母の背中
文字数 1,991文字
遠藤さん家 の桜が満開だった。
仕事で帰国する機会はあったものの、実家の敷居を跨 ぐのは数年ぶりだ。遠藤さんからのメールで、裕二朗 の死を知ってからも3か月は経っている。
出迎えてくれたのは、空気が凝 り固まってしまったかのような静けさだった。玄関でただいまと声をかけても、反応はない。
スーツケースを置いたまま靴を脱ぎ、廊下を進む。薄暗い和室の縁側に座っている母の背中が見えた。その小ささに、えも言われぬ感情が湧き上がり、そっと空気に溶かすようにため息を吐いた。
「何だ、いるんじゃない」
わざとらしく声を掛けた。玄関まで出迎えろとは言わないけれど、せめて——。
「返事くらいしてよ」
母はこっちを見てひと言、あぁと呟いただけだった。
この人、大丈夫だろうか——。先ほどの感情がさらに膨れ上がる。
「電気つけるわよ」
返事を待たずに蛍光灯の紐を引き、仏壇の前に膝をついた。成田土産の紙袋を置き、線香をあげ、裕二朗を抱いて微笑む父の写真に手を合わせた。
写真立ての奥に目覚まし時計があった。手に取る。文字盤に浮かび上がるのは金閣寺だ。早起きが苦手だった父に、わたしが修学旅行土産に買って来た。その時計が今は止まってしまっている。指しているのは一体、いつの時間なんだろう。
台所へいくと、テーブルの上にスーパーの買い物袋がそのまま置いてあった。買い物は済ませてあったらしい。
昔から、母とはどうも反りが合わない。喧嘩が絶えないというわけではない。いつの間にか冷戦状態に陥って、棘 のある言葉のやり取りになってしまう。でも、さっきの背中を見ると——。
袋の中身をテーブルに並べる。白菜、春菊、鱈 の切り身、白滝 ——。どうやら鍋にしようと思っていたようだ。
「あ、」
鍋の材料に紛 れていた円錐状のそれを見て、思わず声が出た。グリコのカプリコだ。懐かしい。小学生の頃のわたしの大好物。買い物に着いて行くと、決まってこれをねだったものだ。
手を洗い、鍋の支度を始める。台所は綺麗に片付いてる。それは安心材料なのだろう。けれど、食器などの置き場所が昔のままなのを見ると、まるでこの家の時間がどこかで止まってしまっているかのように感じてしまう。あの目覚まし時計は、その時間を指しているのかも——なんて。
「あなた、これ大好きだったわよね」
振り返ると、カプリコを持った母が微笑んでいた。いつの話よ、と言いかけて言葉を呑む。
「よく覚えてるね」
「まだ呆 けてはないわよ。さっきはちょっとうとうとしてただけ。あなたが帰ってきた夢を見たのかと思ったわ。おかえり」
「——ただいまは言ったわよ。野菜切るからさ、味付けはお母さんがやってよ」
「仕方ないわね」
母が嬉しそうな顔をする。その表情につられてしまう。二人で台所に立つ。こんなことすら、わたしの記憶には遠過ぎる。
父の葬儀では気丈にしていた母。裕二朗も逝き、本当に独りきりだ。縁側の小さな背中を思い出す。こうしてたまに会うだけなら平和でも、同居となれば簡単ではないだろう。仕事のことを度外視しても、だ。そもそも母がそんなことを望んでいるのかどうか。
「縁側が気持ちよくて、ちょっと休憩のつもりが、何か昔の夢を見てたみたい」
醤油や味醂 を出しながら、母はこっちを見ないで喋る。
「あの時計ね、裕二朗が落として壊しちゃったみたいなのよ」
「あとで見てみる。電池をかえれば動くかもしれないし」
母は土鍋に水をはり、昆布を浮かべた。
夕食後、和室にお茶を運んだ。
「あら、ひよこじゃないの。パリに住んでいる人間のお土産じゃないわね」
「急に帰国できることになって、バタバタだったのよ」
「お父さんの好物だから許すけど」
何日も居られるわけではない。本題から目を逸らす余裕はない。
「お母さん、これからどうするの?」
「遠藤さんとね、保護猫を飼おうかって話してるの。裕二朗の後継猫に」
「そうなんだ」
父が裕二朗を拾ってきたとき、わたしは喜んだけど、猫嫌いだった母は猛反対した。その母を父亡き後も支えていたのは、わたしではなく、遠藤さんと裕二朗だったはず。
「心配されるほど老けてないから」
見透かしたようなことを言う。
「カプリコなんて、もう好きじゃないわよ」
「嘘おっしゃい」
カプリコの包装を破り、かぶりついた。
「!」
美味しい。
何気ないふうを装って二口三口と食べ進めたところで、ニヤついている母と目が合う。気まずさを誤魔化すために、立ち上がって目覚まし時計を手に取った。
予備の電池も昔のまんま、電話台の引き出しにあった。
「あ、動いた」
「あら、ほんと」
止まっていた時間が動き出したなんて大袈裟な話ではない。問題を先送りしようとしているだけかもしれない。でも、とりあえず帰国の頻度は増やすようにしようと思う。それと、日本を発つ前に母にスマホを買い与えて、ビデオ通話のやり方くらいは教えておこう。
了
仕事で帰国する機会はあったものの、実家の敷居を
出迎えてくれたのは、空気が
スーツケースを置いたまま靴を脱ぎ、廊下を進む。薄暗い和室の縁側に座っている母の背中が見えた。その小ささに、えも言われぬ感情が湧き上がり、そっと空気に溶かすようにため息を吐いた。
「何だ、いるんじゃない」
わざとらしく声を掛けた。玄関まで出迎えろとは言わないけれど、せめて——。
「返事くらいしてよ」
母はこっちを見てひと言、あぁと呟いただけだった。
この人、大丈夫だろうか——。先ほどの感情がさらに膨れ上がる。
「電気つけるわよ」
返事を待たずに蛍光灯の紐を引き、仏壇の前に膝をついた。成田土産の紙袋を置き、線香をあげ、裕二朗を抱いて微笑む父の写真に手を合わせた。
写真立ての奥に目覚まし時計があった。手に取る。文字盤に浮かび上がるのは金閣寺だ。早起きが苦手だった父に、わたしが修学旅行土産に買って来た。その時計が今は止まってしまっている。指しているのは一体、いつの時間なんだろう。
台所へいくと、テーブルの上にスーパーの買い物袋がそのまま置いてあった。買い物は済ませてあったらしい。
昔から、母とはどうも反りが合わない。喧嘩が絶えないというわけではない。いつの間にか冷戦状態に陥って、
袋の中身をテーブルに並べる。白菜、春菊、
「あ、」
鍋の材料に
手を洗い、鍋の支度を始める。台所は綺麗に片付いてる。それは安心材料なのだろう。けれど、食器などの置き場所が昔のままなのを見ると、まるでこの家の時間がどこかで止まってしまっているかのように感じてしまう。あの目覚まし時計は、その時間を指しているのかも——なんて。
「あなた、これ大好きだったわよね」
振り返ると、カプリコを持った母が微笑んでいた。いつの話よ、と言いかけて言葉を呑む。
「よく覚えてるね」
「まだ
「——ただいまは言ったわよ。野菜切るからさ、味付けはお母さんがやってよ」
「仕方ないわね」
母が嬉しそうな顔をする。その表情につられてしまう。二人で台所に立つ。こんなことすら、わたしの記憶には遠過ぎる。
父の葬儀では気丈にしていた母。裕二朗も逝き、本当に独りきりだ。縁側の小さな背中を思い出す。こうしてたまに会うだけなら平和でも、同居となれば簡単ではないだろう。仕事のことを度外視しても、だ。そもそも母がそんなことを望んでいるのかどうか。
「縁側が気持ちよくて、ちょっと休憩のつもりが、何か昔の夢を見てたみたい」
醤油や
「あの時計ね、裕二朗が落として壊しちゃったみたいなのよ」
「あとで見てみる。電池をかえれば動くかもしれないし」
母は土鍋に水をはり、昆布を浮かべた。
夕食後、和室にお茶を運んだ。
「あら、ひよこじゃないの。パリに住んでいる人間のお土産じゃないわね」
「急に帰国できることになって、バタバタだったのよ」
「お父さんの好物だから許すけど」
何日も居られるわけではない。本題から目を逸らす余裕はない。
「お母さん、これからどうするの?」
「遠藤さんとね、保護猫を飼おうかって話してるの。裕二朗の後継猫に」
「そうなんだ」
父が裕二朗を拾ってきたとき、わたしは喜んだけど、猫嫌いだった母は猛反対した。その母を父亡き後も支えていたのは、わたしではなく、遠藤さんと裕二朗だったはず。
「心配されるほど老けてないから」
見透かしたようなことを言う。
「カプリコなんて、もう好きじゃないわよ」
「嘘おっしゃい」
カプリコの包装を破り、かぶりついた。
「!」
美味しい。
何気ないふうを装って二口三口と食べ進めたところで、ニヤついている母と目が合う。気まずさを誤魔化すために、立ち上がって目覚まし時計を手に取った。
予備の電池も昔のまんま、電話台の引き出しにあった。
「あ、動いた」
「あら、ほんと」
止まっていた時間が動き出したなんて大袈裟な話ではない。問題を先送りしようとしているだけかもしれない。でも、とりあえず帰国の頻度は増やすようにしようと思う。それと、日本を発つ前に母にスマホを買い与えて、ビデオ通話のやり方くらいは教えておこう。
了