。
 その感覚のままで、アーリドは夢中で歩いていた。
 カーイを見捨てて、小広場から逃げるように走り去った。体の芯が冷え切り、軽い吐き気もあった。でももう朝まであまり時間が無い。早く考えなければ。多くの事柄を考えなければ。
 ……なぜ? なぜ今、突然、あんな凄まじい事を言い出したんだ?
 なぜあんな恐ろしい事を思いつくんだ? それがカーイの冷静な眼が見た現実なのか? あの圧倒的な理性で分析した時、現実はそこまで切迫しているのか? もしかしたら、自分だけが現実に真っ当に対峙していないという事なのか?
 カーイは、彼は、現実を前に感情を殺すことが出来るのか? ……
 今はカーイと現実から離れたかった。とにかく自邸に戻りたかった。自邸に戻り、自室の寝台に倒れ込みたい。寝たい。寝て、少しでもこの疲労と混乱を取り除き、吐き気を覚える明日に備えないと。さもないと潰れてしまう。
(神様。少しでいいから望みを叶えてください。少しでも早く、眠りに就かせて下さい)
 ミーナールの裏道は、死んだように静まっている。
 物音は一つもしない。自分の足が石敷の地面を踏む僅かな音すら、闇に消える。一歩の毎に体の中に淀んだ、混濁した感覚がこみ上げて来る。
『死』
 単語が、頭の中心で淀む。
 死。
 消失。消滅。抹消。
 ……母親は、自分を産んだ床で死んだ。
 元より、何一つの印象も無い。生の感触も死の記憶も持ってない。
 ……父親は、ファーリス国への公式訪問の途上で客死した。
 出発前から、持病が酷く悪化していた。そんな体調で外遊に出れば命にかかわることは明らかだったが、それでもミーナールの為に行かなければならなかった。
 出港の朝、父親は桟橋でしっかりと自分を見捕え、真剣に告げた。
『もうこれで二度と会えなくなるかもしれない。その時にはお前が新たなワリド家の当主だ。お前の全霊を、ミーナールの為にのみ捧げ尽くせ』
 遠い異国より父親の病死の報が届いたのは、それから三度目の新月の夜であった。
 それ以外にも、幾つもの死に立ち会った。自邸の者・評議会の関係者・顔馴染の商人・既知の外国人。多くの葬列に並んだ。だが、死を実感として捕えられない。長く遠い航海に出ているとでも言われれば、そう思えてしまう気もする。
 死。
 消滅をする――消滅をさせる――殺すことで――。
 足が滞る。自邸はこんなに遠かったか? 早く寝たい。夜は深淵のように暗く、深く、全身に絡みつく。
 闇――黒――死――殺害。ミーナールの為の――。
『ミーナールを取るか、エウジスを取るか』
 自分がエウジスを殺せば、そうすればミーナールは救われるのか? 自分が街を救う為に、その為にエウジスが殺されるのか? 自分の手で?
 仰いで見た空に、いびつな月と星が残っている。凍りついたように深く冷たい夜のしじまを感じ――
 その瞬間、衝撃が体を襲った!
(誰!)
 叫ぼうとして声が出ない。口を塞がれた。掴まれた右腕は強い力で背中に回され、体は脇道へと引きずりこまれる。
(嫌だっ、誰だ!)
 死だ! 自分も考えたっ、ならば相手だって考えるはずだっ、
 違う! エウジスがそんな事考えるはず無い!
「誰だっ」
 やっと声が出る。が、目の前にいる見知らぬ男二人に、再び口を押さえ込まれる。激しく腹を打たれた。突然視界が闇に落ちた。目隠しされ、どこかの路地奥へ連れ込まれた。
 心臓は猛烈な速さで脈打つ。恐慌に陥りそうな感情をすんでの所でとどめ、夢中で思考をめぐらせる。
(考えろっ、逃げろっ、落ち着け――!)
 落ち着けるものかっ。
 捕らえられ、目も隠され、散々に裏路地を引きずり回された挙句、ついにどこかの建物の中へと連れ込まれた。その扉口辺りで必死に抵抗を見したが何の意味も無かった。一度二度激しく脇腹を打たれただけだ。
(助けてくれ! 誰かっ、カーイっ、誰か、誰か――エウジス、助けて!)
 下り階段へと引きずられてゆく時、冷えて湿った埃の臭いだ。地下――地の底――死の場所。
(死なんて嫌だっ、助けて、エウジス、助けてくれ!)
 突然。引きずられる体が止まった。倒れ込みかけた姿勢を、両側から引き起こされる。叫ぼうと息を吸った瞬間、
「――っ、――!」
 びくりと強張った。
 外国語だ。どこかで聞いた言語。どこかで聞いた声。女の。
「――っ、くたばりやがれ! 手荒はするなってあれ程言ったのに! ――っ。この神穢しの馬鹿が!」
 唐突に目隠しが外され闇が消えた時、
「阿呆な郎党が手荒をっ。悪かったわ」
 光の中に、鮮明な顔が現れた。その顔がいきなり、鮮やかにアーリドに唇を押しつけた。たった今までの死の予兆を一掃する生のそのものの感触を与え、己の状況すら判らないアーリドに、だというのに間違いない安堵を覚えさせた。
「何が起きて……、サスキア嬢、これは貴女の――」
“仕業なのか?”と言いきる前に、彼女の背後の光景に目が留まる。
 人がいる。燭台を背に三つの人影がある。目一杯の警戒を覚えながら、アーリドは口を利く。
「なぜ、貴方達が……? 老シャイク殿、それに、イナブ家当主のミール殿、ハラ教区の教区司祭長? ――ここはどこだ?」
 燭台の光が照らし出すのは、剝き出しの石壁の狭い空間だった。ゴツゴツとした壁面のいたる所にはめ込まれた石板の墓碑、骸骨の浮彫、それに独特のすえた臭いと湿気から間違えようも無かった。
 自分は今、どこかの地下の、死を祀る場に連れ込まれている。
「納骨堂? どこの?」
「聖ジャミア廃堂の地下墓所ですよ。ようこそ。アーリド殿」
 大柄な筋骨を持つイナブ豪商の太い声が響いた。
「強引な招待方法には、御容赦を下さい。誰にも気づかれることなく、御屋敷の人間にも見られること無く、早急に貴方一人を呼び出したかったので、この様な手法になりました」
「私の提案よ。拉致してしまえって。
 最初はうちの男達がワリド邸に忍び込む手筈だったのだけど、――驚いたわ。こんな夜に平気で独りでふらつくなんて。
 本当に信じられない。街には貴方を恨む人間は山ほどいるっていうのに」
「それで。貴方達は何を考えているんだ?」
「エウジスを潰すわよ」
「――。潰す……」
“潰す――死”。
 途端アーリドの語気は強まる。
「エウジスに何する気だっ、彼をどうするんだ!」
 即座サスキアも鋭く察する。
「今夜何かあったわね、そうでしょう、アーリド? まさかエウジスに会ったんじゃないでしょうね?」
「教えてくれっ、今、何を企んでいる?」
「言いなさいよっ、今夜エウジスに会ったの? 会ってまた言いように突け込まれたの? 今度は何を要求されたのよっ」
「まず先に教えてくれ! エウジスをまさか本気で――」
「今度はミーナールを売り渡す契約でも交わしたの? 恥さらし!」
「言え! 何を企てようとしているんだ、貴方達は!」
「ファーリス国を呼び入れます」
 シャイクの冷静な声が響いた。
 アーリドは振り向く。今日という一日、散々に翻弄され続けたと、もう充分だと吐き出したいのに、それでもまた動揺に陥る。
「……どういう意味だ……」
「私達は、ファーリス王国に密使を送り、ミーナールへの軍船派遣を依頼する策を工作しています。これを貴方に提案します」
「ファーリスを……」
 小さな燭台の灯が、すえた隙間風に揺れている。
「あの大国から軍船を呼び入れるって……。それがどんな事態を意味するのか、判っているのか?」
 三人の男と一人の女は誰も答えない。じっと自分を見ているだけだ。だからまたアーリドが言わなければならない。
「完全に、宗主国ルツへの造反だ。即座にルツ王が軍事行動を起こすぞ。まさかそれをファーリスの軍船で――武力で駆逐する気なのか?」
 なぜ誰も答えない? 早く誰か答えてくれ。
「それこそ大変な厄災を呼び込むぞ。今度はファーリスが宗主ヅラをしてミーナールに居座るぞ。
 二つの大国を両天秤にかけて牽制させ合うのは、決して手を付けてはならない外交の禁じ手だぞっ。赤子でも知っている許されない手法じゃないかっ」
 なぜ誰も答えないっ。なぜ無言で自分を見続けるだけなんだっ。
「ミーナールは救われない、ミーナールを追いつめるだけだ。先が見えている。皆も判っているはずだっ。絶対に手を付けては――そんな事をしたら……っ」
 だから見つめるなっ、誰か答えろ!
 ようやく、狭い空間にシャイクの低い声が響いた。
「ならば、どうすれば良いと貴方は考えますか、アーリド殿?」
「禁断の箱だけは、決して開けるな」
「それでは問題は解決しない。すでに貴方様も御承知の通り」
「――」
「問題は、現実です。今、目の前にある現実からは、私達は神を畏れることなしに未来を予測する事ができます。
 今後、エウジスは確実に第二次・第三次とルツ兵部隊を呼び寄せます。武力による圧力をかけて、着実にミーナールの自治を剥ぎ取っていきます。それに対して私達は、何ら有効な対抗策を見い出せない。ルツによる直接統治という次の次元へ、確実に追い込まれていきます。
 この未来に比べれば、ファーリス王国に居座られることの方がまだ傷が浅い。ファーリスはミーナールやその周辺地域の国情の委細には精通しておらず、また伝統的に外交術には今一つ疎い。つまり、我々の持つ外交手腕を駆使すれば、事後に優位に立った関係を再構築する余地が充分にあります」
「――」
「問題は目の前の現実だけです。後は選択です。
 このまま、エウジスに思うままを進ませるか。それとも、外部から力を呼び込んでエウジスを阻止するか」
“二者のうちの、どちらをとるか”
 どうあがいても、結論はそうなるのか?
「他に、採れる方法は無いのか?」
「おそらく評議会は今後、強硬派と慎重派に分かれて紛糾し続けるでしょう。決定的な決議にほど遠くなるだけです」
「今ここにいる貴方達は、評議会の代表という訳では無いのか?」
「真夜中の納骨堂で議事を張ろうなんて、アーリド殿、評議会の真っ当な連中なら思いつきませんよ」
 口挟んだイナブの野太い声は、そのまま大声の笑いに変じた。
「私がイナブ殿とハラ教区長、そしてサスキア嬢の御三方にのみ声をかけ、今回の密議に加わってもらいました。
 当初は貴方にも秘密にしようかと思いましたが、それはさすがに独断に過ぎるとサスキア嬢に反対をされまして」
「どうせ私に『今、何でここにいるんだ?』って思ってるんでしょう?
 私の親父は、ファーリス宮廷の高官や豪族達に顔が効くのよ。加えて私は余所者だから目立たずに動けるし。さらに家の郎党達は色々な汚れ仕事にも慣れているし。何より私は、ミーナールを心から愛しているし」
「私達は皆、ミーナールを愛しています。その為に今夜、集まりました」
 シャイクがアーリドを見ながら、生々しい現実を告げた。
「長年にわたり、ぬるま湯の心地良さにひたり続けてしまいました。平和が未来永劫続くものと、心のどこかで信じ切っていました。エウジスの様な野心家一人が登場するだけでたやすく崩壊するものを信じていたなど、悔やんでも悔やみきれない怠慢でした。
 私達の責務は、ミーナールの自治独立の維持です。例えどのような手法を取ってでもとの覚悟の上で。――神の御名に賭けて」
「……。神の御名に賭けて……どのような手法でも……」
「禁断の箱を開けます。御同意を」
 現実の、何と単純に定められていることか。独りよがりの懊悩と程遠いことか。
(止めろ、駄目だ、ミーナールに取り返しのつかない事態を招くぞ)
 解っている。それでも、どうあがいても現実は、ミーナールをとるか・エウジネスをとるかを迫って来るのだから。
“エウジネスを殺しなさい”
 それだけは嫌だ、カーイ。
 それを選択するぐらいならば、危険の尾を踏むことを選べる。だから、
「やろう」
 思いの外簡単に、アーリドは口に出来たのだ。
「有難うございます。早速、ファーリスへの密使派遣の件に取り掛かりましょう」
 誰も感慨など示さない。即座に箱を開く密議へと入った。 

 ……見えない天上で、星が動いてゆく。時間が刻まれてゆく。
 もう夜明けも近いはずだ。討議すべきことは幾らでもあるのに、それを上回る速さで時間は走りながら進んでいく。
 骸骨の石彫り紋様が浮き立つ墓所で、空気は淀み、すえていた。中にいる者達は、苛立ちと疲労を増していた。アーリドは戸惑い、サスキアは怒っていた。
「そんな生半可な考えじゃ、計画はすぐ破綻するわよっ、阿呆なの? 分からないのっ」
 何度目だ。サスキアがまたアーリドへ向かい激しく怒鳴った。
「認められないっ。計画に加担する者が一人増える度に、それだけ情報漏れや裏切者の危険も増すのに、そんな当然な事も分からない阿呆なんて!」
「しかし、実行者を全て貴女の家の郎党で固めるのは……。我が家にも信用がおける者がいるし、第一、異邦人の貴女にそこまでの負担をかけるわけには――」
「あんたのそういう気遣いに腹が立つのよっ。誠意と礼節さえ通せばどんな難局でも乗り切れるって訳? そんな御上品でミーナールを救えるの? はっ!」
 文句無しの美麗な顔がしかし、誰よりも激しく怒りを剥き出している。黒曜石のように濃い眼色が鋭く、噛みつかんばかりに怒鳴り付けてくる。およそ過日に“貴方の事が好き!”と言った時からは程遠い態で、アーリドを真っ向から責める。
 その怒りの理由は明瞭だ。彼女はミーナールを愛しているから。アーリドを愛しているから。
「どんな些細な失態だろうと、それが露見したら計画は崩れるわよ! 私達は全員揃って破滅よ! 解ってるのっ、平和呆けしたロバのように間抜けのお坊ちゃんが!」
「いい加減に怒鳴るのは止めてくれっ、さすがに止めてくれっ、サスキア!」
 しかし今のアーリドに、そこまで理解出来るはずなかった。ミーナールの未来。エウジスの変節。カーイの言葉。緊張と疲労と睡眠不足。思考も感情も精一杯だった。
 狭い墓所に、カビと埃の臭気が鼻に付く。淀んだ湿気が肌にまとわる。
 目の前ではサスキアが秀でた眉を吊り上げ、怒りを剥いている。またも怒鳴り掛からん激しい眼で自分を睨みつけてくる。そして、
「アーリド」
「また怒鳴るのか? まだ私を罵り足りないのか!」
「黙って」
「え?」
 引き締まった視線が、アーリドの右肩越しの後ろを見ている。ずらりと壁にはめられた墓碑板の間にある、すり減った木扉を見ている。
「何を? サスキ――」
 その時。石床を踏む小さな物音がアーリドにも聞こえた。
(扉の外に誰かいる!)
 アーリドの全身に緊張が走る!
 揺れる光の中、サスキアが音を立てずに扉へ近づいてゆく。続き、イナブも同様に動く。両者は扉をはさみ、墓碑板が連なる壁に背を押し付けるように立つ。木扉の向こうに誰かがいることを確認する。
 張り詰めた静寂の中に、ハラ教区司祭長の漏らした微かな聖句が響いた。そしてイナブは、扉の握りをゆっくり掴む。サスキアと目配せしし、声を立てずに、
(三――二――)
数を数える。
(一!)
「誰だ!」
 扉が開いた瞬間、闇の通路に光が走った。
「誰だっ、貴様!」
 逃げようとしない。ただ、振り上げた片腕で光を遮っている。その腕がゆっくりと降ろされた時、眩しそうに細められた眼が自分を見た。存分に見慣れた深く静かな眼だ。
「なぜ、貴方が……」
 アーリドが純粋な驚きを吐く。
「どうしてここに? ……私の後を付けて来ていたのか?」
「ええ。勿論」
「――」
「まさかあのまま貴方に夜道をたどらせる訳にはいかないでしょう。
 明日の朝になり、貴方が溺死している姿が桟橋で見つかったり、もしくは北の葡萄畑で泥塗れで冷たくなっていたり、私はそんな光景を見たくないので」
「――私の後を付けて、護ってくれたのか」
 カーイは答えず、ただいつも通りの穏やかな眼を向けるだけだった。その行為だけでこんな時だというのに、アーリドに場違いな程の安堵感を与えてくれた。
 だが他の者はそう思わなかった。イナブは即座にカーイの上腕を掴むと中に引きずり込む。再び扉が閉められる音と、カーイが無理矢理に椅子に座らされたのは、ほとんど同時だった。
「どこまでを聞いた」
 イナブの鋭い大声が響く。
「答えろ、異端のカニサ修道士」
「カニサ修道会は異端ではありません。確かに小さな会派で、また、会の活動が世間とは没交渉のせいか、時として非正統の信仰ではとの誹謗を受けがち――」
「黙れっ、苛立たせるなっ。扉の向こうでどこまでを聞いていたんだっ」
「全部を」
と答えたと同時、サスキアとイナブが同時に叫んだ。
「殺すべきだ!」
「駄目だ!」
 反射的にアーリドも叫ぶ。
「カーイは信用できるっ、私の昔からの親友だっ」
「エウジスの親友でもあるんでしょ! 昔からの親友だからあんたを裏切らないっていうなら、この男がエウジスに味方してもおかしくないって事でしょっ、そんな危険を負えない、この場ですぐ殺すべきよ!」
「駄目だっ、そんな事をしたら私は即座に今回の計画から降りる!」
 その途端、肩に圧力が加わった。振り向いた視界の中、左肩を掴むイナブの太い腕と強い怒りの形相が迫った。
「アーリド殿。これだけ話し合ったのに貴方はまだ理解していない」
「――。肩から手を放してくれ」
「今さら降りるなど、言えるはずが無い。この計画は御遊びではなく、真剣な賭けだ。失敗すればミーナールの未来は勿論、我々全員も破滅だ。なのにまだ、その覚悟と責任感を自覚していない」
「本当にお気楽でお気楽で反吐が出るわ。この期に及んでも平気で友情やら信頼やらを持して来るなんてね」
「アーリド殿。聞いて下さい。イナブ殿とサスキア嬢の言葉は真実です」
 初めてハラ教区司祭が、気弱な小声をもって付け足した。
「今話し合っている私達の計画には、街全体の命運がかかっています。失敗は決して許されず、水一滴も漏らすわけにはいきません。ミーナールという街と、その住民全ての命運が、私達の上にかかっています」
 シャイクもまた無言の眼で、自分を見ている。静かに圧力をかけて来る。
 アーリドは苦しい息で謝ることになった。
「……。済まなかった。でも――、
まさか。まさか本当にカーイに手を下そうというのでは無いだろう? まさか、本当にそんな恐ろしい事を考えている訳では――」
 恐ろしい事に、狭い地下墓所内は静寂となったのだ。
 つまり、ここでもまたアーリドは選択を強いられる事になった。
“ミーナールを取るか、カーイを取るか”
(諸聖人様。かつてミーナールを嘉した、天上の神様……)
 地の底は、静寂に冷えている。揺れる燭台の光の中、ミーナールの未来を思う面々が、強く責め立てながら自分を見据えている。
 そして、カーイだけが静かだった。
 黒い髪・黒い眼・黒い服のカーイの姿だけが、今、不思議な程落ち着き払っていた。己の殺害の可否が飛び交っているというのに、いつもと全く変わらなかった。アーリドに冷えた疑問を抱かせた。どうして? と。
 どうして?
 それはつまり、何が有っても自分が助命するという信頼の表明なのか? 自らがエウジスを殺しなさいと言った直後に? そういう事なのか? この異質な、奇異な態は? それとも?
 この友。この男。内心に何を考えているんだ? 何者なのだ?
 と、アーリドは思った。
「アーリド。大丈夫ですか」
  カーイが笑んでいる。
「どうやらまた、選択を強いられてしまいましたね。気の毒に。
それで。どうしますか? 私を殺しますか?」
「止めろっ。そんな言い方をするなっ。貴方を殺したりはしない」
「本当に?」
「絶対に殺させない、神の名にかけてさせない!」
 それはアーリドにとっての真実であった。だが同時にカーイを除く他の者達に、苛立ちそのものの溜息を吐かせるものになった。
 ……天上では、そろそろ星月夜が消え、朝を迎えるのだろうか?
 ふと、すえて湿った臭いが鼻に突く地下の場で、アーリドは思った。
 この長い夜、今頃。エウジスは何をしているのだろうか?

 同じ時。
 厳重な警備が敷かれた太守館の全体が、夜の中から薄っすらと浮かび上がり始めていた。闇に沈んでいた角塔が、ぼんやりと直線の輪郭を結び始めていた。
 ……高い塔の上階から、エウジスは窓の外を見ている。空を、海を、街を見続けている。
 黒かった空は、そろそろ色が褪せ始めている。一つ、一つと星が消え始めている。遠い彼方の海が、色をまとい出した。波の全く無い鏡の様な水面が、少しずつ透明な輝きを帯び始めていた。
 街は、静けさの中だった。
 豊穣の街ミーナール。
 神の嘉し街ミーナール。
 街はまだ眠っている。だがもうすぐ、動き出す。
 エウジスは動かない。何も示さない。独りで、無言で、固い無表情で、窓の外を見つめ続けている。

            ・     ・     ・

 長い夜が終わり、光に満ちた朝が訪れた。
 ミーナールに新しい一日が始まった。ワリド家のアーリドの上に、激流のような現実が始まった。
 ――評議会は、もはや壮絶な罵倒の場となった。
 ルツへの外交的対抗措置の審議に、議場は対立し、分裂した。誰もが頭に血を登らせ、耳汚い罵詈雑言を交わし続けた。他者の意見にも充分に耳を傾けてきていた評議員達が一転、激昂のまま個人攻撃をかけるまでの醜悪な場になってしまった。何も決定できない無為の場になってしまった。
 ――住民の不満も、日ごとに激烈さを増していった。
 評議会館前のムワサト広場には連日のように群衆が殺到し、
「ミーナールを元に戻せ! ルツを追い出せ!」
と、怒声を張り上げ騒ぎ立て、その度にルツ兵の部隊が駆け付けてこれを散らした。
「こんな事をして許されると思っているのか! ルツ野郎が! 評議員どもが!」
 広場でも港でも太守館前でも、怒りは日を追うごとに高まっていった。もはやこのままで収まるはずがないとは、赤子の目にすら明らかであった。
 ――数日後。
 ムワサト広場を威圧しながら横切っていたルツ兵の一隊に、誰かが投石した。
 たちどころにルツ語の号令が響き渡った。広場は一瞬にしてミーナール住民の悲鳴と怒声に覆われ、大騒乱となった。
 ――さらに、数日後。
 桟橋で働く若い人夫が“エウジスは出て行けっ”と叫びながら太守館に投石した。
間髪置かずに飛び出して来た館の衛兵と集まってきた群衆の間に散々の怒声が飛び交い、挙句に人夫はルツ兵に取り押さえられた。今回の騒動での最初の逮捕者となった。
 全てが手詰まりとなった。
 事態は悪化の一途だった。ミーナールの内政混乱は確実に、武力衝突の段階へと近づいていった。
「評議会は何をしてるんだ! 早く何とかしろ! 早くルツを追い出せ!」
「ワリド家は何をしているんだ! ワリド家のアーリド、貴様のせいだ! 責任を取れ!」
 ……アーリドは疲弊してゆく。
 表で評議会の進行に、裏でファーリス国との密約に忙殺され、圧迫され、追い詰められ、神経は焼けてゆく。
“他に方法はありません”
 カーイとは、連絡がとれなくなった。
“殺しなさい”
 とにかくカーイと話をしたいのに、しかしいくら僧院に手紙を送っても使者を送っても、返事は無かった。何とか時間を割いて自身も僧院を訪れたが、彼は不在だった。
 刺客を恐れているのだろうか? それとも何か特別な理由があるのだろうか?
 解らない。ただ、居なかった。必要な時にはいないという言葉の通りに。
 エウジスもまた現れなくなった。
 太守館に閉じこもって、全く姿を見せなくなってしまった。
 暑く眩い陽射しと。乾いた西風と。突き抜けるほどに輝く空と海の青色と。――
 美しい真夏の時間だけが、ゆっくりとミーナールの上を進んでいった。



8・ 血の色、赤い色


 それもまた、暑い真夏の一日だった。
 今日もまた、真っ青に透き通った空がどこまでも続く、その下だった。
 ……
 高い塀に沿った真っ直ぐの道を、修道士カーイは歩いていた。
 カーイは独りだった。いつもの通り、長い髪を一つに束ね、薄い灰色の僧衣を着ていた。右手に小さな籠をぶら下げながら、速くも遅くもない歩調で、人通りのない道を歩んでいた。
 午睡の頃合いだ。誰もが一度家に戻り、休息を取っている。ミーナールの街は穏やかな静けさに包まれている。乾いた海風だけが時折に抜け、今だけは神に愛された街に相応しい平和と静けさに包まれている。
 と。カーイの黒色の眼がちらりと動いた。
 ちょうど、ワリド邸の正門の前だった。今、門扉は悪化する世情に鑑み、固く閉じている。狭い日陰に立つ四人の衛兵が、胡散臭そうにこちらを見ている。
 迷ったのか?
 カーイはこのまま、何の前触れもなくアーリドの許を訪ねようとでも思ったのか?
(久しぶりですね。アーリド。私はまた必要の無い時に来てしまいましたか?)
 そうはならなかった。カーイの歩みは再開された。静かで穏やかな眼が再び、前方を見据えた。
 目指しているのは、ここではない。あちら。
 青い空に向かってそびえ立つ守館の角塔。そこに頑なに閉じこもっている者。
 すでに前方の太守館の脇門では、多数の衛兵達が近づいてくる彼を凝視していた。

 そして。――
「まさかと思ったが。本当だったんだ」
 エウジスは挨拶も無く、いきなり発した。その声には、素直な驚きが込められていた。
「ええ。こんにちは。エウジス。久しぶりです。今日も良い夏の日ですね」
「――。例によって突然やってくるんだな。用の無い時ばかり」
「そう言うと思いました」
 カーイは入室する。執務室の向こう側に座しているいるエウジスは、少しだけ印象を変えた顔に、少しだけ驚きの表情を示していた。
 さて。どう反応してくるかな。
 突然の訪問に不快を見せるかな。怒るかな。それとも。
 エウジスは、椅子から立ち上がった。思っていたより小柄で少年じみた全身が、卓を回ってこちらに進み出て来た。
 苛立って追い返すのかな。それとも。
「良く来てくれた」
 腕を広げて長年の友を抱擁した。歓迎した。
 段階が進んだ。
 ……
 ルツ太守の執務室は、今日も常と同じだ。
 明るい光に満たされている。窓からは涼風が抜けている。隅の果物籠からは甘い香りが漂い、中央の執務卓上には膨大な物やら書類やらが溢れ、落ち着いた空気に満ちている。丸切り、いつもの通りだ。世界には何事も無かったかのように。
 エウジスは室内にいた衛兵やら文官やらを追い払い、友と二人きりの空間を作った。執務卓越しに向かい合って座った。
「例によって私は貴方の執務の邪魔をしてしまったようですね」
 面白くもなさそうにエウジスは笑み返す。
「邪魔ならいつだって受けているさ。本当に、何一つ上手くいかない。腹立たしい」
「それは逆説の冗句ですか?」
「何の事だ?」
「上手くいかないどころでは無いでしょう? 今や世の中は、貴方の掌の上なのではないですか? 世の中とまでは言わなくても、少なくともミーナール為政は今、確実に貴方の掌の上なのでは?」
「――だから、何の事だ」
「おかげでアーリドの方は追い詰められて、疲弊し切っていますよ」
「――」
 カーイの目の前で、エウジスの頬の辺りが随分と細い。もとより強い印象だったトビ色の眼の中には今、意志だけではなく依怙地じみたものがしがみついている。いささか余裕を失った、追い詰められた者の印象をうかがわせる。
「わざわざ嫌味を言うために来たのか、カーイ?」
「いいえ」
「アーリドとは最近会ったのか?」
「いいえ。手紙は何度か受け取りましたが、直接会ったのは随分前です。確かルツ軍船が到着して大騒ぎになった日です。あの夜に会いました。
 気の毒なくらいに憔悴していましたよ。青天の霹靂のようなあの状況を何とか把握しようと、把握して対処しようと必死になっていました。本当に悩んで、本当に疲弊をしきっていました」
「……」
「アーリドのそんな様が、目に浮かぶでしょう?」
「浮かぶ。奴は昔からそうだ。いつも判断にのろい。咄嗟の対処が出来ない」
「貴方の本心が理解できないと、なぜ自分に何も知らせず、信頼に背いてまでこんな事態を作り上げたのかと、泣きだしそうな顔になっていました」
「――」
 今度こそ、どんな反応をするかな。
 今度こそカーイは目を凝らした。しかし意外にもエウジスは不愉快を剥きだす事も、後ろめたさに目をそらす事も無かった。ただ、
「だろうな、アーリドなら」
と、淡々と述べただけだった。
「彼を苛む結果になる点については、覚悟の上だったのですか?」
「憎まれるのを恐れていたって現実は進まないだろう? 親友だからと一々気遣っていたら何も出来ない。
 私のやっている事は、最終的にはミーナールの平和と発展につながる。今、目先だけを見て騒ぎ立てている奴らだって、程なく私の意図を理解するはずだ。アーリドだって、すぐに納得してくれるはずだ」
「だから今は彼を傷つけても構わないと?」
「勿論」
「本当に迷いの一片も無いんですね。アーリドとは対照的だ。見事です。エウジス。私はそんな貴方が好きです」
 カーイが口元を上げる。ちょうど窓から冷えた風が吹き抜けた時だった。
「――。で? だから今日は何の用で来たんだ? カーイ」
「ああ、済みません。まだ言ってなかったですね。
 実は、ミーナールを離れることになりました。この後すぐに街を出て、おそらくはもう戻ることは有りません。別れを告げるための訪問です」
 途端、エウジネスの眉が上がった。
「何の用事なんだ? どうしても今、街を離れなければならないのか? 永久に?」
「はい。修道会の方から申し付けられた重要な用件なので、私には断れません。でも。
 それと同時に――。それ以上に、ミーナールに居て貴方とアーリドとの対立する様をこれ以上見たくないという理由もありますけれどね」
 エウジスの顔が当惑するのを、カーイの眼が冷ややかに笑むのを、両者は執務卓越しに眼にした。

 同じ頃。
 エウジスの背後の窓の、その遙かに下方。
 つい先程カーイがたどった壁沿いの道をサスキアが逆方向に、早足でたどっていた。
 服の鮮やかな紅色が強い陽射しに映えている。くっきりした造作の美貌が一層に強く、硬く引き締まり、脇目も振らずに前方を見すえている。多数の衛兵が居並び、ピリついた視線を投げて来る太守館の正門前を、通り過ぎてゆく。ワリド邸の正門を目指す。
 その門へと到着するや、彼女は館の番兵に声をかけず、あっという間に邸内へと消えていった。
 ――ここまでをじっと見ていたのは、たまたま午睡を早目に切り上げて通りを歩んでいた、指物職人の二人組であった。
「今の見たか? いい気なもんだな。ワリド家の当主はこのご時世にも愉しく女と御逢引だとよ」
 片方の男が、荷袋を担いだままいかにも軽蔑を込め言った。
「聞いた噂じゃ、かなり仲が進んでるらしいぜ。しょっちゅう二人でいる姿が見られるらしい」
「はっ。外国人の、しかも海賊の女とかよっ」
「まあでも、この前までのルツ王家の小娘相手の頃に比べれば、少しは街に気遣っているんじゃないのか?」
「どっちにしても最悪だな。ワリドの無能な餓鬼が」
 二人揃って下卑た笑い顔を浮かべた。
 ……
 そしてワリド邸内へと入った途端、一転、サスキアは大声で怒鳴った。
「アーリドはどこ!」
 辺りにいた館の使用人達がびくりと、一斉に注目する。
「居るんでしょう? どこっ、早く!」
 慌てて料理番の女が飛び出し、上の角部屋です、と建物の右上を指す。途端、サスキアは走り出した。
 この数週、何度も通い勝手を知った邸内だ。彼女は片手で服の裾を握って走る。目指すのは最上階の南東の角部屋。景色が良く見通せ、ミーナールの清涼な風の抜ける小部屋。アーリドが好んで使う居間。
 早足で一気にそこまで駆けつけるや、
「アーリド!」
 アーリドは振り向いた。弾かれた様に椅子から立ち上がった。
「奴らが到着したわよっ」

「それも、私の知ったことじゃないさ」
 エウジスは言い切った。
 成程。それは確かに神の真理に限りなく近い言葉ではあるなとカーイは思った。
「君の事だ、戻って来ないと言っておいても、どうせまた急に気を変えて戻って来るんだろう?」
「その時には是非“また必要ない時に”と言って歓迎して下さい。その時までにはミーナールの全てが落ち着いていて、元のように神に愛される地になっている事を、祈っていますよ。
何より、貴方とアーリドの関係が元の通りになっている事を、遠地より心から神に祈り続けます」
「私こそがそれを一番願っている。そうなると信じている。私がそうして見せる」
「そうですね。確かに。貴方の力にお任せします。あとは天上の神のみぞが知る。
 ――エウジス。よろしければそれを貰えますか?」
 カーイの右手が動き、執務卓の脇にある棚のガラス瓶を指さした。
「葡萄酒?」
 意外だな。何か。
 エウジスはそう感じた。この男が自分から何かを求めるなんて。ましてや葡萄酒なんて。だが。
「ミーナールの葡萄酒も、これが最後になるかもしれません。飲み納めです」
 にっこりと、子供のように笑ったのだ。余りに意外な笑顔に今度こそ驚く。そして思わずつられ、不覚にも自分までも苦笑をしてしまう。
 棚から葡萄酒と赤色のガラス杯を取り出すと、執務卓の上、エウジスは杯へと赤葡萄酒注いでいった。明るい光と乾いた風の室内で、親友同士は互いを前に杯を握った。
「カーイ。安全な旅を。いつの日かの再会を願って」
「貴方の素晴らしい未来を祈って」
 上質の葡萄酒の甘い芳香が漂い出し、室内に不思議な空気を醸し出した。
 窓の外では、そろそろミーナールが午睡から目覚める。もう少ししたら、再び騒々しい人々の往来が――場合によっては、緊張と騒乱も――また始まるだろう。今はその直前の、最後の静けさの時だった。

 アーリドは反射的に、背中側の窓の外を振り返った。
 その瞬間、夏の光が目を射抜く。呼吸半分の後に戻ってきた視界の中で、見慣れた角塔が重厚な輪郭線を形作っていた。
「たった今、密使が乗った船が港に到着した。ファーリス王はミーナールへの軍船派遣に同意をしたわ」
 サスキアの鋭い表情が、現実の緊迫感を告げる。
「実際に動き出したわよ、もう後戻りは出来ない」
「――」
「アーリド、聞いているの?」
“厄災の箱が開いてゆく”
「アーリドっ」
「聞いている。それで、ファーリスの軍船はいつ到着できるんだ?」
「今、ダキア港に停泊している船を派遣するみたい。だとしたら、今日ミーナールから出港要請を送ったとしてその到着には四日、船が即座に北東風に乗ったとしたら到着は最短で三日だから――、
 アーリドっ。だから止めてよ、その顔! 今さら怯える意味は何っ。私達はもうミーナールの歴史を変えるところまで来ているのよ!」
「――。分かってる」
 振り向き、謝る。目の前、サスキアはじっと厳しい眼で自分をとらえている。これはまた怒鳴られるなと思う。と。
 ふと、サスキアはアーリドの右腕を掴んだ。そのまま部屋の中央へと連れていくと、そこにある緑色の毛織物が敷かれた長椅子へとアーリドを座らせる。自分もそのすぐ横に腰掛ける。
 大きな、その黒色がどこまでも深い瞳で見据えながら、静かに告げた。
「くたばりやがれ」
「……」
「エウジスもミーナールも両方を救える魔法でも思いついた?」
「……。ごめん」
 何かを言いたいという感情があった。だが、それは言葉にならなかった。

 今。角塔の上階に、固い空気は無かった。有るのは光と、微風と、小鳥の声と、葡萄酒の芳香だった。
 緩い、ゆったりとした空気と時間が流れている。エウジスの心もまた、ゆったりと安らいでゆく。
 カーイは、他愛も無い話を延々、穏やかに続けている。決して、ミーナールやアーリドには触れない。下らない世間の冗談話や、仕入ればかりの外国の噂話、古い書物から引き出した雑話などを、楽しく話していく。
「ザグール人の粗野ぶりについて、もっと聞きたいですか? あれで自分達は美意識が高い気でいるんですから、恐ろしい。ならば次は、彼らの女の扱いについて面白い話を教えましょうか?」
「まだ続きがあるのか? 本当に下らない話ばっかりなんだな」
 エウジスが笑う。カーイの話は軽い。面白い。葡萄酒の味と共に、心から味わえる。長い間忘れていた物を楽しむという事を、味わせてくれる。
「良かった。もっと笑って下さい。ずっと貴方が余裕を欠いた顔をしているのが気になっていました。どうかもっと気持ち良くなって下さい。さあ。葡萄酒をもう少しどうぞ。
 ああ、そうだ。実は私も一本持って来ていますよ。うちで造った品です」
「あの修道会でも作ってたのか? 本当に?」
「ええ。少量ですけれどね。昨年の葡萄は天候に恵ましたし、熟成も上手くいって、なかなか良い重めの味になりましたよ」
 カーイは編み籠から葡萄酒の瓶を取り出した。空の杯へと注がれていく赤い色を、エウジスの眼が注視する。
「確かに、随分濃い。暗い赤色だ」
 じっと、エウジスは見ている。
 赤色を見続けている。体の中にある施策とか展望とか対立とか背信とか、あとは意識の一番深い所で固く閉ざしている不安感とか、その様なもろもろが全て、葡萄酒の赤い色の中に溶解していく気がする。
 少なくとも今は、体の力を緩められる。現実は何も変わらないが、でも少なくとも今は、心地が良い。窓から抜けて来る風が、小鳥の鳴き声が心地良い。
 友も笑んでいる。全てが幸せだった日々を思い出させるその顔を見つめ、
「カーイ」
 エウジスも笑んだ。少し酔った、少し眠そうな顔になった。
「カーイ」
「何ですか。エウジス?」
「行かないでくれ」
「――出来ません」
 緩い風が抜ける。一羽だけ小鳥がさえずっている。明るく涼しい部屋で、カーイは静かに微笑み返す。
「空腹に葡萄酒を飲んでしまったようですね。疲れか、もしくは睡眠の足りなさが続いていたのでは無いですか?」
「ならば、せめて、もう少し出発を遅らせてくれ」
「それも、出来ません」
「……」
「貴方は独りになりますね」
「……。独りなのか」
「独りでこの先も、自身の意志と感情を保つ事が出来ますか?」
「……」
 エウジスは答えなかった。口元を引き上げた安っぽい笑みで下手な防御を張っただけだった。
「そうですね。まあ、葡萄酒でも飲む事でしょうね。物事がうまく行かないと感じた時や、物を考えたく無い時には」
「何だか随分安っぽいな。まさか君がそんな事を考えるのか?」
「ええ。実際に私もやっていますから」
「それこそ嘘臭い。君でも苛立つ事があるのか?」
「ええ。勿論」
「いやっ、嘘だ! あるものかっ。君が、苛立つなんて……、上手く行かなくて、何かをこう、苛立ってなんて……!」
「そんな事はありません。悩み苦しむことならば私にも多くあり――」
「嘘をつくな! いつだって私を見下して、子供扱いをして。所詮、力量不足だと、器が小さい者だと、いつも、いつだって涼しい顔で……私を見下して――」
「そんな事はありません」
「私を子供と見下して、いつだって上段に立って嘲っていたくせに。でも、アーリドの事は――そう、比べていたんだろう? 私とアーリドを。奴の方は、私とは違うと見ているんだろう? 私と違って奴の方は深い力量を秘め備えていて……。レイミアもだ。レイミアも昔からずっと彼に夢中になり――」
「エウジス。今、貴方が何を望んでいるかは知りませんが、貴方は、貴方が望む通りをすれば良い。私は止めません。評価も、アーリドとの比較もしません。ただ、貴方が安らかな心を保ち、健康であることを祈るだけです。
 ――貴方は、貴方の決めたことを行えば良いのでは」
「――」
「貴方はそれを正しいと信じているのだから」
 言葉に、今度こそエウジスの心は崩されていく。
 強い葡萄酒に、心の防御を崩されてしまう。顔がついに、子供のような不安をさらしてしまう。言ってしまう。
「頼む。行かないでくれ」
「済みません。出来ません」
「頼む。お願いだ。相談相手になってくれ。行かないでくれ」
“怖いんだ”
 そう続けて言いたくて、だがエウジスは言えない。どうしても。
 カーイは微笑んでいる。その笑顔に穏やかな安らぎを、と同時に冷えた感触も感じる。なぜ? なにが?
 怖いのか?
「エウジス。怖いのですか?」
「……え?」
「気鬱ですか? もし気鬱が続きそうなら、良い物がありますよ」
「何……?」
「数年前にエリ島まで旅して来た会士が、苗を持ち帰りました。それが修道院の薬草園に根付いたんですよ」
「だから、何?」
「薬です。ごく穏やかな効能です。気鬱や悪夢が続く時や、眠くても眠れない夜が続く時、これを飲むと心の安定を取り戻してくれますよ」
 持参した編み籠の底から取り出したのは、小さな素焼きの小瓶だった。
「今、少し試してみますか?」
 カーイは微笑みながら、木栓を引き開けた。ツンと鼻を突く不思議な匂いが、空気に混ざった。
「匂いが、強い」
「ええ。確かに。――貴方のその杯をどうぞ。葡萄酒の中に混ぜて飲んで下さい。私も昨夜飲みましたよ。御陰でよく眠れました」
 言いながらカーイは相手の杯を引き寄せる。その口に小瓶を傾ける。
 とろりとした黄色い液体が数滴、赤い葡萄酒の中に溶け消えていった。
「少しだけ眠くなるかもしれませんが。すぐに気持ちが楽になります」
「本当に? 本当に、楽になるのかなぁ」
「ええ」
 杯を前へと、押し出した。
 呼吸二回の沈黙の後、エウジスはようやく杯を掴んだ。鼻のところでもう一度、匂いを確かめた。眠そうに、子供のように笑った。
「本当に――? 本当に?」
「ええ。本当に。必ず楽になります」
 カーイは穏やかな笑みを返した。

 素早い小走りでサスキアは階段を駆け下りてゆく。
 それに四段分遅れてアーリドも駆け下りていく。
「今頃、ファーリスの密使は通関中よ。旅客を装ってるから問題は無いだろうけれど、でもやはり税関は早目に安全に通してしまいたいから。アーリド、急いで。イナブも向かっているはず」
「――」
「アーリド」
「――、解ってる、聞いてる」
 階段を刻む足が硬い。神経はぴりぴりと不安に駆られている。こんな時だというのに揺れ動くサスキアのドレスの裾の、その鮮やかな赤色が妙に目に付く。その色に神経に触り、不穏の感触が高まってゆく。
 赤。――高揚の――興奮の――暴力の。
 赤。――血の。
「サスキア。ちょっと待ってくれ」
 彼女は止まらない。素早く階段の踊り場へ達すると、そのまま向きを変えて走り続ける。
「サスキア、待って。頼む」
 やっと振り向いた顔に告げた。
「私が先に行く」
 アーリドは踊り場への最後の二段を飛び降りる。肩を掴み彼女を後方へと、赤い色を後ろへと押しやった。嫌だ。赤い色が視界に入るのが、何かとても不快で、不安で、嫌だ。
 赤。血。死。――嫌だから。エウジス。

 その時、杯を持ち上げたエウジスの手が止まった。
 カーイの微笑みも消えた。
 二人は同時に振り向いて、扉口を注視する。そこには、太守の執務室にも断りもなく図々しく入って来られる唯一の人物が立っていた。
「どうしたの? 何か有ったの?」
 レイミアは、素直な驚きにて目を丸くした。
「ねえカーイ、何か有ったの? 何か、変な感じ。貴方も変な顔」
 普段は鈍感なのに、なぜ必要ない時だけ敏感になるのだろう。どうして素早く空気の異質に勘づけるのだろう。
「……。いえ。何も有りませんが」
「変な顔よ? それにどうしたの? 貴方が独りでここに来るなんて今まで一度も無かったのに、一体どうして? 何があったの?」
 だというのに、素晴らしい直感だというのに、しかし無神経に何にも気にしない。すぐに嬉しそうな顔に切り替わる。入室するやすぐにカーイの頬に柔らかな頬を押し当てる。
「今日はどうしたの? でも嬉しい。本当に嬉しい。本当に久しぶり、カーイ」
「歓迎を有り難うございます。本当に久しぶりですね、レイミア」
「ねえ聞いて。最近街のどこへも出られなくなっちゃったの。出ようとすると厳しく止められるのよ、酷いでしょう?
 ねえ。カーイ。最近アーリドに会った? アーリドにも会いに行けなくなっちゃったから手紙を書くんだけれど、返事もくれない。どういう事だと思う? 変よね?
 アーリドに会えないなんて、せっかくミーナールに戻ってきた意味がないわ。ねえ、貴方はいつ彼と会ったの?」
「私が最後に会ったのは、貴女と一緒になったあの夜です。その後、数通の手紙を受け取りましたが」
「貴方には手紙を送ってるの? 何で私には書いてくれないんだろう? 何をしているんだろう、アーリド。会いたいのに」
 目の前まで迫ったまま、レイミアは思った通りを次々と言葉にしていく。何も恐れない素直さそのままだ。――あの夜と同じだ。
“あのね、聞いて。秘密よ”
 そう。あの夜も彼女は笑いながら、当然の事として勝手に宣した。
“ずっと決めていたの。私はアーリドと結婚するの。そしてアーリドの子供を産むの”
 あの夜、ミーナールの現実がひっくり返されてしまった夜でも、彼女は何のてらいも無くそう言った。世界の歪みを平然と受け止め、だというのに何も気に留めない無神経な強さで、当然の様ににっこり笑ったのだ。
“私達が結婚して子供が生まれるなんて、本当に素敵じゃない?
 その子が次のワリド家当主になって、それで未来のミーナールをもっと良くしてくれたら、本当に皆が幸せじゃない?”
 たった今も、レイミアはきらきらとトビ色の眼を輝かせて、嬉しそうに笑んでいる。その彼女に、エウジスは酔人独特の御機嫌と皮肉との両方を込めて告げた。
「カーイと会えるのはこれが最後になるかもしれないぞ。彼はこれからミーナールを出て、もう戻らないそうだから」
「え! カーイっ、 嘘でしょう?」
「申し訳ありません。本当です。修道会から重要な用件を預りました。外地に赴いて、おそらくはもう戻って来られないかと」
「そんな! ねえ、アーリドには知らせたの?」
「いいえ。彼は今、様々な事情で忙殺されている様子で、残念ですが別れを告げる機会は無さそうです」
「そんなの駄目よっ。後で知ったらアーリドは猛烈に悲しむわっ。
 ねえ。アーリドは今、隣のワリド邸にいるんじゃない? すぐにここに呼びましょうよ。 ねえエウジス、貴方とアーリドはずっと喧嘩してるみたいだけれど、そんな場合じゃないわよ。だってもう私達四人が揃えないって事でしょう? 今すぐアーリドのところへ使いを出しましょうよっ」
 途端、エウジスは大声を上げて笑い出した。
「なによっ、笑わないでよっ。このままもう皆で会えなくなるなんて私は嫌よ、アーリドを呼ぶわよ!」
 エウジスの笑いが続く。およそ信じられなくて、笑いを止められない。
 本当に、この少女は混乱した現実を一瞬で簡略化してしまう。彼女にとって世界とは万事全てが輝く様に整っており、恐れる物など何一つ存在しないのだ。
 誰かいないの! と、もう通廊へと向かい呼び掛けていた。扉の外に控えていた側仕えの小僧に向かい急いで命じた。
「すぐにワリド邸へ行ってアーリドを呼んできて。カーイがここに来ているから、すぐにって言って。必ず言って」
 小僧の方がよほど世情を知っていた。露骨に困惑を見せつけ、本当に良いのですか? 本当に? 本当に? を散々に繰り返し、それでも躊躇の顔をさらし、その果てにやっと走っていった。
 風の抜ける室内では、エウジネスがまだ笑い続けている。執務卓で頬杖を突き、その上に顔をのせ、声を上げて笑い続けている。
「何よ、エウジス。酔ってるの?」
「さあね。本当にアーリドが来たら、何て言おうかと思ったらね。何を、何て言おうかって、向こうも私に何を言ってくるかなって思ったら……」
「酔っ払ってる。どれだけ葡萄酒を飲んだのよ? この部屋の中、お酒の匂いが凄いわよ。それに何? ちょっとツンとする匂い……」
「これだよ」
 卓上に置かれていた素焼きの小瓶を、エウジスは押し出した。
「カーイが持って来てくれた。気鬱を忘れさせて、楽しくなる薬なんだって」
「そんな薬があるの? どんな味?」
言うや、もう好奇に目を輝かせて薬瓶を手に取った。
「美味しいの? 私も飲んでみたい」
「君は気鬱とは無縁だろう?」
「いいじゃない、面白そう。この葡萄酒に入ってるの? ねえ、私にもちょっと飲ませて」
と言った途端、エウジスの前にあった杯に手を伸ばし取る。
「あ――」
 カーイが、呻きじみた小声を上げた。
「何?」
 振り向き、レイミアは純粋に笑む。それを真っ向から受け、カーイの顔が歪む。
「飲ませてね」
 瞬間、カーイが何かを言いかけた。夏風と甲高い小鳥の声が窓を抜けた。赤いガラスの杯が傾けられた。

 二人が中庭に踏み込んだその時だ。正に小僧は中庭を横切ってきた。列柱の狭間に両者は真っ向から鉢合わせる羽目になった。
「あんた、何よっ、邪魔よ!」
 一瞬、小僧はあんぐりとした間抜け面をさらしてしまった。
「何見てるのよっ、邪魔って言ってるでしょう? 馬鹿なの?」
 とは言われても、驚くのは当然だろう。いきなり走って来るワリド家当主と出くわしてしまった事も。その当主の横に、華やかな美女がいた事も。その美女の美貌から程遠い激しい表情と汚い言葉も。
「だから何っ、どけ!」
「あ……、いえ――いえ。済みません。ルツ太守館のレイミア姫から言付けを運んでいます……、ワリド家の御当主に――」
「レイミアが私に?」
「是非すぐに太守の執務室にいらして欲しいそうです。今あちらには、修道士のカーイ僧が来訪中でして。太守もまみえて御歓談中です」
 ――え?
 体の底に、悪寒が走った。悪寒は瞬時、真っ黒な恐怖に転じ体を覆う。アーリドの声が上擦る。
「カーイが……、カーイが来ているのか? 独りで……?」
「はい、そうですが、それで――」
「カーイが独りで……カーイがエウジスと会っているのか!」
「はい、それで貴方様にも是非お越し頂きたいとレイミア姫――」
 嘘だ! 駄目だ!
 小僧の言葉を待たない。即座にアーリドは走り出す!
「アーリドっ、ちょっと待って!」
 駄目だっ、駄目だっ、駄目だ!
「アーリド!」
 まさかやるのか? そんなの駄目だっ、止めろ、駄目だっ、カーイ! 
 アーリドは走る。自邸の使用人達が驚いた目で見る中、全速で自邸の門を目指す。
「門を開けろ!」
 凄い勢いで走ってくる当主に、守衛が慌てて門を開く。アーリドは外へ飛び出す。
「待って! 通りに人がいるかも知れない、そんな慌てた態で飛び出しては――っ」
 聞くものか!
 そんな事態っ、そんな事態っ、そんな現実!
“ミーナールの為には、それしかありません”
 まさか本当にカーイはそんな無謀に出たのか? 自分の一言も告げること無しに? なぜ? なぜそこまでする? 親友なのに!
“殺してしまいなさい”
 駄目だ! そんなの神の名において駄目だ、カーイ!
 
 赤い葡萄酒が、激しく床に飛び散った。はたき落とされた葡萄酒杯は、床の上で生きているかのように揺れ動いていた。
「……。何?」
 まるで血のような赤い染みが、床の荒織りの敷布の上ににじみ出した。レイミアの空色のドレスの上にもまた、赤い染みが散らばってしまった。驚いた目でそれを見た後、彼女は発した。
「どうしたの? 葡萄酒……、カーイ?」
 答えない。カーイは――たった今、彼女が正に飲みかけた葡萄酒の杯を素早く、激しい力で叩き落としたカーイは、動かない。表情がない。
「何が……カーイ? 何か……変よ、だって――」
 つんと鼻をつく匂いに、何か不穏の予感を覚える。レイミアの生来の勘が今、何か猛烈な厄災の現実を予感する。
 カーイは、もう動こうとしない。立ったまま静かに向こう側の遠くを、窓の外のミーナールの夏空を見ている。
「……これって……、カーイ……」
 レイミアの顔が歪む。なぜか的確に事態が理解出来てしまう。指の先が冷え、微かに震え出す。そして、
 エウジスは、全てを理解した。
 凍り付いた眼で、カーイを見とらえた。強張った唇が沈黙を望み、しかしそれを強引に破って動き出した。言った。
「……。これは、アーリドが仕組んだのか?」
 カーイは黙し続けている。窓の向こうを見つめ続けている。
「まさか……嘘よね? カーイ。――言って、早く。これって何かの間違い……何か、ちょっと間違えただけだから……、だから――」
 窓の向こう、真夏の晴れ渡った、光と色彩に満ちたミーナールの空と海を、カーイは動かずに見ている。己の足許で全てが瓦解した事を無視するように。
 エウジスが椅子から立ち上がる。その瞬間、僅かに右足がぶれて重心がぐらつく。顔が恐怖とも怒りともつかない強張りにとらわれて、蒼く変じている。その顔を見るレイミアを(私の知っているエウジスがこんな顔になるはず無い!)、泣き出しそうな顔にさせる。
「これが、奴の望みなのか?
 奴が言ったのか? 私に毒を盛れと、アーリドが言ったのか?」
「――」
「答えろ、カーイっ。アーリドは私を毒殺しようと――殺そうと願っているのか?」
「――」
「答えろ!」
「教えてあげません」
「――」
「ただし。少なくとも、貴方の存在がミーナールを害する、排除すべきとの考えには、私も同意します。
 貴方とアーリドとどちらか一方を選ばなければならないとなれば、アーリドを選びますけれどもね」
 夏空と紺碧の海を見つめたまま、カーイは言った。
 唐突、レイミアが甲高い、凄まじい叫びを上げた。
 カーイはようやく振り向いた。大きく泣き出した少女を見た。この時ばかりは、
“私はね、アーリドと結婚をして子供を産むの。その子が未来のミーナールをより良くするの。それって素敵だと思わない?”
結果として自分を破滅へ陥れることになった少女を、諦めとも恨みともつかない表情で見つめることになってしまった。己の判断の正誤については、今は考えたくなかった。
 そしてレイミアの泣き声を上回る声で、エウジスが叫んだ。
「衛兵! 来いっ、奴を捕えろ!」

 通りに出た途端、陽射しを受ける太守館角塔が目に飛び込んだ。
 即座アーリドは走る。すでに通りには、午睡を終えた人々が行き交い始めている。ワリド家当主がただならぬ態で走っているのを、驚いた目で振り見る。
 駄目だっ、カーイ! 駄目だ! それだけはやるな! ――エウジスを殺すな!
 壁沿いの真っ直ぐの道の果てで角を曲がる。すぐに太守館の重厚な門が見えてくる。そこでは早くも異変が起こっている。辺りにルツ警備兵が誰もいない。いつもなら多数の兵がこれみよがしに門を警護しているのに。
「怪しまれるから、アーリドっ、走るな!」
 背中側からサスキアが叫ぶが、体は止められない。早くっ、とにかく早くっ、カーイ! エウジス!
 誰も居ない門扉の前に到着するや、固く閉じられた門扉に向かい、右腕を振り上げた。何も考えずそのまま力任せに打とうとし――、
 それが遮られた。
 目の前、唐突に門が開いた。思わず二歩下がってしまったアーリドの真正面に、ルツ兵達数人が出てきた。
「おいっ、何があったんだっ」
 引きつった声に兵の一人が振り向くが、答えない。ただ肩口を押され、後ろへ追いやられる。門からは続々と兵士達やルツ人達が出てくる。皆、固く緊張した顔だ。何が? 何なんだ?
「何があったんだっ、教えろ!」
 ……え?
 カーイが目の前を過った。
 捕縛され、両腕を掴まれて引きずられて、目の前を無表情のカーイが引き立てられて過っていったのだ。
 こちらには気付かない。ただ、前方のどこかを見据えていた。こんな事態だというのに、常通りの、水の様な静かさでどこかを見ていた。アーリドを、叫び上げたい衝動に駆りたてた。
(だから――どうして! カーイ! エウジス! こんなの嫌だ!)
 唐突、右腕を強い力で引かれ、体の重心がもろくもよろけた。
「馬鹿がっ」
 真横からサスキアは、アーリドの上腕を痛い程に握りしめる。
「ここで叫んだら殺すわよ、地獄へ落ちろっ、絶対に関わるなっ」
 夢中でサスキアを見返す。その通りだと、サスキアが正しいと、それだけは解かる。全身に力を込め、取り敢えず声を押し潰す。振り向き、眼のみでカーイを追い続ける。
 太守館の正門前には早くも住民達が集まり出し、何事が起きたのかと騒ぎ出していた。自分に注目する者も多い。ワリド家の当主の恐慌の顔を指差し何やらを喋っている。
「関わったら破滅よっ、自分のやる事を考えろっ、最低の阿呆!」
 兵達に引きずられてゆくカーイの後ろ背だけをとらえ見る。追いかけたい。だがそれをやる事は出来ない。
「殺すからっ、関わったら殺すからっ、阿呆!」
 ただ必死に眼で追う。眼だけで、夢中で追い求める。
 その視界が、音も無く塞がれた。
 目の前に、見知った少女が現れていた。彼女は――レイミアは、アーリドの目の前で泣いていた。泣いているのに、強い声だった。
「こんなの、おかしい」
「……」
「エウジスが、カーイを逮捕するなんて、そんなのおかしい」
「……。エウジスは、無事なのか――? 今どこに……」
「エウジスは今、執務室に」
 弾かれた様に、夏空にそびえ立つ角塔に顔を向けた。神様!
 少なくともエウジスは今、生きている。感謝します、神様。感謝します。心より感謝を捧げます。ミーナールの神様……。
「カーイは――彼は、何をして……。自分の手で、エウジスを殺そうとしたのか……?」
「カーイが、自分でエウジスを殺そうとしたの?」
 レイミアの低い声が、アーリドの質問を歪ませて繰り返す。
「本当なの? 本当に、なぜ、カーイがエウジスを殺そうとするの? なぜ? そんなの在り得ないのに。この後カーイはどうなるの、アーリド?」
 丸切りこの件の裏側を全て見抜いているかのよう、眼が真っ直ぐにアーリドを貫く。そうして追い詰め、彼を責める。
「ねえ。なぜ? 教えて。エウジスとカーイがこんなことになるはずないじゃない。あの二人、あんなに長く信頼し合ってきたのよ、なんでこんな事態になるの? ねえ。早く教えて。何か知っているんでしょう? アーリド。教えてよっ。なぜ黙っているの?」
 この最悪の現実の裏に誰がいるかを、完璧に見抜いている。相手が今すぐに動けば事態が改善すると信じ切り、レイミアはアーリドを責め続ける。
「教えて! 何かして! 早く何とかして、アーリド!」
 右腕を掴むサスキアの手が、一層強まる。
“絶対にここで関わるな”と、自身の全意志をかけて強硬に訴える。
“絶対にここで関わるな。ミーナールの未来の為に。皆の未来の為に”。その信念を貫き、絶対に離さない。うっ血させる程に強く掴み続ける。アーリドの息を詰まらせる。
「アーリドっ、ねえ、何とかして!」
 今なら、今すぐ動けば、事態は大きく転ずると解っているのに。なのに。
“カーイを取るか、ミーナールを取るか”
「答えて! 早く! アーリド!」
 動けない。アーリドはレイミアに答えられない。顔が泣きだしそうに歪む。
 その目の前でレイミアの表情も変わる。哀しみに怒りが加わる。強い怒りを持って叫ぶ。
「何か言ってよ! 言って!」
 アーリドは答えなかった。
 ――乾いた音。
 レイミアがアーリドの頬を激しく打った。あとはもう、見向きもしない、そのまま彼女は連行されるカーイの後を夢中で追って走ってゆく。消えてゆく。
 太守館の正門周囲には、あっという間に大人数が集まって来ている。彼らの勝手な喋り声が、耳に障る。自分を凝視してくる視線が、体をひりつかせる。
 何が正しいのか、何をすれば良いのか、もう全く解らなかった。言うべき言葉も見つからなかった。アーリドは、自身を操する力を失ってしまった。
 現実が自分の世界から遠くかけ離れてしまったと、覚えた。



【 続く 】
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