何度も何度も
文字数 1,991文字
空を箒 で掃いた後の、掃き残しのような雲が落とす薄い影の中に、僕たちはいた。
自然の地形を利用して、複数のエリアに分かれた大きな公園の一角。小さな子ども向けの遊具がある広場は、子どもたちの歓声に満ちていた。
周囲に配置されたベンチの一つ。僕は右の端に腰掛けて、穂香 は左の端に座っている。僕は右に、彼女は左に、少しずつ身体を向けて。
ついさっき、僕たちの間で水筒のお茶を飲んでいた健史 は、もう子どもたちの輪の中に戻って走り回っていた。
健史——僕の名前から一文字取って名付けた名前。男の子だと分かった時から、彼女はそう命名すると決めていたようだ。
栗色の髪を後ろに束ね、日焼け止めくらいしか塗ってなさそうなほどナチュラルなメイク。長袖を肘まで捲り上げた白いTシャツに、淡い色のジーンズ。いつものように浅く腰掛け、背筋は凛と伸びている。揃えた膝の上に両手を置いて、息子の様子に目を細める。そんな、すっかりママが板に付いた空気感に、罪悪感すら感じてしまう。
僕はちゃんと父親になれているだろうか——。いや。そんなはずがない。
「晴れて良かった」
いつだって会話の口火を切るのは僕だ。僕が黙っていれば、きっと彼女は最後まで何も言わない。
「うん……」
こんな時の彼女の言葉は最小限になりがちだ。それは文字数も、音量も。
だから、YesやNoでは終わらない会話を心掛ける。
「ランドセルは何色がいいのかな?」
しまった、「黒」のひと言で済まされるかな。そう思ったけど、そうはならなかった。
「入学まで、まだ一年あるわ。気が早い」
僕に答えたというよりも、まるで独り言のような口調。
「でも、そういうのは早めに用意しておくものじゃないのかな」
「売り切れることはないだろうから、最悪、入学式の前日でも間に合うと思う」
それはさすがに極論だ。
でも、やっと少し会話らしくなった。
けれど、この会話は現実の僕たちを反映してはいない。実際の彼女は僕なんかよりよっぽど用意周到で、万事抜け目がない。僕はといえば、早いうちからあれやこれや心配はするものの、結局は肝心なところが抜け落ちてしまったりする。
こんな僕のどこがいいのか。それを聞いても、穂香は笑って誤魔化す。
——あなたは、今のまんまでいいの。いてくれさえすれば。
ベッドでの、そんな言葉を真に受けていいものか。男として、もっと奮起する材料にすべきではないのか。判断がつかないのをいいことに、僕はずっと「今のまんま」を続けている。
健史が遊具の高い所に登ろうとしていた。大人の肩の高さくらいだ。
「大丈夫かな」
「大丈夫」
駆け寄って手を添えてやりたい衝動をぐっと抑える。そんなことをしたら、きっと彼女は怒るだろう。
——どうせ肝心な時には近くにいられないんだから、こんな時だけ父親ぶらないで。
いや。彼女はそんなことは言わない。いっそ言ってくれれば、楽なのに。優しい言葉をかけつつも、僕を楽にはしてくれないのが、彼女の最後の心の砦なのかもしれない。
難なく遊具の最高峰を制覇した健史は、こちらに向かって嬉しそうに手を振った。彼女の方も遠くまで届くような大袈裟な笑顔を作って、手を振り返す。
「ね、大丈夫だったでしょ」
彼女は内緒話のように言った。
「そうだね……」
——わたしたちは大丈夫。あなたなんかいなくても。
そう言われた気がするのは、僕の僻 みではないだろう。
何か言わなきゃ。
そう思った時、ポケットの中のスマホが着信を知らせた。
彼女が一瞬、視線だけでこちらを見た。
平静を装ってスマホを取り出し、確認する。
近くの病院に娘を連れて行っている妻からだ。もうすぐ会計が終わるから迎えに来てというLINE。
身体の弱い娘は、定期的に病院で診察を受けなければいけない。そんなふうに産んだ自分のせいだと、自分を責めている妻。君のせいじゃないと、何度も何度も慰め励まして来た僕。
何度も何度も——。
ほかに言わなくちゃいけないことがあるのに。
何度も何度も、僕は——。
「行かなきゃ」
僕は最低だ。それも、何度も思った。
穂香は何も言わない。頷きもしない。
——ほら。結局、あなたは家族のところに帰って行く。
そんなことを言われたこともない。言われたことはないのに——。
その言葉は何度も何度も、頭の中にこだまする。
薄い雲の薄い影の中、僕は何かを振り払うように立ち上がり、せめて健史の近くを通ってから駐車場に向かった。
すいぶん離れてから振り返ると、彼女はスマホを操作している。と思ったら、僕のスマホに着信があった。
確認すると、彼女からのメッセージが入っていた。
>>運転、気をつけて。
彼女を見た。
彼女が手を振った。
それは僕に向かってのものか。ちょうど僕たちの間にいた、息子に向かってのものか。
それすら分からないまま、最低な僕はまた歩き始めた。
〈了〉
自然の地形を利用して、複数のエリアに分かれた大きな公園の一角。小さな子ども向けの遊具がある広場は、子どもたちの歓声に満ちていた。
周囲に配置されたベンチの一つ。僕は右の端に腰掛けて、
ついさっき、僕たちの間で水筒のお茶を飲んでいた
健史——僕の名前から一文字取って名付けた名前。男の子だと分かった時から、彼女はそう命名すると決めていたようだ。
栗色の髪を後ろに束ね、日焼け止めくらいしか塗ってなさそうなほどナチュラルなメイク。長袖を肘まで捲り上げた白いTシャツに、淡い色のジーンズ。いつものように浅く腰掛け、背筋は凛と伸びている。揃えた膝の上に両手を置いて、息子の様子に目を細める。そんな、すっかりママが板に付いた空気感に、罪悪感すら感じてしまう。
僕はちゃんと父親になれているだろうか——。いや。そんなはずがない。
「晴れて良かった」
いつだって会話の口火を切るのは僕だ。僕が黙っていれば、きっと彼女は最後まで何も言わない。
「うん……」
こんな時の彼女の言葉は最小限になりがちだ。それは文字数も、音量も。
だから、YesやNoでは終わらない会話を心掛ける。
「ランドセルは何色がいいのかな?」
しまった、「黒」のひと言で済まされるかな。そう思ったけど、そうはならなかった。
「入学まで、まだ一年あるわ。気が早い」
僕に答えたというよりも、まるで独り言のような口調。
「でも、そういうのは早めに用意しておくものじゃないのかな」
「売り切れることはないだろうから、最悪、入学式の前日でも間に合うと思う」
それはさすがに極論だ。
でも、やっと少し会話らしくなった。
けれど、この会話は現実の僕たちを反映してはいない。実際の彼女は僕なんかよりよっぽど用意周到で、万事抜け目がない。僕はといえば、早いうちからあれやこれや心配はするものの、結局は肝心なところが抜け落ちてしまったりする。
こんな僕のどこがいいのか。それを聞いても、穂香は笑って誤魔化す。
——あなたは、今のまんまでいいの。いてくれさえすれば。
ベッドでの、そんな言葉を真に受けていいものか。男として、もっと奮起する材料にすべきではないのか。判断がつかないのをいいことに、僕はずっと「今のまんま」を続けている。
健史が遊具の高い所に登ろうとしていた。大人の肩の高さくらいだ。
「大丈夫かな」
「大丈夫」
駆け寄って手を添えてやりたい衝動をぐっと抑える。そんなことをしたら、きっと彼女は怒るだろう。
——どうせ肝心な時には近くにいられないんだから、こんな時だけ父親ぶらないで。
いや。彼女はそんなことは言わない。いっそ言ってくれれば、楽なのに。優しい言葉をかけつつも、僕を楽にはしてくれないのが、彼女の最後の心の砦なのかもしれない。
難なく遊具の最高峰を制覇した健史は、こちらに向かって嬉しそうに手を振った。彼女の方も遠くまで届くような大袈裟な笑顔を作って、手を振り返す。
「ね、大丈夫だったでしょ」
彼女は内緒話のように言った。
「そうだね……」
——わたしたちは大丈夫。あなたなんかいなくても。
そう言われた気がするのは、僕の
何か言わなきゃ。
そう思った時、ポケットの中のスマホが着信を知らせた。
彼女が一瞬、視線だけでこちらを見た。
平静を装ってスマホを取り出し、確認する。
近くの病院に娘を連れて行っている妻からだ。もうすぐ会計が終わるから迎えに来てというLINE。
身体の弱い娘は、定期的に病院で診察を受けなければいけない。そんなふうに産んだ自分のせいだと、自分を責めている妻。君のせいじゃないと、何度も何度も慰め励まして来た僕。
何度も何度も——。
ほかに言わなくちゃいけないことがあるのに。
何度も何度も、僕は——。
「行かなきゃ」
僕は最低だ。それも、何度も思った。
穂香は何も言わない。頷きもしない。
——ほら。結局、あなたは家族のところに帰って行く。
そんなことを言われたこともない。言われたことはないのに——。
その言葉は何度も何度も、頭の中にこだまする。
薄い雲の薄い影の中、僕は何かを振り払うように立ち上がり、せめて健史の近くを通ってから駐車場に向かった。
すいぶん離れてから振り返ると、彼女はスマホを操作している。と思ったら、僕のスマホに着信があった。
確認すると、彼女からのメッセージが入っていた。
>>運転、気をつけて。
彼女を見た。
彼女が手を振った。
それは僕に向かってのものか。ちょうど僕たちの間にいた、息子に向かってのものか。
それすら分からないまま、最低な僕はまた歩き始めた。
〈了〉