第1話

文字数 1,992文字

「私、北の海でペンギンに生まれて来れば良かったわ」
 古い水族館を出て、芝生の広がる庭園でアイスコーヒーを飲みながら彼女は言った。
「水族館のペンギンじゃなくてね」
 注釈を付け加える。

 ペンギンはプールの柵の所で一列に並んで何かを待っていた。餌がやって来るのを待っているのか、それとも外に出してもらうのを待っているのか分からないが、飼育員のいない場所でうろうろしながら何となく並んで待っているその姿は、楽しさよりも憐れさを感じさせた。

「残業が続いてこの所ちょっと疲れているの」
 先日、彼女はそう言った。
「でも、週末はペンギンを見に行きたいわ。ペンギンを見たら癒されると思う」
 僕は「いいよ」と答えた。


「仕事が出来る人は残業なんかしないのよ」
 彼女はコーヒーをかき混ぜながら他人事の様に言う。

「私、最近思うのだけれど、私は間違って人間に生まれて来てしまったのではないかって」
 僕は笑った。
「じゃあ、本当なら何だったの?」
「本当だったらその辺りにいる野生のタヌキとかイタチとか、そんなものに生まれるはずだったのじゃないかしら」
「それなら充実したタヌキ生とかイタチ生とかが送れたと思う」
 彼女は言った。
「そんな事、考えた事も無いな」
 僕は返した。
「だって、あなたは間違わないもの」
 彼女は言う。
「そんな事は無い。僕だって間違う」
「何て言うか、人として大切な所で間違わないって事なの。どうでもいい間違いじゃなくて」

 彼女はちょっと宙を見てきゅっと唇を結ぶ。頭の中を整理して次に言うべき言葉を考えている時の表情だ。

「人にはね。例えばあなたの様に当たり前に間違わない人もいるの。それは生まれながらに備わっているのよ。ちゃんと。だから、そんな事を考えもしないのよ。それから、間違う前に気が付く人もいるの。ああ、それは間違いだなって。だからその人も間違わない」
「でも、間違ってしまってからうんと後で気が付く人もいるの。これって最悪」
「気が付かない人もいるの?」
 僕は尋ねた。
「勿論」
 彼女は答えた。
「そんな人も沢山いると思う。ある意味、気が付かないって幸せよね」
「どうせやり直しが出来ないのだから、気が付かなければいいのに、何で気が付くのかしら?」
 彼女は頬杖を突いて僕の背後にある水族館に視線を移す。
「だって、イタチとかタヌキとかペンギンだったらそんな面倒な事を考えなくても済むじゃない? 私のレベルだったらその位が丁度良かったのよ」
 そう言って彼女はちょっと考える。

「ねえ? イタチやペンギンも後悔をするのかしら?」
 僕も考える。
「さあ。でも、後悔をする動物は人間だけじゃ無いの? 他の動物は悩まないんじゃ無いか? 多分、彼等は間違ったら学習するんだ」
「成程。後悔無しに学習ね。それって前向きね」
「何で人間だけが後悔するのかしら?」
「理性があるから?」
「ペンギンだって米粒位の理性はあるんじゃないの?」
「うーん。分からないな。僕にはペンギンの理性も後悔も分からないけれど、もしも君がペンギンだったら僕は君とは出会えなかった」
 僕は笑って言った。
「あら、だったらあなたは雄ペンギンになって私と番になればいいじゃない。それであなたは卵を温めるのよ。ずっと温め続けるの。私は餌を食べに行くわ。昔テレビで見たの。皇帝ペンギンは雄が卵を温めるって。2か月間ほぼ絶食だそうよ」
「……皇帝ペンギンじゃ無くて本当に助かった」
 信じ難い程、過酷過ぎる子育てだ。

 僕達は立ち上がった。飲み終わったカップをゴミ箱に捨てて歩き出す。
「さっきのペンギン達は何を考えて並んでいたのだろう」
 僕は言った。
「みんなで念力を送っていたのよ。きっと。あの柵が開く様にって。そして自由に柵の外に出て好きな場所に行く事を願っていたのだと思うわ」
「本当はみんな自由に北の海で泳ぎたいのよ。ペンギンってすごい速さで水中を泳ぐわよね。ビックリする位。あれは泳ぐって言うよりも飛ぶって言う感じよね。流石鳥類ね。そして好きに泳いで生きている魚をこうやって『がぶっ!』て食べたいって」
 彼女は手で何かを捕獲する仕草をする。
「水族館で生まれたペンギンにはそんな記憶は無いんじゃないの?」
「それがあるのよ。ペンギンに受け継がれる普遍的無意識ね。集団的無意識とも言えるわ。どのペンギンの深層にもそれがあるの」
「そこで彼等は念を送っているの。誰に対してかは分からないわ。北の海にいる仲間かも知れない。それとも神様かしら。ペンギンにも神様っているのかしら?」
「そう言う風に言われると、確かにさっきのペンギン達はちょっと空を仰いでいたようにも思える」
 僕は言った。


「あなたはペンギン達の念力を感じなかった?」
 彼女は言った。
「うーん。ちょっと分からなかったな」
 僕は返した。
「君は感じたの?」
「ふふ」
 彼女は笑って答えた。
「だって、私とペンギンは似たレベルだもの」
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