第1話 二〇十八年十一月某日深夜、義実家にて泣いてた話。

文字数 1,690文字

 午前三時四十二分。里帰をしていた実家の両親の仕事が繁忙期に入ったのと、自宅には誰もおらず交通手段も無いという理由で(詳しくは次の回にて)義実家へと移動し一ヶ月。
 産まれて三ヶ月半の息子を腕に抱き、白い壁に向かいながら、私は無表情で泣いていた。全てに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 ふと下を向く。空になった哺乳瓶を尚も吸いつつ、薔薇色の頬をぷくぷくと動かす息子はまるで天使のようだ。天使のふわふわとした髪の毛に、私の涙が落ちる。天使は気付かないのか、そんな些細なことはどうでもいいのか、何も反応はしなかった。
「ごめんね」
 つっかえつっかえ、ようやく出した声は涙に塗れている。カーテンの向こうのガラス戸が風でガタガタと鳴る。暖房で乾燥した部屋の中で、私は息子の身体を慎重に動かし、縦抱きにした。背中をトントンと叩きながらさすればすぐにゲップが出る。唇の端から零れたミルクからふんわりと届いた生ぬるい香りで、空気が少しだけ湿度を取り戻したように感じた。同時に、私のささくれ立った心はほんの少しだけなめらかになった。
 初めての出産を終えてからというもの、纏まった睡眠を取れていないせいか、ホルモンバランスのせいなのかわからないが、脳みそに靄が掛かったような状態が続いている。
 少しでもものごとを考えようとすると、どんな内容でも大抵ひんやりとした有刺鉄線のような悲壮感を纏ってしまう。そうして、私の心を締め付けその棘でブスリブスリと攻撃をしてくるのだ。
 けれども、生きなくてはいけない。この子を死なせない為に。生かす為に。
 そう叫び続ける心の奥底はとても強く、どんなに気持ちが辛くなっても、どんなにひどい想像に苦しめられても、私の心は致命傷を負うことはなかった。ただ、じわりじわりと心は削られていくのも感じていた。自分で自分を攻撃しながら、自分で自分を守る、滑稽な様が私の中で毎日毎晩繰り返されている。
 最低二回は起きることになる深夜は、やがて昇る朝日を恐れて泣いた。また一日が始まる恐怖と、それを乗り越える気力も無い自分への失望。
 それより何より、私は息子に対して強い強い罪悪感を抱えていた。そのお陰で、毎日冴えない顔をしていた。夫は息子が産まれてすぐに、海外赴任の為日本を離れた。私もあと一ヶ月と少し、年が明けたら息子と共に夫の元へ行かなくてはいけない。行き先は、行ったことも無い東南アジアのとある国。スマートフォンがあればいつでも情報は収集出来るのに、そんな気力も湧かず、ただ国の名前しか記憶していなかった。正直、どうでもよかった。息子と一緒にいるのに、耐えがたい孤独がひたひたといつも後を追ってくるようだった。
 ゲップを終えた息子はシンとした部屋の中で「あ」とも「え」ともつかぬ声を上げた。空気が動く。目をぱっちりと開けて手足を動かしているそこだけが、時間から解放されているようだった。私の腕の中にあるこの暖かさが、まだ善悪も常識も持たぬ存在が、ただ生きようとしている。そのことがたまらなく素晴らしく思えて、同時に、息子がこの先生きていくこの世界の複雑さを思うと頭がクラクラとした。正確に言うと、複雑なのか単純なのかなど私のちっぽけな脳みそではわからない。世界というものがよくわからない。そんな場所に、私達は生きている。
 ごめんなさい。苦しみ、悲しみ、病や悩みで身体も心もこれからあなたはたくさん痛めつけられるでしょう。死の恐怖に怯えることも、ままならない人生に絶望することもあるかもしれません。
 そんな世界に産み落としてしまって、ごめんなさい。
 毎晩呪文のように心の中にいる私が唱えている言葉が、今夜も頭の中で響く。
 ああ、私は人生をこんな風に捉えていたのか、という失望と、こんなひねくれた性格に育ってしまった不甲斐なさ、産んでくれた親への申し訳なさと、毎日優しく接してくれる義両親の優しさを受け取っているにも関わらずいじけている未熟さ、勝手に相手を哀れんでいる自分の傲慢さなどに何重にも失望しながら、それでも私はこの子を生かす為に、今日もなんとか生きていくのです。
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