異郷を想うノスタルジィ

文字数 2,000文字

 価値観が徐々に、だが大きく変容していった時代に描かれた純文学の世界は難解である。象形と心象の表現、描写が作者の心模様に従って散りばめられる調子は、娯楽小説に慣れた心と頭に疲労を与える。しかしながら、読みごたえの一点ではさすがに厳選を受けた刊行物だ。表現は卓越していて読み心地に不愉快な点はない。脳裏に浮かぶ情景に違和感や錯誤を抱く余地はなく、するすると頁をめくる指が動いた。理解は後から追いつくだろうと思い一気に読み切ったが、しかして読後感はどうか。やっぱり難解だったと言わざるを得ない。
 作品は芥川賞を受けた「白い人」を皮切りに、「黄色い人」「アデンまで」「学生」と続くこの四編に共通することは、カトリック信者たちが登場すること、地名としてフランスのリヨンが必ず著されることだ。著者の経歴を追えばリヨンが文中に出現することへの理解はそれほど難しいことではないが、ことさらリヨンと言う街が、この四編の著作を一冊の本に集約させたであろうことへ想像が辿り着く。
 「白い人」はまさにリヨンが舞台だ。物語はナチ占領下のこの街が解放される直前、ナチに協力する裏切り者の仏人青年を主人公として進められる。独人とのハーフである彼はその精神に多くの暗部を内包しているのだが、そこに至る経緯を父母に抑圧された少年時代、鬱屈した精神が解き放たれたと信じるアデンへの旅、誤謬や願望が交錯する一種の同族嫌悪を引き起こした学友との邂逅、そして隔絶を通して描く。そこには主義を異にする白人同士の迫害が語られたのではないか。
 続く「黄色い人」では仁川の教会の伝道師がリヨン出身の人物であることが語られる。ここではカトリック的な西洋人と、日本人との隔たりについて描かれていたように思う。黙示録の引用から始まるこの一遍は、病気のために徴兵されず帰郷した医学生の語りと、かつてリヨン出身の神父と同じ教会で布教活動をしていた破戒僧の日記とを交互に綴ることで進められる。ここには彼らの人間関係とその模様が物語に彩を添えるが、キリストから逃れられない破戒僧と、日本人でありながらキリストを受動的に受け入れた青年の対比が徐々に輪郭を顕してくる。
 三編目の「アデンまで」は刊行時期がこの一遍のみ著作の時系列から外れる。この作品は「白い人」よりも早い時期に書き上げられたものだ。四編を並べた時にアデンと言う地名に何らかの示唆を感じるのは穿った見方だろうか。アデンは大戦が終了した当時、日本と欧州を繋ぐ一般的な航路の寄港地だったようである。だからこの地名に覚えるべき感覚は、示唆ではなく必然なのだろうが、それを感じずにいられないのは、既に物語の中に自身の感性が没入していることへの気付きだ。この作品で語られるのは創作に隠した著者の体験と想像することができる。もしくは近しい誰かの経験、当時において近い境遇にあった人たちの記憶を一つの人格に投影したものではないか。主人公の青年は優秀な人物としてフランスへ留学をし、現地で仏人の女と愛し合うに至る。その後青年の帰国に伴い二人は別離をするが、彼らを引き離したのは西洋と東洋の距離ではない。あの頃ほとんどの日本人が抱いていた欧米に対する劣等意識、そして西洋人たちが有色人種に感じていた優越だと思われる。地中海を渡り帰国途上にある青年はやがてスエズ運河を抜け紅海へ出る。その回顧の合間に目の前で起こる出来事が唆すことは、退嬰的に陥った青年の自己陶酔か。もしそうならば度し難い感覚だが、人である以上抱くに仕方のない感情なのもまた事実だと思う。青年の姓が、「黄色い人」に登場する医学生と同じことに注目してみたが、時代背景など合致しないようだ。兄弟か親戚か、と想像するにとどまる。
 最後の一遍は「学生」と題される。舞台は再び戦中のリヨンで、マキと呼ばれるナチへの抵抗勢力の人々が描かれている。これが著者が芥川賞を「白い人」で受賞して十四年経ってのち書かれたことに注目したい。登場するマキの構成員の中に、「黄色い人」に登場した神父と同姓の人物がいるのだが、同一人物と見て読み進めた。他にも「白い人」の主人公の同僚である拷問吏と、「学生」でナチに刈り込まれた構成員に同姓異名の人物がいるのは、彼らが兄弟であるのか興味が湧く。ただここで描かれているのは同じ思想に寄っていながら、階層の異なる人々の間にある葛藤だろう。それは結局ある出来事で簡単に霧散してしまう。
 読み通して感じることは、誰も答えられない命題の提議がされているということだ。受け取る人によって回答は異なるのだろうが、この葛藤はすべての人間にとって共通であることだけは確かなように思う。読み進めるにしたがって収束する文学に慣れた感性は、読むにつれ拡散していく物語に一筋縄でいかない疲労感を憶えた。純文学を再び手に取るには、しばらく感性を癒す必要がありそうだ。
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